みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いのちを選びなさい

2017年02月28日 | 申命記

申命記 30章

 1時間ほど歩いて歯医者さんに行き、クリーニングを…。今までとは違う歯の感触に二人で歯を見せ合いました。

 29章から30章にかけて、いくつかのことばを心に留めました。

 まずはきのう読んだ29章28節の「主は、怒りと、憤激と、激怒をもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた」ということばです。これは、神のことばに聞き従うことをしないないイスラエルが神ののろいを受けたときに、周りの国々が言うことばです。それにしても、「怒りと、憤激と、激怒をもって…」とは厳しい表現です。どれだけ神がご自分の民をお怒りになるのかということが伝わってきます。

 30章3、4節の「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを、再び集める。たとい、、あなたが、天の果てに追いやられても…」ということばにも目が留まりました。神がどれほど大きな怒りをもってご自分の民を追い散らされても、もし彼らが罪を悔い改めるのならば再び集めるとの約束です。このことばと29章28節のことばから伝わってくるのは、神がどれほど彼らを愛しておられるのかということです。

 次に30章14節の「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」ということばです。神のことばはそれを行うのに難しくはない、深淵で理解不可能なものではないのだというのです。人が心を頑なにして行わないということに問題があると気づかせることばです。

 そして「確かに主はあなたのいのちであり、…」ということばです。モーセは「あなたはいのちを選びなさい」と民に勧めます。主に従うことは、いのちを選ぶことなのだというのです。いのちは自分でどうのこうのできるものではなくて、神からの授かりものだということに、気づかせることばです。


見たが、見ていない

2017年02月27日 | 申命記

申命記 29章

 今週水曜日は、教会のカレンダーでは「灰の水曜日」。この日からイースターまでを受難節(レント)として過ごすのですが、その直前に一騒ぎしようというのが「ファッシング」の起源だと聞きました。土曜日に頬に赤く化粧をした夫妻をバス停で見かけて、びっくりしたのですが、「ファッシング」の仮装だったのですね。これが終わると春到来とも言われています。長かった冬が終わろうとしています。

 「見たが、見ていない」というタイトルをつけました。約束の地を前にしたモアブの地で、主はイスラエルとの契約を更新します。その際に、モーセは民に言うのです。「あなたがたは、…主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに悟る心と、見る目と、聞く耳を、くださらなかった。」この目でしっかり見ているのですが、見てはいないと言うのです。

 見ているが見ていない、聞いているが聞いていない、と来ると、「聖書を読んでいても、読んでいない」ということを連想します。

 聖書は毎日のように読んでいるけれども、実際には何が書かれているのかがわからないというようなことがあります。それは、知識がないという理由ではありません。神が教えてくださらなければどんなにわかりやすいことが記されていても、わからないで読んでいるということは起こりえます。

 だからといって、聖書を読む意味がないということではありません。目で見、耳で聞き、文字を読むということに聖霊が働いてくださって初めて、見た、聞いた、読んだと言えるのですから、その時が来るまで見続け、聞き続け、読み続けます。


ざるで水を汲むような

2017年02月25日 | 申命記

申命記 28章38−57節

 木曜日の夜誘われて、ずっと福島第一原発の取材を続けている方の講演会に出てきました。その方の話によれば、復興や避難解除の声にかき消されようとしているけれども、本当のところ放射能被害は深刻だとのことです。自分の国のこと、自分の身近のことであるにもかかわらず、大切な情報が届けられていないということに歯がゆさとやりきれなさを覚えました。

 イスラエルの民が神のことばに従わないならのろわれるとの警告のことばが続いています。種を蒔いても、ぶどう畑を耕しても、オリーブの木があっても、決して実りを見ることがないというのです。38節から44節で描かれているのは、「もう少しで収穫だ!」と楽しみにしていたのに、虫に食われて何の実りも手にすることができないという嘆きです。「ざるで水を汲むよう」ということばを思い出しました。また、きょうの箇所の後半にあるのはおぞましい光景。それほど彼らはひもじい思いをするのだということです。

 心に留めたのは、きょうの「みことばの光」のタイトルになっている47節のことばです。「あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜んで仕えようとしない」とあります。豊かになったのは主の恵み。けれども、それをどこかに追いやって、富を喜び、富に仕えることの結末がここにはっきり述べられているのです。


神の心は…

2017年02月24日 | 申命記

申命記 28章15−37節

 きょうの「みことばの光」には、この箇所を読んでいるうちに「何とも言えない重苦しい気分になるかもしれない」と書いています。この前の「祝福、祝福」ということばと引き換えに、ここではずっと「のろい、のろい」と繰り返されています。

 祝福とのろいの、どちらを選ぶかと尋ねられたら、のろわれる道を選ぶと言う人はいないでしょう。けれども、何が読む者を重苦しい気持ちにするかというなら、果たして自分はモーセによって神がここで命じておられるように、神のことばを落ち度なく守ることができないのではないかとどこかで考えているからです。

 また、そもそも神はご自分の民を愛しておられるのに、なぜ聞き従わない場合にのろわれると、これほど丁寧に、いや、しつこく語っておられるのかということが心に引っかかるのではないでしょうか。
 確かに、読んでいて良い気分にはなりません。むしろ、こんな神さまは好きではないというか、好みではないと否定してしまうかもしれないのです。
けれども、何度か読んでいるうちに、ご自分の民に対する神の本気さを覚えるのです。「こうなってほしくない」と神は強く思っておられるということなのです。

 このようにお語りになる神のお気持ちはどこにあるのでしょうか。

 先読みになりますが、30章19節でモーセは民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と語っています。これこそ、神の心をモーセが語っているということではないでしょうか。


かごも、こね鉢も…

2017年02月23日 | 申命記

申命記 28章1−14節

 昨年5月から概ね月に二度持たれてきた「男性聖書研究会」。水曜日夜は「信仰と仕事」というテーマで聖書を開きました。熱心な分かち合いがあり、時の経つのも忘れるほどでした。「常連」のうちのお二人は、3月で日本に帰国します。寂しさを覚えますが、また新しいメンバーが加わることを期待したいと思います。

 きょうの箇所には、多くの「祝福」ということばがあります。イスラエルの民は、神の御声に従うので祝福されると約束されています。「町にあっても祝福され、のにあっても祝福される」とか「あなたのかごも、こね鉢も祝福される」、また、「入るときも祝福され、出ていくときにも祝福される」ということばからは、あらゆる生活が祝福されるという、豊かな拡がりを覚えます。

 「みことばの光」には、かごは礼拝に用いられるものであり、こね鉢は日常の生活に使われる物だろうとあります。そして、「民は礼拝も日常生活も祝福される」と書いています。祝福というと、目に見えない、物ではないというように捉えられがちですが、そうではありません。生活の隅々にまで神の祝福が及ぶのだというのです。

 そして、何と言っても素晴らしい祝福は、「…あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる」ということです。「あなたに主の名がつけられている」とも10節にあります。イエス・キリストによって、私たちがそのようなものとなった、立てられているということをじっと立ち止って覚えるのならば、これに勝る祝福はない、と心が震えるほどです。

 


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