蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

ある日の書籍広告  (bon)

2017-05-28 | 日々雑感、散策、旅行

 10日ほど前のことですが、5月17日(火)の読売新聞朝刊1面下段の書籍広告は、次の
ような見出しが並んでいました。

   ・テロメア・エフェクト      NHK出版

   ・認知症介護ラプソディ      メディカルパブリッシャー

   ・逆にしたらよくわかる教育勅語  ハート出版

   ・死ねない老人          幻冬舎

   ・ジェントリフィケーション    古今書院

 どのタイトルも興味を引くものばかりです。 中には、どのような意味かも分から
ないカタカナもありますが、皆さんは既にご覧になっていますでしょうか?

 私は、この内のどれも手にしたことが無く、かなり遅れているのかもしれませんが、
別に慌てて一線をそろえる必要も 既にない身ながら、どれからか、ちょっと読んでみた
い気もしています。で、先ずは、ネット調べでどのようなものなのかを探ってみたのです。

 以下には、ネット記事をそのまま転写させていただいたりして、広告の片棒を担ぎました。

 ●テロメア・エフェクト  
 これは、5/16のNHKクローズアップ現代で放送されたそうですが、大体以下のよ
うな内容であるらしいのです。
 テロメアというのは、私たちの身体を作っている37兆個の細胞が、生きている限り
分裂してどんどん入れ替わっているわけですが、この細胞分裂に深くかかわっている
のが染色体の先端にあるテロメアなんだそうです。そして、テロメア
の長さは、生まれ
た時には15,000(=塩基数)あるのが、細胞分裂の度に少しずつ数が減って行き、30歳
を超える頃にはその長さは半分(6,000)になり、加齢につれてさらに塩基数は減少する
というしろもので、染色体は安定性を失い、細胞が老化して行く・・そんなことなんです。

『“同じ年齢なのにどうしてこうも違うのか”と思うことが少なくない。たとえば同じ
60歳でも、Aさんは背筋がピンとしていて、肌には張りがあり、病気などどこ吹く風。
それに対してBさんは、腰が曲がっていて、肌にはシミやたるみが目立ち、多くの慢性的
な疾患に悩まされている。ふたりの違いに大きく関係しているのが、「細胞の老化」だ。
 わたしたちの体を構成する細胞は分裂を繰り返し、日々新しいものに置き換わっている。
そして、細胞が分裂・再生できなくなると、当の細胞は老化してしまい、体の組織も
老化を始める。先の例で、Bさんが早くから老けこみ、多くの疾患に苦しんでいるのは、
その細胞がすでに老化しているからだ、というわけである。

 細胞の老化に「早い/遅い」があるのはどうしてなのだろう。 そのポイントになる
のが、本書の主人公ともいうべき「テロメア」である。テロメアとはどんなもので、
細胞の老化とどう関係しているのか。本書はそれらの点を一般読者に向けてわかりやす
く説明していく。 なお、著者のひとりのエリザベス・ブラックバーンは、テロメアに
関する発見で2009年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。』

『テロメアとは染色体の先端部分を指し、寿命を司り、加齢とともに短くなることがわ
かっている。しかし最新の科学によれば、生活習慣しだいでテロメアを伸ばし、健康
寿命を延ばすことができるという! テロメアでノーベル医学生理学賞を受賞した著者
自らがその仕組みを解説するとともに、健康長寿に効く運動、食事、睡眠、ストレス
対処法を伝授。テロメアの自己診断テストや今日からできる実践プログラム付き。世界
20か国で続々刊行の大注目書!』


 ここまで言われてしまえば、読んでみないわけにはいかなくなってくる・・でしょう
ね。 いや、もうここまで老化してしまえば、今更読んでももう遅い・・!

              

 

●認知症介護ラプソディ 

 世の中には多数の介護保険制度についての資料や書籍があるが、専門用語などが多く、
一般には読みづらいものとなっている。また、認知症という病気についての書籍も、
医療用語が多数用いられているなど、わかりづらいことも多い。

 この新刊では著者が認知症の「ばあちゃん」を介護するストーリーを通して、要介護
認定をいかにして乗り切るのか、自分の物が盗まれたと思ってしまう妄想や徘徊の意味、
認知症のサイン、認知症の薬についてなどか紹介されています。
 2016年10月「認知症介護ラプソディ -笑って学ぶ認知症介護が楽になる40の知恵-」が
発売された。 この新刊は笑いながら読むことができるストーリーの中で、認知症の介護
において、必要なテクニックなどが紹介されている。とありました。

 著者は 速水ユウ氏(女性)。そのプロフィールは、氏のブログから 『作家、認知症
介護・予防ナビゲーター、保健師、認知症予防食生活支援指導員、野菜ソムリエプロ。
ベジフルビューティセルフアドバイザー。

 大阪府立看護大学(現大阪府立大学)を卒業し、病院勤務(看護師)、役所勤務(保
健師)を経て渡米。ミズーリ大学社会学部で社会学(社会学学士)、ミネソタ州立大学
でジェンダー学(女性学修士)を学び、研究助手を務める。留学前後に一般派遣、医療
派遣を経験する。その後、慶応義塾大学看護医療学部地域看護助教、甲南女子大学看護
リハビリテーション学部老年看護助教を経、現在は企業で保健指導のかたわら執筆活動
をしている。 趣味は家庭菜園、4歳男1歳女の母。』

 この本も、介護(するも、されるも)すぐ間近に迫っている訳ですから、必読かも
知れません。
あぁ~!      1,180円(税別)

         

 

●逆にしたらよくわかる教育勅語    

 そういえば、少し前になりますが、国会でこの問題が論じられて、なんでも野党が
これを“危険思想”呼ばわりされていたような記憶があります。
『教育勅語と聞いてどんな内容を想像しますか。実際に読んだことがない方には、なん
となく怖いイメージがあるかもしれません。
 教育勅語とは、孝行、友愛、夫婦の和、
朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法(じゅんぽう)、
義勇という12の徳目からなる簡単明瞭かつ当たり前な「心がけ」にすぎません。では
なぜそれに「危険思想」というレッテルが貼られてしまったのか。
その答えがこの「逆・教育勅語」です。

 「一、親に孝養を尽くしてはいけません」「二、兄弟姉妹は仲良くしてはいけません」
など徳目を逆にしてみたところ、まさしく「現代の日本そのもの」を表してしまったの
です。 実際、講演などで話題にすると、最初は笑っていた聴衆が、その恐ろしさに気づ
いてみるみる真っ青な顔になったそうです。
 教育勅語を廃止したのはGHQでした。時の文部大臣は「素晴らしい内容だから」と
抵抗しましたが、だからこそ廃止されてしまったのです。
そして戦後日本の教育界や
左派メディアがその内容を不当に貶(おとし)めた結果、道徳もモラルもない逆・教育
勅語の世界が実現してしまいました。』

『逆・教育勅語

   一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。

   二、兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。兄弟姉妹は他人の始まりです。

   三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。

   四、友だちを信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。

   五、自分の言動を慎しんではいけません。嘘でも何でも言った者勝ちです。

   六、広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。わが身が第一です。

   七、職業を身につけてはいけません。いざとなれば生活保護があります。

   八、知識を養い才能を伸ばしてはいけません。大事なのはゆとりです。

   九、人格の向上につとめてはいけません。何をしても「個性」と言えば許されます。

   十、社会のためになる仕事に励んではいけません。自分さえ良ければ良いのです。

 十一、法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。自由気ままが一番です。

 十二、勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません。国家は打倒するものです。』

  まぁ、“勅語”というのが、引っかかっているのかもしれませんね。

                 

 

●死ねない老人  

 『「はやく死にたいよ」忍び寄る“老後悲劇”の足跡―他人事では済まされない!
高齢者医療に25年間携わってきた医師が明かす「死にたくても死ねない高齢者」の悲惨な
実態。』 
『“生きる希望を持てない”“本人の意思に反して生かされている”…。そんな「死ね
ない老人」が増えている。高齢者医療に長年携わってきた医師が高齢の患者たちの心の内
を紹介しつつ...』

        杉浦 敏之著  2017/2/28発売 

 ふ~ん! 身につまされそうで怖い感じです。

           

 

 ●ジェントリフィケーション 
           藤塚 吉浩 著 単行本

 都市近郊でも、商店街などが、歯抜け状態になるなどの変化が起き、何とか活性化した
いなどと都市の再開発問題はこれまで盛んに論じられてきましたし、私らが現役の頃も、
特に中核地方都市においてこれらの問題を検討して来たことがあります。 しかし、この
ようなプラス発想での取り組みではなく、都市再開発における負の側面がある事を正しく
捉えなければならないと警鐘を発しているのですね。そこに新しい問題が発生している。

『ジェントリフィケーション(Gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多
く住む中下層地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、再開発や新産業の発展
などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市
再編現象である。 日本語では、高級化、中産階級化、階級浄化などの訳語があてられる。
これにより、貧困地域の家賃・地価の相場が上がり、それまで暮らしていた人々が、立ち
退きなどによって住居を失ったり、それまでの地域コミュニティが失われたりすることが
問題となる。』

 ジェントリフィケーションは、ニューヨークを始めとするアメリカなどに広くその事例
があるようですが、日本での代表的な事例として、吉祥寺が挙げられていました。

『「このまま全ての地域がジェントリフィケーションされ続けてしまっていいのか?」
真剣に考える時が来たのかもしれません。』

         


   

 今日(日曜日)これ(朝)から、蓼科農園に向かいます。今年2回目で、“大合宿”と
名付けて
野菜の苗たちを大量に植えつけます。 サツマイモの苗は、現地調達しますが、
それ以外の苗、長ナス、米ナス、ピーマン、パプリカ、かぼちゃ、スイカ、ししとう、
トマト、などなど・・20種類以上の苗は、東京練馬で pookyさんが、愛情いっぱいに
(タネから)育苗した者たちを持参して植えつけます。
 黒豆は、これまで練馬で苗に育てて持参していましたが、昨年の実験から種の直播き
でもOKでしたので今年からは、タネとしました。

 

 

 

 

 

 

 

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応仁の乱  (bon)

2017-05-26 | 日々雑感、散策、旅行

 突然、申し訳ありません。

 これって、“人世 むなしい”で、1467年(応仁元年)に始まって、今年、550年に
あたるんですね。昨年には、中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著)
が、瞬く間にヒットしたといいますし、今月初め頃にも宝島社『新説 応仁の乱』の
広告があったり、またその他にも目についていました。

 とにかく、内乱が11年も続いて武士だけではなく、足軽をはじめ町民や百姓までも
入り乱れた、無政府状態の京都の町は、ただ荒廃するばかりだったのでしょうね。
ずいぶん昔に読んだ、PHP文庫『蓮如』(二宮隆雄著)の中でも、そのくだりは次のよう
に描写(部分)されていました。

『応仁の乱がはじまった。 京で乱世を顧みずに、酒色にふけっていた将軍義政のもと、
室町幕府の二大勢力である山名宋全と細川勝元が、五万の兵で戦いを始め、山名方が西軍、
細川方が東軍として、名分無き大乱へと突入していった。~そのため京の街は壊滅的な
破壊が始まった。 戦火は上京の一色義直邸を炎上させた。つづいて細川勝久邸、山名
成清邸が焼かれた。その戦火は寺院にも及んだ。知恩院、三宝院、実相院が相次いで戦火
に焼け落ち、仁和寺、大覚寺などの門跡寺院も赤黒い炎に包まれた。~辻々で異臭が鼻を
ついた。殺されて鎧をはがれた裸の死骸が、折り重なって打ち捨てられ、野犬が腐肉に
喰らいついている。~』

