詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜田優『哀歌とバラッド』

2017-07-16 12:07:29 | 詩集
浜田優『哀歌とバラッド』(思潮社、2017年07月20日発行)

 浜田優『哀歌とバラッド』の8ページ。タイトルはなく、詩がはじまっている。

冬晴れのある日
高層ビルの一角がくぎる路上の日だまりに立ってあなたは
目の前で垂直の穴がぽっかりと口を開けているのを
見たことがありますか
見たことがあるならあなたは
その穴へひとり、理由もなく
墜ちていったことがあるでしょう

 幻想というか、錯覚というか、あるいは虚構というか。呼び方はいろいろあるだろうけれど、私はその「内容」には関心がない。私が関心を持ったのは、「見たことがありますか/見たことがあるなら」という「動詞」を反復しながら動いていくことばと「あなた」が繰り返される点だ。
 詩は、こう続く。

墜ちていった穴のなかで、あなたは
冬晴れのある日
路上で起こっていたのに誰も気がつかなかった無音の惨劇を
もう一度、初めから終わりまで見たはずです

 「墜ちる」という動詞が繰り返され、「あなた」が繰り返される。その「あなた」の繰り返しは、常に「過去」へ戻ろうとする。
 「冬晴れのある日」で始まって、また「冬晴れのある日」。時間が循環する。この循環が、すべてが「あなた」の内部で起きたこと、意識のことがら(意識としての追体験/追体験の意識)であると告げる。
 幻想であるにしろ、錯覚であるにしろ、虚構であるにしろ、それは「意識」であり、「意識」は反復する(繰り返す)ことしかできない。
 ここから、浜田の詩は、意識をテーマにしていることがわかる。
 さらに、浜田の意識は、視覚を中心に動いていることもわかる。「見る」と「無音」の対比が浜田を動かす。視覚に集中する。そのとき、浜田の聴覚は閉ざされる。

 「沈む水球」を読むと、「さえずりは一瞬にして炸裂する。ルー、リリュ」というような「聴覚」を刺戟することばもあるが、そこに書かれている音は、私には「炸裂」そのもの、中心をうしなったもののように感じられる。他の感覚と融合していない。「視覚」と「聴覚」が拮抗しているというとらえ方もあると思うけれど、私には「感覚の協力/融合」というよりも「離反」の方が強く感じられる。

 これに比べると、「冬晴れのある日」の方は統一感がある。「あなた」という「人称」が世界を統一しているのかもしれない。
 「沈む水球」には「私」、あるいは「あなた」という「人称」が登場しないせいかもしれない。
 そうだとすると、「冬晴れのある日」の作品でもっとも重要なことばは「あなた」だったのかもしれない。
 「あなた」とは誰か。

 「静かな村」の一連目。

森のなか 七月の校庭に
むらさき色の夕暮れが下りてくるころ
遊び疲れた子どもたちは めいめいが
めいめいに背を向けて 四方へ散らばっていく
そこにはいつも だれかがいる
じっと動かず立っている
もう一人がいる

 「あなた」とは「だれか」であり、それは「もう一人」なのだ。「もう一人のあなた」。それは「背を向けて」離れていく「だれか」でもある。「私」のなかの「私に背を向けて」離れていく「もう一人の私」。
 これはもちろん「意識」の世界である。
 41ページに、こんな二行がある。のことば。

あなたには気づけない
それがわたしという存在の証し

 これは、他の浜田のことばと比較するとき、とても刺激的だ。
 「あなた」を「わたし(私)」は「見ている」。何度も何度も見ている。けれども、浜田は「気づけない」という。「気づけない」とは「意識」に取り込むことができないということだろう。
 「あなた」を「わたし」として言語化できない。あるいは「わたし」を「あなた」としてしか言語化できない。言い換えると「わたし」を「わたし」としてことばに定着させようとするとき、「違和感」がある。その「違和感」に対して「正直」であるとき、ことばのなかに不思議な「乖離(あなた)」のようなものが始まるということ。その「乖離」をことばで追うことが、浜田の詩という「行為」になる。
 38-39ページの二行。

わたしはわたしのなかに
ひろがっていく影を感じます

 この「影」は「影」のままにしておくのがいい。「冬晴れのある日」のようにビルから落ちる影でもいい。
 「静かな村」では、強引に「影」に輪郭を与えている。

夜の閾(いき)で 痩せた母が陣痛に耐えている
乗客のいない終列車が 鉄橋を渡っていく
だれもいない校庭 ざわめく森が息をひそめる
月光の素足が 青い桔梗の露にかがむ
明け方にちかく 森の上に現われて
昇らないまま消えていった
二つの星

 これでは古くさい「抒情詩」になってしまう。
「形」のないものを「形」のないままに書くために、反復(繰り返し)がある。「繰り返し」のなかで「動き(動詞)」が形(軌跡)になる。それは目に見えるが、目に見えない。「肉体」で追認するとき、「肉体」の内部で甦るものだ。
 一方でそういうものを「意識」しながら、「静かな村」の最終連のようなことばになってしまうのは、なんだかよくわからない。「静かな村」の最終連は浜田の「原体験」なのかもしれないが、それに頼らない方が意識の運動がなまなましくなるように思う。


哀歌とバラッド
クリエーター情報なし
思潮社

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