”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「具志堅用高と裁監督」~「私の履歴書」㊸

2020年11月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                      
            (東京奄美総会で、緑健二さんと!)
   具志堅用高さんとはいろんな機会で会いましたが、 御存知の通り、彼は沖縄出身として初のWBC世界フライ級王者ながら、その愛嬌ある言動は日本中を沸かしました。裁さんは沖縄を代表する高校野球監督として、何度も甲子園に出場し、連日日本中のマスコミに取り上げられました。
 私達が沖縄から上京した頃はアパートや居酒屋等々入居を断られる等々の差別が結構あったようです。しかし、この二人の活躍した1970年代を契機に、沖縄への評価?が変わり、在京沖縄出身者の心境も随分変わりました。
 私はこうした在京沖縄出身者の状況を立命館大学の研究チームから、インタビュー調査を受けたことがあります。
                 

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「我が故郷・加計呂麻の実久・鎭西村伝説」~「私の履歴書」㊷

2020年11月27日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                   
      (奄美・加計呂麻島~左が旧・実久村、右が旧鎭西村)
 
 6歳の頃、私が満州から引き揚げた奄美の加計呂麻島の左半分は実久村、右は鎭西村と呼んでいました。それは平清盛に追放された源為朝が奄美に渡り、奄美の娘との間に生まれた子供が実久村「実久」の実久三次郎神社として祭られているようです。為朝は後に「鎮西八郎為朝」と称し大島から脱出して琉球に渡り、琉球王朝の先祖になった等々の伝説がありますが、これが加計呂麻島の実久村・鎭西村の名称になったのか?それにしても全国津々浦々にこうした源平のフィクションがあるのだろうか?

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「裁監督との出会い」~「私の履歴書」㊶

2020年11月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                 
   沖縄の高校野球を何度も甲子園に出場させた様々毀誉褒貶の伝説の裁監督は65才で逝去しますが、生前会食した思い出があります。私より一つ若い彼は糸満生まれながらルーツは奄美と言ってました。そいえば琉大卒業後、那覇市松山で“夜の商工会議所”と呼ばれるクラブを経営、後にベンチャービジネスを立上げ、日経ビジネスウーマンイヤーズ賞を受賞した奥キヌ子さんも糸満生まれながらルーツは奄美とのこと!。こうした糸満と奄美はの縁はカツオ漁業の繋がりでは?

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「伊良部・佐良浜美人との出会い」~「私の履歴書」㊵

2020年11月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         
 会社経営現役の頃、顧客接待でしばしば通う赤坂見附のスナックで見事なピアノ演奏歌唱の女性に会い、沖縄出身と聞き、え!と驚きました。高校卒業後、東京の音大に進学、バイトしているとのこと。モデルを思わすスラットした華麗な容姿はどう見ても沖縄出身( ´艸`)には見えなかったのですが、何と宮古島は伊良部・佐良浜出身とのことでした。彼女一族は宮古、沖縄と一定の距離を保ち、県人会等の集いには滅多に参加しないとのこと。今、横浜でピアノ弾き語りのスナックを経営しているようです。
 実は仲間由紀恵や国仲涼子等沖縄出身の何人かのタレントのルーツが同じ伊良部・佐良浜で、それはかって遭難ドイツ船員が佐良浜に長期滞在したのが出自というのを聞き、調べたところこれは今から150年前の10人近いドイツ人船員の1月近い滞在史実がありますが、これは佐良間美人の由来としてはフィクッション伝説と思いました。でも、何故この島を祖先とする美人が多いのだろうか? 
                                
               (伊良部・佐良浜がルーツと言われる代表タレント)

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「2元世界の沖縄?」~「私の履歴書」  

2020年11月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                                             

九州各県には概ね各県1紙、1銀ですが、沖縄には「沖縄タイムス」「琉球新報」の2紙に銀行も「琉銀」「沖銀」と2行があります。ラジオ、テレビも「RBC・QAB」「OTB」と事実上の2局です。

 そういえば奄美、宮古、八重山の各島にも「南海日日、奄美新聞」「宮古新報、宮古毎日」「八重山日報、八重山毎日」とそれぞれ2紙並存です。
 最近ようやく、協会や組合が出来たものの沖縄の空手、琉舞各派もバラバラ多彩でした。これは島嶼特有の多元カルチャー?だろうか?
 また、40社近くの沖縄泡盛メーカの総売上高は大分「いいちこ」や宮城「黒霧島」焼酎1ブランドに遥かに及ばないと聞きます。沖縄には“ヤーグワーチクイ”(小屋作り)というフレーズがありますが、反面、お互い切磋琢磨!、共存強化してきたのか!

                                              

                 

     (琉銀本店~改装中)      (沖銀本店)

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「今帰仁・北山ナイチャー!」~「私の履歴書」㊴

2020年11月21日 | 「美ら島沖縄大使」便り

             

       (東京で会った今帰仁・北山出身のカーギ女性)

 前回、“イトマンウランダ”(糸満オランダ)というフレーズを紹介しましたが、これとは別に“今帰仁・北山ナイチャー”と言うジョーク・フレーズも聞きました。これは今帰仁・北山にはナイチャー(内地=大和)風の容貌が多いという意味らしいのです。後に私は新宿・歌舞伎町で今帰仁・北山出身の何人かの女性に会い、私が幼少を過ごした大連で会った色白、背高い女性や垢抜けした北朝鮮女性色写のその容姿に魅せられました。まるで”秋田美人!東シナ海に面するこの今帰仁、北山港はその昔、済州島、朝鮮半島、清と交流があったのでは??これは根拠の無い私の妄想、今帰仁・北山の皆さん!ゴメンナサイ!