 学校でも習いました(と思います)から、今更ですが、簡単におさらいをしてみました。
本当に“ひどい”、やるせない争いだったのですね。

 ウイキペディアには、「応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明
9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波
氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の
継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並ん
で戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束し
たが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。」とあります。

 もともと、この下地として、鎌倉幕府末期頃から、名門武家・公家などの旧来の支配
勢力は、その既得権益が侵食されつつあり、室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は
弱く 細川、斯波、畠山などの宿老の影響を強く受けていたし、さらに彼らもまた その
領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けているという風に安定していなかったのですね。
おまけに、当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家、
守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因があったのです。
将軍、細川、
山名、畠山らもいざこざが絶えず、恐らく関連氏族も混沌としていたのでしょう。

 そんな時、将軍足利義政は、御年29歳にして、正妻 日野富子や側室との間に後継男子が
なく、将軍職を仏門にいる実弟の足利義視(還俗名)に譲ることにしましたが、義政は
まだ若く、これからも男子が出来る可能性があることから なかなか了承されなかったため、
仮に、今後男子が生まれたとしても、将軍職には就けないとの誓約書まで書き、将軍職
移譲に向けてことが進んだのです。 ところが、1年もすると、男子足利義尚が生まれ、
正妻の日野富子は、自身の子(義尚)を将軍に付けるため、山名宋全に接近するのです。
還俗までした義視の 後見人である細川勝元と山名宋全との間に大きな対立を招くことに
なったのです。

 その後も、将軍足利義政は、側近の伊勢貞親らの進言によって、斯波氏宗家の家督を
突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えたり、さらに、足利義政の側近は、謀反の噂
を流して足利義視の追放、誅殺を図ったりしたため、山名宗全は一色義直や土岐成頼らと
ともに、不満を持つ足利義視と斯波義廉を支持し、足利義視は後見人である細川勝元を
頼ることになったのです。この時は、勝元と宗全は協力して足利義視の無実を訴えると、
足利義政は今度は、伊勢貞親を追放し、側近であった斯波義敏らも都を追われた。そして、
斯波家の家督は元の斯波義廉に戻されたのでした。

 なぜこのようなことになったのかは、計り知れないところですが、いずれにしても毅然
としたところがなく、一本筋が通っていないことから、足利義政の政治力は著しく低下し
ていったのでしょう。このような風潮は、のちの下剋上の片鱗を匂わせているともとれる
のです。

 これで事態は収まるどころか、不満を抱いた山名宗全、斯波義廉の支援を受けて、突如
畠山義就が大軍を率いて上洛したので、将軍義政は、直ちに畠山義就を引き入れますが、
それを許さない細川勝元は、御所を占拠して将軍から畠山義就を追放するよう仕向けるの
ですが、妻富子がこれを山名宗全に漏らしたためこの話はお釈迦になるばかりか、宗全の
立場が強くなり、勝元、宗全は決定的に対立関係へと発展するのでした。

     応仁の乱勃発の地  (京都市上京区、上御霊前神社鳥居前)
         (ウイキペディアより)

 

 1467年1月にはそれぞれの武将の動きを活発になり、兵を挙げたり火を放つなど不穏な
状態となり、勝元も四国他から兵を京都に集結させるなど緊張が高まってきました。3月
に元号が文政から応仁に改元され、細川勝元側は京都周辺の主要な橋を焼き、陣を固め、
一方、山名宗全方は五辻通大宮東に本陣を置いたのです。   

 ここに、1467年5月応仁の乱本戦が始まりました。『応仁記』によれば細川方(東軍)
が16万、山名方(西軍)が11万以上であったと記されています。前半は京都を中心とした
山城一帯が主戦場でしたが、次第に地方へ戦線が拡大していったのです。

 東西両軍の陣容は下の表(部分)に示す通りですが、同じ氏族の中でも敵味方に分かれ
たり、途中で寝返りしたり、戦々恐々の中であったのだろうと推測されます。また、特徴
的なのは、両軍とも兵力不足から、正規の武士身分でない足軽を大量に雇い入れているこ
とです。足軽というのは、盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者の集団に近く、市街の放火や
略奪を頻繁に行ったそうで、まあ、むちゃくちゃだったのでしょうね。


 
 
 
    ※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、
     ×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。
 

  幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は、
しかたなく戦わざるを得なくなったというふうに、戦い自体にはさしたる必然性もなく、
戦意がない合戦が長期間続いたことになるのですね。

 当時の、各大名の勢力図がありましたので、ここに引用させていただきました。

       勃発当時の勢力図 (ウイキペディアより)
        
           青:東軍  黄:西軍  黄緑:両軍伯仲

 

 結局このような長引く戦いを通じて、室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化
することになったのです。また、守護の財政は逼迫し、権威と財政を失った守護は、国人
や家臣団に対する支配力を著しく低下させていったのです。 この従来の家格秩序を破る
風潮は下剋上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となるのです。 この戦いによって、
日本のこれまでの精神性が変化したとみられ、戦国時代へと続くことになります。ここに
歴史の転換点とする見方が頷けるのですね。 戦国時代には、ご存知の信長や、秀吉・・
その他多くの有名な武将、ヒーローが活躍し、歴史の中でも面白く語られて、ある意味
わかりやすいのですが、この応仁の乱は、どう見てもシャキッとしたところがないわりに、
長期間、壊滅的な戦いが続けられた不幸だけが残ったようにも思えるのですね。

 応仁の乱の終息について、ウイキペディアに次のように記されていました。

『この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性
的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することも
なく、戦後罪に問われる守護もなかった。』と。

 

 

 

 

 

 

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ヤマボウシ  (bon)

2017-05-24 | 花鳥風月

 ここ2~3日、真夏のような暑さで、テレビなどでは、急な暑さに備えて熱中症対策が
盛んに報じられています。 
 ベランダのヤマボウシが、元気に白い花を広げていますので、ちょっとブログに取り
上げてみたいと思いました。 過去のブログ記事にも、度々登場していますが、いつも
脇役ばかりでしたので、今回は主役として記事アップしてみました。

 昨年のブログ記事、2016.5.22にヤマボウシを取り上げていましたが、記事のタイトル
は「今日は真夏日」とあり、冒頭に

    『 32℃  福島、京都、岐阜など
         31℃  名古屋、さいたま、熊本など
         30℃  東京、大阪、岡山など 』

などが紹介されていましたから、毎年この時期は、急激な気温上昇があるのですね。

 
 ヤマボウシ(山法師、山帽子、学名Cornus kousa)は ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ
亜属の落葉高木とありまして、ハナミズキの仲間ともいえるようです。が、ヤマボウシ
は日本原産で、ハナミズキはアメリカ産ですね。ちなみに、ハナミズキは、アメリカヤ
マボウシとも呼ばれているそうです。

       ヤマボウシ  
              (2017.5.23)

 

 白い花は、よく見ると白い花びらみたいな4片は、総苞(そうほう)と言って、葉の
変形だそうで、その真ん中に ちょこっと小さな丸い頭のようなのが花なのだそうです。
坊主頭に白い頭巾とみたてて『山法師』(ヤマボウシ)と名付けられたとか。

 日本、中国、朝鮮半島に分布する落葉高木で、10mの高さに成長するようですが、ベラ
ンダでの鉢植えでは、せいぜい2mくらいです。  街路樹や庭園樹として、人気が高い
そうです。また、江戸時代あたりには、海外でも観賞用樹木として栽培されていたと言わ
れています。

       ヤマボウシアップ 
         

 

  このヤマボウシ、秋になるとイボイボのある真っ赤な実をつけるのです。大きさは、
キンカンの実くらいですが、見た目も面白く、また、果肉は濃い黄色でマンゴーのよう
な甘みがあり、シャリシャリとした食感で食べることができるのだそうです。
 これまで、そんなことは知りませんでしたから、食したことはありませんでした。
ジャムや果実酒などによく加工されているそうで、
今年の秋は何か試してみたいところ
ですが、数がそれほど多くありませんから、ジャムや果実酒は無理ですので、一粒つま
んでみるくらいですね。

    ヤマボウシの実(2014.9.18のブログから)
         

 ヤマボウシには、いくつかの種類があります。 このうち、我がベランダのは、
ミルキーウエイかもしれません。

 ウルフアイ 葉と花に白く縁取り模様が入っている。樹形が美しい。

 ミルキーウェイ 花びらがクリーム色から純白に変化する様子を楽しむことができる。

 ホワイトミヌマ 白く小さな花びらを6つつける品種で、かわいらしい。

 ベニバナヤマボウシ うっすら赤色のついた総苞片が特長。

 ミスサトミ 濃いピンク色の花びらと葉の緑色と美しいコントラストを演出。

 ステラーピンク ヤマボウシとハナミズキの交配種で、開花期は両者の中間。

 ビックアップル 大きな実をつけるヤマボウシで、食用に適している品種。

 ヤマボウシとハナミズキの違いは、原産が違いますが、見た目では、上図のヤマボウシ
アップの写真では、総苞片の先端は尖っているのに対して、ハナミズキの総苞片は下の
写真のように丸みがありますからすぐにわかりますね。

        アメリカハナミズキ(2017.4ベランダにて)
         

 

 

 

 

 

 

 

 

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スペースガード  (bon)

2017-05-22 | 日々雑感、散策、旅行

        先週は、浅草三社祭で賑わい、昨日の21日は、二十四節気の「小満」でした。
        早や 陽気が良くなって、万物の成長する気が次第に長じて天地に満ち始める
        ことから小満といわれています。 しかし、この2~3日の暑さ、30℃を超えて
        真夏日! テレビでは、盛んに 熱中症注意を
呼びかけています。

 

 プラネタリー・ディフェンス・コンフェレンス(PDC)という国際会議が、この5/15~
19の日程で、東京お台場の日本科学未来館で開催されました。天体の地球衝突について
国際的な議論が行なわれました。  この国際会議は、2004年に始まり、今回が5回目で、
初めてアジア(日本)で開催されたのです。  24か国から約200人の専門家が参加し、
「仮想小惑星『2017 PDC』の地球衝突シナリオ」が提起されて、どのように対処すべきかを
論じるのが目的だそうです。

      国際会議もよう (日本科学未来館にて)
        (読売オンラインより)


       主催:IAA (International Academy of Astronautics)
       共催:JAXA 宇宙科学研究所(JAXA/ISAS)、
             国立天文台(NAOJ)、
             日本スペースガード協会(JSGA)、
             日本惑星協会(TPSJ)    
       協力:星空公団、日本大学阿部研究室

 

  また、5/20には、関連企画として、「地球を守れ!~天体の地球衝突にどう対応す
るか~」について、同館のイノベーションホールで3時間にわたり 5つのテーマでプレゼン
テーションがありました。 この模様は、ネットで同時中継(ライブ)がありましたので、
すべて聴講しました。久しぶりにセミナーに参加した気分になりました。

