”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「3M発信(社員との情報共有)~創業回顧録⑥

2020年08月28日 | 「創業回顧録」

        
 前回述べた社内Engagementの養成に私が創業以来継続実施したのは3M(MondaMorninng Messege)の発信でした。毎週月曜朝礼に3M(Monday Morninng Messege)を発信しましたが、本社以外に大阪、静岡、沖縄等の地方事業所社員へのIntranet(イントラNET)発信でしたが、これが後にInternet(インターネット)の普及に伴い、私のBLOG発信の切っ掛けになりました。
 社長退任の30年近く一日も欠かさずこの3M発信を続けましたが、そのネタ探しの為、毎週、日経産業新聞や日経PC等を読み、金曜、土曜になるとこの発信内容に時に懊悩し、時に日曜日、女房から”明日の3M大丈夫!”と叱責されたこともありました。時になかなか発信内容が思いつかず、月曜出勤の車中で”あ!これで行こう”と内容を思いついたこともありました。この月4回の3M内容は毎月の社内報に”朝礼速報”として掲載し、社員に配りました。この発信行為は社員との情報共有活動でした。
 後任の社長が「重田さん!よくまあ長年に亘り毎週朝礼で発信できましたね。社長就任してこの月曜朝礼発信が最もプレッシャです!」と言い、時に彼は「今週は特にありません」との朝礼挨拶に呆然とした記憶があります。社長退任後、この3M発信責務のプレッシャーから解放され、言い知れぬ開放感がありましたが、気が付けば業界やIT関連情報に疎くなっている自分に気が付きました。責務と課題プレッシャーこそ、我と我が身を鍛えることを痛感しました。

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「社内Engagementの実施」~創業回顧録⑤

2020年08月27日 | 「創業回顧録」

              
            (社内旅行と懇親会)

 前回、3期連続減収、減益の中,、当社は何とか黒字確保した原因として”特別利益対策”とそれを実現した社内のエンゲージメント(engagement)を述べましたが、Engagementとは、従業員の会社に対する思い入れや共感、協力があったと思います。これをどう培ったか?その下地は社員への”情報発信と共有”だったと思います。
具体的には社内月報の発行、月曜朝礼、金曜交流会、月一度の全大会等々による社内情報の交換でした。この社内報の編集発行は社員による持ち回り制度でしたが、これが社員相互のEngagementに繋がったかもしれません。いまでもこの社内報は手元に残っています。これ以外にボーリング、野球、スキー、ツーリング等々様々なクラブ活動以外に社内旅行の実施。5、10、20、30周年記念パーティの実施がありました。

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経営力とは④“特別利益対策”~創業30年を振り返る!

2020年08月26日 | 「創業回顧録」

         

 前回述べた創業15期から3期連続の減収減益経営危機を乗り切るために“特別利益対策”の主たる内容は①残業抑制、➁ボーナス削減、③諸手当削減、④社員寮削減等々のコストダウンでした。勿論、私はじめ役員の給与も削減し、何とか黒字を確保しました。この対策の作成は、私がキャリア採用とした専務の作成でした。東証一部製造会社の工場長や子会社の役員を歴任後、60才の停年間近に退社し、当社のキャリア採用に応募、入社頂き、長きに亘り私の経営をサポート頂きました。この専務がいた入たからこそ30年に亘り、黒字経営を実現できました。このコストダウン方針のには実施は3カ月~半年先の売上増減予測等の毎月の経営会議がありました。つまり、売上減少後のコストダウン施策では手遅れで、売上減少前の方針作成、実施でした。これこそ専務の経験と英知でした。
 給料や残業カット等のコストダウンには通常、優秀な社員程転職、退職等の作用を生み、それが倒産の要因にもなりますが、この時期当社は一人も退社せず、全員で不況を乗り切りました。今思うとそれが可能だったのは専務のサポートと(engagement)だったと思います。このキャリヤ社員・専務の入社とエンゲージメント(engagement)をどう培ったか、具体的詳細は次回!

 

 

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「経営力とは」③~創業30年を振り返る!

