週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

報恩講~生きるためのケジメ ~

2011-10-31 00:01:36 | 法話のようなもの

昨日は最乗寺の報恩講法要が営まれました。

お磨きの終わったピッカピカの本堂で、ご一同様と正信偈のお勤めが終わった後、布教使さんによる法話を聞かせていただきました。

     

神奈川組高願寺ご住職・宮本義宣先生です。

お話はやはり、3月11日の震災に関することでした。

今は葬儀や法事が形式化し、略式化し、簡素化し、果てはしなくなりつつある時代です。
そんな世の中において、被災地で新盆の法要が営まれたときの参加者の言葉が胸をついたといいます。

「生きていくためにケジメがついた」
「これで明日から新しく歩んでいくことができる」

今回の震災で大切な方を失った方々の多くが、その死を受け入れられないといいます。
もちろん、状況を考えれば受け入れられるはずもありません。
そして、その方々の多くが、お葬儀をすることができなかったということに対して、心を痛めていたといいます。

なぜ葬儀を勤めたいのか。
葬儀にどんな意味があるのか。

それは、葬儀が亡くなったことを受け止めるための儀礼だからであり、自分が生きていくためにケジメをつけるということに他ならないんだということに、参加者の言葉から感じたそうです。

だからこそ、葬儀や法事は亡くなった方のために勤めるものではなく、生きている者が生きていくために勤める儀礼なのだということを聞かせていただきました。

親鸞聖人のご命日をご縁とする報恩講法要もまた、私たちがケジメをつけるために750年もの間、毎年毎年営まれ続けてきました。

750回目のこの年に、お参りくださった方はどんなケジメをつけられたのでしょうか。
どうかそのケジメを、来年の報恩講まで大切になさってくださいませ。

皆さま、ようこそのお参りでございました。

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ただいま報恩講の準備中

2011-10-29 02:48:09 | 行事のご案内

現在の本堂の様子。

      

年に一度の専門の方による仏具のお磨き中。

      

ガランとした内陣。
余間には、親鸞聖人のご生涯が描かれた四幅の御絵伝が掛けられました。

2日掛かりで行われるお磨き。
お磨きは日曜日に勤められる、最乗寺報恩講法要のためにお願いしています。


報恩講法要は、10月30日(日)午後1時30分より始まります。

ご講師は神奈川組 高願寺ご住職・宮本義宣師。

宮本先生は、龍谷大学大学院と、東京仏教学院の講師をされています。


今年は親鸞聖人750回大遠忌にあたる年です。
記念すべきこの年に、皆さまと報恩講法要がお勤めすることのできるご勝縁を嬉しく思います。

どうぞ日曜は、お誘い合わせのうえ、最乗寺へお越しくださいませ。
本堂をピッカピカにして、お待ちいたしております。

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自分を責めないで

2011-10-27 02:37:43 | ひとりごと

研修会にて、津波で多くのものを流されたお坊さんのお話を聞いてきました。

震災から7ヶ月が経ち、目に見える復興が進んでいるのだと、テレビを通して知りうる情報を鵜呑みにしている私たちは思います。

しかし、被災地では「震災から7ヶ月」ではなく、「7ヶ月の間、被災し続けている」という現実の中にあることに気付かされました。

日中は明るく会話を楽しめていも、夜になると自然と涙が溢れ出すそうです。
そして、3月11日のことを思い出しては、自分を責めずにはいられないといいます。

「何で助けてあげられなかったのか」
「何で自分は生き残ってしまったのか」
「何であの時、手を離してしまったのか」
「何で何で何で」

自分を含め、多くの人が抱える心の傷に触れるとき、思い出す言葉があるそうです。
それは震災後、停電が続く夜の闇の中で聞いた、ラジオから流れるNHKアナウンサーが語った言葉でした。


  被災された皆さまへ

  どうか自分を責めないで下さい。
  どうか後悔しないで下さい。
 
  あの時のあなたは、あの時のあの人は、その時にできる最善のことをしました。
 
  だから、あの時のあなたを、あの時のあの人を、どうか責めないで下さい。


犬を助けるために、自宅へと引き返したお父さんがいました。
家族の写真を取って来るからと、妻を先に逃がしたおじいちゃんがいました。

その行為に、「何でそんなことをしたの」「何で行かせてしまったの」と、互いを責める思いが生じます。

けれど、その時それをしなくてはならないと思ったから。
大事なもののために動いたのだから。
そのときにできたことを、精一杯したのだから。

だから、責めずに受け止め、自分も相手も、すべての人の3月11日を、肯定しようという心境になったといいます。

誰もが、精いっぱい自分なりの人生を生き抜いています。
誰もが、その時できることを、できる限りしています。
そうして、今ここに、そのようにしか生きられなかった私がいます。

