”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「沖縄(安謝)の思い出~「私の履歴書」㉒

2020年09月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り

     
    (安謝小中学校建設前の敷地・左上が建設中の1号線。中白棒地に我家建設)

 私は小学6年から琉大1年までの8年間、那覇市の安謝で暮らしましたが、これから3回に渡りこの安謝の思い出を記します。当時の安謝は那覇市と合併以前の真和志村で村長は翁長前沖縄県知事のお父さんでした。 安謝港の埋立てより、港町、曙、おもろ町・那覇新都心として栄える安謝地区は私達が移住したころは天久台地と安謝川に東西遮断された那覇市南端の飛び地のような僻地でした。安謝は戦前、中型船が直接桟橋に接岸できる吃水に恵まれた天然の良港として近海漁業の基地として栄えました。この東海岸の小さな漁港が終戦後間もないころからおよそ10年近く、米軍の基地建設景気に伴い先島、大島から職を求めて沖縄に殺到する人々が最初に上陸する港町として大変に賑わいました。埋め立てられる以前の海岸線に挟まれた猫の額のような狭い地域に運送用の荷馬車やオート三輪車がひしめき合い旅館や待合が林立しトラックを改造した「合同バス」が那覇と安謝をピストン往復した。安謝地区の歴史上もっとも賑わった時期かもしれない。このため同級生には旅館、馬車屋、バス会社、漁師の息子達がおり、また宮古や大島出身者が少なくなかったのです。 
 この安謝地区は当時,鉄条フェンスに囲まれた米軍住宅(マチナト)建設工事が進められていたが、南部の安謝川の河口に臨み急角度に傾斜するため県と米民政府は天久台地の西端を掘削した土砂で盛土して道路を建設しました。この道路幅は万一の際は飛行機が離着陸出来るような緊急軍用道路として設立されたと言われたいます。当時1号線と呼びましたが、復帰に伴い日本政府から58号線に名称変更を強要され今日に至っています。
 盛土した一号線によって安謝は東西に二分され住民がこれを横断しょうとし輪禍が絶えませんでした。まもなくこれを防ぎ人々の往来を確保するため一号線の下をくり抜いて町の東西を結ぶガードが建設される。この名物「安謝トンネル」と呼ぶ1号線下のガードが珍しく、何度も行き来しました。私は沖縄出張の時、しばしば那覇市旭橋のホテルからこの泊大橋を渡り、天久、住吉からこの懐かしの安謝トンネルを潜る1時間ほどの早朝ジョギングを楽しみます。それもこれも思い出の懐かしいこのトンネルがあればこそです。

 

 

 

 

 

 

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「小学6年、奄美から沖縄へ」~私の履歴書㉑

2020年09月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

       
                (前列中央の稲嶺校長先生の後ろが私~私を含め奄美出身は3人?)

 奄美諸島は人口減少が続き、現在6万人を下回っているようですが、昭和25年には22万人を超える史上最高でした。これは太平洋戦争の終結により、当時満州や韓国、台湾等に移住していた島出身者の帰郷が大きな要因でした。昭和22年、7歳の私も両親、妹と共に大連から奄美に引き揚げて来て、古仁屋小学校に入学しました。
 1945年(昭和20年)本土から分割され沖縄と共に米国民政府の統治下に置かれた奄美大島出身者は本土に渡航することは出来ず、許可なく鹿児島に渡るのは密航者として逮捕されました。山海に囲まれ平地が少なく米作も難しく、漁業以外の産業もなく外地引揚人口増加で貧困に喘ぐこの頃の奄美では、当時米軍統治下の沖縄に大勢、出稼ぎ移住しました。実はこのころ南北朝鮮戦争の勃発を背景に沖縄では米軍の基地建設で空前の人手不足と景気高揚があったのです。私達の出身地の須子茂の伯父、伯母、従兄姉たちも挙って沖縄に出稼ぎに行きました。