 これら、会議もようやプレゼンテーションについては、後述したいと思います。

 なお、今回の共催者の「日本スペースガード協会」は、高校の3年後輩の磯部琇三さんが、
1996年に立ち上げられ、亡くなるまでの10年間、初代理事長として活躍されていました
国立天文台助教授時代にも、いろいろと天文に関するお話を伺ったことがありました。  

 さて、前置きが長くなりましたが、日頃、あまり耳にすることもない話題ですので、どの
ような事柄なのか、それがなぜ問題なのか? などについて、素人ながら、そのサワリを
まとめてみました。

 この国際会議は、天体の地球衝突について国際的な議論を行う場で、「プラネタリー・
ディフェンス・コンフェレンス(PDC)」とよばれています。  太陽系の小惑星が地球に
衝突する可能性はゼロではなく、これを観測して、いち早く捉えて防御策を講じようという
のがその目的なんです。

 ウイキペディアには、「スペースガード(Space Guard)とは、地球に衝突する恐れのあ
る天体や宇宙活動の結果として 宇宙空間を彷徨うスペースデブリ(宇宙の塵)を観測し、
かつまた、追跡を行うことである。 そして、それらの天体の地球衝突の回避を目指した警
報の発令や、今後の宇宙活動の障害となるスペースデブリの位置を正確に予測することで、
それらの危機を未然に回避するための観測計画」とあります。

 そもそも、約6550万年前に突如として恐竜などが絶滅してしまった原因は、小惑星が地球
に衝突し 直接的なエネルギーによる破壊の他、発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵
埃が太陽の光を遮り、全地球規模の気温低下を引き起こしたとの隕石説が有力とされていま
す。ユカタン半島で発見されたクレーターは、その隕石落下跡と考えられているのだそうで
す。およそ全ての生物種の70%が絶滅したと考えられているといいます。

 また、天体の地球衝突として新しい記憶に,2013 年のロシアのチェリャビンスク隕石が
あります。この隕石落下により、100 km以上にわたる範囲で窓ガラスが壊れ、1,500人ほどが
負傷したという被害があったそうです。 この時の隕石の大きさは、NASAの推定では直径が
17 m、他の推定では直径が20 m程度と、いずれも小惑星としては非常に小さいものであった
のです。 

 小惑星(Asteroid)というのは、太陽系小天体の一つで、直径が数10mのもあれば、数km
の大きなものもあるそうで、恐竜絶滅の原因とされた小惑星の直径は10~15kmと想定されて
います。 で、小惑星の数は、2012年で、軌道が確定して小惑星番号が付けられたものが
329,243個、この他に登録されている小惑星は 138,053個あり、直径が1km以下の未発見のも
のが数十万個もあると推測されている・・といいますから、すごい数ですね。そして、ほと
んどの小惑星は、木星軌道と火星軌道の間にあって、太陽からの距離が約2 ~4天文単位
(後述します)の範囲、小惑星帯(asteroid belt)に集まっているといいます。

 これらの小惑星の中で、潜在的に危険な小惑星(Potentially Hazardous Asteroid=PHA)
として、地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、かつ衝突時に地球
に与える影響が大きいと考えられる少なくとも直径が100m以上の小惑星が分類されているの
です。 また、一般に、地球近傍の小惑星全体をNEA(Near Earth Asteroid)とも呼んでい
て、今回の会議ではNEO(Near Earth Object)と呼ばれていました。

 で、このPHAについて、ウイキペディアの表から、その主なものを抜粋して以下の表にまと
めてみました。

       

 

 この中に、はやぶさで探索した「イトカワ」やはやぶさ2の探索対象の「リュウグウ」が
あります。 このほか、直径が7kmのものや、静止軌道(赤道上の高度約35786km)内に入り
込む小惑星、はたまた衝突確率が最も高い(といっても0.04%)直径が1100mのものもある
とか・・。 しかし、衝突が起きるとしても、2880年3月16日だと予測されているのですね。 
な~んだ! という感じかもしれませんが、もし、これが本当に衝突したとすれば、その
被害は甚大でかっての絶滅にまで及ぶかも・・。

 そして、衝突の可能性のある小惑星が観測されたならば、これをどのように回避するか?
の問題があり、後にも述べますが、発見が何十年、あるいは100年オーダー前でないと、
対策がとれない・・そんな代物のことを論じているのですね。

 20日のセミナーでも、説明されていましたが、スペースガード問題は、次の5つの項目に
ついて具体的な検討・活動が不可欠だと述べられていました。すなわち、

  ①発見・軌道推定、 ②追跡、 ③特徴・性質分析、 ④防御、 ⑤教育・訓練

で、まずは発見から始まりますが、これらを観測し続けながら種々の検討分析を行い、必要
に応じて政府並びに関係機関等との協力・協調が求められていました。

 

 今回の国際会議に入る前に、いろいろ、問題の所在、概念など説明しなければならない
事項が多すぎて、なかなか本丸に入れないもどかしさがありますが、国際会議も大体この
ような中身を具体的に検討・議論されているようです。

 理解の一助のため、以下にいくつかの用語、単位などを列記します。(いずれもウイキ
ペディアより抜粋)

 EMoid
 PHA(潜在的に危険な小惑星)に分類される小惑星は、地球軌道との最小交差距離(Earth Minimum Orbit Intersection Distance EMoid)が0.05AU(約748万km)以下で、なお
かつ絶対等級(惑星の絶対等級でH)が22.0より少ない数値の小惑星の事である。 直径が
140m以上の小惑星。

 天文単位(AU)
 天文単位は、地球と太陽との平均距離に由来している。 太陽系内の惑星などの天体間の
距離を表すために広く用いられており、太陽系内の天体の運動を表す天体暦においては、
その基礎となる天文単位系で長さの単位となる重要なものである。

  1auは、1.49598×1011m(約1億5000万km)=太陽と地球の平均距離   
 太陽系内の惑星や彗星などの天体間の距離は天文単位を用いることで、概して扱いやすい
大きさの値で表すことができる。例えば、火星が最も地球に接近するときの両者の距離は 
0.37 au ほどであり、土星までは太陽からおよそ 9.5 auなどという。 

 絶対等級
 星(恒星)の明るさを表す数値(mで表す)である。星は距離が違うだけでなく,明るさ
も違っており、これを同列で比較するため、ある距離(10パーセク=32.6光年)に仮にその
星を置いた場合の明るさを絶対等級として表示する。数字の小さい方が明るい。 1等星は
6等星の100倍の明るさがある。また、彗星や小惑星などは、太陽からの光を反射して輝いて
いるので、明るさは太陽からの距離に依存しているため、太陽と地球の両方から1天文単位
の位置に置いときの明るさを絶対等級(H)と呼んでいる。 主な小惑星の表では、このHが
使われています。 

 ヤルコフスキー効果( Yarkovsky effect)は、天体からの熱放射の不均一が生じること
により、天体にモーメントが生じ、小天体の軌道が影響を受ける効果である。

 トリノスケール (Torino Scale) は、地球近傍天体(NEO=Near Earth Object)が地球に衝突
する確率、及び衝突した際の予測被害状況を表す尺度で、色と数値で表される。マサチュー
セッツ工科大学のBinzel教授により提案され、1996年イタリアのトリノで開催された国際天
文連盟の会議で採択されたため、このように定義されたとのこと。

        トリノスケール
        

  トリノスケールは、リスクの低い順から白、緑、黄、オレンジ、赤と色で表される。
白色は危険性なしの領域。0は、殆ど衝突の確率がないか、あったとしても隕石など小さな
もので途中で燃え尽きてしまうようなレベル。緑は普通で、天体は発見されたが危険度は低
い。 黄色は、天文学者が注意するレベル。 オレンジは、脅威のレベルで、具体的な検討、
対策などを議論するレベル。 赤は間違いなく衝突する大変な状況で、8は数千年に一度、
9は1~10万年で起こる、10は10万年以下に起こり全地球的に壊滅的被害が想定される・・
そんなレベルに区分されています。

  本題に入る前準備が、ずいぶん長くかかりましたが、これらの基礎知識を持って、今回の
国際会議のテーマである「衝突回避の演習」の一部を見てみましょう。


 与えられた設問です。 

《新たな小惑星が見つかった。国際天文学連合は「2017PDC」と命名し、軌道計算か
ら、地球に衝突する可能性がある「潜在的に危険」と分類された。NASA(米航空宇宙局)
とESA(欧州宇宙機関)は、10年後の2027年に衝突の可能性があると推定。直径は100
~250メートルとみられる。 当初4万分の1だった衝突確率は、各国の観測機関の追跡
観測の結果、2カ月あまりで1%近くに上昇した。衝突危険エリアは北太平洋から東京、
韓国、中国、ロシア、英国北部にまで広がる。人類はどう対処するのか?》

 まずは、探査機で小惑星を詳細に観測し、軌道を特定し、修正してゆく。そして「イトカ
ワ」で、採取したように天体の物質、性質を分析把握し、衝突回避策の検討データを取集する。
次に衝突回避策には、小惑星の特質に沿って様々な方法の検討が行われますが、最も安全で
確実だとされる、「万有引力」を利用する方法があります。目的の小惑星の近傍に探査機の
ような人工物を配置して、それとの引力作用により、小惑星の軌道を変えて、衝突を回避す
るやり方です。しかし、この方法で効果あらしめるためには、探査機のような人工物の質量
がかなり重くなければならず、効果的な重さのものを打ち上げられるか 実現方法の検討が
必要となります。そして、少しずつ軌道を変化させながら、地球に衝突するまでの時間内に
完了させられるかどうか? 

 あるいは、ヤルコフスキー効果を狙ったやり方の実現方法の検討もあります。 しかし、
この場合、希望する方向に軌道修正をさせるためにどのような場所に、どのような物体を
突入させるかなどの難しさがあります。 また、物質を小惑星に衝突させて破壊してしまう
やり方も検討されるでしょう。しかし、直径が100m以上もあるような天体に、衝突させて、
うまくその小惑星が粉々に破壊され、小さな隕石群になれば成功ですが、そうでない場合に
は、相変わらず大きな部分が残り、さらに、軌道が変化してしまうなど かえって危険を
はらんでしまうケースも考えなければならないでしょう。

 最後に、核を打ち込んで小惑星を破壊させるやり方も選択される可能性があります。この
場合も、破壊した後がどのようになるかが事前に想定しにくい難点があります。バラバラに
なった破片群が地球上に降りかかり太陽光の遮断による気候変動の影響や核そのものの影響
も問題が残ります。  これらの回避策を、検討したうえで、新しい技術の必要有無や開発
方向への誘導が重要となるでしょう。

 また、不幸にして何らかの衝突があるとした場合の地上における対策が必要となります。
まず、情報の正確な把握・伝達と国際協調、必要機関への連絡体制など冷静な処置と対策が
とれるような体制をどのように構築しておくか、詳細な検討が求められるでしょう。衝突時
の衝撃の問題、津波発生、爆風、火災などの想定と対策、そして、避難ができるのかどうか、
食料や生活のための物資は十分得られるだろうか?

