第24回フェブラリーステークス。
外目の枠からダイワバンディットがハナを奪い、これをトーセンシャナオーやオレハマッテルゼなどが追っていく展開。偶然かもしれませんが、芝の競馬で活躍してきた馬たちが馬群を引っ張るというレースになりました。シーキングザダイヤ、サンライズバッカス、ブルーコンコルドは中団の後方よりの位置から。前半の800メートルは46秒6で、これはハイペースとはいえないと思いますが、ミドルペーストしては速い方なので、悪くはない位置取りであったと思います。
直線に入ると馬群が大きく横に広がりました。どの馬も抜け出すのに苦労していましたが、これを尻目にこれらの馬群のさらに外に進路を取ったサンライズバッカスが絶好の手応えから追い出すと弾けるような伸び。内からサンライズバッカスのさらに外に出したシーキングザダイヤがこれを目標に追われたのですが、こちらは伸びを欠いてしまいました。スムーズに馬群を捌けなかったブルーコンコルドはさらに外に持ち出し追い詰めてはきましたが時すでに遅し。結局、1馬身半の差をつけてサンライズバッカスが優勝しました。
優勝したサンライズバッカスはずっと善戦を続けていましたが、勝利となると一昨年の秋の武蔵野ステークスGⅢ以来。GⅠはこれが初勝利。騎乗した安藤勝己騎手は昨秋のマイルチャンピオンシップ以来のGⅠとなります。
2着のブルーコンコルドは、やや脚を余してしまった感もありますが、最後は左へ左へと進もうとし、サンライズバッカスの内に入ってきていて、左回りは右回りに比べると、少し適性を欠くのかもしれません。それでも3着のビッググラスには2馬身半の差をつけていて、高い能力は示したと思います。シーキングザダイヤは9着。勝てないまでも大崩れはしないというタイプの馬で、この大敗は不可解。敗因は分かりませんが、今日はやや太かったとは思います。
一般論からのふたつの帰結は、どちらも誤りです。
このうち、様態は神がなくてもあることも考えられるという後者の場合については、おそらく少しの論争になることもなく、それが誤りであると認められるでしょう。一方、様態の本性には神の本性が属するという前者の場合は、これが誤りであることを示すいくつかの方法があるのですが、たとえばエチカにおいては第二部定理一〇において、人間の本性には実体の本性は属さないとされています。ところで、人間が様態であって神が実体であるということは明らかですから、この定理が証明されることによって、少なくとも様態の本性に神の本性が属するということを一般的にいうことはできないということが明らかで、したがって誤りであるということになります。したがって、一般論による本性の定義は誤謬であるということになります。
しかし、本性がなければ事物はあることも考えることもできないということ自体は間違いではありませんので、あとはこの内容を生かしつつ、しかし一方で不条理な帰結を回避するために、本性の定義に何を加えればいいかということが問題となってくるわけです。
外目の枠からダイワバンディットがハナを奪い、これをトーセンシャナオーやオレハマッテルゼなどが追っていく展開。偶然かもしれませんが、芝の競馬で活躍してきた馬たちが馬群を引っ張るというレースになりました。シーキングザダイヤ、サンライズバッカス、ブルーコンコルドは中団の後方よりの位置から。前半の800メートルは46秒6で、これはハイペースとはいえないと思いますが、ミドルペーストしては速い方なので、悪くはない位置取りであったと思います。
直線に入ると馬群が大きく横に広がりました。どの馬も抜け出すのに苦労していましたが、これを尻目にこれらの馬群のさらに外に進路を取ったサンライズバッカスが絶好の手応えから追い出すと弾けるような伸び。内からサンライズバッカスのさらに外に出したシーキングザダイヤがこれを目標に追われたのですが、こちらは伸びを欠いてしまいました。スムーズに馬群を捌けなかったブルーコンコルドはさらに外に持ち出し追い詰めてはきましたが時すでに遅し。結局、1馬身半の差をつけてサンライズバッカスが優勝しました。
優勝したサンライズバッカスはずっと善戦を続けていましたが、勝利となると一昨年の秋の武蔵野ステークスGⅢ以来。GⅠはこれが初勝利。騎乗した安藤勝己騎手は昨秋のマイルチャンピオンシップ以来のGⅠとなります。
2着のブルーコンコルドは、やや脚を余してしまった感もありますが、最後は左へ左へと進もうとし、サンライズバッカスの内に入ってきていて、左回りは右回りに比べると、少し適性を欠くのかもしれません。それでも3着のビッググラスには2馬身半の差をつけていて、高い能力は示したと思います。シーキングザダイヤは9着。勝てないまでも大崩れはしないというタイプの馬で、この大敗は不可解。敗因は分かりませんが、今日はやや太かったとは思います。
一般論からのふたつの帰結は、どちらも誤りです。
このうち、様態は神がなくてもあることも考えられるという後者の場合については、おそらく少しの論争になることもなく、それが誤りであると認められるでしょう。一方、様態の本性には神の本性が属するという前者の場合は、これが誤りであることを示すいくつかの方法があるのですが、たとえばエチカにおいては第二部定理一〇において、人間の本性には実体の本性は属さないとされています。ところで、人間が様態であって神が実体であるということは明らかですから、この定理が証明されることによって、少なくとも様態の本性に神の本性が属するということを一般的にいうことはできないということが明らかで、したがって誤りであるということになります。したがって、一般論による本性の定義は誤謬であるということになります。
しかし、本性がなければ事物はあることも考えることもできないということ自体は間違いではありませんので、あとはこの内容を生かしつつ、しかし一方で不条理な帰結を回避するために、本性の定義に何を加えればいいかということが問題となってくるわけです。