村林ビル。江東区佐賀1-8。1989(平成1)4月30日
食料ビルがあった頃は佐賀町の二大近代建築といった感じの、割と有名なビルで、今も残っている。外見からは改装などはまったくされていないように見える。あるいは各窓もテラコッタで縁取られていただろうか。
撮影時は正面に「和光堂製本」、横の入口に「芸術劇場」の表札がかかっている。
『東京懐古録Ⅱ』(読売新聞編、1991年、読売新聞社発行)によると、「村林商店」という配給飼料と化学肥料の製造販売の会社のビルとして建ったもの。大林組の設計施工らしい。
左:村林ビル正面玄関。1989(昭和64)年1月3日
右:村林ビル裏側。2002(平成14)年12月30日
玄関上部のテラコッタの飾りが目を引く。六芒星の紋章の両側にグリフォンを配した模様だが、なにか意味をこめたものだろうか? たぶん西洋的ムードを出すのが狙いだろうと思うが。
追記:2007.05.11
東村山のヨウタロウ氏からコメントを頂いた。それによると、このビルは関根要太郎の設計になるという。多摩の桜ヶ丘公園にある聖跡記念館の設計者である。
また、当ブログの兜橋ビル、藍沢ビル/日本橋1の兜橋ビルが関根要太郎の設計であるともご教示いたただいた。
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江東区の佐賀町も食糧ビルが取り壊されてから、面白みのない土地になってしまいましたね。残る村林ビルはこれから先も生き延びて欲しいものです。私にとってはこの建物はとても思い入れのある物件で、数ヶ月に一回『生存確認』しに行っております。というのは、このビルを設計したのが私がライフワークで研究している建築家・関根要太郎(1889~1959)の作品だからです。大正中期~昭和初頭にモダンな作風を前面に出し活躍しましたが、東京では多摩市の聖跡記念館(昭和5年築)とこの村林ビルが現存するのみです。(あと函館に数軒現存していますので、函館に行かれた時にでも是非チェックしてみて下さい。)
残る写真もじっくり鑑賞させて戴きました。その中で大発見の写真がありました!。日本橋にあった『兜橋ビル』です。この建物、何を隠そう関根要太郎(建築事務所)設計の百十三銀行という函館に本店を置く地銀の東京支店だった建物です。私の手元に当時の建築雑誌の露出過多で外観が分りづらいコピー一枚しかありませんが、『分離派ふう』の半円形の窓や、地番を考えるとほぼ間違いないと思います。しかし、私が子供の頃まで現存していたとは・・・。
貴重な写真コレクションの公開ありがとうございました。貴サイトの発展を祈っております。
ぼくは関根要太郎は知りませんでした。聖跡記念館は本やネットで知ってはいましたが設計者の名前は頭を素通りしていました。知らないうちに彼の作品を2点収録していたとは!
早速、ヨウタロウ様の貴重な情報をブログ本文(「村林ビル」と「兜橋ビル」)に「追記」しました。ご了承ください。
これからもよろしくお願いします。
私の父が和光堂製本を経営していました。
1994年に廃業するまで12-3年お世話になりました。
建物はお借りしていたものですが、お写真を大変懐かしく拝見しました。
最近は古いビルが貴重になってきて、このビルもかなり有名なひとつです。ネットでもけっこうビルの写真を見ることができますが「和光堂製本」の表札が懸かっていた時期のものは少ないかもしれません。
「1982年頃から1994年まで、ビルの1階を和光堂製本が借り受ける」というビルの履歴がひとつはっきりしました。
これを機に他の記事にも目を通していただけるとうれしいです。
また、色々感動の建築をご紹介ください!
富沢町のほうは、ハリオグラスという会社が入っているビルですね。常陽銀行だったときの写真があります。
多分、取り壊されているか、統廃合されていると思うのですが、今度確認してみます!
とりあえず川崎第百銀行だった建物を記事にしてみました。全体を撮った写真はぼけてますね。跡地はGoogleマップでは空地のように見えますが、現在はなにか建ったかもしれません。大通り沿いにあったので、あるいは目にしているのではないでしょうか?
桜に誘われて犬の散歩コースを延長して、今日は佐賀町まで足を伸ばし、このあたりの看板建築を見ながらぶらぶらしていてこのビルに出くわしました。
入り口にダビデの星を掲げたのには何か意味があるのか、単に西洋への憧れか…などと思いながら、他の建物とは明らかに違う質の高さにつらつらと見入っていたところ、年配の、でもおばあさんと言うにはちょっと早い可愛いい女性に声をかけられました。この芸術劇場の方で、こちらに移って40年になるそうです。
2階の団長さんがいらっしゃる事務所と3階の稽古場を見せてくださいました。あまり補修されていませんのでぼろぼろでしたが、内部もしっかりした造りで、階段の手すりや床などにも丁寧な仕事がされていました。アールの部分の窓から差し込む光が何とも良い雰囲気で、しばしタイムトリップしました。
耐震性にも問題がないという診断をいただいているとかで、嬉しいことに、取り壊しの話もいまのところ無いそうです。私の勝手な推測ですが、お話からは大家さんがどこか一徹な人で、安易な金儲けには興味がない方のように思われました。
ちなみに食糧倉庫のほうは、ギャラリーになっていることを知りながら訪問せずにいるうちに取り壊しになったと聞いてがっかりしましっけ。
震災対策から、私の住む月島・佃の看板建築は次々に立て替えられています。一つでも多くの古い建築が残りますように…。
2日の日は暖かくて散歩するには最適でしたね。私は用事があって浅草へ行ってきましたが、昨日の強風にもかかわらず、桜の花はしっかり残っていました。
建物を眺めていたら、中から人が出てきて「中もご覧になりますか?」と言われたということのようですが、驚きました。なんだか昭和30年代のような話ではないですか。私なんかが行くと警戒されるのかもしれませんが……
内覧できるようになりますので、この機会をぜひ!
なくなってしまうのは、地元民としてとても残念でなりません。