INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

シューテングスター(45)

2010年01月13日 |    ┣ シューテングスター
(つづき)
筑紫野市の「上西山」バス停。
国道200号の、筑紫野市と飯塚市を結ぶ冷水峠の途中に位置する。
山間部で冷えるからだろうか、待合所には「仕切り」が付いている。

二日市地区の「24番」の「狭義の終点」であり、ここからは「筑紫駅行き」と「朝倉街道行き」が運行されている。
平日の運行本数は、それぞれ5本ずつ(平日)で、計10本であり、ダイヤ改正が頻繁に行われる西鉄グループにあって、4年半以上変更が行われていない。
ここから2つ下った「浦の下」からは便数がほぼ倍に増え、「JR二日市行き」も登場する。

筑紫野市の山間部の路線の末端部(山口~平等寺、吉木~油須原)は、西鉄バスからは切り離されて(←形式上)「筑紫野バス」として運行されている。
「浦の下~上西山間」も「筑紫野バス」になってしまいそうな感じもするが、「24番」は、途中で筑紫野市域を出る(「山家道」のみ朝倉郡筑前町に属する)ため、「1-1番」「2-1番」とは事情が異なるのかもしれない(←想像です)。

昭和58年当時の時刻表を見てみると、「上西山」からは以下の行先が運行されていた(本数は平日のもの)。
・朝倉街道行き           …7本
・朝倉街道経由西鉄二日市行き …6本
・筑紫駅経由永岡行き      …1本    
・筑紫駅経由西鉄二日市行き  …2本

当時は西鉄筑紫駅から先、西鉄二日市まで運行されていたが、現在は廃止され、当該区間には片道1本だけ(JR二日市→西鉄筑紫駅)しか運行されていない。

昭和58年当時で既に「飯塚」を発着するものはなくなっているが、昭和55年前後までは、一日2往復程度が峠を越えて「飯塚」まで行っていたようである。
「西鉄二日市や朝倉街道からバスで飯塚に行ける」という事実に、とてもワクワクしてしまう

また、この当時は「飯塚~久留米~八女」を結ぶ「急行」がここを走っていた。
当時の停車停留所は、
「飯塚バスセンター~昭和通り一丁目~忠隈~天道駅~吉原橋~新茶屋~豆田口~(各停)~山家道~筑紫駅~原田~基山口~長の原~田代~高田~西鉄久留米~川瀬~福島~八女営業所」
となっていて、「飯塚~西鉄久留米」が10往復、「飯塚~八女」が4往復の、計14往復が運行されていた。

この「急行」はその後、後に開通した「冷水有料道路」経由で飯塚と久留米を結ぶ「特急」となった。
そして、時を経るごとに、200号線→3号線という単純なルートから、小郡筑紫野ニュータウン、東明館高校、基山駅、鳥栖市役所、JR久留米駅など、いろんなところに立ち寄るようになり、久留米側の終点も「信愛女学院」まで延びたりして、とても「乗り応え」のある路線となっていたのだが、大幅な減便を経て最終的に廃止されてしまった…。

ちなみに、“二日市地区の「24番」”と書いたが、この路線は昔の時刻表では「甘木地区」の路線として登場していたり、かつては峠を越えて飯塚まで行っていたりで、なぜ「24」という番号が付いているのか、どこから数えて24番なのかが、いまいちよくわからず、昔からどこか「我が道を行っている」印象がある。
いろいろ考えてみると、上ニシ山だから「24」なのだろうか…。
(つづく)

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12 コメント

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Unknown (Tokyo Chikushi)
2010-01-13 15:38:50
冷水道路ができる前、よく峠を越えてクルマを走らせていました。微かな記憶をたどると、上西山より上には、「桑曲」、「荒田」、「冷水峠」などという停留所があったように思います。

この路線は元々無番で運行されており、その頃のバスの営業所を示すマークは、丸に「飯」でしたので、飯塚営業所の所管だったと思われます。峠を越えて飯塚まで行くものもあった、というよりも、飯塚からわざわざ峠を越えて(回送も含めて)やってきて、日中は筑紫地区で活動している、という実態だったのかもしれません。「24番」という番号もその辺りに由来するのではと想像します。
確かにその後は、峠越えはなくなり、一時「甘木」の所管に、さらに「二日市」の所管になりましたね。

