津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■ご恵贈御礼「郷土史誌かわら 第九十集 ー特集 潜伏キリシタンー」

2020-10-14 17:19:40 | 書籍・読書

                    

 北九州在住の「小倉葡萄酒研究会」の小川研次さまから、この郷土史誌をご恵贈たまわった。あつく御礼申し上げる。
氏は九州でおひとりの名誉ソムリエである。細川小倉藩で作られた「日本初の葡萄酒」についてのご研究や、細川家関係のキリシタンに関するいくつかの論考は、冊子にされたりまた原稿をお送りいただき当サイトでもご紹介してきた。
今般のこの郷土史誌にも「田川郡キリシタン小史~キリシタン史料による一考察」を出稿されている。
これは当ブログでもご紹介したことが有るが、このような立派な冊子となると、改めて読み返すにあたり身じまいを正す感じがする。
ほかにも、全国かくれキリシタン研究会会長の安東邦昭氏の「香春キリシタン史私考」、上野焼宗家12代の渡仁氏の「上野焼物やまとその周辺に伝わるキリシタンの考察」など素晴らしい内容で盛り沢山である。
昨夕拝受し、就寝時間を少し延長して読了した。

 現在私はこのブログで「細川小倉藩」をご紹介しているが、これは元和末期から寛永初期(現在二年)までであり、
この冊子で紹介されているような濃密なキリシタンの匂いは伺えない。
しかしながら、細川家にはキリシタンの匂いはついて回っているように感じられる事柄も見受けられる。
先に熊本の某お寺から見つかった御位牌などは、明らかにクルスが認められたが、胡粉で塗り隠されていた。
細川九曜紋が見受けられるが、戒名からもどなたであるか解明に至っていない。
家臣団には転び切支丹の数も多く見受けられる。
熊本においては、細川氏のキリシタンの歴史はあまり語られることはないが、小倉時代のキリシタンの歴史の多様さを感じざるを得ない。
勉強不足をおおいに気づかせてくれる佳書であった。

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■細川家根本家臣・沼田家のこと

2020-10-14 08:50:48 | 人物

 熊本日々新聞のOBであられるTI様から、同僚であられた沼田家の当主の沼田富士彦様の訃報をご連絡いただいた。
熊本大地震では甲佐のご自宅が被害をうけられ、怪我をされたと人づてにお聞きしていた。まだ67歳というお若さである。
富士彦様は嫡家のご当主だが、私は高祖父の関係で分家(門太家)の血をわがDNAの中に少々持っている。
親しく御目にかかりお話をしたことはないが、奇妙な親しみを感じてきた。

 沼田家は遡ると平の将門を討ち取った藤原俵太秀郷に遡る。後裔支族が大変多いがその中に相模国に沼田氏の名を見ることができる。
近世沼田氏と細川家のかかわりは何といっても細川幽齋公の夫人・麝香が際立つ。父・光兼に至る数代は若狭の熊川の城主であった。光兼は足利将軍家に仕えていたから、ここで幽齋とのかかわりが見えてくる。嫡男・光長が足利義輝生害のときに討死しており、沼田家は弟・清延が当主となり義昭に仕え(詰衆)たが、後細川家客分となり丹後中山城を預けられた。
まさに細川家を支える根本家臣である。そのことは、その屋敷が城内二の丸の、熊本城の西大手門の目の前にあることをして、三卿家老に続く細川家重臣として認識されていたことを物語っている。

初代・清延は通称・勘解由左衛門、その後の嫡家当主は代々勘解由を名乗っている。
2代・延元が忠興に仕え高麗陣や岐阜城攻めに活躍、忠興の豊前入国後は門司城を預かり5,000石を拝領し長岡姓を賜った。
この時代に表された「沼田家記」は、剣豪宮本武蔵の真の姿を知るうえでの貴重な資料として知られている。
3代・延之は家老職を勤めたが、若くして亡くなった細川光尚の子・六丸(綱利)の54万石の家督相続について松井寄之と共に江戸へ下り、幕府に対して尽力し、細川家の継続を勝ち得た。延之は松井寄之の生母(忠興側室・真下氏)を妻に迎えて居るという奇縁でもあるが、継室ででもあろうか。
嫡子・延将は別録500石を拝領して江戸證人となったが、後嫡家4代目当主(5,000石)となった。
次弟・延晃も兄同様江戸証人となったが明暦三年に帰国の上、別家(清人家)を興した。
三弟・延春も二人の兄同様江戸証人となっているが、延將の分知を受け、これも別家(門太家)を興した。この家の9代目九八郎女が我高祖父・上田久兵衛に嫁いでおり、長女・晩稲が我が家の曽祖父に嫁いできた。
以降夫々が明治に至っている。
 長い藩政史上においても家老職や備頭など重要職について細川家を支えているが、現代においても沼田家のご当主として毎年七月六日、熊本安国寺で挙行される恒例の「四つ戦難供養供養」の法会には必ずご出席されていた。
     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)
常に細川家を温かく見守る本当の意味の根本家臣としての沼田氏を感じている。

            拙い小文を富士彦様のご霊前に呈す。合掌。

コメント (3)
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■細川小倉藩(376)寛永六年・日帳(閏二月十日~十一日)

