週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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悪を転じて徳と成す正智(中篇)

2010-11-18 00:56:43 | 法話のようなもの

    【11月13日のお経の会の法話より】


厄年であろうとなかろうと、病気や事故や災難は身に降りかかるものです。
そして、厄年であっても起こらないときには起こらない。
けれど、起こらなかったら、それは厄除けをしていたからだと言う人もいるかもしれません。

さて、こんな話があります。
ある人が、大厄を迎える前に厄払いをしに、厄除けのお寺で祈祷をしてもらったそうです。
ところが、その日のうちに奥さんが交通事故に遭われて、足を骨折したとのこと。
高い祈祷料を払ったのに、何の効き目もないじゃないかと怒ったその人は、奥さんを連れて厄除けのお寺に乗り込みました。

すると、祈祷をした僧侶が出てきて、こう言いました。
  「よかったですね、骨折で済んで。
   祈祷をしていなければ、お亡くなりになられていたかもしれませんよ」

果たして祈祷が効いていたのか、いないのか…。
確かな判別ができない時点で、私たちは惑わされているということなんでしょう。
そして、もし仮に祈祷すれば災厄から逃れられるなら、人はきっとこんなに毎日死なないはず…。

年齢に関係なく、災厄は突然襲ってきます。
どんなに祈っても、どんなに災厄を避けようとしても、儘(まま)ならないのが人生です。
その儘ならないこと、思い通りにならないことを、受け入れることができない心が、【厄年】といったものと結び付けてしまうのです。

そう考えてみると、厄年というのは便利なもので、自分にとって悪いことが起きたら、全部厄年のせいにしてしまえば、とっても楽になります。
それで、心は解決してしまえる。
本当は自分の不摂生で病気になり、不注意で事故に遭っても、悪いことの原因について考えることもなく、全て「厄年だ」「天中殺だ」「大殺界だ」「星の巡り会わせが悪い」などのせいにして片付けることができる。
そうすれば、心を痛めることなく、心を楽にすることができる…実に都合の良いシステムのようにも思えてきます。

ここまでお話すれば、浄土真宗のみ教えから鑑みると、厄年というものが目くらましであり、私たちを迷い惑わす根源であるということが見えてくるのではないでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』の総序に、「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳と成す正智」とお書きになられました。
「円融至徳の嘉号」とは「最高にして完全なる徳を具えた名号」という意味で、「南無阿弥陀仏」のお念仏のこと。
つまり、お念仏は「悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらき」であり、私たちはお念仏を通して、阿弥陀さまからその「はたらき」をこの身にいただいているのです。

自分が厄年であったとき、大切なのは厄除けや厄払いをすることではありません。
たとえ思わず「ツイてないぁ」と思ってしまうようなことに出遭ったとしても、その出来事をそのまま引き受け、「よかった」と転じてゆける智慧をいただいていくことが大事なのです。

災厄がいつどこで襲ってこようとも、それを受け止め、乗り越えてゆく力を阿弥陀さまのみ教え、そしてお念仏からいただいていくことが、本当の意味での厄払いになるのではないでしょうか?

                             (後編に続く)