地図の上方に見えている「米ノ山峠」は、正月をはじめ観光シーズンに筑豊地区から太宰府にやってくる臨時バスの経路、さらにその北側の「しょうけ越」は一時期、筑豊地区と板付飛行場を結ぶ急行バスの重要な経路、冷水峠より東側の「八丁越」は夏などに筑豊地区から秋月、譚空庵(漢字が怪しい)への客を運ぶ臨時バスの経路となっていました。
あらゆる峠を目的地に応じて駆使していましたね。
返信する
Unknown (晃太郎)
2010-01-13 23:41:54
こんばんは。

Tokyo Chikushiさんのコメントに関して…
ひょんなことで(部室の大掃除で)手に入れた1994年発行の道路地図によると、上西山よりも先は「冷水峠」「桑曲」「荒田」「発峠」「関屋」「横山」「湯の浦」(この先ルート不明のため書けません。申し訳ありません…)を通って飯塚方面へと、バス路線を示す赤い点線が引かれています。もっとも、Tokyo Chikushiさんがよく峠越えされていた頃とは相違もあるかも知れませんが…ちなみに、この地図には冷水道路にはバス路線を示す赤い点線はありませんでした。

「譚空庵」というのは、現在甘木観光バスが夏に走る「だんごあん」のことですね。元々は「たんくうあん」だそうです。こちらで調べてみたところ「譚空庵」と「潭空庵」が混在しています。

若造が失礼しました。
返信する
Unknown (soramame)
2010-01-14 18:07:22
Tokyo Chikushiさん、こんにちは。
>微かな記憶をたどると、上西山より上には、「桑曲」、「荒田」、「冷水峠」などという停留所があったように思います。
飯塚から桑曲に行くバスは最近まであったと思います(といっても、なくなって結構経つかもしれません)。
>峠を越えて飯塚まで行くものもあった、というよりも、、日中は筑紫地区で活動している、という実態だったのかもしれません。「24番」という番号もその辺りに由来するのではと想像します。
なるほど。
やはり「飯塚説」が正しそうな感じですね。
でも、「飯塚からわざわざ峠を越えて(回送も含めて)やってきて…」というのは、冬場はリスキーですよね。
雪や凍結で峠が通れなければ、運休が続出になりそうです…。
>地図の上方に見えている「米ノ山峠」は、正月をはじめ観光シーズンに筑豊地区から太宰府にやってくる臨時バスの経路、さらにその北側の「しょうけ越」は一時期、筑豊地区と板付飛行場を結ぶ急行バスの重要な経路、冷水峠より東側の「八丁越」は夏などに筑豊地区から秋月、譚空庵(漢字が怪しい)への客を運ぶ臨時バスの経路となっていました。
>あらゆる峠を目的地に応じて駆使していましたね。
たしかに。
それだけ飯塚(筑豊)が栄えていて、行楽などのバス需要があったということなのでしょうね。
24番も飯塚から二日市温泉への足という意味合いもあったりしたのでしょうかね。
でも、「あらゆる峠」を駆使すれば、飯塚は福岡県の中心でもあり、それだけ人が集まってくるポテンシャルを有する立地条件にあるといえるのかもしれませんね。
残念ながら、現在のバス路線は、その「あらゆる峠」をほとんど活用していませんが…。
そういえば、「しょうけ越」で思い出しましたが、「しょうけ越」も「八丁越」も「大野越(二瀬川~内住間)」も、最近はラジオの交通情報ではなぜか「しょうけ峠」「八丁峠」「大野峠」と言い換えています。
「○○越」はダメなんですかね?