2020-10-14 06:48:22 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年閏二月)十日~十一日                

         |       
         |     十日  安東九兵衛
         |                                       (村上景則)
村上景則返納ノ借 |一、金子喜左衛門尉被申候は、昨日春木金太夫・沢治吉右衛門尉所より書状被差越候、長岡河内殿借
米ハ金山ニハモハ |  米ノ儀は、もはや御金山二御用ほとは御米納り申候間、御山ニは入不申候由、申越候由被申候
ヤ不用      |  事、
         |                                         (沢村大学)
清水社ノ修理作事 |一、河田八右衛門尉被申候は、清水ニ繕作事有之所御座候、尺ノ木なとも入候儀共御座候、大学殿被
殿様ノ木ノ取替  |  仰候は、尺の木なと入候は、先 殿様ノ木を取替候而つかひ、以来清水米を取候様ニ候ヘハおな
清水米ノ扱方   |  し事にて候間、左様仕候而可然之由、大学殿被仰由を承及申候、是は悪敷ヵ有之かと存候、作事
         |  なとのためニこそ清水米有之儀ニ候間、右之米にて作事ニ遣候而可然存候由、八右衛門尉被申
         |  候、一段其通にて候間、弥々大学殿へも被仰届候而しかるへく候由、申渡候事、
小倉領ノ米中津領 |一、塩飽や伝次中津ゟ罷帰候由にて、登城仕申候は、先日爰元御米、中津御領之廻船ニ御積せ候、御せ
ノ廻船ニ積ミシ故 |
詮索厳シ     |  んさく殊外きび敷御座候而、船頭ともをも長岡河内所へ被召籠、御せんさくにて候、 三斎様被
三斎誰ノ命ナルカ |  仰出候は、小倉ノ米を、中津御領の舟ニて、何かし申付候而つませ候やと 御意候、中津船頭と
ヲ尋ヌ 石舟ハ迷 |  も申上候は、塩飽や伝次を頼申候而、江戸廻りの御米積申候由申上候、右ニ御石舟ニ参申事は迷
惑故米運送ヲ望ム |  惑之由申上候て、御米を積申候事、中津町奉行衆へも不相尋つミ申、右ニ江戸へ参申事迷惑と申
         |  候儀偽ニ 思召候由 御意候、されとも、御米は積廻シ候へと、被仰付候而相済申候、前かと中
         |  津舟ニ御つませ被成候ヘハ、到津善兵衛江戸にて小倉ノ御米五石借り申候而、小倉へ終ニ返上不
船帳       |  仕候ニ付、中津舟ニ御米御積せ不被成候ニ付、今度ハ中津町奉行衆ゟ、船帳を作り、添状被仕、
         |  小倉へ被遣候ニ付、今よりハ船頭とも如在有儀候ハヽ、如何様ニも可被仰付候とのかたかき、中
中津領ノ船ニ小倉 |  津町奉行衆被仕候、中津御領分の舟ニ小倉御米御つませなきハ、到津善兵衛借り申米サヘ返上
領米ヲ積マヌハ到 |    (故脱ヵ)
津善兵衛借米返上 |  不仕候、とかく御米つませてハ不入由、小倉御奉行衆被仰候通、中津船頭とも申上候ヘハ、是は
セザル故ナリ   |  尤との 御意之由にて候、とかく善兵衛にくき者にて候との 御意候、今度江戸へ参候而、江戸
善兵衛ハ憎キ者  |  御屋敷御奉行衆へ相尋候て、舟不入候間、下り候へと 越中様被仰せ候ハヽ、其時は下り候へ、若
         |  舟御用にて候ハヽ、居留り候て、御用きゝ候へとの儀、中津船頭ともニ 三斎様被仰付候由申候
         |  事、中津船頭とも伝次ニ申候は、右之通ニ御座候間、今よりハ大坂上りノ御米も、小倉舟同前ニ
         |  御つませ被成候様ニ、小倉御奉行衆へ被申候は、たまわり候様ニとノ儀伝次申候事、

         |       
         |     十一日  石本三介
         |
紫革杉原紙大坂ヨ |一、江口喜左衛門・古野大二郎大坂ゟ罷下候事、紫皮五枚・杉原壱束持下候事、
リ下ル      |
沢村吉重知行所見 |一、大学殿ゟ、使者ニて被仰越ハ、当郡ニ我等知行少御座候、今日見廻、用水とも申付度候、判共
廻ノ通知     |  仕儀候ハヽ、今日差延可申候、又江戸へ便御座候ハヽ、二三日前ゟおしらせ被成可被下由、被仰
         |  越候、返事ニ、差当り次而儀も無御座候間、御出可被成候、又江戸へ便御座候ハヽ、御左右可申
         |  由申候事、
         |  (智仁親王)         (長岡孝之)
八条宮ヨリ休斎へ |一、八条様御内山田将監ゟ 休斎様へ被進候大事の書物ノ由にて、しふかミ包弐つ参候、則古野十二
大事ノ書物来ル  |  郎二持せ、差上申候事、
         |                                 (岐脱)
多賀不動院ヨリ音 |一、多賀不動印僧正ゟ 殿様へ被進杉原市束、江口喜左衛門被持下候、林隠へ被相渡候へと申渡候
信        |  事、
         |                (正直)    (慰英)   (清忠)  (重嘉) (成政)
朴西堂ノ算用皆済 |一、朴西堂ノ金銀米悉払、河喜多五郎右衛門・仁保太兵衛、西郡刑ア・横山助進・坂崎清左衛門被仕
借状ヲ取戻ス   |  置候借状取戻し候て、粟野伝助・豊岡甚丞方へ、大坂ゟ下、右両人請取被申候事、
         |                     (勝氏)
三斎へ米一万石ノ |一、中津へ被進候御米壱万石ノ御借状、平野治部左衛門尉ニ渡ス、(花押)
借状ノ請取署判  |

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