 さらに、原子力発電所やその他の重要設備の保護は大丈夫か? そうでないならどのよう
に対処すればよいか・・などなど、とてつもない大きな課題が突如立ちはだかることになる
のですね。

 会議の模様は詳細には、まだ報告されていませんので一部の情報から想定した内容を書き
ましたが、20日に行われたネットライブ中継のセミナーは、ほぼすべて聴講しました。
プログラムは以下の通りです。

地球を守れ!~天体の地球衝突にどう対応するか~
 13:30 - オープニング : プラネタリー・ディフェンスのやさしいお話
                 吉川真(JAXA 宇宙航空研究開発機構)
 14:00 - 太陽系小天体の謎~予想通りにならないから面白い~
                 渡部潤一(NAOJ 国立天文台)
 14:30 - 小惑星から地球を守る ※ 1
                 ブルース・ベッツ(Bruce Betts、米国惑星協会)
 15:00 - 休憩
 15:10 - 小惑星を発見しよう!
                 浅見敦夫(日本スペースガード協会)
 15:50 - アステロイド・デイ~発想から世界的な動きへ~ ※ 2
                 グリゴリ・リヒター(Grigorij Richters、
                        アステロイド・デイ 共同創設者)
 16:20 - クロージング・トーク(渡部・吉川)
 16:30 閉会
        

 今回初めて、この問題に少しばかり深入りしてみましたが、用語自体も理解できないよう
な内容が多く、とても分かりやすくレポートするなど、私には荷が重すぎました。なので、
これを読む人にとりましては、はなはだ迷惑なことと身が縮む思いですが、まことにご容赦
のほど切にお願い申し上げます。

 明日に迫った問題も、なかなか処すことができない昨今のあわただしい時代に、遥か何年
も先の問題を論じていても、いざ鎌倉のそれが大きいと想像できるため、架空のお遊び?の
ようにはとても感じられないのです。

 お疲れさまでした!

 

 

 

 

 

 

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横山大観  (bon)

2017-05-20 | 日々雑感、散策、旅行

 このほど(5/18)、友人の誘いを受けて、横山大観記念館の名品展をお目当てに上野
池之端に行きました。
  行程を振り返りますと、待ち合わせ場所の近くの「びわ湖長浜観音堂」に立ち寄った後、
お目当ての大観の名品展に堪能し、そこから少し不忍通りを北上して、脇道に入り、「竹久
夢二」の弥生美術館(以前に来たことがあるので)を素通りして、東大弥生門から、キャン
パス内に入りました。  久しぶりの広い東大キャンパスを縦断するように、三四郎池、安田
講堂、赤門と抜けて、17号線を北に進んで、言問通りを下り、白山通りの春日まで来てしま
いました。ここでお茶して別れるまでに、既に10000歩は優に超えていました。 予報では、
急な雷雨が来る・・ということでしたが、幸いパラパラと来た程度で、殆ど傘は使いません
でした。 帰宅後、テレビで渋谷界隈の激しい雨を見た時は、信じられない感じでした。

 

 びわ湖長浜観音堂という、こじんまりとした展示スペースが、上野不忍口に近くありま
した。 1年半くらい前に開設されたとのことでしたが、「国内初! 地方自治体による
『観音』がテーマの情報発信拠点が東京・上野に」というコンセプトがとても新鮮に映り
ました。 びわ湖と竹生島の取り合わせを、不忍池と弁天堂に似せたこの地に開設したと
聞き、滋賀県長浜市の新しい企画を想像して、昔の自分たちの周りの出来事が蘇ってきた
のでした。 2~3か月ごとに展示内容が更新されるとのことでしたが、長浜には多くの
お寺があり、観音様には事欠かない(失礼)わけですが、今回のメインは、長浜市指定
文化財「聖観世音菩薩立像」の優しいお姿で、平安時代、木造、像高97.8cmでした。
この他、仁王像の彫刻や写真パネルなどで紹介されていました。

          聖観世音菩薩立像(撮影許可がありましたので)
           

 

 初々しい2人のお嬢さんの説明に、あまちゃをご馳走になって、なんとなく優雅な心地
になって、不忍通りを北上しました。 通り沿いにひっそりとその入り口はありました。
どうかすると通り過ぎてしまいそうな、回りのビルに挟まれたこじんまりした「横山大観
記念館」がありました。建築にも造詣が深かった大観は、自らデザインし、部材選定まで
したという思い入れ深い自らの居住兼画室が、そのまま記念館として一般に公開されている
のです。

横山大観記念館正面            入ってすぐの庭
 

 

 木造2階建ての数奇屋風日本家屋で、大正8年にこの場所に建てられ、東京大空襲で焼失後、
昭和29年(1954年)にほぼ同じ形で再建されたのだそうです。 今年2月に「横山大観旧宅
及び庭園」は、国の史跡及び名勝に指定されたとありました。この住まいが展示場として
公開されていますから、通常の美術館のような多くの作品を並べて展示することは出来ませ
んが、客間や画室の 床の間にどっしりと掛けられた幅広の軸の迫力はまた、各別の趣きが
ありました。

 横山大観は、西洋画の画法を取り入れた新たな画風、『朦朧体』(もうろうたい)と呼
ばれる、線描を抑えた没線描法の絵画を次々に発表し世界でも高い評価を得ているといい
ます。富士山の絵などが有名ですが、客間に飾られた、縦長の大きな軸「ある日の太平洋」
は、晩年の昭和27年(大観84歳)作とあり、最上部に富士が聳え、全面の荒れ狂う海の波頭
が力強く中央に盛り上がり、その右上部に小さく龍が舞う構図は さながら、混迷を極めた
戦後日本の復興に立ち上がる強い思いが描かれたのかもしれません。

 縁側から、ちょっと荒れた感じの起伏のある庭も大観の思いが詰まっているのだと説明
されたりして、薄くらい日本家屋の部屋ゝを巡り、力の入った画を眺めていますと、不思
議にそのような世界に誘引されて行く感じがしました。 横山大観は、昭和33年、90歳で
他界されたとありましたが、その時私は高校を卒業した年であり、これまでも何となく
身近に思われた巨匠の一人でしたが、今日は、この館に居て、一段と深まったその人を
改めて知った思いでした。

 拝観は短い時間でしたが、とても充実して外に出ると、不忍通りは車が慌ただしく通り
過ぎていました。 元来た道を上野方向に帰るのも面白くない気がして、そのまま少し北上
して、池之端から弥生へ。 弥生美術館(竹久夢二)を通り過ぎて、東大弥生門からキャン
パスを上りました。ずいぶん以前に、来たことがありましたが、急に、三四郎池、安田講堂
など尋ねてみたい気になり、道に迷いながらそれぞれ再び、その姿を見ることとなりました。

 うっそうと茂った木々のその下方に三四郎池は静かに水面を輝かせていましたが、水位が
少し下がった淵のところに、大きな亀が何匹かのんびりと首を出していました。 きつい坂
を上り、安田講堂の横に出ました。もう60年ほども昔になりますが、学生運動盛んなりし頃、
その拠点として機動隊と激しい攻防が繰り広げられたところとは思えない、今はどっしりと
その象徴はそびえているのでした。

三四郎池                 安田講堂
 

 

 広い構内は学生たちの他、一般人と思しきひとたちも行き交う中、とうとう本郷通りの
「赤門」へやってきました。 ここは、写真撮影スポットであるらしく、次々とスナップを
して行く人たちがいました。はるか、1827年に加賀藩第12代藩主前田斉泰が、第11代将軍
徳川家斉の息女、溶姫を迎える際に造られた門で重要文化財に指定されていました。

          赤門  
                

 

 赤門の筋向いあたりにあったのでしょうか、江戸時代に、ここに薬屋があって、そこに、
例の堀部安兵衛(ぐず安)が逗留していたのか、 「本郷も、ぐず安までが江戸のうち」
(矢田 挿雲、「江戸から東京へ」)を思い出したりしました。

 本郷通りを逆戻りして、再び、東大正門の前を通り、言問通りを下り春日まで出ました。
しばし、お茶タイムをして、今日を反芻しながらそれぞれに感じたことなどコメントし合っ
てサヨナラとなりました。 私は、地下鉄丸ノ内線の後楽園駅から家路に向かいました。

 

 

 

 

 

 

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市民農園5月‛17  (bon)

2017-05-18 | 日々雑感、散策、旅行

 今年も4月から、近くにある市民農園が始まりました。

 このところお天気が今一つはっきりと決まらず、気温も低くパッとしませんが、農園は既に
雑草が出始めてきました。 昨日午後、どんよりした肌寒いくらいの涼しさでしたので、草引
きをしました。
 トマトの脇芽は、またしても出ていましたからそれを取り除いて、支柱に包爆し、キュウリ
も下の方の子ずるや花を欠いたり・・と、全体に目配りしたついでに、今の状態をパチリと
しましたので、記事アップしてみました。

 契約更新の最初の年ですから、3月末には、きれいに整地されていた全体は、今、写真のよ
うな“まちまちの模様”が出来たような姿で、活気付いています。(4年間利用継続)

5月中旬の市民農園            3月末の姿
 

 

 4月7日に、ちょっと深めに植えたジャガイモは、1ヶ月半くらいで、元気いっぱいに成長し、
もう蕾がついています。1㎏のジャガイモは、大きいものは半分にしたりして、全部で17個、
タネが出来ました。チョット混みあっている感じですが、この姿に安心しています。

       ジャガイモは、いま・・
         

 

 トマト、キュウリ、ナス、ネギは、蓼科農園畑開きの帰り(4月末)に、pookyさんのお
世話で練馬農家から持ち帰って、翌日定植したものです。 まだ、3週間にならないのに、
キュウリ、トマトには、もう花が咲いています。 関東では、5月初めくらいまで、とても
風が強く吹き、特に今年、苗の定植直後に台風みたいな強風が来たので心配でしたが、
無事、それも乗り越えてくれました。 しばらくは成長に期待がかかるところです。 
 3月に、タネ+発芽セットを購入した、カクテルキュウリは、発芽温度が25~30℃必要と
ありましたので、段ボールにタオルで巻いたアンカを入れて室内で発芽させ、外気に馴らし
て、5月にこのキュウリの列に2株植えましたが、いつしか消えてしまっていました。

 トマト                キュウリ
 

 ナスは、例年不作で、今年は少し石灰を多めに入れてみましたが果たして成果はあるのか
ないのか・・? 
 木の成長が今一つ元気がなく、実つきも良くなく、実が硬い・・そんな
状態が続いていますが、畑の区画が変わったのと、石灰の多目によって、今年はどうか・・
期待しているところです。

 ネギは、蓼科農園に植えた苗の残余をいただいて定植したものです。からから天気でした
ので、先日、トマトなどに水やりをした折、ネギにもちょっとだけ水遣りをしていたら、近
所の区画の人が飛んできて、“ネギに水をやってはいかん!”と叱られました。 しかし、
今までのところ、順調に成長してくれているようです。

ナス                    ネギ
  

 

 サトイモも、4月末に植えて、これはかなり深植えですから、ようやくちょっと芽が出て
来た~というところです。まだ、芽が出ていないところもあったりです。品種は、石川早生
1㎏です。

           サトイモ
            


 私の区画を、ベランダ(6階)から望遠でパチリトしました。15㎡にいろいろ楽しみが
植わっています。

          自区画(ベランダから望遠で・・)
           

         (上から、ジャガイモ、トマト+ナス、キュウリ、サトイモ、ネギ)







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田原本町  (bon)

2017-05-16 | 日々雑感、散策、旅行

           昨日15日は、京都葵祭でした。1400年の平安の昔を再現する行列が、
                新緑の都大路を下り、大勢の観衆から喝采を受けていたそうです。

