侍帳の改定作業の中で、「忍者」のお宅に出くわした。
底本としている侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。
拾五石五人扶持 吉田助右衛門
同 野田喜兵衛
知行五十石 沢 吉右衛門
拾石二人扶持 福川小右衛門
同 松山小兵衛
同 下川嘉兵衛
同 上野又右衛門
寛永十年忠利はなぜか忍之衆の増員を言いだしている。
■ 覚
一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
寛永拾年九月十日
■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印
上記7人のリストの筆頭に在るのが、これを言いつけた助右衛門である。
森田誠一氏は「伊賀・甲賀資料」から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。
上の表と重複しているのは沢・福川・下川の三家だから都合22家ということになる。
又、光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
名前は残っているが、この様にほとんどが扶持米取の家だから、先祖附が遺されていない。
幸い先祖附が残るのは、松田・吉村・野田・上野、山中・黒川でありある。但、忍者と明記されているのは黒川・山中の両家のみである。
野田喜兵衛なる人物については、熊本史談会の長老K氏が「家内の実家は野田、忍者です」とよく言われていた。綿考輯録には次のように記されている。
天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
三斎様御詠歌
天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻ニ十六)
天草家の家老を勤めた野田喜膳(後・喜兵衛)が忍者とは驚きだが、そのいきさつは良くわからない。
わが「新・肥後細川家侍帳」にどう反映させようかと思案している。