みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈ってください

2019年11月30日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 13章18−25節

 11月はきょうでおしまい。2019年も残り1か月となりました。今年の教会暦では一年の最後がきょうになっていて、明日の待降節第一日曜日から新しい暦が開かれることになります。そろそろ振り返りの頃になりました。クリスマスカードも用意しなければと思っています。

 ヘブル人への手紙は本日で終りです。ここには、名前が特定されないこの手紙の作者の姿を垣間見ることができます。

 たとえば、19節に「私があなたがたのもとに早く戻れるように」ということばからは、作者と手紙の読者とが以前は一緒に生活していたということが伝わります。23節には「私の兄弟テモテが釈放された」とあります。作者とテモテはとても親しい信仰の友であり、同労者だったことがわかります。ちなみに、この手紙の個人名は、ここにある「テモテ」だけです。24節では、この手紙を受け取った教会の指導者や信仰者たちについて想像させてくれますし、「イタリアから来た人たち」ということばからは、手紙の差出人や受け取り手がどこなのかをも考える手がかりとなりますが、はっきりしたことはわかりません。

 「私たちのために祈ってください」また、「なおいっそう祈ってくださるよう、お願いします」ということばを心に留めます。キリストを信じる者たちの間では、互いに祈り合うという交わりがあります。そしてそれは、単に形式的、儀礼的なあいさつのことばとしてではなくて、実際に神に祈り、とりなすのです。それが、一人ひとりの歩みにとって大きな意義を持っています。

 私自身、多くの方々のとりなし、祈りがあって、その祈りを聞いてくださる神によってこのような歩みをすることができていると改めて思います。ですから、私も「祈ってください」と求められたらそうする、という日々でありたいと願います。


昨日も今日も、とこしえに

2019年11月29日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 13章1−17節

 聖書を毎日読んでいまして、一つの書が終わろうとすると何かとてももったいないような気持ちがします。「みことばの光」のスケジュールに沿って聖書を読む方は次に読むのは5年後になりますので、「しばらく会えないね」ということもあるかもしれません。けれども、年に一度聖書を読み通すのであれば、そんな「感慨」もいらないでしょうか。「みことばの光」左側の「一年で聖書通読」に挑戦してみませんか。

 ヘブル人への手紙も終章です。12章からクリスチャンの日常生活への勧めが続きます。ここにある一つ一つの勧めは、隣人を愛するようにとの教えを思い起こさせます。特に、迫り来る、いやすでに迫ってきた迫害で投獄されている信仰の友を思い起こすようにという、この手紙の時代的な背景を映し出す勧めもあります。

 勧めの間に「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」ということばが置かれているのが心に留まります。この手紙の差出人は、手紙の多くを割いてイエス・キリストは神であり、私たちを神の御許に連れて行くことのできる唯一無二の大祭司だと説いてきました。

 何が起こっても動揺しないで、兄弟愛をいつも持っているようにという勧めから初めて一つ一つのことを心に留め行なうように、なぜならば、イエスが私たちの救い主であるという事実は何も変わることがないからだと伝えたのだと考えます。

 すぐに動揺して、右を見左を見ておろおろするような私に、「わたしを見続けよ」とのイエスさまの声が聞こえてくるようです。


どこを目指して

2019年11月28日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 12章14−29節

 この箇所について、聖書協会共同訳聖書は「キリスト者にふさわしい生活の勧告」という見出しを付けています。この手紙の著者は、キリストが真の神であり、ただ一人信じる者を神の御許へと導く大祭司であると、多くのことばを用いて論じ(1−10章)、それゆえキリストへの信仰を揺るがさず、ましてや捨てることなく、厳しいけれども信仰によって歩んで行くようにと勧めてきました。

 そしてここでは、具体的な生活についてのいくつかの勧めをしています。キリストを信じる者にとってこの世は、すぐ前に書いてあるように、厳しいことが次々に起こります。けれども、それら一つ一つは父なる神さまが愛する子どもたちのために備えてくださった訓練なのだから、進み続けようと語ります。

