みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

時が来て…

2020年09月30日 | エレミヤ書

エレミヤ書 8章

「しかし、わが民は主の定めを知らない。」8章7節

 9月もきょうで終わりです。当地では3月中旬からの「ロックダウン」が2か月続き、一旦は新規の感染者数も減じましたが、今はまた、増えています。しかし、あたりを見回すと、マスク着用以外は以前とおなじようになりつつあるかな、という感が…。終焉の時がいつかと、待っています。

 8章全体をまず読み、次にゆっくりと読んでみて、「時」を表すことばに目が留まりました。5節の「いつまで」、7節の「季節」「時」、12節の「刑罰の時」、15節の「癒やしの時」、20節の「刈り入れ時」「夏」、そして13節は刈り入れの時を思わせます。

 興味深いのは、これらの「時」のほとんどは、機会を外しているということです。刈り入れ時とは、文字どおり収穫の時。しかし、何の実りもありません。鳥は帰巣の時を知っているのにご自分の民は知らないのです。民は癒やしを期待していたのに空振りに終わるのです。時を外さないのは、神への背信のゆえに民が厳しい刑罰を受けるということだけです。

 18節以下のエレミヤの嘆き、悲しみに目が留まります。「遠い地から 娘である私の民の叫び声がする」というのは、先にバビロンに捕囚された同胞のことを指しているのです。反逆のまっただ中での預言者エレミヤの嘆きと、遠くバビロンに捕え移されている同胞の嘆きがこだまし合っているようです。21節でエレミヤは「私は傷ついた」と言い、「なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか」と絶望の嘆きを明かします。

 預言者エレミヤの深い嘆きは、そのまま罪を悔い改めようとしない自分の民を助けずにいる神の嘆きでもあるのです。


わたしに聞かず…あなたに聞かず

2020年09月29日 | エレミヤ書

エレミヤ書 7章16−34節

「わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」7章16節

 夕方になり、公園を通り抜けて買い物に行きました。帰り道、近くの教会の鐘が一つ鳴りました。鐘が一つの時は15分。確かめて見たら、7時15分でした。あたりはだいぶ暗くなっています。秋分の日を越してこれからは日が短くなりますね。

 16節の神のことばには驚かされます。エレミヤに、この民のために祈ってはならないと言っておられるのです。聖書には、罪を犯す者のためにとりなす人々が描かれています。アブラハムは甥のロトと家族が住むソドムを滅ぼさないでほしいと、執拗に神にとりなしました。モーセは荒野の旅の中で度々神に背くイスラエルの民のためにとりなし続けました。祭司という務めはとりなしです。さらに、主イエスは十字架の上でご自分を殺そうとしている人々のためにとりなされました。

 しかし、ここでエレミヤは神によってとりなしを禁じられるのです。それは、大人から子どもに至るまで神に背き続けているからです。18―20節では「怒り」ということばが繰り返されます。預言者のとりなしによってはどうすることもできないまでに、ご自分の民が行き着くところに来てしまったということを表すことばです。恐ろしい時です。

 なぜ彼らはここまで来てしまったのでしょうか。この部分のもう一つのキーワードは「聞く」ということばです。イスラエルの歴史の中で、彼らは神に聞こうとしませんでした。聞くようにとエレミヤの前に何人もの預言者を送られたにもかかわらず、彼らは聞かなかったのです。そして今、ユダが、そしてエルサレムが北から来る一つの国バビロンに滅ぼされようとしていることを、神はエレミヤによってお告げになるのですが、彼らはエレミヤのことばも聞きません。

 その帰結が、16節の「わたしはあなたの願いを聞かない」ということばです。キリスト者は、神は私たちの祈りを聞いてくださる、とりなしを聞いてくださると信じて祈ります。それは、主イエスが十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げられたことに基づいているのです。改めて、神が私たちのような者の祈りを聞いてくださるというのが、どれほど大きな恵みであるのかと思います。


何を頼りに

2020年09月28日 | エレミヤ書

エレミヤ書 7章1−15節

「あなたがたの生き方と行いを改めよ。」7章3節

 礼拝に行くため、いつもの道路を走っていると、街路樹がずいぶんと色づいています。脇見運転は禁物ですが、ちょっと視線を上に上げると普段は気づかないことを発見することがありますね。