晃太郎さん、こんにちは。
>ひょんなことで(部室の大掃除で)手に入れた1994年発行の道路地図によると、上西山よりも先は「冷水峠」「桑曲」「荒田」「発峠」「関屋」「横山」「湯の浦」(この先ルート不明のため書けません。申し訳ありません…)を通って飯塚方面へと、バス路線を示す赤い点線が引かれています。もっとも、Tokyo Chikushiさんがよく峠越えされていた頃とは相違もあるかも知れませんが…ちなみに、この地図には冷水道路にはバス路線を示す赤い点線はありませんでした。
94年は、ちょうど私が冷水道路経由の特急によく乗っていた頃なので、その時点ではもう峠を通るバスはなくなっていたと思います(おそらく)。
>「譚空庵」というのは、現在甘木観光バスが夏に走る「だんごあん」のことですね。元々は「たんくうあん」だそうです。こちらで調べてみたところ「譚空庵」と「潭空庵」が混在しています。
なるほど、もともとは「たんくうあん」なんですね。
だんごあん行きは、私が幼い頃から夏季限定で走っていました(当時はもちろん西鉄バスですが)。
歴史のある路線なので、今年の夏もその次の夏も、ずっと走り続けてほしいものです。
返信する
24番 (Unknown)
2010-05-29 16:50:23
元々は二日市の24番ではなく、飯塚の24番です。
飯塚バスセンター~桑曲が、23番で、飯塚~上西山~山家道~朝倉街道・筑紫駅~西鉄二日市が24番でした。
無番の頃の飯塚行き幕は、「永岡 筑紫駅経由 飯(市内急行)塚」となっていました。
また、24番の番号が付いて、3981~3984・3959・3960・3966にて運行していた頃には、24快速となっていましたが、昭和56年夏以降3471・3472 57年秋の4589・4590では、快速の文字はなくなりました。
その後、58年春に二日市の管轄となり、飯塚発着がなくなりました。1241~1250を使用。58年秋より1461~1464(右側二人掛け仕様)に変更。
その後、飯塚~久留米急行が、冷水トンネル経由特急へと昇格したのと同時に、甘木へ移管となり、この時から、西鉄二日市行きが無くなり、JR二日市行きに、そして、筑紫駅行きが復活しました。(飯塚時代の昭和50年頃までは朝1便あり、のちに永岡へ延長)3068~3072・3087~3093 40甘木幹線と共通運用 
永岡を経由する便は、40JR二日市→永岡→筑紫駅→甘木の片道運用、また、筑紫駅行き最終便の折り返しは、40筑紫駅→甘木の片道運用となりました。
さらに、二日市交通→西鉄バス二日市へと変わりました。再び1241~1245で運行、現在は0931他(4936使っていたこともあります)
飯塚時代のダイヤでは、
飯塚~上西山~筑紫駅~西鉄二日市 1往復
飯塚~上西山~朝倉街道      1往復
上西山~朝倉街道~西鉄二日市   7.5往復
上西山~朝倉街道         6往復
上西山~筑紫駅~西鉄二日市    1往復
上西山→永岡           1便
永岡→浦の下           1便
浦の下→朝倉街道→西鉄二日市   1便
合計18往復でした。
返信する
Unknown (soramame)
2010-05-31 16:23:21
Unknownさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

もし次にコメントいただける機会があれば、返信などもさせていただきたいので、お名前を入力していただければ幸いです。

よろしくお願いします。
返信する
24番 (kaminishiyama)
2010-06-16 21:27:34
こんばんは、名前を入れるのを忘れていました。申し訳ありません。
追記します。飯塚営からの出庫は午後で、一日乗務して入庫は翌日の午後でした。(飯塚バスセンター13:40発→翌日13:22着 もう一台は、15:15発→14:50着 約24時間勤務です)
回送は飯塚営~飯塚バスセンターのみで、夜は上西山(飯塚営業所上西山車庫)へ泊りでした。
尚、二日市営の時にも最初は2台 末期には1台、甘木営の時には2台泊まりでした。
二日市交通になってから、泊まりはなくなり、車庫(宿泊施設)は解体されました。
返信する
Unknown (soramame)
2010-06-17 18:09:05
kaminishiyamaさん、こんにちは。

情報ありがとうございます。
飯塚、甘木、二日市…いろんな管轄に委ねられながら、そして、いろいろとカタチを変えながらも、しぶとく生き延びている様子がよくわかりました。