 

 奈良県磯城郡田原本町(しきぐんたわらもとちょう)のことです。

 全く個人的なことであり、そして70年以上も昔の子供の頃のことですので記憶もあいま
いですが、部分的ながら、ちょっと懐かしくもあり、ネットを頼りに想い出しつつ記述し
てみました。 
 先の日曜日(5/14)のお昼に NHK Eテレで“俳句大国~田原本町から”というのがあ
りまして、俳句は からきし出来ませんが、会場が田原本・・とありましたので懐かしい思
いで、視聴したのです。

 ここ田原本町には、わたしが4~5歳のころ 疎開していた場所なんです。特に知り合い
がいたわけでもなさそうで、たまたまここに移住していたようです。 昭和18年(1943年)
ころから 5年ほど住んでいたのです。 で、戦後、昭和22年に元の大阪に戻ってきましたが、
生まれた大阪北区空心町(旧町名)ではなく、天王寺区上本町2丁目(当時)でした。
ここは、後に通学することになる清水谷高校のすぐ近くで、当時は、まだ西のグラウンド
は無く、そこのところは瓦礫の山でした。

 田原本町というのは、近鉄橿原線の田原本駅がその中心で、近鉄奈良線の西大寺と近鉄
大阪線の八木のちょうど中間あたりにあります。

 田原本町は、現在も磯城郡田原本町で、人口は、今年4月で31,300人とありますから、
当時は他村合併前ですから、これよりもっと少なかったに違いありません。 田原本駅の
周辺を少し離れると、もう田んぼや畑でしたね。当時住んでいた家は駅の東側で、徒歩で
もすぐ近くで、家並みが続いていました。 近所には、小5か6年の ただっさん(松井正)
というガキ大将や、同い年で仲良しだった文(フミ)ちゃん(藤井文子)と家が並んでい
たことを覚えています。 我が家の前が天理教分教会があり、時々お祈りの太鼓の音が外
まで聞こえて来ていましたが、現在の場所をネットで見ますと、駅の反対側で、私の記憶
とはどうしても合わないのですが・・。

 田原本町あたり・・



 家の後ろは、我が家の畑が割と広くありましたが、回りは一面たんぼ、畑でしたね。
麦が実る頃、その実をしごいてそのまま口に入れて、噛みながら“チューインガム”のよ
うになるのを楽しんでいたり、稲の頃は、イナゴを取り、稲刈りの後では、タニシなどを
採った記憶もありますね。 ちょっと離れたところに小川があり、川幅は狭いのに水量が
あり流れは早い方でした。そこに、“もんどり”という竹で編んだ仕掛けを入れておくと、
そこにフナ?やナマズが入っていたりしたこともありました。
 幼稚園といっても、昔の寺子屋風の感じだったのではないかという覚えがあり、床に座
布団を敷いて話を聞いたり、屋外では落花生を栽培した記憶があります。戦時中のことで、
食べ物に関することが記憶に多いですね。セロファンにくるまった飴は配給だったそうで
した。

 水は、井戸でしたね。飲み水は、この井戸からくみ上げて大きな甕の上に導き、ろ過し
た水が下から出て来る・・そんな大仕掛けの水設備?でしたし、その井戸の水配管を別角度
にまげると、それは風呂場に通じていました。ふろは、大きくて、これに水を満たすのには、
かなりの重労働?だったのでしょう。  火は、蒔きが主でしたね。風呂もそうですし、
ごはんなどは、おくどさん でしたから、蒔きの貯蔵庫はかなり大きかったですね。それで、
時々、蒔きを作りに来る人がいて、その人を“割木のおっさん”などと呼んだりしていまし
た。 自家の畑では、イモ類とか、マメ類とかかぼちゃなどでしたでしょうか。


 遊びでは、“輪回し”(鉄の輪を鉄の棒に引っ掛けて走りながら輪を回す遊び)が流行っ
ていたことがあり、年少の私もやりたくて、母親におねだりして、なんでも、遠いところま
で母親と一緒に買い求めに行った記憶が残っています。 出来合いの輪回しが売られている
のではなく、ある鉄工所みたいなところで、作ってもらうというのが当時の遊び道具で、
今から思うとユニークというか、贅沢というか・・ちょっと珍しいことだったのです。

 また、夏の夕暮れになると、毎日、トンボツリに出かけていたようです。ガキ大将といっ
しょに何人かと遠くの田原本農学校あたりまでヤンマを追いかけていたのでした。魚釣りに
使う錘(シズ)を黒糸の両側に付けて(歯で噛んでシズをつぶす)それを、赤いセロファン
で包んで仕掛けはでき上がりです。糸の中央を右手指でつまみ、二つのシズを左手指にもっ
て、エイッと天高くその仕掛けを放り上げると、ヤンマは、それが餌(虫)だと思って食い
つくざまに、糸に絡んで舞い落ちてくる・・そんな取り(釣り)かたをしていたのでした。 
取ったヤンマは、左手指に羽を挟んで確保している。

 よく、あちらこちらを歩いていたのですね。友達とか、大体連中は決まっていて、親には
内緒にしていたところもあったようでした。鏡作神社というところも遊び場の一つでした。

         鏡作(かがみつくり)神社
          (ネット画像より)
          

 先ごろのテレビでは、鏡作神社にまつわる伝統芸能「お田植え舞」が保存会の皆さんに
より披露されていましたが、もちろん初めて見るモノでした。当時は、全く知る由もなかっ
たですね。 また、場所は、すっかり忘れてしまっていますが、頼患者の隔離収容所?みた
いなところだったのかもしれませんが、親たちに“近寄るな!”と言われていたところもあ
りましたね。 
 あと、親には内緒で仲間と連れ立って、駅の反対側 少しのところに、“マッチ箱の汽車”
と呼んでいた小型の蒸気機関車のある駅がありました。私らの頃は、ここ田原本から、王子
まで走っているとのことでしたね。 小型ということが面白かったし、機関車にもさわれた
り出来たのでした。 また、この駅の近くに材木の貯蔵池があり、おおきな丸太が、半円に
切断されて浮かべてあるところがありました。この丸太に乗る遊びなんですね。大人に見つ
かると、すぐに叱られますから、2重のスリルがあったのですね。

 大和川にも遊びに行きましたね。かなり家から離れていましたが、そこは、浅い瀬になっ
ていて、水遊びに大勢来ていたり・・のどかでしたね。 戦争中だったのですが。

 戦争では、母親連中がエプロン姿で竹やり訓練をしているのを1~2度見た記憶がありま
す。 B29が編隊で上空を大阪方面に轟音を立ていることもしばしばでしたが、私らの
ところはいつも頭の上を素通りでしたね。焼夷弾とかそのような、爆撃などは一切ありませ
んでした。 ある夏の夜、家じゅうの人々がみんな起こされて、物干し台に上がってみると、
北西の空が赤く燃えているのが見えました。 恐ろしいと感じたのは、これくらいで戦争の
ことはあまり体験的には知らない幸運に恵まれていたのです。

  マッチ箱の汽車 をネットで少し調べてみますと、もともとは、明治44年に田原本鉄道が
免許を取得し、大正7年(1918年)に大和鉄道と名称を変えて新王寺~田原本間で開業した
とあり、軌間1067㎜で、小型の蒸気機関車は定かではありませんが、写真によく似ていた
記憶があります。 戦後、昭和23年には、標準軌に改軌し電化されたとありました。

        サイドタンク式蒸気機関車
         (ウイキペディアより)

 

 現在運行中の田原本線の西田原本駅・新王子駅が、近鉄の他線の駅(橿原線の田原本駅
及び生駒線の王子駅)と離れた位置に存在しているのは、この路線が元々別の会社の運営
する路線であった名残と言え、今でも利用者(特に年配の利用者)の中には、同線を
大鉄(やまてつ)」と呼ぶ者がいる・・と、ありました。

 

 最後に、Eテレでやっていました「俳句大国」では、女優の奈美悦子がゲスト出演して
いて、個人勝ち抜き競技では、音を聞いて、それを感じて即座に作る「即句」で、2位を
取っていました。 奈美さんの句「梅雨の朝 町が聞こえる 通学路」 そして1位は
地元の女子高生の「墨を練る 四肢に流れる 玉の汗」でした。 聞いた音・・というの
は、奈良特産の墨を練る音だったのですね。

 

 

 

 

 

 

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母の日  (bon)

2017-05-14 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、5月14日(日)は、母の日(Mother’s Day)です。

 日頃の母の苦労を労い、母への感謝を表す日とあり、日本やアメリカでは5月の第2
日曜日とされていますが、その起源は世界中で様々であり日付も異なるようです。

 日本でいつ頃から、このような日が設定されていたか・・について、ウイキペディアに
よれば、1913年(大正2年)に青山学院で、母の日礼拝が行われた際、アンナ・ジャービス
さんから青山学院にメッセージが届けられていたことが、大きなエポックだったようです。
 アンナ・ジャービスさんというのは、アメリカ、ウエストヴァージニアに住む人で、自
分のお母さんを大変敬愛していて、1907年に亡くなってからも、母親を敬う気持ちだけは
世の中に残しておきたいと思い、母親のための祝日を設ける運動を開始し、徐々に賛同者
が増えていき、ついに1914年、アメリカ連邦議会は 5月の第2日曜日を「母の日」とする
法律を可決し、世界で初めての国全体における「母親のための記念日」が誕生したという
経緯があります。 それで、当時青山学院にいた女性宣教師たちの 熱心な働きかけが続け
られ、日本で「母の日」が定着していくきっかけとなったとされているようです。

 1931年(昭和6年)には、大日本連合婦人会が結成されて、ここでは、香淳皇后(昭和
天皇の皇后)の誕生日である 3月6日 を 母の日 としたけれども普及しなかったそうです。
1937年(昭和12年)5月6日に、第1回「森永母の日大会」が豊島園で開催され、その後、
戦後1949年(昭和24年)頃からアメリカに倣って 5月の第2日曜日に行われるようになった
のだそうです。

 このような経緯で、母の日は割と古くから実施されていますが、法律(祝日法)では、
5月5日の こどもの日 の規定に「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する。」とあり、“母に感謝する日”が定められているのです。
 母の日には、カーネーションなどを贈る習慣があります。

         カーネーション
          (ウイキペディアより)

 なぜカーネーション? については、どうやら、アンナさんのお母さんアンさん(南北
戦争の負傷兵を看護した)が好きだった“白いカーネーション”を当日集まった参加者
全員に贈ったというのがその始まりのようです。

        母の日のポストカード(1916年ノーザンパシフィック鉄道発行)
           (ウイキペディアより)

 世界の母の日はいろいろで、イギリス、アイルランドは、移動祝日で、復活祭の3週間
前の第4日曜日であり、オーストラリアは 5月第2日曜日、スペインは5月第1日曜日、
フランス、スエーデンは 5月最後の日曜日、アルゼンチンでは10月第3日曜日、と まちま
ちのようですが どの国も、母に感謝する日があるのですね。

                                                   

  明日(15日)から、第5回PDC(Planetary Defense Conference:天体の地球衝突問題国際会議)が、
 初めてアジア(東京お台場:日本科学未来館)で開催されます。 日本スペースガード協会を立ち上げ、
 初代理事長を 亡くなるまで10年間務めた磯部琇三氏は、高校の後輩であり、国立天文台助教授時代には、
 これら天文に関する話しを何度か聞く中、この問題にも興味があり、明日からの国際会議をフォローして、
 状況などを、記事アップできればと思っています。

