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能率、効率いつも度外視

2023年02月23日 | 雑記帳
 「能率」と「効率」の違いなんて意識したことがなかったと思う。ごく普通の類義語であり、例えば広辞苑の語義②が示すように「効率」は「一般に、仕事の能率。」と捉えていた。しかし、ある雑誌に環境倫理の研究者が寄せている文章を見て、んっと興味が湧いてきた。曰く「この二つ(能率と効率)は反比例の関係にある


 能率とは「時間当たりの仕事量」であり、効率とは「資源当たりの仕事量」という解釈だ。「環境」を基に考えてみると、そういった使い方となるのか。「回覧板」の例が出されている。それは情報を周知させるための手段として時間がかかり能率は悪い。しかし紙1枚で足りることを考えれば、効率はいいと言える。




 「資源」の設定がポイントか。時間も資源に含めれば一般的な使われ方だろうと思考を止めることができる。しかしひとまず、それはさておく。人は有限な時間を意識するために、能率を上げようとする。そのために多くの資源を使う傾向にあるのではないか。回覧板よりは文書一斉配布のように。それは効率が悪い。


 テクノロジーの普及は、その能率と効率のギャップを埋めるためにあると考えられる。情報に関してはもはや言うまでもなく、周知させるためのメール一斉配信など常識となり、能率、効率ともに進んでいる印象さえある。ポイントは「仕事」なのだ。もちろん、単純な物理的な「量」としてみた場合は問題は生じない。


 何かを伝える時、確認や連絡であれば効率的な手段はいくらでもある。今は時間も掛からない。しかし共感や啓発に重きを置く場合、極端にいえば能率、効率ともに度外視する発想もある。もちろん伝える対象のリサーチは前提になり、そのうえで時間と資源をどう組み立てるかが、仕事の質を決定づけると言えそうだ。


 時間は有限。誰しも納得できる。ただ、資源も有限が論理としてわかっていても、能率を上げるために多くを求めている現実がある。思い出に結び付ければ「チョーク一本、口一つ」で授業できる教師の姿は、ある意味理想だった。全うすれば効率はいいなあ…はははっ、また何のための仕事か置き去りにして…。


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