週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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6月のお経の会

2014-06-16 01:26:44 | 近況報告

昨日はお経の会がありました。

   

風邪っぴきさんだった龍くんも、薬を飲み切ったので参加させました。
門徒式章をしてもすぐ外し、お念珠を持たせてもすぐどこかに置いてきてしまっていた龍くんも、6歳が間近に迫り少しずつ落ち着きが見られるようになりました。

   

見てください、この良い姿勢!!(笑)
息子よ、母は嬉しいですっ!!

でも、もう少しで和讃というところで「眠い」と駄々を捏ねくり回してくれたんですよねぇ。(怒)
1年前ならお昼寝させましたが、もうすぐ6歳。
寝ようとするところを膝の上に座らせホールドすると、なんとか最後まで一緒に声を出すことができました。


お座敷に移ってお茶を飲みながら雑談していると、「気づき」についての話題がでました。

いくらご法話を聞いても、聞いた時だけうなづいて、山門をくぐるころには忘れてしまう。
日常の中で自らの自己中心性にふと気づくことはあっても、気づくだけでそれを維持することはできないんだというお話で、皆さん揃って「そうそう」とうなづいていらっしゃいました。

私は似たシチュエーションにおいて放った、とある2人の言動についてお話ししました。

どんなに「気づき」を重ねても、自己中心的な考え方をやめることはできません。
しかし、「気づき」とは自分の自己中心性を客観的に感じることで、それは視点が転じることでもあります。
変わった瞬間、誰もがほんの少し立ち止まる。
きっと、その「ほんの少し」と「立ち止まる」を重ねることで、自らの言動が変わることもあるのだと思うのです。

自らの快適さを求めるあまり他を排除するするような人もいれば、相手の状況をおもんばかることで不快なことも包み込む優しさへと転ずる人もいる。

ご法話を聞いて忘れてしまっても大丈夫です。
食べたものを忘れても栄養はきちんと吸収されているように、ご法話も耳の栄養として皆さんの中にきちんと吸収されています。
そして、その栄養がふとした瞬間の「気づき」となって表れてくると思います。

気づいたことを維持することを目標にするのではなく、その時その時に転じられた、その気づきをいただいたご縁に感謝する。
そういう豊かさが有り難い人生なんだぁとシミジミ思ったお経の会となりました。



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