 著者は13節で「あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい」と勧めていることを具体的に、今日の箇所で述べています。ここで勧められているのは、キリスト者の生活の基本です。旧約聖書をよく知る読者たちのことを踏まえて、エサウを例にしています。

 そして、地上生活が終りではなく、その先にゴールがあるのだと言うのです。そして、ゴールで待ち構えているのは、揺り動かされない御国。毎日同じようなことが繰り返されているように思えることばあるのですが、そうではなくて、一歩ずつゴールに近づいているのです。それが、きょうの歩みの励みになります。


信仰の競走

2019年11月27日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 12章1−13節

 文章には、いわゆる「つなぐことば」が大切な場合が少なくありません。ヘブル人への手紙でも、「こういうわけで」ということばには注目すべきです。11章で旧約聖書に登場する信仰者たちのことを取り上げてから、この手紙の著者は「こういうわけで」と話を続けます。

 1節の「多くの証人たち」というのは、これら信仰者たちのことを指しているのでしょう。そして、手紙の読者たちにも、彼らと同じように信仰によって進んでほしいと勧めるのです。

 ここでは「走り続けようではありませんか」とあります。ある時、「クリスチャンは走り続けなければならないのですか」と問われたことがあります。その方は、教会生活に疲れて少し休みたかったのかもしれません。確かに、そのようなときに、「走り続けようではありませんか」と言われたら、「ふーっ」とため息が出るかもしれません。しかし、競走に例えられている信仰者の歩みとは、優劣を争って誰かと競うものではありません。

 ここでは、地上での信仰者の歩みを競走に例えているので、「走り続けよう」という表現になっています。しかし、ここでの競走は誰かと競い合って一番を目指すというものではありません。この場合に、信仰者が常に目を留めておくべきなのは、イエス・キリストです。作者はイエスを「信仰の創始者であり完成者である」と書いています。その意味は、同じ節でイエスが何をなさったかを表しています。

 この場合、イエスが辱めをものともしないで十字架を忍ばれたというのは、そのようなイエスのお姿から目を離さないということは、外からの迫害、内側からの信仰の揺さぶりに遭っていた人々が、それでも信仰によって歩んで行くために欠くことのできないもの。

 自分の目は今、誰を向いているのだろうか…。


さまざまな信仰者

2019年11月26日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 11章32−40節

 当地のクリスマス・マルクト[クリスマス市(いち)]が月曜日にオープン。街に出る用事があったので、会場の広場を訪れましたら、ちょうどツリーが点灯する瞬間に居合わせることができました。明かりが灯ると、集まっている人々から「ウォー」という歓声が…。毎年ほぼ同じ場所に同じお店が構えているので代り映えはしませんが、こんなにたくさんどこからきたのだろうかと思うほどたくさんの人でにぎわっていました。

 きょうの箇所の「信仰者列伝」は、旧約聖書の士師記に登場する士師たちの名前から始まり、その後無名の人々のことが紹介されています。ギデオンに始まる士師たちは、その誰もが完全ではなく、欠点のある人々でした。そのあとのダビデ王にしても、イスラエルの王として傑出していましたが、神を悲しませ怒らせるような罪を犯しました。

 聖書は、これらの信仰者たちの光の部分、つまり神に用いられて神の栄光を表わしたと書きますが、同時に彼らの罪や愚かさ、欠点を隠さずに記すのです。だからといって彼らは信仰者として失格だったとはしません。立たなければならない時、神がご自分の働きにお召しになった時に、彼らは信仰によって立ったのだと称賛するのです。

 この社会は、人の問題や欠点をほじくって陥れるようなことが毎日のようになされています。もしかしたらそのようなことは、キリスト教界でもあるのかもしれません。自分のことはさておいて、人にはとても厳しい物差しを充てて見るようなことをしないかと、問われる箇所でもあります。


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