スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

蛙&限定の内容

2013-08-05 18:48:25 | 哲学
 スピノザと演劇の稿の最後に触れたアリストファネスの『蛙』。これはギリシア神話に登場する神のひとりであるディオニュソスが地獄に赴き,すでに死んだふたりの悲劇作家に論争をさせるというもの。もっとも僕はギリシア神話自体はほとんど知りませんので,これは受け売りです。ファン・ローンによれば,ヨットの故障中の滞在先でスピノザらと共に『蛙』の演劇に興じたとき,スピノザが演じた役はディオニュソスであったそうです。
                         
 ファン・ローンによれば,このときスピノザは,ロープで作った途轍もないほどに大きなかつらをかぶっていたとのこと。そして劇中でスピノザは,子どもの頃に覚えたヘブライ語の祈りを長々と唱えたとあります。これはおそらくユダヤ教の祈りのことでしょう。これだけでみれば『蛙』を演じたとは到底いい難いと思えるのですが,これは元々のギリシア語に見せかけるための高尚な演出であったとファン・ローンはいっています。
 このことから分かるように,この演劇というのは,ただファン・ローンやスピノザたちが自分らで楽しむというだけの目的で行われたのではありません。この近所で農家を営んでいた人びとが招かれていたそうです。かれらは非常に喜んで大笑いし,足を激しく踏み鳴らし,対してスピノザはアンコールに応えたと書かれています。
 これでみれば,おそらく演劇自体はラテン語ではなくオランダ語で行われたと考えられます。スピノザはスペイン語やポルトガル語ほどはオランダ語を使いこなすことができなかったとみるのが妥当であると思いますが,オランダ語で『蛙』のディオニュソスを演じることくらいはできたということなのでしょう。実際このとき,古代ローマの詩人のホラティウスの写本がどこかから出てきたので,そのラテン語を共同でオランダ語に訳すことで時間を過ごしたという記述があります。
 スピノザが演じていたのはディオニュソスだった。これが僕がこのエピソードに驚いた最大の理由でした。

 観念の形相ないしは観念の本性のうちに,観念対象ideatumの限定が包含されているのかいないのかが,その観念対象ideatumに関して積極的であるか消極的であるかの決め手となるのであれば,ここで再び,スピノザの哲学において限定とは何を意味するのかということが重要になってきます。
 現実的に存在する個物res singularisに関して論じたときの結論のひとつとして,個物res singularisというのは限定しつつまた限定されつつ現実的に実在するということがありました。これは第四部公理から明らかですし,第一部定理二八のうちにも,そのような要素が含まれていると考えることが可能です。よってここではこれについてはこれ以上の考察は省略します。
 ただ,一口に限定といっても,それこそ限定というのはひとつの抽象名詞,より正確にいうならば,これは限定するという動詞なのであって,そういうことばがあるかどうかは別に,抽象動詞であるといわなければなりません。なぜなら,たとえばAがBを限定するということが真理であるとしても,このことのうちには具体的にAがBの何を限定し,BはAによっていかなる限定を被っているのかということは,何ひとつとして明らかにはされていないからです。実際,第一部定理二八というのは,有限様態すなわち個物res singularisの,存在と作用の無限連鎖について言及しています。そしてこのことは,たとえば存在に対する限定もあれば,作用に対する限定もあるということを明らかに含意しているといえます。そしてもちろん,この定理には示されていない,ほかの事柄への限定というのもあり得るのだという心構えをもっておかなければならないでしょう。
 ただ,それが具体的にどのような限定を意味するのであったとしても,限定である限りそれは限定されるものに関しては消極的であるといわれなければならない,少なくともそれに関して積極的であるとみなすことはできないという点では,何ら変わるところはありません。したがって,仮にどのような限定で考えてみたとしても,それによって得られるであろう結論もまた,同一であることは間違いないと考えてもいいでしょう。
コメント
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