 ここでエレミヤは、主の宮の門に立って神からのことばを礼拝に入る人々に届けています。「『これは主の宮、主の宮、主の宮』だという偽りのことばに信頼してはならない」と言うのです。これから礼拝する人へにとっては気持ちを萎えさせるような、また神経を逆なでさせるような、挑発的なことばです。

 「みことばの光」の「エレミヤ書7ー20章を読む前に」は、この部分のエレミヤの預言はエホヤキムが南王国ユダの王であった時のものだと説明しています。「宗教改革」を推進したヨシヤ王の急死を受けてその子アホアハズが即位するのですが、当時ユダへの圧力を強めていたエジプトのファラオによってわずか三か月で退位させられ、弟のエホヤキムがファラオの後ろ盾で王となった頃のことです。

 北からはバビロンの、そして南からはエジプトの脅威の中、指導者たちを初めエルサレムの人々は、神の宮を拠り所にしていたのです。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばは、自分たちには、主の宮があるからだいじょうぶなのだという誤った確信を表すもの。

 エレミヤはそのような人々が礼拝に来ようとする主の宮の入口で、「生き方と行いを改めよ」と語るのです。神が悲しみ怒るような生き方をしながら一方で神を頼りにするという、身勝手な宗教生活をやめよ、神のことばを行えと、エレミヤは迫ります。

 このエレミヤのことばは、私たちにとって決して他人事ではないのです。


だれに聞かせようか

2020年09月26日 | エレミヤ書

エレミヤ書 6章1−15節

「私はだれに語りかけ、だれを諭して 聞かせようか。」6章10節

 数日前までとは打って変わっての寒空。スイスには雪が降ったと報じられています。気がつくと、水よりも温かいものを好むようになっていました。

 この章前半にはエルサレムがいよいよ、主のさばきゆえに攻撃されることが書かれています。6―9節では「…のように」ということばが繰り返されます。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた」とはエルサレムの悪が泉のように留まることない様子を描き、「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ」は主のさばきとしての敵の攻撃が徹底していることを描いています。

 預言者エレミヤはこのことばをエルサレムの民に伝えました。しかし、民はエレミヤのことばに全く耳を傾けません。エレミヤはそのような民の反応に憤ります。彼の憤りは主の憤りであり、収めようとしても収め切れないほどのものでした。一生懸命神のことばを語るのですが、人々は関心を示しません。

 一方で民は、偽りの預言者のことばには喜びます。「平安だ、平安だ」つまり、「だいじょうぶ、今のままでいいんだから…」と言ってくれるからです。ここにエレミヤの苦しみがあります。投げ出したくなるとは、このような時のことです。

 しかし彼は、口を閉ざすことをしません。なぜなのでしょうか。


わたしの民はそれを愛している

2020年09月25日 | エレミヤ書

エレミヤ書 5章20−31節

「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。」5章31節

 いただいた紫蘇が花を咲かせました。フォーカスが難しいので思ったように撮れませんでした。小さな清楚な花です。

 20節は、エレミヤが神から命じられたのが困難が務めだということを伝えています。彼は、「愚かで思慮のない民」「耳があっても聞くことがない」「強情で逆らう心のある」相手に神のさばきのメッセージを伝えなければならないのです。たとえば、礼拝で聞こうとしない人々に、牧師が神のことばを語ることを考えてみるなら、それがどんなに大変なことかは容易に想像できます。

 「だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる」という27節のことばに目が留まります。ここでは、正しいこと、まともなことをした者が得る報酬ではないことが分かります。「彼ら」は、神に背き、人を欺くことによって、貧しい人々を踏みにじることによって力と富とを自分のものとしたのです。

 5章終りのことばは、イスラエルの民の罪をまとめたもの。民を正しく導かなければならない預言者や祭司たちはそのつとめを放棄し、彼らのいい加減なことばやしぐさを人々は喜んでいるというのです。神の民イスラエルがこれほど落ちぶれ果てた様子を、神はどのような思いで見ておられるのか、それはエレミヤの苦悩と重なります。

 「わたしの民はそれを愛している」とのことばには、「わたしの民はわたしを愛している」であってほしいという、主の思いが込められています。


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