津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■代継神社と新代継橋

2020-10-09 13:27:07 | 徒然

                

 代継神社は現在は立田山にあるが、以前は「新代継橋の際」に在った。(熊本市本庄3丁目)
熊本大学医学部の附属病院の西側の道を挟んだ反対側にあったが、私も記憶が定かでなく、どのような広さでどのような社殿が建っていたかなど良くわからない。
ここに出来たばかりとも思われる新代継橋の写真がある。大正6年の架橋だそうだが、かっては「病院橋」とも呼ばれていたようだ。
よく見ると道路が突き抜けておらず、代継神社の姿もうかがえない。
なんとも狐につままれた思いだが、この橋は昭和28年の水害では、多くの橋と共に流失した。
昭和34年ころに現在の橋が出来上がっているが、その橋の本庄町側に間違いなく「代継神社」が存在していた。

 そういえば、水害後の白川の流れの中に、古い橋の残骸(木杭のようなもの)がいくつも残っていたことを思い出した。
どうやら、同じ場所に架け替えたのではなかったようだ。古い資料をあさっていたら、やはり病院の広い敷地の背中にあたる部分にあたっている。この写真に見える建物は橋を渡った処が入り口だったようだ。(現在は反対側)
この写真よりも下流側の「代継神社」前の道路を延長する形で、現在の「新代継橋」は架けられている。

 代継神社は古い歴史を持つ神社で、細川家の国元屋敷「花畑邸」がかってのその場所である。
四本のクスノキが神木として社殿の周りに植えられており、「四つ木神社」の名がつけられた。
加藤清正が熊本城の築城に当り、神社を眼下にすることをはばかり、白川の川向うに社地を定めて移転させたといわれる。
花畑邸の一画「花畑公園」のなかに一本のクスノキの巨木があるが、これがまさに四つ木神社の御神木の生き残りである。
光尚公が若くして亡くなられ、若干6歳の六丸(綱利)が無事お代継ぎできたことに対し、のちに綱利が社名を改めさせたといわれる。

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■細川小倉藩(371)寛永六年・日帳(閏二月朔日~ニ日)

2020-10-09 06:56:52 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年月)朔日 ~二日                

         |       
         |     朔日  石本三助
         |

         |                                      (徒)
高瀬ノ渡舟ノ修繕 |一、矢野勘右衛門登城二テ 被申候、高瀬の渡舟繕仕ニ、六寸角五本入申由申来候、かちにて持せ候
用材ノ回漕ヲ指示 |                  付         (白井)
ス        |  ハヽ、人数三十人ほと入申候、被仰被下由申しス籠間、兵助ニ被申、先日のことく、舟ニて廻被申
         |  候へと申候事、
         |                               (金子)
掃除坊主死亡届  |一、細長斎被申候ハ、御さうし坊主玄斎一昨日病死仕由、申候事、則喜左衛門ニ申渡候事、
         |一、御小人の五助・清三郎登城仕申候ハ、去十二月十四日ニ小倉出船仕、■江戸へ参候時、請取持上
         |  り申候御状不残、織部入佐ニ、御下屋敷ニて渡候由申候事、
         |               (築城郡)
寒田牧山ニ駒産ル |一、坂井忠三郎より被申越候は、寒田御牧山御番衆ゟ申越候は、御牧山の馬子を壱つ生申候由、申越
山焼       |  候、幷御牧山焼候時分も参候間、御やかせ候而被下候様ニとの申事にて候間、御やかせ候様ニ被
         |  仰付候テ可被下候由、被申越候事、
         |   (昭知)
家奉行衆ノ引渡ヲ |一、三淵内匠殿御登城候而被仰候ハ、小袋九兵衛儀、妻子共ニ爰元主家ニ罷居候処ニ、家を早々可請
求ム       |  取由、御家奉行衆被申候、家を早々渡候ヘハ、借やハ不罷成候、然上ハ外ニ居申外無之候、如何
         |  存候間、たれ人ニも家渡候迄ハ、先御かし置候様ニと被仰候、罷成間敷由申候事、
火鉢鋳造ノ奉行  |一、御火鉢鋳させ申候御奉行登城ニて申候は、御火鉢鋳申候ニ付、入候諸道具、其外形なた仕候ため
定手伝ヲ要ス   |  ニ、手伝入申候間、定手伝壱人被仰付候而被下候様ニとの申様ニ付、御小人之内壱人申付候間、
         |  則火鉢の御奉行御小人小頭所へ被参候而、御奉行衆被仰候との儀申候而、御請取候へ之由申渡候
         |  事、

         |       
         |       安東九兵衛
         |
         |            (規矩郡)
鉄炮足軽二百人給 |一、御鉄炮衆弐百人給知、吉志村をのけ、相残在所わりつけ可申由、喜左衛門・新兵衛と談合之由ニ
知ノ処理     |  而被申候、給知ニわりのけ被置候古参の御鉄炮衆上地ノ内を、いつれの在所ニても相残、御給知
         |  取のぞミ申所を遣被申候様ニと申候へ共、不成申候、然上ハ如何様とも可被仕候、御ためと存申
奉行ノ指図ヲ背ゼ |  候へ共、我等共さしづのことく不成上ハ、古志村をのけられ候儀も、此方へ被仰聞儀ニて無之
ズ        |  候、少も此上はさしづ不仕通、喜左衛門ニ申渡候事、
         |            (塩飽、讃岐那珂郡)    (粟野)(豊岡)
塩飽船ノ借入調ハ |一、石松作内と申御船頭、しわくへ舟かりニ、伝助・甚丞ゟしわくや伝次状被取、遣申候へ共、舟壱
ズ  壱艘モナシ |  艘も無之由ニて罷下候事、
         |                   (田代)
絵書二左衛門田代 |一、絵書二左衛門尉儀、御座敷之絵之様子等甫ニ尋ニ参候処ニ、から帋其外持せ、中津へ参候へ、様
等甫ニ座敷ノ絵ノ |  子申付、書せ可申由申候通申、罷帰候、等甫ゟ我々へ之状も参候事、
様子ヲ尋ヌ    |
本丸ノ植木ノ手入 |一、御路地野善吉をよひ、御本丸ノ御うへ木之こへ・日おゝい、又ハさうち已下、時々見廻無由断仕
掃除等ノ管理ヲ路 |  候へと、申渡候事、
地ノ善吉ニ命ズ  |
         |  (沢村吉重)
         |一、大学殿御登城にて被仰候ハ、当地御作事万事御物入之儀、大学存寄候分ニ被仰付候様ニと、江戸
忠利地震屋ノ作事 |  へ被得 御諚候ヘハ、御地震屋之御作事之外ハ、先被成間敷旨被成 御書候間、可得其意由被仰ノ外ハ止ム    |  候、心得申候由申候事、
         |(ママ)
         |一、

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