蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

自然農法  (bon)

2018-04-29 | 日々雑感、散策、旅行

 蓼科農園での“畑開き”で、身体のアチコチの筋肉痛がまだ残るなか、一昨日の夕方、
3か月に一度くらいの割で開催されている、もう10年以上続く集まり(飲み会併用)で、
「自然農法」に魅せられて、自ら神奈川県秦野市に農園を営む O氏の楽しいお話を伺い
ました。

 自然農法は、有機農法や循環農法などとも呼ばれている農業のやり方で、すなわち、
耕さず、化学肥料は使わず、草や虫を敵とせず共に生きる、命の営みに素直に従い すべ
てを仲間として尊重しながら農業を行う方法を言っています。 
  2015年には、「小農学会」(事務局鹿児島県)が設立されているとありました。


 ウイキペディアによれば、『自然農法とは、不耕起(耕さない)、不除草(除草しな
い)、不施肥(肥料を与えない)、無農薬(農薬を使用しない)を特徴とする農法。
考案者の一人である福岡正信はこれを4大原則としている。ただし、自然農法の実践者で
あっても手法はさまざまであり、耕起や除草を許すかどうかに違いがある。なお、法律
(JAS法等)では「自然農法」「自然栽培」は定義されていない。』とあります。

  自然農法(ネット画像より)
       

 これまで、いろんな方々が 実践を通じた、その方法や意義について書物を著していま
す。岡田茂吉「自然農法解説1951」、福岡正信「自然農法 わら一本の革命」、川口由一
「自然農」、木村秋則「自然栽培」などが挙げられていましたが、この他にも関連する
考え方の書も多く、資料には、「宮中侍従物語」(入江相政編)文中の昭和天皇のくだ
りが延べられていました。『・・どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の
好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考えでこれを雑草として決めつけてしま
うのはいけない。・・』

 これらの書物の中で、偶然、私は7~8年前に、福岡正信「自然農法 わら一本の革命」
を読んだことがありました。読後の印象は、漠然と今も覚えていて、“耕さず、農薬は
使わず、自然の虫や雑草などと共生しながら、わらなども、切らずにそのまま長いまま
で、畑にまき散らす。それで、収量も期待通り、味、形なども良いと・・全く不思議な
思いでしたが、その言い回しや、方法論の随所に、時流に意識して反発しているような
思想がちらついている”そんな印象がありました。内容は確かに素晴らしく感心しまし
たが、何かしら同調しにくいという思いが残ったのでした。

 こんな思いがありましたから、お話しの後講師に質問してみました。 “自然農につ
いて、一冊の書物を読んだだけですが、このような印象を持ちましたが、自然農を営む
講師はどのような考えですか?”と。 すると、やはり、私の感じたのとほぼ同じよう
な印象をお持ちで、“やはり、世の中に迎合しては やって行けない。反発ではないが、
何かそのような強い気持ちがそこに流れている”・・そんなような回答でした。

          飲み会の様子 
       

 場のいろんな人たちも、それぞれの感じから質問や提言がありましたが、最終的に
私は、次のように理解したのでした。

「自然農法は、環境を重んじ、食害を無くすやり方として、確かに素晴らしいが、この
農法によって生計を維持するのは、やはり無理である。生計を維持するすべが他にある
場合に限り、その主義は実現できる」と。

 自然農法は、小規模・家族農業ともいわれ、いわゆる 産業化された大規模農業とは
違い、今日 日常口にする野菜の殆どは、大規模農業から出荷された野菜なんですね。

 ウイキぺディアの有機農業の項には、以下のような記述がありました。
『 有機農業については、農林水産省の「有機農産物の日本農林規格」では、有機農業で
生産された農産物(有機農産物)は次のように定義されている。

  • 有機農産物
     1) 有機農産物:農薬と化学肥料を3年以上使用しない田畑で、栽培したもの。
     2) 転換期中有機農産物:同6ヶ月以上、栽培したもの
  • 特別栽培農産物
     3) 無農薬栽培農産物:農薬を使用せずに栽培したもの
     4) 無化学肥料栽培農産物:化学肥料を使用せずに栽培したもの
     5) 減農薬栽培農産物:その地域での使用回数の5割以下しか農薬を使わずに栽培 
            したもの
     6) 減化学肥料農産物:同化学肥料を使わずに栽培したもの   』

とあり、蓼科農園で、私たちがやっている農法は、さしずめ、特別栽培農産物の中の3)、
4)あたりのようです。 ほんの少し、化学肥料を使用することもありますが・・。

 

  最後に、理想の食として、「食の健康手帖」(長山久夫、中央公論社)から、
まごはやさしい=豆、ゴマ、ワカメ・海産物、野菜、魚、シイタケ・きのこ類、イモ

がありました。

       飲み会の場所は、飯田橋(駅陸橋から、市谷方向を見る)
        

 

 

 

 

 

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畑開き‘18  (bon)

