スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ブリリアントカップ&出会いの時期

2024-04-10 19:18:05 | 地方競馬
 昨晩の第7回ブリリアントカップ
 ショウナンバルディは発馬後の加速が鈍く2馬身の不利。ランリョウオーが逃げて2番手にエアアルマス。3番手のシャイニーロック,4番手のミヤギザオウ,5番手のサヨノネイチヤまでが先行集団を形成。3馬身差でヒーローコール。その後ろは序盤は前にいたレッドソルダード,マンダリンヒーロー,ナンセイホワイト,サルサレイアの4頭が集団。その後ろがブリッグオドーンとコパノジャッキー。発馬の不利があったショウナンバルディはその後も進みが悪く,大きく離されて競走を中止しました。最初の800mは50秒7のミドルペース。
 3コーナーからランリョウオーとエアアルマスとヒーローコールの3頭が雁行。その後ろもサヨノネイチヤとナンセイホワイトとブリッグオドーンの3頭で雁行となりました。動いたヒーローコールがコーナーで捲り切り,単独の先頭に立って直線へ。ヒーローコールが3頭の外を回っていたため,内にも進路があり,そこに入っていったのがサヨノネイチヤでヒーローコールの外にいったのがナンセイホワイト。この3頭が激しく競り合い,内のサヨノネイチヤが抜け出して先頭。一旦は離されたヒーローコールがまた差を詰めていき,サヨノネイチヤが外によれたため追いにくくなる場面がありましたが,着順が入れ替わるほどの不利ではなく,サヨノネイチヤが優勝。ヒーローコールが1馬身4分の1差で2着。ナンセイホワイトが1馬身差で3着。
 優勝したサヨノネイチヤはここが勝島王冠以来のレースで南関東重賞2勝目。勝島王冠のときは斤量での恩恵がありましたから,ここは試金石ではあったのですが見事に乗り越えました。抜け出してから外によれた原因が距離にあれば,これ以上の距離延長はマイナスに作用するでしょう。また,馬の精神面が原因なら,現状は早めに抜け出すのはあまりよくないということになり,それが課題となりそうです。まだ大井でしか走ったことがない馬ですから,ほかの競馬場でも同様に力を出せるのかということは,このレースの最後の走りとは無関係な課題として残ります。父はダノンレジェンド。母の父はオレハマッテルゼ
 騎乗した大井の西啓太騎手は勝島王冠以来の南関東重賞3勝目。ブリリアントカップは初勝利。管理している大井の坂井英光調教師は南関東重賞4勝目。ブリリアントカップは初勝利。

 ステノNicola Stenoはデンマーク人でしたが,1660年からライデン大学で生物学を学びました。この時期にスピノザはライデン近郊のレインスブルフRijnsburgに住んでいて,ふたりは知り合いました。チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合ったのは1674年で,シュラーを介してスピノザのことを知りました。このときはスピノザはハーグに住んでいて,この年の終わりにチルンハウスはハーグのスピノザを訪問したとされています。したがって,ふたりはともにスピノザの知り合いでしたが,知り合ったのはステノの方がずっと早かったということになります。
                                        
 デカルトRené Descartesは松果体glandulae pinealiが人間の精神mens humanaと身体corpusを結びつけると主張しました。ステノは解剖学的な見地からそれを否定しています。スピノザは『エチカ』の第五部の序言の中で,かなりの部分を割いてデカルトの説に疑問を投げ掛けているのですが,そこにステノの解剖学的立場からの学説が影響していた可能性はあります。ステノは学説を著書にして発刊していますが,その本はスピノザも所有していました。スピノザが所有していた蔵書は目録として残されていて,その中にステノの本もあるのです。
 チルンハウスが出会ったときのステノと,スピノザと出会った頃のステノとの間には大きな相違があります。スピノザと出会ったステノは学者で,とくに生物学者でありまた地質学者でした。しかしその後はカトリックに改宗したのを機に,カトリックの道に進み,学者の立場は捨てました。國分は,新規の改宗者にありがちな過剰な信仰心をステノは抱いていて,だからスピノザに改宗を迫る書簡六十七の二を書いたのだと指摘しています。ただ,この指摘は的を射ているのかどうか僕には疑問です。アルベルトAlbert Burghが書いた書簡六十七と比べれば,アルベルトは過剰な信仰心を有していたというように僕には思えますが,ステノの書簡からはそうしたものは感じられないからです。確かに形式的にはステノはスピノザに改宗を求めていますが,その求めにスピノザが応じるわけがないということを理解した上でそれを求めているように僕には読めるからです。むしろこの書簡は,何らかの理由で無駄だと分かって書かれたもののように感じられます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 叡王戦&手稿の発見 | トップ | 東京スプリント&書簡の理由 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

地方競馬」カテゴリの最新記事