”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「加計呂麻会で出会った芝の多彩な人脈」

2018年09月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り

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先日・秋分の日、大田区の「徳持会館」で開催された関東加計呂麻会に参加しました。与野駅から1時間半の蒲田で東急池上線に乗り換え二つ目の池上の遠路、どうしようかと迷いましたが、会場での奇遇、遭遇にやっぱり「場所には行け!人には会え!」の我と我が身激励の信条スローガンを得心?しました。
 正面に座わられた東京芸大院のご子息を持つ妙齢の女性から「重田さん、10年前からBLOG読んでいますよ!すっかり元気になられましたね!」と声を掛けられビックリしましたが、その傍の男性は何と私と同じ満州生まれの上に学部は違うものの早大同年在学の奇遇に盛り上がりました。加計呂麻島には30数村がありますが、我が故郷・須子茂出身の出席者は私一人に対して彼の女性と男姓は共にロシア文学で著名な昇 曙夢出自の芝村出身。この日も大学教授、郵政お役人等々と10人近い出席者。改めて芝の多彩な人脈を感じました。

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「糸満女性来訪!」

2018年09月24日 | 「千客万来」

  

 先日、「三月会」事務局長として長きに亘りお世話になった「新垣由紀子さんを偲ぶ会」を開催すべく、由紀子さんの補佐役を務めたお二人が神田事務所に来訪され、検討、相談した結果、来る11月7日、三月会恒例会場として利用させて頂いた日本新聞協会の内幸町の「プレスセンター」で開催することになりました。この会場は会員でなければ利用できず、三月会が利用できたのは会員である琉球新報社と由紀子さんの誼です。この日、来所のお二人は糸満出身のエーカー(親戚)同志で、共にヤマトンチュと成婚、鈴木、池田のヤマトナー(本土姓)を名乗るものの、奥野修司の書いた「ナツ子」、高木凛さんの「照屋敏子」と伝説の糸満女性パワーを微かに偲ばせます(^○^)

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「仲田清祐名誉顧問のカジマヤ祝宴に感嘆」

2018年09月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り

  

 9月17日「敬老の日」、私在住のさいたま市与野・稲荷町内会から“敬老記念品”を頂きましたが、この日の仲田清祐東京沖縄県人会・関東沖縄経営者協会顧問のカジマヤー(97歳)祝が霞ヶ関ビル35階の東海クラブに出席しました。参加者は仲田さんが長く会長を務めた東京琉球舞踊協会に出身の那覇商業高校同窓、伊是名郷友会と260名を超す多彩なメンバー。祝辞挨拶は実行委員の仲松県人会長、来賓の三隅治雄日本民謡協会理事長、渡久地沖縄県東京事務所長、嘉手川折尾案ビール会長、川平県人会顧問、百瀬明大名誉教授等々。
 このお祝いの為、私の高校同期の康舞会主金城康子さんの後継・ご子息啓一郎君は大阪から、同期又吉君の奥様・玉城琉・静枝いづみ会主ご姉妹、㈱マドンナの山内光子社長等々、このお祝いのためわざわざ沖縄からの上京し知友にお会い出来ました。それにしても、この日も何時もながら97歳の“かぎやで風”舞踊と朗々たる“汗水節”を唱の仲田会長のパワーには参加者一度、感嘆、圧倒されました。御高齢の仲田会長に寄り添い、長きに亘り介護サポートされてきた奥様の美智子さん、本当にご苦労様でした。

 

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「奄美群島・おもろの世界」福寛美著~南方新社

2018年09月18日 | 「Weekly 読書感想」

                                                     

 琉球王朝初の歌謡文書集「おもろそうし」の所々随所?に謳われている奄美の島々記述と近年、喜界島を中心に発掘研究されている考古学実績を照合、検証した「古き奄美の時代をたどる」本書。何時もの通り追うのは難儀な「おもろそうし」原文を飛ばし、飛ばし読みつつ、徳之島、沖永良部、与論、請島、与路島と我が故郷島々の文字に魅せられ必死に追い、何とか読了しました。それにしても各奄美市町村誌はじめ膨大な先研諸論文を比較、検証しつつ奄美古代史を追う筆者の旺盛な研究心には無学の私が言うのも失礼ながら感嘆です。
 我が古里・加計呂麻島は何時出てくるかと思いつつ、本書を必死に追いましたが、最後まで出て来ず、がっかりしつつ、閉じようとしたら何と最終章「おわりに」、それも最終行に“加計呂麻島を遠いルーツとする筆者”の文書に接し、思わず“ヤッホ!”と叫びそうになりました。変な感想禄です失礼ですが、読書には様々な形態がありますよね!福様、謹呈有難うございました。

