スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&相違の発生

2018-01-30 18:59:19 | 将棋
 27日と28日に吉野ケ里温泉で指された第67期王将戦七番勝負第二局。
 豊島将之八段が先手で飛車先を伸ばしていったので久保利明王将の角道オープン四間飛車に。先手は居飛車穴熊に囲いました。
                                     
 先手が☗8六歩と桂馬を取りにいったところで後手が9筋の歩を突いた局面。おそらくここまでの先手の攻め方が,いくら穴熊とはいっても乱暴で,すでに後手が指しやすくなっているのではないかと思われます。
 この手は封じ手で,予想できる手のひとつ。先手はさして考えずに☗8五歩と桂馬を取りました。しかし☖9七歩成☗同銀☖同香成☗同香に☖9八歩と打たれたところで長考に。
 ここで長考したということは,そこまでは考えていたけれども,この手は見落としていたということだと思われます。たぶんここでは☖8六桂と打ってくると想定していたのでしょう。
 ☗8八玉と逃げましたがそこで☖8六桂と打たれ☗2五飛と引いたものの銀取りは無視して☖9九歩成。先手は☗4五飛で銀は取れたものの☖5四角と詰めろ飛車取りに打たれては決定的な差をつけられていました。
                                     
 第2図以降の粘りこそ見事だったものの,全体的には先手が淡白で不出来な将棋だったという印象です。
 久保王将が勝って1勝1敗。第三局は来月3日と4日です。

 第四部定理四の意味は,現実的に存在する人間は受動passioを免れ得ないということです。第二部定理一六が示しているのは,現実的に存在する人間がこのような働きを受けるpati場合には,第三部定義一によりその受動作用に対して人間は十全な原因causa adaequataではなく部分的原因causa partialisであるということです。そしてこのとき,第二部定理一七により,人間の精神mens humanaは外部の物体corpusを表象するimaginariのです。したがって,現実的に存在する人間は,必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataを有することになります。よってたとえその人間が自由の人homo liberというに相応しい人間であっても,その人間が混乱した観念を有さないということはあり得ません。
 次に,第四部定理一の意味は,現実的に存在する人間の精神のうちにXの真の観念idea veraがあるとき,そのことは同じ人間の精神のうちにあるXの誤った観念すなわち混乱した観念を排除する要因とはならないし,Xの誤った観念がその人間の精神のうちに発生することを妨げる要因にもならないということです。したがって,どれだけ多くの真の観念すなわち十全な観念がその人間の精神のうちに存在しているのかということと,その人間がどれだけ多くの混乱した観念を精神のうちに発生させるのかということとは関係がありません。非現実的な仮定ですが,たとえ無限に多くのinfinitaものの十全な観念がある人間の精神のうちに実在しているとしても,その人間は無限に多くの混乱した観念を精神のうちに発生させ得るし,除去させ得ないということになります。
 不安metusすなわち恐怖metusも希望spesも,各々の定義Definitioから明白なように,ある混乱した観念とともにでなければその人間のうちには生じ得ないような感情affectusです。しかるに僕たちの精神のうちにはXの十全な観念のあるなしに関わらずXの混乱した観念があり得るわけですから,Xに対して不安を感じたり希望を感じたりすることは,どんな人間にも生じ得ると考えておかなければなりません。このことは第三部定理五〇からも強調しておく必要があると僕は考えます。
 したがって,自由の人と無知の人の相違は,不安や希望を感じるか感じないのかという点にあるのではありません。むしろその点は同一です。相違はその後に発生します。
コメント
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