 女性達の多くは沖縄のコザ近界で米軍人相手の水商売店に務め、お盆や年末に帰郷する彼女達の華麗な服装に呆然とし“沖縄って凄いナ!”と感じました。
 私の父も昭和25年、沖縄に渡り,2年後に母と私達妹弟も沖縄に呼ばれ、安里(後の安謝)小学6年(2学期)に転校します。ところが1年後の昭和28年,私が中学1年の時、奄美大島が日本復帰し、私達は在琉許可の為、外人登録手続きを義務付けられます。以後私は琉大1年までの8年間、沖縄で暮らすことになります。当時沖縄には清水建設、大林組等の本土の大手建設会社が進出し、基地建設に携わり、これら会ト勤務先は憧れの的でした。父もこの下請け会社で働いていました。ところが、奄美の復帰に伴い、当時沖縄にいた5万?近い奄美出身の半分以上が本土に引き揚げました。
 沖縄ではよく日本による被差別問題が論議されましたが、1953年の奄美復帰から1972年の沖縄復帰までの18年間、沖縄に残った奄美出身者は公職追放、参政権、不動産所有、国費、自費受験禁止
等様々な差別を受けました。私は高校で同級生にそのことを語ったら”僕らはそんな差別をしていないよ!”と言われ、”いや、君らがそんな差別をしているのではなく、そんな制度があるんだ”と反論したら、”だったら、帰ればいいじや!”と冗談半分に言われたことがあります。では、何故私達一家は沖縄に残ったのか!

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「1953年、第1回の国費合格者」~私の履歴書⑳

2020年09月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                           
                                         (国費制度を伝える1958年の那覇高新聞)

 1953年、沖縄県で第1回の国費留学試験が実施され、合格者の3分の1は奄美出身者とのことです。当時の沖縄人口75万に対し奄美は15万で奄美出身者の合格率は5倍です。その原因は奄美出身が優秀というより、貧困奄美の立身出世カルチャーと沖縄のユイマール・カルチャーの違いを感じます。ところがこの試験終了後の53年末に奄美の日本復帰が実現した結果、この奄美出身の合格者は全て取り消されます。
 それだけではなく、奄美復帰に伴い初代の琉球銀行総裁の池畑嶺里、初代琉球開発金融公庫総裁宝村信夫、琉球電力公社総裁屋田甚助、初代副主席泉有平、初代文教局長奥田愛正達等々の奄出身要職者は全て解職されます。これは奄美の日本復帰にと伴う在沖奄美人に対する差別の一面でしたが、当時沖縄にいた奄美人は“ヤッター”という開放感に歓喜し、喜んで沖縄を離れ、それまで行けなかった日本本土へ渡航しました。当時琉球大に在学していた多くの奄美出身者も本土大学に転学しています。
 それにしてもなぜ、終戦直後沖縄の要職にこれだけ奄美出身者が占めたのか?これには当時の奄美の脱貧困、薩摩・月照の”男子志立て郷関を出る、学もし成らずば死すとも帰らず”の立身出世学歴志向を感じます。


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「奄美と沖縄」~私の履歴書⑲

2020年09月23日 | 「私の履歴書」

                           
                               (私の琉大合格を通知頂いた農学部長の泉裕巳兄さん)

 奄美諸島は人口減少が続き、現在10万人になっているようですが、昭和25年には22万人を超える史上最高でした。これは太平洋戦争の終結により、当時満州や韓国、台湾等に移住していた島出身者の帰郷が大きな要因でした。昭和22年、7歳の私も両親、妹と共に大連から奄美に引き揚げて来て、古仁屋小学校に入学しました。
 1945年(昭和20年)9月2日、本土から分割され沖縄と共に米国民政府の統治下に置かれた奄美大島出身者は親戚のいる鹿児島や大阪等の本土に行けず、許可なく渡航すると密航者として逮捕されました。山海に囲まれ平地が少なく米作も難しく、漁業以外の産業もなく外地引揚人口増加で貧困に喘ぐこの頃の奄美では、当時同じ米軍統治下の沖縄に大勢、出稼ぎ移住しました。実はこのころ南北朝鮮戦争の勃発を背景に沖縄では米軍の基地建設で空前の人手不足と景気高揚があったのです。私達の出身地の須子茂の伯父、伯母、従兄弟たちも挙って沖縄に出稼ぎに行きました。女性達の多くは沖縄のコザ近界で米軍人相手の水商売店に務め、お盆や年末に帰郷する彼女達の華麗な服装に呆然とし“沖縄って凄いナ!”と感じました。
 私の父も昭和26年、沖縄で出稼ぎしていた従兄弟に呼ばれ、沖縄に渡り3年後に母と私達妹弟も沖縄に呼ばれ移住します。以来私は小学6年から琉大1年まで8年間、沖縄に暮らすことになります。当時沖縄には清水建設、大林組等の本土の大手建設会社が進出し、米軍建設に携わり、これら会社はエリート勤務先で憧れの的でした。父もこの建設会社の下請け会社で働いていました。
 

 

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「何故、私は国費、自費を受験しなかったのか」~私の履歴書⑰

2020年09月18日 | 「私の履歴書」

     

(奄美の日本復帰後、沖縄在住奄美人として義務付けられた登録証=在琉許可書)