 

 

 

 

 

 

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豆ごはん  (bon)

2017-05-12 | 花鳥風月

ツタンカーメンえんどうの豆ごはんです。

 ベランダのプランターで出来た、えんどうで、今年2回目の収穫です。昨年より、1週間
ほど遅く、収量はかなり少ない感じがします。 まだ、もうちょっと、採れそうですが、
来年のタネ用にとっておく予定です。

 最近、ベランダを早朝、カラスの遊び場にしているらしく、このえんどうも引きちぎっ
たりして荒すようになりました。 グラジオラスの球根は、既に20cm位の葉を伸ばして
いるのですが、これを掘り返したり、球根を別の場所に持っていったり、さらに、発砲
スチロールの周囲を噛みちぎったり、植木鉢に生えているコケ状の土も掘り返しています。
 出来る対策としては、網をかけたりする程度なので、頭の良いカラスには今一つ効果うす
の感じです。

       ツタンカーメンえんどうの花(以前の写真です。)
         

 

 こんな状態のえんどう豆ですが、市販のグリーンピースより、ホクホク感があって、味
も甘い感じで、このツタンカーメンえんどう豆ごはんが好きです。

 園芸友の会の会員の方から、もう数年前にいただいてから、毎年それからできた豆(タ
ネ)から継続していますので、紫色の莢の数が少なくなっています。やはり、ハウスなど
隔離された場でなく オープンのまま何度も繰り返し栽培していると、一般化してグリーン
色になってくるのでしょうか。インターネットなどで販売されている豆の写真は、全部が
紫色の莢ですから、時には新規に購入した方がよいのかもしれません。

        摘み取ったえんどうの莢(紫が少ない)
         


 そんなことも思いながら、今年も“豆ごはん”をおいしくいただきました。

         豆ごはん
            

 

 ネットを繰っていますと、このツタンカーメンえんどうについて、面白く解説された
中央学院高校 生物部」のページがありましたので、以下に拝借して掲載しました。

 『ツタンカーメン(紀元前14世紀)とは、エジプトの再統一により勢力を拡大し、第19
王朝へと続く古代エジプト繁栄の礎を築いた第18王朝のファラオ(王)である。 わずか
18才で没したと言われているこのファラオの王陵は、4室からなる簡素な墓陵である。
が、盗掘をまぬがれた数少ない王陵の一つとして有名であるのは言うまでもない

 1922年イギリスの考古学者H.カーターが王家の谷で発見したこの王陵は、墓室の清掃
だけでも10年を費やすような徹底的な調査が行われた。極めて珍しい事にこの王陵は盗掘を
免れており、非常に豪華で美しい副葬品がほぼ完全な形で次々と発見された。 出土した
数々の副葬品は現在、カイロの博物館に収蔵されている。 中でも黄金のマスクをかぶり
純金のミイラ形の棺に安置された王のミイラは良く知られている。


 副葬品の中には当時のエジプト人の食卓に並んでいたと思われる物も発掘されている。
このエンドウの種子もその内の一つで、カーターが発見したと言われている。カーターは、
発見したその種子を持ち帰り、育ててみることを思いついた。すると、播かれたエンドウ
は見事発芽し、カーターはその栽培に成功したと言われている。 また、カーターが栽培
した種子の一部はアメリカに渡り、栽培が続けられたという。


 我が国にこのエンドウが持ち込まれたのは昭和31年である。茨域県水戸市の大町武雄氏
が、サクラやイチョウなど日本特産の種子をアメリカに送った返礼としてⅤ.イレーヌ・
ファシスワース婦人より、 いわれを書いた手紙とともに数粒の種子を受け取った。 大町
氏は、自分一人で栽培するのはもったいないと考え、希望者に分けた。 その一部が昭和
39年に日立市の助川小学校で栽培され、昭和42年千葉県八日市場市の須賀小学校に5粒が
送られた。 その後、水戸市の会社経営者富田氏が、知人から得た豆を水戸市長にいわれと
ともに数十粒届けた。 当時の市長和田氏は大変感激し、市内各小学校に2粒ずつ配布し
栽培した結果、市内三の丸小学校で 栽培に成功した。同小学校は全国小学校理科教育研究
発表の会場校であったところから、全国に広めようと栽培が続けられた。』と、かなり
詳しく書かれていました。

 ツタンカーメンについて、再度ウイキペディアを見てみました。

 ツタンカーメンは、紀元前14世紀頃(紀元前1342年~1324年頃)の古代エジプト第18
王朝のファラオであったとあり、厳密な表記ではトゥト・アンク・アメンというとあり
ました。 ざっと、3000年以上前のことなんですね。

       ツタンカーメン王
         

 

 古代の植物の種子が発芽したというのは、「大賀ハス」が有名ですね。大賀ハスは弥生
時代(約2000年前)の泥炭層から発見されたハスの実で、地層から発見された3つのうち
1つだけが発芽に成功したそうです。 つまりこれよりまだ1000年も古いとうことになり
ます。

 ネットには、このツタンカーメンえんどうが本当にそうなのか、疑問を持つ人が結構い
ると見えて、いくつか記事が目に入りました。 小学生の頃、学研の科学雑誌の付録にこの
えんどうがついていて、栽培できたが、その後、高校になって、疑問が膨らんで、学研の
当時の編集長に面会して真偽を確かめた人がいました。 編集長いわく『それは本当のこと
です。』といわれ、半信半疑ながら うやむやになっているそうです。なぜって、それなら
もっと大きな騒ぎがあったはずでは?

 また、“○○の面白日記”(ブログ)の 2016.8.11 の記事に『あれは間違いでした。』
と、否定した記事がありました。

 

 ま、真偽の程はともかく、はるか古代に思いを馳せたロマンに浸りながら、美味しい
豆ご飯をいただくことにしましょう。

 



  

 

     

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フランス大統領  (bon)

2017-05-10 | 科学・生物

 この度、フランスでは今年5月16日に任期満了するフランソワ・オランド大統領の後継
大統領を選ぶ選挙がありました。 5月7日の決選投票では、エマニュエル・マクロン氏が
66.1%の得票で マリーヌ・ルペン氏(33.9%)に勝利しました。

        マクロン氏勝利宣言
         (ニューズウイーク日本版より)

 

 もとより、ここで、国際政治について口を挟むなどもってのほかで、その知識もない
全くの報道レベルからの感想でしかありませんが、敢えて記述してみました。  曲解し
たり、重要な部分の見落としなどあるかもしれませんが、やはり、大きな変曲点だと思い
ましたので・・。


 昨年のイギリスの EU離脱に続いて、アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領となる
など、世界の潮流がポピュリズムの流れにあって、極右政党・国民戦線のルペン氏が掲げる
“EU離脱・自国第1主義”が大きな波紋を広げる中、フランス国内はもとより 世界中の関心
と“まさかの勝利”(ルペン氏)に対する不安が高まっていました。

 4/23の第1回目の投票では、トップ、マクロン氏が24.01%、2位ルペン氏21.30%、3位
20.01%・・と拮抗し、11人も候補者が乱立した大統領選挙は、2大政党をしり目に上位2人の
決選となったのです。マクロンの1位と、2位ルペンとの差が2%強とわずかであり、“まさか”
の懸念はさらに継続する形になっていたと想像されます。
 マクロン氏は、36歳の若さでオランド政権下で経済相・デジタル相に抜擢された フランス
エリートながら、1年前に政治運動体「前進」を結成したアウトサイダーで、政治経験はなく、
立候補当初は、人々の間にもそれほど大きい信頼を勝ち得ていなかったと思えるからです。

         候補者(主要)
                https://my-knowledge.net/より

 

 「欧州ポピュリズム政党の台頭」(水島治郎氏、千葉大学法政経学部教授)によれば、
欧州の多くの国において、ポピュリズム的な主張・スタイルで特徴づけられる政党が、有力
な政治勢力として既成政党を脅かす動きは、すでに世紀の転換あたりで顕著になり、ライフ
スタイルの変化、個々人の志向の多様化とともに、都市部の中間層をはじめとして、旧来型
の団体とはかかわりを持たず、特定の政党を支持しない無党派層が増加の一途をたどってき
た。
 そして、既成政党を既得権益にまみれた特権階級と批判し、反エスタブリッシュメント
を訴えるポピュリズム政党の主張が説得力を持つようになってきた。そして、この代表格は、
フランスといえる。 国民戦線は、極右色・反民主主義を徐々に弱め今や3大政党の一角に
食い込んでいる。とあり、これらの大きな流れの中にあって今回の選挙を迎えて、フランス
の有権者はこもごも悩みの渦の中にいたことと想像されます。 


 果たして5月7日、フタを開けてみれば、66.1% 対 33.9% で 1000万票以上の大差を開けた
圧倒的なマクロン勝利となり、ほっとしたところでしょう。  しかし、投票率が74.56%と
低く、さらに、白票などの無効票が11.47%(400万人以上)と異常に高いことから、積極的
なマクロン支持というより、ルペンよりはまし、との見方が多かったのではないかと分析さ
れています。 また、国民戦線が 33.9%もの票を得たことも見逃せず、国内は大きく分断
された格好を呈しているのです。 労働者や低所得層の経済的な不満や、移民政策に対する
反発がそれだけ大きいということの表れと思われます。

          決選投票結果
                                                    (ウイキペディアより、一部加工)

 

 しかし、ともあれ、親EU派大統領が選ばれたことで、EU分裂危機は回避され、フランスは
もとより、世界中がホット一息ついたのでしょう。 ユーロ高(対円)とともに、EUにおけ
る日本企業の安泰から、日経平均株価は前日比450円の高値引け、取引中には2万円の
大台をうかがう局面もあったとか。  もし仮に、反対の結果となっていれば、イギリスに
続いてフランスもEU離脱となり、EUを支持する大国が離脱することになれば、EUの構成は維
持できず崩壊することは明らかであり、欧州だけでなく、世界秩序と経済の大混乱が予想さ
れたからです。そして、世界的混乱の中、欧米が保護主義路線を進むとすれば、中・ロ
その行方を注視するばかりでなく、その介入の方向性がともすれば、これら2国の色彩に
塗り替えられ、民主主義の崩壊はもとより 前近代的な社会へと逆戻りする危険さえ予想され
るでしょう。


 とりあえずの危機は、回避されたわけですけれど、マクロン新大統領は、自らの前進党は、
これからその基盤を固めなければならず、来る6月の国民議会(下院議員)選挙で、議員獲得
に成功して 過半数以上の強固な基盤を構築できるかどうか、そして、自政党から首相指名で
きるかどうか、政策推進には予断を許さない前途多難な道筋が残されているのです。

 39歳のマクロン氏は、高校の恩師先生であった25歳年上で2児の母である夫人と結婚
した情熱家でもあり、ピアノ、英語が堪能なユニークなエリートが作る未来と希望にかけた
フランスを温かい気持ちで注目して行きたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ムサシノキスゲ  (bon)