 

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「初めての糸満訪問」~「私の履歴書」㊳

2020年11月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り

               (東京で会った糸満女性)
 奄美から沖縄に移住した父が糸満と奄美海産物取引があり、その縁で初めて糸満を訪ねた時、小柄色黒ながら目のくっきりした糸満の女性に会いそのカーギ(美貌)に打たれました。後に“イトマンウランダー”というフレーズを知りました。この“糸満オランダ―”の意味は“糸満は外人風”というのを知りました。外洋漁場盛んな糸満は海外との交流が盛んだったという意味か?後に東京で糸満出身の女性とお会いましたが、皆さん文字通りのチュラカーギ―でした( ´艸`) 
 那覇の松山で会った糸満出身のママから“小さい頃、旭橋、真玉橋は渡るな!と言われたと聞きました。禁断の旭橋、真玉橋渡り那覇に行けば二度と故郷・糸満に帰れない!”という意味で、これは那覇の辻や仲島で働く糸満の女性は、遂に故郷に帰りたくても帰れない悲しい伝えから作られたフレーズを知りました。

 

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「奄美で見た沖縄」~「私の履歴書」㊲

2020年11月17日 | 「美ら島沖縄大使」便り

        
             (糸満の漁業)
 私が在校した奄美の古仁屋小学校に大城君や金城(カナシロ)君という同級生がいました。彼らは共に大島生まれでしたが、両親は沖縄出身の「クダカ」でした。古仁屋で「クダカ」というのは漁師のことで、古仁屋にいた沖縄出身者の殆どはクダカでした。後に沖縄に行き金城(カナシロ)は金城(キンジョウ)と呼び、さらに神の島“久高島”があることを知りました。奄美の漁業は沖縄の久高島や糸満出身の漁師から取得したのでは?
 古仁屋小学校でも悪さやヤンチャを続けている男の子は“糸満に売られるよ!(糸満売り)”女性は“辻に売られるよ!”と冗談半分に言われていました。糸満に売られた子は海に放り投げられ、潜水漁業を鍛えられたと言います。
 後に「松の下」「左馬」「那覇」等伝説の料亭が立ち並ぶ那覇市辻町を界隈し、琉球文化の華麗さに圧倒されました。
          
               (古仁屋漁港)

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「沖縄・大和の架け橋・奄美!」~「私の履歴書」㉑

2020年11月11日 | 「私の履歴書」

                                           
               (琉舞・諸鈍)

 奄美から沖縄に来て双方のカルチャの違いを感ずる一方、融合や架け橋を感じました。それは沖縄で琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」舞踊を見ての確認でした。と言うのは、諸鈍とは私の故郷奄美・加計呂麻島にある集落で、ここに源平の戦いに敗れた平資盛が移住し、土地の人々との交流を広めるため教えた舞踊が“諸鈍シバヤ”として定着したという伝説です。以後、島の人に継承され「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、住民の過疎化を圧して毎年催されています。何故この集団男踊りの“諸鈍シバヤ”と女一人踊りの琉舞“諸鈍”があるのか?
 東シナ海と太平洋に面する”諸鈍長浜”と呼ばれる流麗なこの港には琉球王朝のマーラン船が度々寄港し、交流があったようで“諸鈍みやらび,カーギーのチュラサ”という
琉球古歌もあるようです。この諸鈍村は沖縄と奄美を繋ぐ拠点だったのか?
 私の高校同期の琉舞師匠に「奄美の加計呂麻に諸鈍という村があるよ!」と言ったら“えー?”と驚いていました。一方、諸鈍出身の同級生に“諸鈍という琉球古典舞踊があるよ!”と言いたら“へ!”と。いずれにしろ、沖縄と大和の架け橋の一面を我が故郷奄美を感じました。  
     
             (奄美・諸鈍シバヤ)

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「沖縄に来て驚いた名前・地名の違い」~「私の履歴書」㉟

2020年11月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    

 私が入学した奄美の古仁屋小学校1年の先生は祈(いのり),2年は林(はやし),3年は森(もり),4年は藤(ふじ)と皆一字の姓でした。奄美出身の歌手の元(はじめ)ちとせ城(きづき)南海中(あたり)孝介がいるのでこれらの名前は読めると思いますが、皆さん!奄美の姓「文」「英」読めるでしょうか?”ふみ,えい”はなく(カザリ),(ハナブサ)と読みます。何故、これほどに奄美に一字姓があるのか?これは薩摩藩の強制でした。
 沖縄に来て眞栄田、真栄城、玻名城、 山入端、 我如古、 饒平名、 喜屋武、 仲村渠等々の3苗字,中でも 大工廻(だくじゃく),健堅(きんきん),為又(びいまた),保栄茂(びん)等々の難読の地名を見て、奄美との違いの大きさには驚きました。これらの地名読み方の由来には諸説がありますが、中でも興味深いのは沖縄に来航した中国人の誤読説です。
 薩摩藩の奄美への一苗字強制は韓支配の偽装では?沖縄のへの3字強制があったとしたら、それは沖縄を具とする対清貿易の柄だったのでは?もちろん、これは私の妄想です!
                                              

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朝吼夕嘆

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