みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の教えは完全

2023年06月30日 | 詩篇

詩篇 19篇

 6月は今日が最後の日。「暑かった」というのが印象でした。その中でいくつかの小旅行をしました。

 詩篇19篇には特別な思いでがあります。ある年の夏、長野県の松原湖でのアウトキャンプ。キャンプ期間中にみんながこの詩篇を覚えるという課題が出されたのです。忘れている部分もありますが、その時に必至になって覚えたことゆえに、今でも口ずさむことができます。そのキャンプ場での夜、夏は空気が少しよどむので冬ほどくっきりと眺めることはできないのですが、キャンプ場の原っぱで仰向けになって星空を眺めたのも、とても良い思い出です。

 神が創造された天を見上げ、ダビデはそれらが神の栄光を現していると歌いはじめます。そして、物言わぬそれらの被造物を通してご自分がどのような方なのかを明らかにすると続けます。

 日本でも太陽を神々しいものとしてあがめたり拝んだりすることがあります。しかし4ー6節でダビデは、神が太陽をご自分の意のままにしておられる、言い換えると太陽は神に従って動いているのだと歌うのです。

 7節以降が、本篇のテーマです。ダビデは、主のおしえが完全であると歌います。ここでは、神のことばが「おしえ」、「証し」、「戒め」、「仰せ」、「さばき」と多様なことばで表されます。最長の詩篇119篇に通じますね。

 神のことばの素晴らしさに圧倒されてダビデは、自分の心を探られます。これは詩篇139篇に通じます。神のことばに心を照らされ、探られるのがなんとありがたいことなのかと、声を出して読みつつ神に感謝しました。


神 その道は完全

2023年06月29日 | 詩篇

詩篇 18篇30−50節

 ウクライナで牧師をしている方からのニュースレターが届きました。その中に「教会は『日常』を守り続ける」ということばがありました。

18篇は、サムエル記第二22章と同じ内容です。サムエル記はサムエル〜サウル〜ダビデとイスラエルが王を持つようになる過程を描いていますが、22章には自分の生涯を振り返って神を賛美し、神に感謝するダビデの思いが込められています。

 30節の「神 その道は完全。主のことばは純粋。主は すべて主に身を避ける者の盾」ということばが心に留まります。

 「神 その道は完全」ということばからは、人が人生でたどる道の不確かさ、危うさのようなものが浮かび上がってきます。ダビデのようにその不確かさや危うさは、サウルやわが子アブサロムによってもたらされました。敵地に逃れたために彼はいのちの危険を感じました。しかし、そのような危うさはダビデ自身が蒔くことによっても起こります。

 「右にも左にもそれずに、ただひたすらに神が望まれた道を歩き通した」と誇れるほどの自分ではありません。信仰者を支えるのは神であるということをこのことばは伝えます。

 「主のことばは純粋」ということばからは、人間のことばがそうではないと言われているようです。ダビデも人のことばによってもてあそばれるようなことを何度も経験しました。たくさんのことばが私たちの耳に飛び込んでくる今、そして、次々とことばが新しいものに取って代わられる今でも、変わることのない神のことばがあるのです。

 そしてダビデは、人生を貫いて主こそ自分の唯一の避け所、盾なのだと言い切っています。自分の功績に満足しているのではない姿に、多くを学びます。


私より強かったから

2023年06月28日 | 詩篇

詩篇 18篇1−29節

 日本から出張に来られた方と空港で会いました。日曜日に来独し火曜日に帰国するという「弾丸スケジュール」とのこと。次の機会には観光の時間もぜひ、とお伝えました。

 詩篇には味わい深いことばがたくさんありますが、背景がはっきりしないので難しいという感想を持つ人もいます。しかし、18篇はタイトルにこの詩篇がどのような時のどのような出来事と関わりがあるのかが明らかにされています。

 「彼は言った」ということばから、本篇は始まります。あとに「わが力なる主よ。私は……」とありますので、「彼」とは「私」つまりダビデだということが分かります。彼がどのような窮地に追い込まれていたのかは4−5節に明らかにされているので、2−3節は彼が大きな苦しみの中から主によって助け出されたことについてのまとめのように読むことができます。

