詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』

2022-07-28 15:24:57 | 詩集

瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』(思潮社、峯澤典子『微熱期』(思潮社、2022年07月04日発行)

 瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』の「夜の準備」。その書き出しの二連。

ここからは崖の上に止まっている大きなトラックがよく
見える 夕刻になるとあの崖上に戻ってくるのだが 少
し前に進むだけで崖から落ちてしまいそうだ そんなぎ
りぎりの場所で いつも夜をすごしている

昼の間はどこかへ作業をしに行っているのだろう 溶け
たものを運びつづけているのだろう 恨みや妬みを溶か
して 言葉が重く揺れてうねる 悪路でトラックは跳
ね 荷台からこぼれたものは路上に点々と跡をつける

 とてもおもしろいと思った。
 しかし、このあと「言葉」は、この詩のなかでは動かず、「幼い日」や「姉」が登場する。それを出すくらいなら、二連目でやめておけばいいのに。
 そんなことを思っていたら、「言葉屋」という詩が出てくる。

昔は大通りのあちらこちらに言葉屋があった そのころ
は誰でも言葉屋で好きな言葉を買うことができた その
言葉をつかって街の人たちは会話を交わすのだった

 ぼんやりと読んできたが、「夜の準備」の「夕刻」や「運ぶ」に関連することばが静かに詩のなかに隠れていることに気づいた。どこかにとどまるのではなく、動いていく。何かを運んでいく。そのとき、何かを「こぼす」。こぼれてしまうと、それはトラックの荷台にあったときとは違うものになっている。瞬間的に違うものになるのではなく、少しずつ変化していくのだ。
 「言葉」は「扉を閉ざして、人々は」という作品では、「形容詞や接続し」に変化しているし、「トラック」はセールスマンの「鞄」に変わっている。「湖のほとりで」では「言葉」は「眼球」になっている。
 「眼球」はもっと早く登場するが(「拾う男」)、この詩のなかで「言葉」と緊密に結合する。他の「水」や「男」も、この詩で明確に結びつく。
 この「言葉」から「眼球」への変化、そのたのことばの結びつきと揺らぎに、瀬崎の今回の詩集の「意味」のようなものが凝縮しているのだが、私はそれについては書かない。「意味」は書いてもうるさくなるだけだ。要約は、したくないのである。
 次の部分がいいなあ、とだけ書いておく。

湖にただよいつづける眼球の網膜には 最後に見た風景
がのこされている 眼球が水面でたがいに打ちつけ合っ
ているあいだに 焼きついていた風景の角はとれてい
く ものごとの輪郭はあいまいになり なごやかなもの
へと変わっていく 棄てられて 責められることから解
き放たれた風景だ

 「眼球」を「言葉」と読み直せば、瀬崎の向き合っている「詩」というのがわかる。「詩」は「ことば」でしかありえないものであるということがわかる。

 


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