みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

礼拝から始まる

2023年05月31日 | ヨシュア記

ヨシュア記 6章

 5月は今日が最後の日。一ヶ月前は日本にいたのです。

 ここには、ヨシュア記で、いや聖書全体で、印象に残る出来事の一つが記されています。1節に「エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった」とあります。このことばは、人間の力でエリコを攻略するのは難しい、いやできないことを強調していると私は読みました。

 エリコがイスラエルの民がカナンを征服するための最初の関門であり、最大の関門だということを、指導者ヨシュアが知らないはずはありません。しかし、エリコの城壁を前にするまで、ヨシュアたちが軍備を整えたなどという記録はありません。

 しかし神は彼らに、エリコ攻略に必要な備えをこれまでに与えてこられたのです。備えとは神が彼らと、そして特に指導者ヨシュアとともにおられるという事実であり、神のことばに従うことによってヨルダン川を渡り切ることができたという事実です。また、2節のことばに目が留まります。神はすでにヨシュアたちにエリコを渡されたというのです。まだ実現していないことなのに、それがすでに起こったことだとしています。

 ここで神がヨシュアたちに与えられた命令は、攻略の作戦ではなくて、エリコを囲んで神を礼拝するということでした。方法論を戦わす前にまず神を礼拝するというのは、いつの時代にも通じる神の民の基本姿勢なのだと、ここから教えられます。


備えの場、備えの時

2023年05月30日 | ヨシュア記

ヨシュア記 5章

 大きな薔薇(ばら)も小さな野薔薇も、あちこちで咲いています。美味しそうだと思うような色の薔薇にも出会います。空腹時に眺めたのでそのように見えたのかもしれませんね。

 ヨルダン川を渡り終えたイスラエルは、一気呵成(いっきかせい)に約束の地に入り込んで行ったのではありません。彼らは次の大きな動きを控えて、とどまったのです。ですから5章には「準備の時」という見出しがふさわしいかもしれません。

 主はここで、彼らにどのような準備をさせたのでしょうか。割礼を施す、過越のいけにえを献げる、そして地の産物を食べることでした。それらは、自分たちが神に選ばれたものであることを思い起こさせ、カナンの地で何を為すのかをおぼえさせるものでした。

 そして、備えは民だけがするのではなく、指導者ヨシュアにも課せられました。かつてモーセが神に選ばれる時に主が言われたのと同じことばがヨシュアに届けられました。「あなたの足の履き物を脱げ」です。ここに主が臨在する、主が自分たちのところにおられることを、ヨシュアはこの経験によって知るのです。

 私たちが何かに取り組む時に大切なのは、勢いではなく、自分たちの力や知恵ではなく、自分たちが神の前に誰なのかということを知ることと、神がともにおられるという事実を受け止めることなのだと、この箇所は教えています。


忘れてはならないこと

2023年05月29日 | ヨシュア記

ヨシュア記 4章

 ペンテコステの日曜日をどのようにお過ごしになりましたか。当地は月曜日もペンテコステの祝日でお休み。スーパーなどのお店は二連休です。買おうと思っても近くにスーパーもコンビニもないという環境は、慣れるとなかなか良いものと考えるようになりました。

 主はヨルダン川の真ん中から各部族一つ一つの石を取るように命じられました。そしてその石は、川を渡り終えての宿営地であるギルガルに積み上げられます。それは、自分たちがどれほどがんばったか、よくやったかを記念するものではなく、ヨルダン渡河が主のみわざであることをイスラエルの民が忘れることがないためのものでした。

 たった一度の経験が、その後の人生に大きな意味を持つものとは何かと、ここを読んで考えます。それは、私にとってはイエス・キリストとの出会いだったと言えるのです。それは何度でも何度でも思い起こす必要のある経験です。特に、自分がどこに向かっているのが見えなくなっているとき、自分の行っていることの理由がぼんやりとしているときに、あのたった一度の経験が心に刻まれていることで、どんなに助けられただろうかと、振り返ります。

 「正しいことば」がこれまで信じてきたことを崩そうとすることがあります。説得力のあることばの前に、自分がどのようにして歩んだかが十分に伝えられないもどかしさをおぼえることもあります。しかし、私には「川を渡った」という事実があり、それが今の私を支えているのだと、ここを読んで確かめることができました。


民全員が……

2023年05月27日 | ヨシュア記

ヨシュア記 3章

 「アスパラスタンド」に緑色のアスパラガスを買いに行ったら、午前中に売り切れとのこと。その日は、160パックの苺のほとんどが売れてしまうほどたくさんの客が来たとのことでした。白アスパラを買い求め、味噌バターソースでいただきました。

 ここは、いわゆる「ヨルダン渡河」。神が乾かされた紅海を歩いて渡ってエジプトを出たイスラエルの民が、ここでは神がせき止めたヨルダン川を渡ってカナンに入るのです。あの時の指導者はモーセ、今回はヨシュアです。あの時まだ神の箱はありませんでしたが、この時の彼らは契約の箱を担いでいました。

 乾いた海を歩く、乾いた川を歩くというのは、話としては興味深いことですが、実際そこにいた人々は何を恐れ、何ゆえに最初の一歩を踏み入れる決断をしたのでしょう。

 2節の「三日後」ということばが目に留まります。ヨシュアにとって、そしてイスラエルの民にとってヨルダン川を目の前にして何を思い、何を備えていたのでしょうか。川岸に水があふれる景色を眺めながら、どのようにして向こう側に行けるのかが彼らの関心だったに違いありません。

 同じ2節に「つかさたちは宿営の中を巡り…」ということばにも目が留まります。渡河の決断はヨシュア一人だけのものではなくて、つかさたちも共有するものだったということに気づきます。

 最後に「民全員が…渡り終えた」とあります。一人も欠けるものがいなかったのです。一人から始まる神への信頼、それが共有されて事が進められていくのです。教会もそうありたいと、思います。


神を主と信じるということ

2023年05月26日 | ヨシュア記

ヨシュア記 2章

 5月から当地で発売している「一か月乗り放題キップ」の6月分を購入しようと考えています。49€で国中の鉄道、地下鉄、路面電車、バスが一か月乗り放題といいう優れもの。ただし、日本でいう新幹線や特急列車には乗れません。少し遠くまで歩いて、疲れたらバスに乗って帰るとか、日帰り旅などの楽しみもあります。

 ヨシュアを指導者とするイスラエルがカナン定住のために最初に取り組むのはエリコの攻略。「みことばの光」5月31日は、エリコを地球上で最も古い都市だと書いています。実際のエリコ攻略は本書6章にあるのですが、ここは偵察についての記事。

 ラハブはイスラエルの斥候をかくまいました。それによって、彼女は自分の身に危険が及ぶリスクを背負ったのです。彼女のうそは自分の身を守るためにではなく、逆に自分を危険にさらしました。彼女はエリコの裏切り者でもあるのです。ですから、自分の身を守るためなら彼女は、斥候を王につき出すべきでした。それではなぜ、ラハブはそのような道を選んだのでしょうか。

 8節以下はラハブが斥候に話したことばです。ここを読むと、ラハブはイスラエルの神への信仰を持っていたことがわかります。彼女は神を主と呼び、神がこれまでにイスラエルの民のために何をされたかを語ることができました。

 神を主とするということは、神のために生きることです。そのために彼女は、自分の身を危険にさらすことを厭わなかったとも言えます。彼女は信仰のゆえに大きなリスクを背負ったと言うこともできます。

 「 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。」ヘブル人への手紙11章31節

 なぜ神を信じるのかということについて、一人の女性の姿が問いかけています。


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