その私を肯定し、受け止めてくださるのが阿弥陀さまなんだということを、悲しむ前に呆然と立ち尽くすしなかなかった現実の先で行きついたと聞きました。

南無阿弥陀仏

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『法然と親鸞 ゆかりの名宝』

2011-10-26 00:59:48 | 行事のご案内

10月25日(火)より、上野の東京国立博物館・平成館にて、『法然と親鸞 ゆかりの名宝』展が開幕しました。 (公式HP http://www.honen-shinran.com/

これまでも、お一人ずつの展覧などはありましたが、お2人そろっての特別展は初めてとのこと。
法然上人と親鸞聖人、実に800年ぶりの再会になります。

そして現在、都内のお店で、この特別展が割引になる「しおり」がプレゼントされる企画が同時進行中のようです。

         

可愛らしいしおりですよね。
このしおりなど、特別展に関する企画についてのネットニュースがあったので、少しご紹介します。


法然は豆腐が、親鸞はあずきが好物だったとか。中央、江東、文京、墨田、荒川の5区内の豆腐店、豆腐料理店、和菓子店、割烹など約500店舗で、豆腐とあずきのイラストが入ったキュートな「ミニしおり」が配布されています。また、首都圏の書店約400店舗、東急線各駅売店TOKS全62店でも、ゆかりの名宝がプリントされた7種類の「特製しおり」を配布中。どちらのしおりも、当日料金が100円引きになる割引券です。名宝しおりは、3種類集めて来場すると、先着1000人にポストカードがプレゼントされます。

当日券と同じ料金で、グッズが付いた特別な前売りチケットもあります。ふだん何気なく使っている仏教由来の言葉、「出世」「有頂天」「一蓮托生」についての解説とデザインが特徴。「出世」チケットは一筆せん(420円相当)、「有頂天」チケットはクリアファイルとポストカードセット(450円)、「一蓮托生」チケットは、メモ帳(420円)がもれなくもらえます。


出世して有頂天になっている方にピッタリなアイテムですね(笑)
今日は都内に出る予定なので、どこかでもらえたら嬉しいなぁ。

「法然と親鸞」展の会期は、12月4日まで。
入場料は、一般1500円、大学生1200円、高校生900円です。

総高4メートルの阿弥陀三尊座像など、迫力のある展示もあるそうなので、見逃さないようにしなくてはっ!!
皆さまも、どうぞご覧になってくださいませ。

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切り替えスイッチ

2011-10-25 00:35:00 | ひとりごと

「袈裟を脱いだら僧侶じゃないのか?」

最近、常々思い出す先生の言葉。
その先生は母校の大学の講師であり、浄土宗の僧侶でもあります。

あるとき、先生は余命幾ばくもない檀家さんが入院する病院へ行こうとしました。
それは檀家さんから「いのちの行く末を聞きたい」と請われたからです。
先生は当然のように袈裟を身に着けて行こうとしましたが、病院側から「縁起でもない」と拒否されました。

その対応は、至極当然のようにも思えます。
けれど、僧侶は死の使いなのでしょうか。

本当は死だけではなく、生きることも、老いることも、病気になることも全部ひっくるめて、そのいのちを共に生き、共に見つめていくのが僧侶なのだと私は思っています。

「知らないから忌避される」
「知らせてないから拒否をする」
ならば、知ってもらうことから始めよう・・・、その時、先生が思ったことが最初に書いたあの言葉だったそうです。

先生は袈裟を脱ぐことから始めました。
そこから仏の教えを、いのちの行く末を語りだしました。
人は集まり、病院側も先生を受け入れます。
袈裟を着ないで正面から。
袈裟を着て裏口から。
袈裟を着て正面から。

「回復の見込みのない患者さんが、死ぬことを恐れ怖がっている心の不安を、先端医療技術では取り除くことができないのです」

だから先生はいのちの行く末を、今も病院や医学系の学校で語り続けています。

その行為に自身を省みるまでもありません。
研修会や法要以外に袈裟を身に着けることのない私。
袈裟を身に着けていないとき、僧侶の自覚は薄れていきます。
着脱という行為が、まるで切り替えのスイッチであるかのように、私の意識を変えていく・・・。

僧侶は職業ではなく、生き様だと言った僧侶もいます。
その言葉もまた重い。

先生もその僧侶も、お寺じゃない家庭に生まれた人たち。
だからこそ、彼らの言葉はとても重く感じます。

二人は「僧侶だから」という執われではなく、「僧侶のすべきこと」を見出している。
そこには一生を懸けた信念がある。

袈裟を脱いでもなお、生死と向き合う人がいる。
生き様として、僧侶を選んだ人がいる。

切り替えるスイッチなどはない。
それは私が創ったスイッチ。
信念のないことを表すスイッチ。

彼らの姿に、お寺に、僧侶に、何を求めていたのかを見出そう。
それから、何が求められているのかを見つけよう。
袈裟の有無に左右されない、自身の自覚を促すために・・・。

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