 先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
 ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲われていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。

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「何故、私は国費、自費を受験しなかったのか」~私の履歴書⑱

2020年09月18日 | 「私の履歴書」

        
     (1959年、那覇高同期の国費(26名),自費(41名)合格を伝える校内新聞)

 前回述べた国費、自費試験を何故私は受験しなかったというと、私にはその資格は無かったのです。1953年奄美大島が日本復帰し、当時沖縄にいた奄美出身者は外国人扱いになり、在琉許可登録(外人登録)を義務付けられました。納税義務はあれど参政権は無く、今の在日韓国人のような扱いでした。奄美出身の私は国費、自費受験資格もなく、琉大に行っても米国留学の資格もありませんでした。
 先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
 ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。 奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲われていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。

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「沖縄県の国費・自費制度」~私の履歴書⑯

2020年09月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り

             
                        (那覇高校12期1年のクラスメートと!)
先日、述べた沖縄県の「国費、自費制度」とは1953年から40年近く施行された沖縄出身学生への進学、育成制度です。毎年、県内高校生へ進学テストを行い、50人近い合格者が北海道大学から鹿児島大学までの全国国立大学に入学しました。この大学入試と授業料(生活補助)免状が国費制度で、入試だけの免除で生活費の自己負担が自費制度でした。但し、入学大学の選考権は受験者に無く、成績順に従い県から入学大を指定されます。この制度導入の背景には沖縄県の学力低下と経済的事情があったと思います。本土と沖縄の学歴差は大きく、当時の沖縄高校生の学力では本土の国立大学入試突破は難しかったのです。ただ、これは入試だけで、入学後はこれらの県出身学生は頑張り卒業・就職試験には遜色なく合格しています。その事例としてこの国費制度で東大に入学した前・仲井真県知事は通産省(工業技術院)に合格、入庁しています。国費で進学し農林、郵政、大蔵省等の中央官庁キャリアに合格したり、大学院から教授に就職した私の那覇高校同期が10数人以上います。私が高校の時はこの国費、自費進学が憧れのエリートコースで、この合格者が何人いるかが当時の県内高校のランク付けでした。この制度の設立には諸説がありますが、日本政府と繋がりが深く「琉球育英会」会長を務めた当時の大浜早大総長の貢献が大きかったと言われています。国立大向けのこの国費、自費制度以外に早稲田大学では大浜奨学制があり、毎年全学部に無試験、推薦で入学と支援金制度がありました。
  因みにこの入学試験免除(県内専攻)の国費、自費制度に対し、自ら受験、授業・生活費を自ら負担し、進学するものを私費と言っていました。当時の私達同期間では「彼は国費❓自費?私費?」と話し合った記憶が忘れられません。私はこの国費、自費ではなく私費で早稲田に進学しましたがその経緯は次回に!

 

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「琉球大(法政科)へ入学」~私の履歴書⑮

2020年09月14日 | 「私の履歴書」

  
               ( 那覇高校同期と!~真ん中の私(^○^))

 昭和34年那覇高を創業した私は当時首里城敷地内にあった琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ!」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。
 この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に鹿児島大農学部卒でした。この泉さんは当時父が経営を委託されていた「南西鉄工場」のオーナーでした。
 今思うと学部長とはいえ、この入試情報を良くまあ遺漏と当時の大学の情報管理の甘さを感じます。私はこの「琉大法政一番合格」を聞き、喜びより,
”えー!なんで私が!”と驚きまました。と言うのは私の高校同期のライバルは当時の沖縄県の国費・自費制度によって、九大、阪大,徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科大等々に進学し、琉大受験はこの国費、自費の落ちこぼれの一面があったのです。琉大合格者の何人かは翌年、また国費、自費に受験する予備校の一面もありました。私はなんだか「落ちこぼれ組の一番」のような気分になり、授業には出ず翌年の早稲田受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりし、結局琉大を一年で辞めることになります。ここで触れた国費、自費制度と当時の琉大については次回!