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私の履歴書⑥~「合併で知った私の限界」

2018年09月14日 | 「私の履歴書」

             
                 (5社合併で入居、会長・顧問を拝命した神楽坂プラザビル)
 合併した企業では残業の事前申請を徹底し、それが実行されない場合、上司の管理責任が厳しく問われます。また、50歳を過ぎた非役職社員は年収がダウンする制度があり、ある時、元当社社員から「息子がまだ在学中で、自宅ローンもあり何とかならいですか」との嘆願を受け、総務部長の元に連れて行ったところ、部長は「ご事情はよく分かります。でもこれは規則で、貴方だけが対象ではありません」との回答に、改めて上場子会社の管理の厳しさを認識しました。長く私の経営風土に親しんだ社員は悲鳴を上げ「なんで、重田のお陰で、こんな目に会うの!」と思われたのでは。とは言え、重田方式の甘い経営ではいずれ会社はもっとは厳しい局面を迎えたのではと、“個々の現場に甘く優しい社長は、長期的に経営逼迫、やがて倒産”という社員にとって最も厳しい“合成の誤謬”の結論を後日感じました

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旅の反復「世界のウチナーンチュを訪ねて」~組原洋著(学文社)

2018年09月13日 | 「Weekly 読書感想」

           
(旅の反復「世界のウチナーンチュを訪ねて」~父と娘の度道中;組原洋著)
 タイトルの通り、ハワイ、メキシコ、南米等々の旅行記。中でも本書は著者愛娘さんとのブラジルの詳細な沖縄県人訪問記。実は2008年、私はWUB東京会長としてブラジル・サンパウロで開催された「おきなわ移民100周年」に参加した際、「琉球大学移民研究センター」フォーラムの質疑応答で、講師の野入直美琉大教授に質問したとき、継続関連質問したのがお嬢さんと参加の著書・組原さん。フォーラム後、組原さんから「貴方の質問、賛同です」と言われ、恐縮したのを覚えています。この時の模様と私のBLOGの詳細な紹介記載本書(43P)に紹介されているのも驚きました。この時が縁で、著書愛娘の慎子さんと野入教授とのお付き合いが続いています。この時の質問が縁で「移動社会学」専攻の野入琉大教授は私の自覚しない「私の移動性?」に関心を持たれ、何度かインタビューを受け、いずれ出版したいとのことに“出会い”のラッキーを感じました。また、先日、著者とお嬢さんがひょっこり神田事務所に来られたのもビックリでした。本書を読み、“人には会え、場所には行け!”と我と我が身に“人脈形成と自己変革?”激励するスローガンを遥かに超えるパワーを改めて感じました。
 日毎の南米在住の膨大な沖縄出身者との詳細会話記述、書末に訪問年表と面会人の索引記載があれば、読者にとって如何程読み易く、読者の興味を煽るだろうに、“個人情報機密”という現在社会のルール―の障害?を感じます。
 東大卒・弁護士の著者、胃がん手術5年経過との癌共有友・出会いにもビックリ!どういう経緯で沖縄に移住し、沖大教授になられたのか?沖縄出身の故・奥様に惹かれた来沖経緯、近く著すと本書の「あとがき」に書かれています。尽きることのない興味と待望です!

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御哀悼!新垣進会長・御母堂様。

2018年09月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り

  

 このところ私の周辺、知人の逝去が続いていますが、先日は朋友・新垣進関東沖縄経営者協会長の御尊母が逝去され、5日「川崎南部斎苑」で行われたお通夜に参席して来ました。ご逝去されたお母様は102歳で、入院される数日前まで、御家族とシャキシャキと会話されていたのこと。入院介護等殆どされることのない102歳での大往生。まさに、国内有数の女性長寿沖縄県出身の象徴でした。お母様!安らかに!

 

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私の履歴書⑤~「会社合併で知った私の限界と特色」

2018年09月07日 | 「私の履歴書」

        
  (創業20年から退任の30年まで入居した”思い出の”五反田西口の・第一誠実ビル」

 私は創業30期、1期を除き黒字経営を続けていました。創業6年目の1984年には日経の「有力ベンチャー企業500社」にも選出され、国内最大のベンシャーファイナンスのJAFCOからも出資を受け、野村証券常務から同社を立ち上げた今原禎治社長が当時の三田の我社を訪ねて来られ、「財界」(1984年9月18日号)にも掲載されました。87年にはNHKテレビからも取材を受け、放映されました。
 それにも拘わらず、何故上場されなかったのか。30期の売上は20億でしたが、ジャスダックやマザースでの上場には黒字基調の売上高以外のハードル・基準には遥かに及びませんでした。後年、一部上場の同業会社と提携することによって、私の経営スタイルの限界が理解できました。それは一口に言って「欲望の低さ!」です。上場達成の経営TOPは売上、利益率、資産総額等の目標に対し、強烈な意志と実行力があります。例えば、我社の場合、従業員の超過勤務代と利益額はほぼ等しく、この残業代抑制コントロールだけで利益率は倍増したはずですが、私は個々の社員の扶養やローン負担を忖度し、なかなか実行出来ずにいました。

 

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朝吼夕嘆

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