エレミヤ書 8章
「しかし、わが民は主の定めを知らない。」8章7節
9月もきょうで終わりです。当地では3月中旬からの「ロックダウン」が2か月続き、一旦は新規の感染者数も減じましたが、今はまた、増えています。しかし、あたりを見回すと、マスク着用以外は以前とおなじようになりつつあるかな、という感が…。終焉の時がいつかと、待っています。
8章全体をまず読み、次にゆっくりと読んでみて、「時」を表すことばに目が留まりました。5節の「いつまで」、7節の「季節」「時」、12節の「刑罰の時」、15節の「癒やしの時」、20節の「刈り入れ時」「夏」、そして13節は刈り入れの時を思わせます。
興味深いのは、これらの「時」のほとんどは、機会を外しているということです。刈り入れ時とは、文字どおり収穫の時。しかし、何の実りもありません。鳥は帰巣の時を知っているのにご自分の民は知らないのです。民は癒やしを期待していたのに空振りに終わるのです。時を外さないのは、神への背信のゆえに民が厳しい刑罰を受けるということだけです。
18節以下のエレミヤの嘆き、悲しみに目が留まります。「遠い地から 娘である私の民の叫び声がする」というのは、先にバビロンに捕囚された同胞のことを指しているのです。反逆のまっただ中での預言者エレミヤの嘆きと、遠くバビロンに捕え移されている同胞の嘆きがこだまし合っているようです。21節でエレミヤは「私は傷ついた」と言い、「なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか」と絶望の嘆きを明かします。
預言者エレミヤの深い嘆きは、そのまま罪を悔い改めようとしない自分の民を助けずにいる神の嘆きでもあるのです。