代継神社は現在は立田山にあるが、以前は「新代継橋の際」に在った。(熊本市本庄3丁目)
熊本大学医学部の附属病院の西側の道を挟んだ反対側にあったが、私も記憶が定かでなく、どのような広さでどのような社殿が建っていたかなど良くわからない。
ここに出来たばかりとも思われる新代継橋の写真がある。大正6年の架橋だそうだが、かっては「病院橋」とも呼ばれていたようだ。
よく見ると道路が突き抜けておらず、代継神社の姿もうかがえない。
なんとも狐につままれた思いだが、この橋は昭和28年の水害では、多くの橋と共に流失した。
昭和34年ころに現在の橋が出来上がっているが、その橋の本庄町側に間違いなく「代継神社」が存在していた。
そういえば、水害後の白川の流れの中に、古い橋の残骸(木杭のようなもの)がいくつも残っていたことを思い出した。
どうやら、同じ場所に架け替えたのではなかったようだ。古い資料をあさっていたら、やはり病院の広い敷地の背中にあたる部分にあたっている。この写真に見える建物は橋を渡った処が入り口だったようだ。(現在は反対側)
この写真よりも下流側の「代継神社」前の道路を延長する形で、現在の「新代継橋」は架けられている。
代継神社は古い歴史を持つ神社で、細川家の国元屋敷「花畑邸」がかってのその場所である。
四本のクスノキが神木として社殿の周りに植えられており、「四つ木神社」の名がつけられた。
加藤清正が熊本城の築城に当り、神社を眼下にすることをはばかり、白川の川向うに社地を定めて移転させたといわれる。
花畑邸の一画「花畑公園」のなかに一本のクスノキの巨木があるが、これがまさに四つ木神社の御神木の生き残りである。
光尚公が若くして亡くなられ、若干6歳の六丸(綱利)が無事お代継ぎできたことに対し、のちに綱利が社名を改めさせたといわれる。