2017-05-08 | 花鳥風月

 先週土曜日(5/6)は、「第24回キズゲフェスティバル」開催中の、都立浅間山公園に
行ってきました。 ここは、ブログ日記を見ますと、4年前の 2013.5.29 にムサシノキスゲ
をお目当てに一度訪れていました。 この時は、時期が遅すぎてわずかに1輪咲いているのを
発見したのでした。 
 で、今回はフェスティバル開催期間ということで、期待いっぱいに来ましたが、あちら
こちらに咲いてはいましたが、想像していた“群生”には程遠く、裏切られた格好でした。
それでも、キンラン、ギンランが共に咲いていましたので、これを見ることが出来たのは
大きな収穫でした。

ムサシノキスゲ               浅間山(せんげんやま)公園
 

 

 ムサシノキスゲは、ユリ科 ワスレグサ属の山野草で、よく知られるニッコウキスゲに似て
いますが、その変種だそうです。 ニッコウキスゲは、日光、尾瀬、霧ケ峰など広く分布して
その群生を楽しませていますが、このムサシノキスゲは、ここ、東京都府中界隈、特に浅間山
公園に自生している種なのだそうです。 

  浅間山公園は、標高80mの堂山を中心に中山、前山の3つの頂きを供えた古墳程度の大き
さの公園で、武蔵野の面影を残す雑木林で覆われ、アップダウンの小径もしっとりと好きな
雰囲気を醸していました。 このような低地に、なぜ、ニッコウキスゲ(ムサシノキスゲ)が
自生しているかの謎は、まだ解明されていないのだそうです。

公園内の小径2題
 

 

 ネットを見ますと、このキスゲの仲間は東南アジアに20種ほど生育しており、日本にも、
ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ハマカンゾウ、ニッコウキスゲ、ユウスゲ等、10種近くが見ら
れるそうです。
 もともとは、万葉の頃はひっくるめてワスレグサ(忘れ草)の名で登場し、この花を身に
付けると花の美しさでいやな事や悲しい事を忘れられるとされており・・、 万葉集巻三に、
大伴旅人 が大宰府に在って、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情を詠んだ歌 
 「忘れ草 わが紐に付く 香具山の 古(ふ)りにし里を 忘れむが為」が
紹介されていました。
 その後、ユリ科ワスレグサ属がノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ユウスゲ等、細かく分類される
ようになり、ニッコウキスゲはゼンテイカと呼ばれていたが、次第に日光の地名の入ったニッ
コウキスゲが一般に浸透し、いつしかニッコウキスゲと呼ばれるようになったとありました。

 キスゲ(黄菅)は花の色が黄色く、葉が菅笠(すげがさ)を作るカサスゲに似ている事から
きているといいます。 園芸種のヘメロカリス(Hemerocallis)はキスゲが欧米で品種改良され
たもので、ギリシャ語で一日を意味し、欧米では一般的にデイリリー(Day Lily)と
呼ばれるように、ニッコウキスゲは朝咲いて翌日には枯れる花なんです。

 ムサシノキスゲは、東京都レッドブックでは、絶滅危惧Ⅱ類(絶滅危惧種3ランク目VU)に
指定されているそうです。

  今回の大収穫は、きんらん、ぎんらんを一度に見られたことです。
キンラン(金蘭、Cephalanthera falcata)はラン科キンラン属の多年草で、地生ランの一種で
す。和名は花の色が、黄色(黄金色)であるところからつけられているとか。山や丘陵の林の
中に生える地上性のランとありました。
 この、キンランの人工栽培はきわめて難しいといわれていますが、その理由の一つにキンラン
の菌根への依存性が高いことが挙げられています。キンラン属は菌類との共生関係が乱された
場合、ただちに枯死することは無いが長期的に生育することはできないそうです。そのため、
自生地からキンランのみを掘って移植しても5年程度で枯死してしまうのです。

  写真をパチパチ撮りましたが、あまりに接近しすぎて、ピントがうまくなく、ボケてしまい
ましたので、一部、友人の写真を拝借して掲載しました。

 キンラン                     (友人撮影)
 

 元々、日本ではありふれた和ランの一種であったそうですが、1990年代頃から急激に減少し、
1997年に絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)として指定されています。

 また、ギンランは、キンランと同属で、花が白いところから、そう呼ばれています。
こちらも、同じような場所で同時期に開花しますが、近年はやはり減少しているので、並んで
咲いているのを見る機会は少なくなっているとありました。

ギンラン                      (友人撮影)
  

 お昼前にJR武蔵小金井駅に待ち合わせ、4年前に来た同じ場所でお昼を済ませ、東府中行き
バスで15分ほどのところが、浅間山公園です。キスゲやキンランなどを楽しみながら、ひっそり
とした武蔵野雑木林の中を歩き、木漏れ日を浴びながらの時間は何事も忘れ ただ、さわやかな
思いが流れるのでした。

 全国的に雨模様などと予報されていましたが、関東は良く晴れた暑いくらいの日となりました。 
浅間山から、徒歩10分ほどのところに、府中の森公園があり、広い園内の府中の森美術館に向
かいました。歌川国芳展(後期)を見る予定でしたが、会期も近く、土曜日ということからか、
長い行列が出来ていて、入場制限されているようなので入場をあきらめました。
 水場では、子供たちが水遊びに夢中になっていて あたりは、懐かしい昔の光景が繰り広げら
れていました。 公園を出て、バスで武蔵小金井駅に戻り、お茶しながらひととき、今日の
感想などを振り返りサヨナラとなりました。

 

 

 

 

 

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神楽坂研究(6)「ハナミズキとサクラの物語」  (bon)

2017-05-06 | 日々雑感、散策、旅行

 しばらく振りに、神楽坂にお住いの“若さん”の原稿が届きました。
 皆さんも良く知るところの“サクラとハナミズキ”交流も、若さんオリジナルの内容で、
ユニークな語り調子が大変面白く、その詳細を知ることとなりました。

 若さんは、仕事でアメリカにおられて、今は神楽坂に住み、時として界隈の親しいお店に
頻繁に出撃されるというダイナミックなお人です。 いまは、もうお勤めはしておられないと
思いますが、交流範囲は広くおしゃれな“ナイスガイ”というところ。

 今回の話題は、内容の鮮度が重要ですので、原稿が届けられてスグのブログアップとしま
した。 それでは、お楽しみください。

 

 ******* 神楽坂研究(6)ハナミズキとサクラの物語 *******

 

◇オーガスタ(MASTERS)11番ホール、愛称は「白ハナミズキ」


     グリーンジャケットの行方が左右されるアーメンコーナー(No.11,12,13)

  今年のマスターズ(4/6-4/9)は、“Colorless Augusta”(彩のないオーガスタ)と呼ばれ
て開幕しました。春先から異常高温が続き、「つつじ」(Azalea)の花が既に終って緑一色に
なっていたからです。  開花を遅らせようと、主催者はつつじの根元に「氷」をまいたとい
う噂が流れた程、「オーガスタのつつじ」は米国ゴルフシーンに欠かせない風物史のようです。
 オーガスタのほとんどのホールには、花にちなんだ愛称がついています。数々のドラマが
生まれる、アーメンコーナーの始まる難関11番コースのフェアウエイ両側には、白いハナミ
ズキ(White Dogwood)が植栽されています。 イエス・キリストの復活、キリスト磔の象徴、
キリスト教のシンボル的花木として、アーメン・コーナーにふさわしい「粋」な演出のガー
デニングです。

 東京都心も、桜のシーズンの終わりと重なり、1912年(明42年)米国首都ワシントンDC
贈った「桜」の返礼に来日したハナミズキが開花。そして新緑の木々のなかに白、ピンク、
オレンジと華やかな「つつじ」が彩を添えます。 調べてみると、ハナミズキは全国の11市、
政令指定都市の7区で市の木、区の木になっているほどの人気です。横浜市港北区ではシンボ
ルマークにもなってすっかり身近な花木として日本に定着です

 

◇神楽坂下から九段(田安門)までの並木は「ハナミズキ」

 最近「神楽坂」はどうも南北に延伸しつつあるようです。 大久保通交差点(坂上)から
神楽坂駅(東西線)そして外堀交差点(坂下)から飯田橋西口(千代田区飛び地)まで「バー
チャル神楽坂」です。(笑) 神楽坂の並木は、新宿区の木「けやき」が昭55年植栽され緑の
トンネルになっています。坂下から九段までの街路樹はピンクと白の「ハナミズキ」。  
今や、神楽坂(飯田橋西口駅から坂下)でもハナミズキを愛でることができるのです。
 100年以上前に来日の原木は、戦中伐採されたり、倒木したりと都立園芸高校の一本だけと
なりました。 最初に原木が植えられた日比谷公園や小石川植物園の現在の木は、都立園芸
高校の原木の子が植えられたようです。
 
 九段田安門から北の丸公園の武道館の脇道を清水門に向けて歩くと、桜が両側に、背後に
百日紅が植栽された「吉田茂」の銅像があります。 東南側正面にはハナミズキが20数本の
植栽。 銅像の左右目線の範囲は、皇居、国会そしてハナミズキ林の先の、太平洋岸対岸の
米国まで見据えているような気がしました。


 桜(駿河台匂い、虎の尾、旗桜) 生誕100年記念吉田茂銅像     ハナミズキの並木

 

 東京市から米国首都への「サクラ」寄贈物語


    ワシントンDC、ジェファーソン記念堂前のタイダル・ベイスンに咲くソメイヨシノ

 

 1991年1月出張でワシントンDC滞在中、湾岸戦争が勃発し帰国中止命令、(私は)半年ほど
滞在することになりました。国立公園サービスは桜満開予報をだします、その年は3月29日で
した。
 National Cherry Blossom festival「桜まつり」は実に見事なものでモールを中心にポト
マック河畔がソメイヨシノのピンク色に染まるのは圧巻!リンカーン記念堂からポトマック
河畔の10kmレースを走りました。 時折、桜吹雪を感じながらのランニングは格別の思い出が
あります。 余談ですが、DCの略は“Dangerous City ”といわれたくらい当時は危ない首都
でした。

 ハナミズキの東京への返礼は1915年(明49年)でした。 では、なぜ東京から米国ワシントン
DCに「桜」が寄贈されたのでしょうか?  遡ること27年(1985年/明18年)ワシントン在住、
エリザ・シドモア女史(地理学者でNational Geographic Society初の女性理事)来日の折、
東京の街、郊外を彩る「桜」の美しさに感動。 南北戦争(1861年/万延2年―1865年)終了後、
首都の改修工事にとりかかるも財政破綻。 乱開発、スラム化の影響の問題残る、荒廃した
首都に桜植樹の夢を思い描いたことに始まっています。 彼女は1896年明治三陸沖地震を現地
取材した記事に“TSUNAMI”を使いました(最初の例)。 当時の首都は初代大統領ジョージ
ワシントンの独立戦争の戦友、仏人都市計画家ランファンの設計した基本案を基に開発を進め
ましたが、南北戦争などもあり難航し想像以上に荒廃、雑然としていたようです。 ホワイト
ハウス南側緑地は羊の放牧地でした。


    
ワイトハウスと羊の放牧風景        ワシントン記念塔建設も中断していた首都風景

 彼女は、首都の公共の土地、建物を管理担当、陸軍監督官に桜植樹の提案をしました。しか
し却下され、その後も20年以上代々の監督官から陳情を却下されました。一方、彼女のアイ
デアに真剣に賛同したのは、農務省のフェアチャイルド博士でした。