 17節の「彼らが私よりも強かったからです」ということばに目が留まります。人は自分が対応できることについては、自分の力で行い、自分の力でできたと思います。しかし、私たちはそのようなことばかりに遭遇するのではありません。自分よりもはるかに強い存在を相手にすることも起こります。そんな時には自分の小ささ、無力をいやというほど知らされます。

 しかし、神を信じる者は、自分が無力であると知らされ、それで終わるのではないのだ、だからこそ、主が私を救い出されるのだという、よく考えるなら当たり前のことに気づかされることばです。クリスチャンがしばしば用いる「救い」も、自分ではできないこと、無力であることをいやというほど知らされたものに神が与えてくださるものなのだと、気づかされます。


満ち足りる

2023年06月27日 | 詩篇

詩篇 17篇

 日曜日の夕方、7人でインド料理レストランへ行きました。久しぶりにレストランのカレーをいただきました。ある方が注文した激辛カレーを味見させてもらいましたが、辛い、でもうまい、でした。

 ヨシュア記を読み終えて、今日は詩篇を開いています。イスラエルの王となったダビデの祈りです。

 最初の呼びかけで目に留まったのは「正しい」ということば。彼は自分の正しい訴えを聞いてくださるように、自分の主である神に訴えています。そして、神が自分に正しいさばきをしてくださるようにと祈っています。ダビデは自分に自信があり、『完璧な私」であることを主に訴えているのではありません。自分が主の前に、思いにおいてもことばにおいても、そして行いにおいても、正しいものでありたいと願っていることが伝わってきます。

 誰の前に自分がいるのかということを人は考えます。ダビデの初めの祈りは神の前の自分を自覚してのものです。

 本篇の終わりの部分からは、『満たす」「満ち足りる」ということを覚えました。この世の人々は腹を満たします。神が蓄えられたことをも知らずに、彼らは神への感謝もなく腹を満たすことに満足します。

 ダビデは神の御顔を仰ぎ、御姿に満ち足りると告白しています。こう書きながら、やせ我慢をしているのではないかという思いもちらっと抱きましたが、そうではないのですね。『目覚めるとき」というのは翌朝ということでしょうか、もしかしたら、いつか神の御前に立つ時のことを言っているのかもしれません。

 神に信頼する者は、失望したままで終わることはないのです。御顔を仰ぎ見る希望のゆえに……。


今、あなたがたは……

2023年06月26日 | ヨシュア記

ヨシュア記 24章

 教会が欧州のハブ空港を持つ町にあるので、旅行者の方も礼拝に参加します。昨日出席された方を州週間前から出席するようになった方が知っていたという不思議なこともありました。旅行者が増えてきたのをこのようなことからも感じるこの頃です。

 ヨシュア記が終章を迎えました。

 ヨシュアは、イスラエルの民の前で神のことばを届けています。それは回顧に始まります。しかもヨシュア個人のものではなくて、神がイスラエルの民のために何を行ってこられたかについての、神ご自身の回顧です。心に留まるのは、「わたしは……した」ということばが続くこと。アブラハムが登場するのは創世記11章後半からなのですが、ここにはアブラハムが…をした、イサクが…をした、ヤコブが…、そしてモーセとアロンが…をしたと言われているのではないのだということに気づかされます。

 教会は、その歩みを振り返るために記録します。記念誌としてまとめる場合もあります。後の世代の人々が、先の世代の人々がどのように歩んだかを知ることによって、誰が立派だったとか、誰がしくじったとか(そのように書く記念誌はほとんどないかと思いますが)ということを羅列するだけなら、大切な何かが抜け落ちているように思われます。教会の歩みはそこに連なる人々の歩みでありますが、それは人の功績を讃えたり失敗を嘆いて終わりではないのです。神のみわざの振り返りです。

 前の世代はがんばったなぁと感心して終わるのではなく、それはまた、今の世代、次の世代に主の前にどのように歩むかの決断を促すものでもあります。「今、あなたがたは主を恐れ……主に仕えなさい」と決断を迫る14節のことばが目に留まります。


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