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「琉大を一年で退学した背景と経緯」~私の履歴書ある⑱

2020年09月12日 | 「美ら島沖縄大使」便り

       

    (私が入学した首里城跡にあった琉球大学)  

 先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
 ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。 奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲わていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。

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「川崎駅・石敢當県立50周年記念式典」に参加しました。

2020年09月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り

            
 先月末、コロナ蔓延を押して川崎駅前で開催された「石敢當建設50周年」記念に行って来ました。「石敢當」とは古来中国・沖縄各所で建立されている魔除・来幸の記念塔ですがこの川崎の記念塔は昭和34年宮古を襲った台風見舞いに川崎市から宮古に送られた義捐金への御礼として宮古市から川崎市に送られたものです。この日は川崎市長や市議会長、沖縄県東京事務所長、宮古郷友会長やこの石敢當建立に尽力した故・古波津英興の義甥に当たる新垣進関東沖縄経営者協会長等の挨拶がありました。(公益財団法人)「沖縄協会」からの祝辞にはビックリしましたが、これは協会の前身である南方同胞救援会の渕上会長が義援金贈呈に立ち会った縁とのことでした。    
        

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「琉球大学受験」~私の履歴書⑭

2020年09月09日 | 「美ら島沖縄大使」便り

   
     (琉大合格~当時の首里校舎・志喜屋図書館前で) 

 昭和34年私は那覇高校を卒業し当時の首里城の敷地内にあった琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に鹿児島大農学部卒でした。この泉さんは当時父が経営を委託されていた「南西鉄工場」のオーナーでした。
 今思うと学部長とはいえ、この入試情報を良くまあ、遺漏と当時の大学の情報管理の甘さを感じます。私はこの「琉大法政一番合格」を聞き喜びより、”えー!なんで私が!”と驚きました。と言うのは私の高校同期のライバルは当時の沖縄県の国費・自費制度によって、九大、阪大徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科大等々に進学し、この琉大受験はこの国費、自費の落ちこぼれの一面があったのです。琉大に合格者の何人かは翌年、また国費、自費に受験する予備校の一面もありまし、た。私はなんだか「落ちこぼれ組の一番」のような気分になり、授業には出ず翌年の早大受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりしていたら、結局琉大を一年で辞めることになります。ここで触れた国費、自費制と琉大については次回!

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「何故、埼玉に住んでいるの?」~私の履歴書⑬

2020年09月02日 | 「私の履歴書」

   
    (昭和40年、埼玉県北本市の一戸建て住宅購入、移住)

 首都圏在住の沖縄、奄美出身者の多くは鶴見・川崎等に住んでいますが、時に「重田さん、どうして埼玉に住むようになったの?」と聞かれ、我と我が身の経緯を振返りました。満州、奄美、沖縄、東京と漂流した私は大学も琉大、早稲田、中央大、東大(新聞研)を転々。とは言え、卒業したのは早稲田だけ。琉大は1年、中央大(第2学部)、東大(新聞研)は数カ月で中退。その経緯は後程。職業は新聞記者、公務員、コンサルタント、IT会社経営と転職の経緯も後程。琉球新報東京支社の記者を1年で辞め、関東行政監察局に転じ、浦和の行政監察事務所に配属され京王線・上北沢から3年通いました。その節、沖縄の両親を呼び寄せるべく、埼玉県が北本市に住宅団地を建設、分譲することを知り、購入申し込みをしたのですが、庭付きの一戸住宅で購入競争が激しくなかなか(´Δ`;)そこで上司に相談した所、何と県担当者に掛け合い?購入することができ、両親と妹弟を呼び寄せ、成婚、以後その北本に5年間住むことになりました。ここで両親を送り、北本の寿命院墓地に両親の墓を建立しました。 その後、私はビジネスコンサルタント社に転職するのですが、北本市からの高崎線での東京への通勤は遠く、転居を目指し、昭和61年、何とか大宮以南の現在の与野市で住宅を購入転居、以来40年以上埼玉県民として今日に至りました。

 

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「私のBlog“朝吼夕嘆・晴走雨読”」の由来~創業回顧録⑦

2020年09月01日 | 「創業回顧録」

                      
               (blog発信の切っ掛けと社内向けINTRANET) 

 私は30年近くblogを発信し、毎日、300人以上の方からアクセス頂いていますが、その発信の切っ掛けは、社員向けのメールの発信でした。それは、先にも書きましたが毎週月曜の朝礼3M(Monday Morning Message)を社員向けに発信していました。これが社内向け限定のNET配信のIntranet(イントラネット)です。後に社外部向けの情報発信のInternet(インターネット)に繋がり、私のBLOG“朝吼夕嘆・晴走雨読”に繋がります。このBLOG題名は“朝は吼え、夕方は歎き、晴れた日はジョギング、雨の日は自宅で読書”との我と我が身のライフモットー揶揄でした。私のこのNETメッセージを㈱NTTレゾナントのGoo blogに設計アップしてくれたのは当時(株)NTTコムウェアに務めていた高宮城君のお陰です。今や、週一度のBlog更新アップはボケ防止の作業です。

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朝吼夕嘆

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