 1906年(明41年)首都北部に隣接するメリーランドの個人所有地に100本の桜を、横浜植木
会社から個人輸入し試験栽培し成功。 翌年「桜」300本注文する会社も現れるくらい実際の
桜開花の反応は大きいものがありました。 苗木を増やし、首都の学校の植樹祭に寄付し、
一部の街路樹にも植樹をはじめました。 博士の行動の背景は、女史の熱意 そして1902年の
マクミランプランと呼ばれる、上院公園委員会の首都改造計画(東の議事堂、西端の隣家
記念堂、十字架の交差点にワシントン記念堂、北にホワイトハウス、南にジェファーソン
記念堂を配す緑地とスミソニアンをはじめとする公共的建物建築計画)の本格始動も背景に
あったようです。

 博士が桜を輸入した横浜植木会社(1890年/明23年)の創業者は鈴木卯兵衛。 彼は、開拓使
お雇い外国人として来日したドイツ系米国人園芸家、ルイスベーマーの設立した
横浜の会社
で修行、社員の身分ながら外国商館しかできない園芸品種の輸出入を ベーマーから名義を
借り実施。後に日本人経営初の園芸会社を設立、米英に直接進出し成功しました。

 ベーマーは東京、札幌の開拓史で数々の業績を残しています。日本のリンゴのルーツは彼の
いたNY州ロチェスター(札幌と同じ北緯43度)のマウントホープ園芸会社(後に世界一)から輸入
したリンゴ苗木です。北海道を皮切りに苗木頒布、栽培指導しました。彼が番号付けした49号
(国光)はその後青森で品種改良され、現在世界産出量の40%を占めている「フジ」になりま
した。
  サッポロでのビール製造に欠かせない本格ホップ栽培を指導、世界的にも評価される現在
の栽培技術につながりました。国内で最初の欧米品種ワイン葡萄栽培指導し、本格的ワイン
醸造立ち上げにも貢献(ワインは初の宮内庁御用、大正の初めまで札幌はワイン栽培、醸造が
盛んでした)。 さらに、札幌大通り公園等のガーデニングの元祖です。退職後は横浜にベー
マー商会を開設、事業家としても成功、日本に園芸ビジネス・ノウハウと高度な園芸技術を
伝授、半生を日本で過ごしました。


シドモア女史 フェアチャイルド博士 鈴木卯兵衛 ルイスベーマー 高峰譲吉博士 タフト大統領夫人

 

 フェアチャイルド博士の桜植樹展開が好評なので、1909年4月女史は時の大統領夫人(タフト)
に直訴し賛同を受けました。ファーストレデイも日本滞在経験があり「桜ファン」だったの
です。 一転して、陸軍監督官も八重桜をポトマック河畔に植樹開始、8月にはタカジアス
ターゼ、アドレナリン開発で成功した 三共製薬創業者、米国在住の 高峰譲吉博士が私費を
寄付するので東京市からワシントンへ 2,000本の桜を寄贈する話が進められ10月には実際に
シアトルに到着。 しかし検疫の結果、翌年1月全量焼却。 その後、桜苗木を厳しく選定、
検査し、またも横浜植木会社の管理の下で 3,020本の桜が輸出されました。 なんと、全数
検疫を通過し現在の「桜まつり」につながる植樹が開始されました。 桜は30~35年で樹齢
ピークを迎えます。大戦中の伐採の危機も乗り越え、桜は大変人気のある愛される存在にな
り、着実に植え替えされてきました。 代々の大統領夫人が祭りの会長を務め、植え替えの
植樹祭も大統領夫人の参加が恒例になっています。

  2013年「桜寄贈100年」を記念して米国からハナミズキが再度寄贈されました。東京は都立
園芸高校に植樹。 横浜は、最初の試験栽培の桜輸出から担当した横浜植木会社が管理する
横浜本牧山頂公園でケネデイ大使と横浜市長参加し記念植樹式が行われました。サクラとハナ
ミズキの日米交流は、ルイスベーマーが指導した当時としては 世界の先端をいく園芸技術+
園芸事業経営ノウハウが横浜の鈴木卯兵衛の会社に伝えられ100年を超える日米花木の美しい
交流につながりました。

 
       ベーマーワイン   Bar Airs(坂上)   ニッカ余市  麦酒停のフレッド ヒグマ濃いビール

 

 私が、ワシントンDCにいたときは、ソメイヨシノとハナミズキの両方を楽しむことができま
した。 神楽坂は何といっても、毘沙門天の枝垂れ桜、そして飯田橋から赤坂までの外堀両岸
の桜が水面をピンクに染め、桜を楽しめる名所になっています。今は、前述の通りハナミズキ
も楽しめるようになりました。

 サクラとハナミズキの物語に間接的に縁のあるベーマーの配布したリンゴが最初に結実した
地は札幌と余市。戊申戦争で敗れた会津藩士が入植しリンゴ栽培開始、マッサンがリンゴ果汁
販売しながらウイスキーを製造した余市は、フルーツ王国ワイン特区になりました。
 個人的にベーマーを顕彰している、ワイナリー夢の森を始めた大下さんから「ベーマーワイ
ン2013ヌーボー」(第一号)が到着。花見の後は「Cabane」(袋町)で友人、仏人も交え野性味の
ある酸味が特徴のワインを楽しみ、2軒目は 札幌出身村上さんの「Airs」(坂上)でニッカ
余市と 札幌麦酒停(早稲田卒フレッド経営)のヒグマ濃いビール(オレゴン醸造)を楽しみま
した。 若 つづく (2017.5.5)

 

 

 

 

 

 

 

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博多どんたく  (bon)

2017-05-04 | 日々雑感、散策、旅行

            昨日3日は、憲法記念日でした。 政府は、念願の憲法改正について
                 その意気込みを語っていました。とくに9条について、自衛隊に関する項を
                 追加の形で、また教育に関する事項についてなど改正に力が入っていました。

 

 福岡に住む友人からのメールに、昨日から“博多どんたく”が始まり、賑わっているとあ
りましたが、午後には凄い雨が来て中止になったとか・・の情報がありました。

 あ、そうか、今頃“博多どんたく”なんだ。 これについては、あまりにも有名なので、
周知のことですが、ちょっとだけ復習してみました。

 昨日のネットには、『ゴールデンウィーク中、日本最大級の人出でにぎわう「博多どんたく
港まつり」が3日、福岡市で始まった。午後になって激しい雨が降り、見どころのパレード
は途中で中止となったが、100万人(主催者発表)が訪れた。』 とあり、毎年、5月3~
4日に開催されるうちどちらかの日に雨が降るというジンクスがあるなどとあり、昨年も3日
のパレードが雨で中止だったそうです。

  博多どんたく(ネット画像より2点)
 

 そもそも、「博多どんたく」は博多松囃子を母体として形成・発展してきた・・とあり、
1595年の記録に『博多の町人が松囃子を仕立て年賀の祝いを行った』とあるそうで、かなり
古くから行われていたようです。 江戸時代の記録では、年賀行事として、博多松囃子が行
われ、この三福神(福禄寿・恵比寿・大黒天)と稚児の行列に加えて、博多の各町・各人が
趣向を凝らした出で立ちや出し物で「通りもん」と呼ばれる人たちの行列がその原型で、
現在にも続いているとありました。

 このように見てきますと、昔は、お正月の祝行事として始まっていたのですが、明治に入っ
て、天長節や紀元節などに統合されたこともあり、また、太平洋戦争中は中止され、昭和21
年に博多復興祭として再開され(5月22、23日)、現在のどんたくの形式はここに誕生したと
ありました。 1949年(昭和24年)からは前年に制定された憲法記念日に合わせて5月3日と
翌4日を開催日と決められ、名称も「松囃子どんたく港祭り」となり、さらに、その後(昭
和37年)、どんたくは「博多どんたく港まつり」と名称が改められて、市民の祭りとして
広く一般市民から参加者を募る方式となり、「博多」にとらわれず福岡市全体の祭りとして
定着したのだそうです。

 お祭りも、いろいろと変遷をたどっていることが分かりました。 このどんたくは、開催
場所も、その賑わいが次第に大きくなるにつれ移動したりしているそうです。

 ところで、「どんたく」は、オランダ語で「日曜日」を表す語 zondagが訛った言葉だそう
ですが、この言葉は、明治政府制定の祝日を指す言葉として、明治4年から ナント、政府が
広めた言葉だとか・・。また、午後がお休みの日のことを「半ドン」というのも、半日どん
たく=半ドンから来ているとか・・。

 

 

 

 

 

 

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八十八夜(2)  (bon)

2017-05-02 | 日々雑感、散策、旅行

          日本海に、空母「カールビンソン」がにらみを利かし緊張が    
         続く中、一方では、超豪華列車「トランスイート四季島」が  
         昨日上野を出発しました。10両編成で34人。来年まで予約は
         いっぱいとか・・。

 
 もう、夕方6時半だというのに、まだ外は明るく、ずいぶん日が長くなったと感じられます。 
 今日、5月2日は、八十八夜でした。 こんな夕方に、今日の話しを持ち出すのもどうか
とも思いましたが、ちょっとだけ・・。

 八十八というのは、立春から数えて八十八日目(87日が過ぎた次の日)だというのですね。
なぜ、“夜”を付けて呼ぶのでしょうか?

 いずれにしても、八十八夜というのは、雑節の一つで、農作業など、季節に密着した活動
の目安とした呼び方を設けていたのですね。
 八十八夜については、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、
遅霜が発生する時期でもあるため、特に注意を喚起したのでしょう。さらに、「九十九夜の
泣き霜」という言葉もあるところから見れば、これは、5月半ばごろまでまだ霜に注意が必要
だということであり、こんな時期に“超遅霜”などに見舞われては、泣いても泣ききれない
ですね。農作業をやってみてはじめて“霜”の怖さを感じたのでした。
 標高1000mの高原にある蓼科農園などは、ちょうどこれにあたるようで、かって、サツマ
イモを植え付けた直後で、霜被害にあったことがありました。一夜にして、黒く変色して
枯れてしまうのですね。  蓼科では、八ヶ岳に雪がなくなると、霜被害は大丈夫・・と
いわれています。(5月下旬~6月上旬)

 八十八夜のタイトルでブログアップしたのは、2012.5.2 のことで、丁度5年前になります。 
この時も、お茶の話しを持ち出していて、 “この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この
日にお茶を飲むと長生きするともいわれている” などとありましたが、確かに、まったり
としたお茶を静かに飲むときの感覚は、何とも言えない幸せを感じますね。
 また、お茶に 「初昔」というのがありますが、これは、八十八夜の前10日に摘んで製し
たお茶のことを言い、後の10日に摘んだそれは「後昔」というとありました。

 お茶では、「〽 色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす~〽」なんて、狭山の
宣伝文句なんですね。

  また、この頃のブログを見ていますと、2014.5.3のブログに “今日は豆ごはん”があり、
この年は、ツタンカーメンのえんどう豆の初収穫で、豆ごはん・・だったのです。
今年のそれは、すこし、実が入り始めた程度で、まだ収穫時期でなく、少し遅いということ
ですね。 しかし、毎年、この時季の楽しみの一つになっているのです。



  4月下旬頃から、満開になっているベランダのハナミズキです。 
          

 

 

 

 

 

 

 

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