それにしても、「上西山→永岡」「永岡→浦の下」というのが興味深いです。
永岡まで行ったのなら、そのまま二日市まで行ってもよそさうですが、通学用など、目的が限られていたのでしょうかね。

あと、「永岡」のあった道路(石崎~筑紫の旧3号)には、「24番」や「40番」以外にバスが走っていたことはあったのでしょうか。
高速やバイパスがない時代には、熊本行きの特急バスや黒木からの堀川バスなども走っていたということは聞いたことがあるのですが、例えば、基山行きとか鳥栖行きのような路線バスが二日市から走っていたような時代があったのか、気になっています。
もしご存じでしたらご教示ください。
返信する
24番 (kaminishiyama)
2010-06-19 23:40:34
こんばんは、「上西山→永岡」「永岡→浦の下」についてですが、元々は山家地区からの中学生の通学用に、上西山7:18→筑紫駅7:36 でしたが、永岡地区からの小学生通学のために、上西山発を10分早めて永岡行きにして、その折り返しで、永岡7:40→浦の下7:56となりました。その影響で始発便の上西山6:19発朝倉街道行きも10分早くなり6:09となりました。
別の話ですが、冷水峠を通るバスは、飯塚~二日市以前には、飯塚~甘木というのがありました。
尚、定期便が廃止されてからも、数年間は、盆正月に39**のトップドア急行車にて臨時急行が運行されていました。
また、もっと前には、黒崎~佐賀特急が走っていたそうです。
昭和55年頃に、八木山峠ががけ崩れにて通行止めになった時には、飯塚~朝倉街道間の臨時急行が約1ヵ月間、1時間毎に運行されました。
返信する
Unknown (Tokyo Chikushi)
2010-06-20 12:43:11
石崎~筑紫の間の(旧)3号線に、特急・急行バス以外の普通バスが走っていたとは、記憶にありませんが、「ない」と断言するのは難しいことです。

特急バスとしては、記憶の範囲では、熊本、長崎、佐世保、佐賀の各行き先のバスが走っていました。
「熊本」行きは、「高速特急バス」を名乗るようになってからも、当分は、ここを通り、鳥栖から高速に乗っていました。高速道路が鳥栖以南で開通していたからです。その後太宰府~鳥栖間が開通し、高速特急バスが太宰府ICから高速に乗るようになった後も、福岡から熊本行きの急行バス(全線3号線経由の特急の名残り)がまだ1日2本(だったかな?)、この区間を走っていました。
「長崎」行きと「佐賀」行きは、筑紫通りが全通し、県道5号線に直通し、さらには筑紫野鳥栖久留米有料道路に繋がってしばらくしたら、そちらを通ってそのまま34号線に入るようになりました。だから、この2路線には当時、「雑餉隈南本町」、「二日市温泉入り口」というバス停があったのです。「佐賀」行きには、「光町三丁目」や「むさしヶ丘団地入り口」もあったような気がします。
そのうちに「佐賀」行きの方は、太宰府~鳥栖間の高速を使うようになりましたね。
「佐世保」行きだけは、かなり長い間(旧)3号線経由で走っていました。西肥バスが、5号線経由への移行を嫌ったのでしょうか。結局5号線経由を経ることなく、高速(太宰府~鳥栖間)経由となりました。
これ以外にないとすると、24番や40番以外で石崎~筑紫間の(旧)3号線を最後に走った路線バスは、「佐世保行き特急」ということになります。
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Unknown (soramame)
2010-06-20 23:10:11
kaminishiyamaさん、Tokyo Chikushiさん、こんにちは。

貴重な情報をありがとうございます。
私が(バスに対して)物心つく前か、主に福岡市内線にしか興味の対象がなかった物心ついた直後の話であり、どの情報もとてもためになりました。

今月末のダイヤ改正では、営業所の統廃合が行われるなど、西鉄グループのバスはあきらかに退潮の傾向が認められます。
「この先、高速道路やバイパスが次々に開通していく」という、「明るい未来」が描けた時代とは、バスのおかれている環境が全く違うことを実感します。
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