津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■ご先祖様は忍者?

2020-10-05 12:49:15 | 侍帳

 侍帳の改定作業の中で、「忍者」のお宅に出くわした。
底本としている侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。

              拾五石五人扶持     吉田助右衛門
              同           野田喜兵衛
              知行五十石       沢 吉右衛門
              拾石二人扶持      福川小右衛門
              同           松山小兵衛
              同           下川嘉兵衛
              同           上野又右衛門

寛永十年忠利はなぜか忍之衆の増員を言いだしている。

       ■      覚
         一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
              寛永拾年九月十日       
       ■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
         一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印

上記7人のリストの筆頭に在るのが、これを言いつけた助右衛門である。
森田誠一氏は「伊賀・甲賀資料」から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。
上の表と重複しているのは沢・福川・下川の三家だから都合22家ということになる。
又、光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
名前は残っているが、この様にほとんどが扶持米取の家だから、先祖附が遺されていない。
幸い先祖附が残るのは、松田・吉村・野田・上野、山中・黒川でありある。但、忍者と明記されているのは黒川・山中の両家のみである。

野田喜兵衛なる人物については、熊本史談会の長老K氏が「家内の実家は野田、忍者です」とよく言われていた。綿考輯録には次のように記されている。

         天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
         丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
         迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
         めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
         ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
         子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
         三斎様御詠歌
            天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
         右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり      (綿考輯録・巻ニ十六)

天草家の家老を勤めた野田喜膳(後・喜兵衛)が忍者とは驚きだが、そのいきさつは良くわからない。
わが「新・肥後細川家侍帳」にどう反映させようかと思案している。

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■細川小倉藩(367)寛永六年・日帳(二月十九日~廿日)

2020-10-05 06:50:24 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年二月)十九日 ~廿日                

         |       
         |     十九日  石本三介
         |

中津ヨリノ来状  |一、三斎様ゟ 殿様へ之御返書の御文箱壱つ、同稲葉丹後様へ被進御文箱壱つ、水夫ちやあゟてん八
         |  殿御申と有之文箱壱つ、槇嶋云庵・一色木工・佐方宗佐ゟ坂崎清左衛門への披露状ノ文箱壱つ、
         |  永良宗茂ゟ永良長兵衛事へ之状壱つ、右之分夕ア、中津ゟ持せ被下候事、
飛脚へ京銭ノ供与 |一、江戸ゟ中津へ被進之御飛脚弐人ニ、京銭壱貫文つゝ被遣事、
         |一、今日江戸へ参御鉄炮衆佐分利兵大夫与矢野少介・伊藤金左衛門与村上次左衛門、右両人也、
         |一、江戸へ御飛脚のせ上り候御小早ノ御船頭■■■■小出惣左衛門也、
鯨ノホリホリ 鬚 |一、鯨之ほり/\壱つ、長さ弐尺ひけ弐つ、長さ四尺いか壱つ、れんけ壱つ、但、いけり、右之前鯨
         |  つきゟ進上申由にて、小崎與次兵衛・百留忠左衛門持参被申候、
捕ヘシ母子ノ処分 |一、吉田縫殿助登城にて被申候は、昨日とらへ申候人之儀ニ付、御家老衆より被召寄、御家老衆被仰
御不断衆ノ内ニ居 |  候は、彼者之口を聞届候ヘハ、前かと御不断衆の内ニ罷居候処ニ、病者故御隙を申、其後備前殿へ
ル     病者 |  奉公仕候へとも病者故、又備前殿ゟも御暇を申、彼者ノ親松田七右衛門尉所ニ門番を仕候而居申
         |  候ニ付、おや所ニ居申候へとも、親正月ニ相果候申ニ付、別条可仕様も無御座、殊ニは歩行も
         |  不罷成、小倉にてこじきを仕候事も、皆々存たるもの斗にて御座候間、堪忍不罷成候間、清水よ
         |  りため池の様ニ罷越、ためいけニ存たるもの斗にて御座候間、彼所ニ参候而、こしきをも可仕と存
         |  候而、母一人召連罷越可申と仕候との申様にて候、母ニ手をひかれあるき申様なるものにて候
         |  間、別条有間敷候間、縫殿助切手にて御門出し遣候へ之由、御家老衆被仰候由、縫殿被申候、此
         |  方ゟノ返事、其通にて候ハヽ能御座候間、御家老衆被仰次第ニ可被成候よし申候事、
走者帳      |  右之趣ハ走者帳ニ付置候、

         |       
         |     廿日  安東九兵衛
         |

江戸ヨリ飛脚之旅 |一、江戸ゟ御飛脚、桑原主殿与永嶺兵左衛門・続亀介与尾崎善左衛門、江戸ヲ七日ニ出、大坂ニ十四
程        |  日ニ着、今日下着候、中の御使い也、
         |一、右之御飛脚のり下候御小早船頭徳嶋八兵衛也、
三斎ヘノ書状幷眼 |一、三斎様へ之 御書箱、幷御目ノ薬被進候間、右之御飛脚両人ニ持参可仕上旨、 御意之由候、
薬        |                                 〃
         |  (細川孝之)
         |  休斎様へ半井琢庵ゟ御文箱壱つ被越被進、我等へ被下候 御書箱壱つ、野田小左衛門ゟ状壱つ、
         |                〃〃
         |  飯田才兵衛ゟ状壱つ、参事、
大坂ヨリ相場付  |一、大坂ゟ、双場付二月十四日の日付にて参事、
         |  (細川光尚)
光尚ノ呪苻    |一、御六様御祈念のため、御氏神へ納ル御まじないの御■札入申箱壱つ、参候事、
江戸ノ相場    |一、江戸ノ双場ハ、壱両ニ付壱石八斗仕由、小判ハ五十六匁宛仕候由也、江戸の升ハ、御国升ニ壱石
江戸ノ升 御国升 |  ニ八升三合のびの由也、外ニ運賃入、也指引候ヘハ、石ニ付廿一匁余ニ当ル、
石ニ付廿一匁余延 |                   〃
         |一、休斎様へ、半井琢庵ゟの御状壱つ、持せ上申候事、
光尚疱瘡除ノ呪苻 |一、御六様御いも不被成御ましなひの物、中津へ持参候仁住江仁兵衛、則御ましなひの物も相渡候
         |  事、
         |                     (九郎右衛門)
蔵子ノ上リ女   |一、御蔵子小野喜右衛門娘歳十五ニ成候を、今日黒瀬・大嶋・本庄三人ニ角兵衛・太兵衛両人ニて相
         |  渡候事                    (喜右衛門)
鶴打       |一、曽根ノ源兵衛靏一つ打、上候事、                    

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