2020年08月24日 | 「創業回顧録」

     

 私は1978年の創業第1期の売上5千4百88万円から1992年には13億8千6百万と14期連続で増収増益の成長を続けて来ましたが、1993年の15期から一転、11億、10億、9億台と3期連続で売上が下がりました。これは後に山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行等の金融機関の破綻を招く1990年前半に始まった世界経済バブル崩壊の影響でした。この時期、多くの同業他社が倒産する最中、我社は3期連続減収ながら何とか黒字を死守しました。後にこれが主力取引の三菱UFJ銀行から高く評価されたことを知りました。どうしてそれが可能だったのか!実は、この厳しい市場環境による減収を予測した当社は“特別利益対策”でした。この”特別利益対策”とは何か?その内容は次回!

 

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「経営力とは」②~”守る力”「私の履歴書」

2020年08月20日 | 「私の履歴書」

            
               (平成4年=創業14年目の入社式)

 私は1978年の創業第一期から1992年の14期まで連続で増収増益の成長を続けて来ましたが、一転、93年の15期から3期連続で減収減益に陥りました。これは後に山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行等の金融機関の破綻を招く90年前半に始まった世界経済バブル崩壊の影響でした。この時期、同業のIT会社の半分近くが倒産しました。この時期、多くの同業他社が倒産する最中、我社は3期連続減収ながら何とか黒字を死守したことが主力取引の三菱UFJ銀行から高く評価されたことが後で分かりました。
 これは厳しい市場環境による減収を予測した当社は敢えて“特別利益対策”と称する経営方針を作成し社員に説明、協力を要請し、黒字を実現したのです。その具体的内容を振り返りたいとおもいます

 

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デスク(木製)欲しい方へ

2020年08月19日 | 「美ら島沖縄大使」便り

   

 神田事務所の一部をリフォームしますが、一時学習塾ビジネスを展開してとき、特注作成した木製のデスクが事務所に4席ありますが、取得ご希望の方には1机1,000円でお譲りしますがいかがでしょう?
 デスクサイズは幅95cm×55cm、高さは74cmです。ご要望の方はご連絡下さい。運送費は御負担で、済みません(´Δ`;)

 

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「経営力とは」①~創業30年を振り返る!

2020年08月17日 | 「創業回顧録」

                     

    (1978年、37歳で創業スタートした「サーラ三田ビル」(6階17坪)

「経営力」とは一般に“顧客獲得、市場開発等の営業力”や“製品開発力”が言われますが、これはいわば“攻めのパワー”です。しかし、私はスタートから大変な勢いで発展、成長していた会社がアッという間に倒産した幾つかの友人企業や同業事例を見て来ました。こうした経営者に共通に見られる点は、“行け!行けGo、Goの“攻めのパワーによる過剰投資や事業の拡散化ですが、取引先の不調による発注激減や不況による市場縮小に対する対応が全く不十分だったようです。つまり、“攻めの力”は凄いのですが“守りの力”不足です。“守りの力”とは何か?私の経験から説明したいと思います。
 特にコロナウィルス蔓延の様に市場、需要悪化の経営環境下でどう会社を守って行くのか”守りの経営力”が要求されます。

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「奄美学」~その地平と彼方~;南方新社

2020年08月14日 | 「Weekly 読書感想」

                         
 本書は2003年に奄美大島瀬戸内町で行われた講演・座談会を中心に、教師、役場職員、写真家と30人近い奄美大島在住の奄美研究家によるエッセイ集。内容は奄美史に留まらず、風習、地名、苗字、言語等々と600ページを超す膨大な書。新型コロナウィルスでの3密生活、連日ベッドに転びながら読了しました。書名の「奄美学」タイトルは伊波普猷、比嘉春潮、仲原善仲、金城朝永、外間守善の“沖縄学”に対抗し、立ち上げを目指したのか?それにしても8割に近い著者の奄美に在住しての郷土研究活動には、奄美出身ながら沖縄、東京と異郷で過ごす我身を思います。

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「小学6年の時、奄美から沖縄へ」~私の履歴書⑪

2020年08月12日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 

 私は小学6年2学期で奄美大島の古仁屋小学校を退校し、当時父が働いていた沖縄に母と妹3人で渡航します。古仁屋港から30人位の乗船揺られ、那覇の泊港に着きましたが、その時の船酔いした辛い思い出があります。先日の自宅断捨離の中、小学2年から高校3年までの日記帳が見付りましたが、沖縄に着いた時の模様を書いた古仁屋小学6年梅組の時の日記を掲載紹介しました(´Δ`;)

 

