蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

家族計画運動  (bon)

2024-03-08 | 日々雑感、散策、旅行

      あぁ、まったく勝負にならず、スーパーチューズデーの結果は、アメリカ15州の
      うち14州でトランプが勝利しました。これにより対抗のヘイリーは立候補を辞退
      するといっています。「もしトラ」の脅威をどう回避できるのでしょうか?

 

 懐かしい言葉ですが、今日的には空しい響きがあります。 戦前は「産めよ殖や
せよ」の掛け声でしたし、もともと「子宝思想」にあった我が国では、堕胎罪があり
家族計画にはむしろ弾圧があり、1941年には政府の人口増加策がとられていたのです。
その僅か7年後の1948年には、人口過剰対策、すなわち少子化政策が打ち出されるの
です。

 1945年終戦直後には人口7720万人であったものが5年後には600万人増と急激な人口
増加があり、食糧難、住宅難から、1948年には優生保護法が成立し、人工中絶が合法
化されるのです。

 1950年代前半には中絶件数が110万件超/年となり、1960年まで、出生数に対する
中絶件数が約50%にまで上り、避妊は終戦後6%で1950年でもようやく19.5%だとあ
ります。

      
     (sankei.comより)        (時事通信より)

 この問題に対して、1954年には家族計画(避妊)が予算化され、いわゆる「母体
保護」の見地から家族計画運動が全国的に展開されるのです。

(社)日本家族計画協会は、1954年に活動を開始し、避妊を奨励し人工中絶件数を
減らすための取り組みを行うのです。50周年を迎えた2004年の記事に 「家族計画と
いうと、少子化問題と結びつけて、生まないことを奨励しているように思われがち
ですが、私どもの運動は人口問題ではなく、女性の健康を守る母体保護の視点から
始まりました。本会の設立当時は戦後のベビーブームの後で、もう子どもは欲しく
ないにもかかわらず受胎調節の知識が普及していなかったため、望まない妊娠をして
人工妊娠中絶をする女性が大変多かったのです」と言っています。

 中絶の届け出件数は1949年(昭和24年)の10万件から翌年には32万件と3倍増と
なり、1953年には100万件を突破し(上図参照)、多くの国民は産児制限に強い関心を
寄せていたのです。産児制限はやがて「家族計画」と言い換えられ、GHQによって
始められた生活改善運動に乗って地域ぐるみの取り組みに発展していきます。
 家族計画は、受胎調節の技術指導を行うだけでなく、生活水準の向上や母体保護の
知識普及、子供の教育など幅広い意味の中で使われたのです。

「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の
見地に立ってさらに強力に普及推進したい」として推進が図られるのです。いわゆる
少子化政策ですが、当時の日本人に避妊知識が十分に浸透しておらず、産児制限とは
人工妊娠中絶のことであると誤解している人が多かったのですね。

 政府は、避妊知識を国民に普及させるために、国立公衆衛生院による「計画出産
モデル村」事業として、子宝思想が根強く残っていた農村部を通じて、日本人に適し
た避妊方法、計画出産と受胎調節の指導などを行い、中絶の減少を図る取り組みを
1950年から7年にわたり実施されたのです。

 これらの動きを見ると、戦前の「産めよ殖やせよ」から一転して、国を挙げて
「産むな殖やすな」という少子化推進運動を展開した印象ですね。

                

 家族計画運動のそもそもの始まりは、1912年アメリカのマーガレット・サンガーが
「バース・コントロール運動」として、女性の命と健康を守る視点から活動を始め
ますが、当時アメリカでも避妊を公然と普及させることに大きな抵抗があったそう
です。

        マーガレット・サンガー(産児制限先駆者、1922)
         (ウイキペディアより)


 1920年には、日本の加藤シヅエとサンガーが出会うのです。 加藤シヅエ22歳、
サンガー40歳の時だそうです。2年後にはサンガーが来日し、これがきっかけとなり
日本における全国的な家族計画運動のきっかけとなっているのです。
 しかし、当時は、「産めよ殖やせよ」の時代で、これらの避妊推奨に対しては強い
圧力があったようです。それでも、日本陸軍は、慰安所を利用する兵士に「突撃一番」
と称するコンドームを支給し性病の流行と慰安婦の妊娠を予防したとあります。

 その後長い年月をかけて、冒頭に述べた経緯をたどり、1952年の国際家族計画連盟
の発足に伴い、ようやく1955年には日本でサンガーを招いて国際家族計画会議を開催
する運びとなるのです。

       国際家族計画会議(1955年、於 日本)
       (joicfpより)
       (サンガー、加藤シヅエら 通訳:村岡花子も)

 このような経緯を経て、経済社会の発展と共に女性の社会進出、都市化、高学歴化
などにより年々出生数減少傾向となり、1990年、合計特殊出生率1.57ショックを受け
て、政府は「少子化社会への対策」を始めて打ち出すのです。(「エンゼルプラン」
など) 

     出生数、合計特殊出生率の推移
   (厚労省より)

 その後、2000年代には社会全体で子育てを支援する法律・制度を、2010年代には、
「少子化対策」から「こども・子育てを支援する」新制度(2015年)へと展開し、
今次「異次元の少子化対策」へと繋がりますが、果たして有効な対策であるのでしょ
うか?

 2010年の調査による、35歳以上の未婚率が男性35.6%、女性23.1%もあり、未婚者
の9割が結婚の意思があるが、半数はその出会いがないとあり、いわゆる階層格差
(例えば年収300万円を超える)なども大きな要因だとされています。また、事実婚や
非嫡出子に対する差別を取り払った結婚の多様化が容認される社会への検討も必要
なのかもしれません。

                

 いずれにしても、以上に見てきた人口に対する政策の変遷のほか、社会の発展と
共に人々の結婚および子供(出産を含む)に対する考え方など根深い多様な要因の
あることが分かります。

 

 

Jolie Môme - C'est Si Bon

 

 

 

コメント
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