津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■熊本城三の丸の領域

2020-10-11 13:51:59 | 歴史

 三四か月前の史談会で、会員のMさんが熊本城内にある「三の丸駐車場」という名前について疑義を呈せられた。
三の丸の領域が定かではなく、何気にそうだよな~という雰囲気で話は終わった。

2017年3月末に発刊された、永青文庫研究センター年報・第8号の後藤典子氏の論考「細川忠利期における熊本城普請-近世初期の城普請・公儀普請・地方普請-」を読んでいたら、この「三の丸」の文言が登場してきて、ますます頭を混乱させている。
        
   一、(略)
   一、ニ之丸と三ノ丸之間ニ弐百弐拾壱間(約400m)、水おとしのみぞ御座候、ふかさ壱間又ハ弐間余も御座候、事外
     わきそこね候間、はゝ三間ニ仕、みぞわき石垣ニ仕度奉存、
   一、熊本しまり不申ニ付而、三之丸しめの事、口上ニ申上候、但、此儀者不入様ニ思召候ハヽ、被得 御諚間敷候事、
                       (寛永11年)三月十七日付 願書の覚「御自分御普請」分・下・四五)

 このことについては幕府から4月14日付で願書の通り老中からの奉書が届いている(略す)。

又、天草島原の乱の後始末が多忙の中、忠利は、熊本城下から川尻を結ぶ井手を拡幅し高瀬舟が通れるよう浚渫することの願を出している。これと同時に坪井川の浚渫も併せて願出た。

       
   一、(略)
   一、熊本の城、三之丸之内を坪井川と申小川ながれ申候、町人其外用のため、常に此川のすなを取、用をかなへさせ申
     度候、所ニより水のたまりハふかき所も御座候、其外はひざぶしだけも無之程のすな川にて御座候、城之内をなか
     れ候川にて御座候故、申上事ニて御座候、何も肥後へ御下之衆御存知たるへき事、
                       (寛永16年)六月朔日付 口上の覚「御自分御普請」文・下・四五)
 このことについては七月十二日には許可が下りている。川浚え等は届け出の要はないとでもいう感じではある。

 さて本題、これらの文章から、「三の丸」が何処に存在していたのか、推測しろと言っても無理な話ではある。
「三の丸」の領域について御存知の方がおられればご教示を乞いたい。

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■細川小倉藩(373)寛永六年・日帳(閏二月五日~六日)

2020-10-11 06:22:52 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年閏二月)五日 ~六日                

         |       
         |     五日  安東九兵衛
         |

         |一、昨日七つ時ニ、下毛郡御代官野村兵左衛門所ゟ、飛脚にて申越候ハ、木村九郎兵衛方此中知行所
         |  ニ被居、被相煩候処ニ、去二日八つ時分ニ被相果候由申来候、太郎左衛門も知行所ニ居被申ニ
         |  付、拙者ゟ注進申上候由、申越候事、
         |一、安同弥次右衛門方住江・■佐田手前ノ御算用可承届之由■■被仰下候ニ付、昨日罷出候由にて、
         |  戸上被仕候事、
         |
加々山可政唐紙借 |     被借下唐帋之事
用証文案 二百枚 |    合弐百枚也
         |   右ハ近日御申仕二付而、上方へ申遣候へ共、此度げ不申候間、御奉行衆へ申候ヘハ、御かし可
         |   被成申候、上方ゟ下り次第、急度上納可仕処如件
         |                    (可政)
         |    寛永弐年十二月十五日     かゝ山主馬判
         |   右当分ノ用候間、御かし可有候、重而返上被仕時、
         |   此切手返し可給候、以上金子判
         |                  (異筆)(喜左衛門)
         |        竹村弥右衛門殿   「裏判金子・中神也」           
         |        林   角  兵  衛殿        (與兵衛) 
松井興長寸鉄録ヲ |一、式ア殿ゟ、江戸へ御使者被進候、其使者罷帰候ニ、すんてつろくと申書物壱冊、式ア殿へ被遣
下賜サル     |  候、則式ア殿内西村太兵衛ニ渡、(花押)
有吉英貴モ同ジク |一、右同書物壱冊、有吉頼母殿へ被遣候、頼母殿内山田八兵衛ニ渡ス、(花押)
下賜サル     |
         |           (興昌)
請取署判     |一、加々山主馬所へ、細川玄蕃様御内岡平兵衛所ゟ参候扇箱ノ様なるしふかミ包壱つ、加々山主馬殿
         |  内山内市兵衛ニ渡ス、(花押)
         |               (美弥郡)
母ノ病気見舞ニ休 |一、阿野新右衛門尉申候は、私母長門国伊佐と申所ニ御座候、以外相煩申候間、往来十日ノ御暇被下
暇願       |  候様ニと被申ニ付、書物ヲ仕せ、林理右衛門・山田善兵衛請人ニ相立させ、書物を取置、十日隙
         |  遣候事、

         |       
         |     六日  加来次郎兵衛
         |

大雨大風     |一、今日ハ殊外大雨大風仕候事、
惣銀米奉行大坂城 |一、去年大坂御普請之惣銀之御算用、今日より取懸り申由、中神與兵衛被申候事、
普請ノ惣銀ノ算用 |
ヲ始ム      |
地震屋ノ材木   |一、紙屋忠兵衛、昨日罷下候由にて登城仕候、御材木も御地震■屋の御材木斗を先買下シ申候由申候
         |  事、
下毛郡奉行木村九 |一、小崎太郎左衛門ゟ、書状ニて被申越候ハ、木村九郎兵衛儀相煩、今月二日八つ時分ニ死去仕由之
郎兵衛病死    |  状、酉ノ刻ニ着、拝見仕候事、

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