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「関東沖縄経営者協会・首里城再建寄付協賛へのお願い!」

2020年08月11日 | 「美ら島沖縄大使」便り

 コロナ蔓延・三密のため、関東沖縄経営者協会(新垣進会長)関連の殆どのイベントは中止でしたが8月5日、神田のエッサムホールで若手幹部16人が参加して第54回の総会を開催しました。ほとんどの会員は議決委託。ZOOMでの参加者は数人?開会に先立ち先日90歳で逝去された新里オーム電機㈱会長へ参加者全員で黙祷捧げました。ビックリしたのは88歳の矢野顧問がコロナを押して参加されたいたことです。矢野先輩の経営者協会への執愛?を感じました。  私は首里城再建寄付実行委員長として報告しましたが、現時点220万の寄付金受領ですが、何とか300万を目標に会員の皆様への協賛をお願いしました。

   御有志の方、以下の口座に御寄附よろしく
 沖縄銀行 東京支店 口座番号 701-118309 関東沖縄経営者協会(首里城再建寄付)

  

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「奄美と満州」~私の履歴書⑩

2020年08月07日 | 「私の履歴書」

                
         (50代の父(左)と60代の伯父(父の兄)

 田舎にいた頃の父は村青年特有の相撲好みで、色黒、ガッシリした体格の父を覚えていた母は満州で“色白でほっそりしたインテリゼンス様の父の姿を見た母はショックを覚えたと語っていました。実は飲酒か、父はこの時、胃不調だったようで、60歳で逝去するまで体格は細身でした。
  父の両親は父が小学校入学前に死去し、幼児介護扶養制度などない当時、5歳上の兄と3歳上の姉との3人は近所の家事、農業を手伝ったり、食事を貰ったりで大変功労したようですが、反面、狭い田舎村では近所が逆に親兄弟の様に助けてくれて様です。
 こうした両親のいない父を弟の様に面倒を見たフミ伯母は母から見て、まるで小姑の様に煩わしかったようで、よく愚痴を聞きました。実は両親は島で中学を卒業した父の兄(伯父)の長男(私の従兄)を大連に引き取り、大連工業高校に通わしました。長く同居していた私は“賢孝兄さん”と今でも呼んでいます。
 こうした狭隘な村で助け合い育った島の兄弟親戚の絆が濃密で、こういう育ちの夫と結婚した他県育ちの内の女房にも大変苦労掛けたようです。私が生まれて間もなく、父の勤務もあったのはハルピンから大連に引っ越したようです。
私 にとって、満州とは大連です。ハルピン以外何も知りませんが、大連の幼少記録は鮮明に残っています。終戦の昭和20年、大連で妹が生まれますが、この翌年、私達一家は大連から奄美に引き揚げます。
 この頃は多くの日本人が日本軍占領の満州や、韓国、台湾島には開拓民が少ない、逆に仕事、就職先の少ない奄美、沖縄、九州、東北の人々が国策と本人達の意欲が合致し、渡航、移住したようです。
 1946年、日本から切り離され、終戦で満州、本土からの引き上げ人口過剰、仕事がなく、失業に溢れた奄美の人々は、本土には行けず、米軍基地建設で仕事あふれる沖縄へ殺到します。

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中村喬次著「南島遡行」:海風社

2020年08月05日 | 「Weekly 読書感想」

 

                            

 先日の断捨離で、手放せ無かった本書、数10年ぶりに再続。著者とは幾つかの共通点があります。昭和14年、15年生と一つ違いながら同世代。宇検村、加計呂麻ながら小学時代は同じ奄美出身!さらに共に琉球新報社での記者経験といいながら東京総局と沖縄本社勤務の違いで会ったことはないのです。最も違うのは私が沖縄、奄美本島、徳之島、八重山以外に行ったことがない与論、沖永良部、宮古、与那国等々の島々を遡行する著者の筆致、生き様には呆然です。私は“北へ!”と沖縄を後にしたのですが、同世代の著者は南へ南へと転々、今は沖縄に移住?しています。改めて本書を読み、その対応はどこから来るのだろうと我と我が身の生き様、価値観を考えさせられた貴重な出会いでした。かって、著者が別書で”南に行くに従い我がルーツを感得ずる”?とのコメントが忘れられません。宇検村生まれの中村さん、何時かお会いできれば!

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朝吼夕嘆

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