2018-04-27 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

   蓼科農園については、先(4月10日~)の「畑開き準備」で、前年に積み残したマルチ・
防草シートはがしと芋がら、枯れ枝などの整理を終えて、今回、4月23日~26日に「畑開き」
を実施しました。
 前回のオートスライド「♫ 春まだ浅い 信濃信濃路へ~」の余韻のまま・・

  K邸は、“高原の春”たけなわで、広い庭の桜は、今満開でした。 こぶしの大きな花も
一面に白いアクセントをつけ、ウグイスはしきりに鳴いていました。 標高が高いせいか、
石楠花、ツツジはもう少し先のようで、グランドのスイセンは咲き始め、ニホンサクラソ
ウの群生は、ようやく出そろってきたところでした。

      K邸の春
             
         

 出発時点の天気予報では、かき入れの中2日が雨模様とあり、なので、初日から雨に急
かされるような密な作業となりました。 2日目は、午後3時頃までは何とか持ちそうとの
予報にかわり、朝早めのスタートにして、予定の作業を確保することにしました。
 どんよりしたお天気は、気が気ではありませんでしたが、反面、肌寒いくらいなので、
大した暑さがなかったのが幸いしました。 結局、夕方薄暗くなる 6時半まで作業ができ
たおかげで、予定の進捗を上回る成果となりました。
 縄文の湯に疲れを癒し、外に出ると、雨が降っていました。

 耕運機による畝つくり           マルチ、防草シート張り
   

 ジャガイモの植え付け                      お茶タイム
 


 3日目は、夜に かなりの雨足で降り、午前中いっぱい雨は残りました。 時折、突風の
ような強い風がありましたが、昨日の疲れを癒すための休息を 天が与えてくれていたの
かもしれません。のんびりと午前中を過ごし、午後3時からネット張りなどの作業を再開
しました。

 おかげ様で、次回でも差支えない2か所の“ネット囲い”も完成し、さらに、畑の周囲
にも防草シートを張り巡らすなども出来、畝建てした20本余りのマルチの列とその間を
防草シートで埋め尽くされたその姿は、更地の畑に新しい息吹が吹き込まれ、イキイキと
生まれたのでした。

      畑開き 完成(中央に鹿対策ネットが見えます。)
        
         (右端の白い3つは、そら豆の霜よけです。)

 最終日は、朝から輝くように晴れ、北、中央、南アルプスの山々の、クッキリと冠雪
した美しい頂は、それぞれに自慢し合っているようでした。

 帰路、小淵沢あたりから、早くも前方に雨上がりの綺麗な富士の姿を捉えることが出来、
中央道を 長坂、須玉、韮崎・・と近ずくにつれ、いっそうクッキリと大きな富士を目前
に、“畑開き”が無事完成したことの充実感と共に ホッと開放感を味わうのでした。

 今回は、ジャガイモ200個、サトイモ120個を植えつけました。 次回「大合宿」では、
いよいよ、一面の畝に、種まき、苗の植え付けを行い、今年の作付がすべて出揃うことに
なるのです。

  東京練馬では、pookyさんが、大合宿で植えつけるための苗たちを、その日に苗丈が短か
すぎず 長すぎない 丁度良い大きさに育つように逆算して、丹念に育苗しています。
 カボチャ、スイカ、ナス、米ナス、トマト、ミニトマト、タカノツメ、あまながトウガ
ラシ、パセリ、イタリアンパセリ、ピーマン、長ネギ、下仁田ネギ・・などたくさん育苗
されています。

     練馬で育苗している元気な苗たち(部分)    

          

 お待たせしました。オートスライドをお楽しみください。(約4分半)

 






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セカンドライフ  (bon)

2018-04-23 | 日々雑感、散策、旅行

 ここでの主題は、リタイヤ後の長い人生をどのように過ごすか、また社会がどのような
環境であるべきか・・などのテーマについての記事アップのつもりでネットを検索して
みましたら、ナント!  以前ブームになったゲーム(私は知りませんでした)のオンパ
レ―ドでした。

 本題に入る前に、どんなゲームなのか少しだけ・・。 ネットによれば、

『 2003年、アメリカのリンデンラボ社が、仮想空間を舞台にした「SecondLife」という
オンラインゲームをスタートさせました。ゲームといっても、決まった目的(クエスト)
やシナリオがあるわけではないところが斬新でした。「目的は自分で作る」のが目的だっ
たのです。 自分の分身であるアバターを使い、仮想空間にある町で買い物をしたり、
楽器を持ってライブをしたり、自分で店をオープンして物を販売したり、友人を作って
交流したり、とにかくすべてが自由。 未成年が入れない「夜の街」までありますし、
ユーザー同士で結婚もできます。その自由さは、まるで「現実社会」のよう。 そう、
まさに「SecondLife」(第二の人生)を作れてしまう画期的なものだったのです。』

 何だか面白そうではありますが、“第二の人生”というよりは“もう一つの(願望)
人生”みたいな響きが感じられて あまり健全ではないかもしれない?などと負け惜しみ
しています。

  横道にそれましたが、襟を正して本題に入ります。

 高齢化社会が進む中、高齢者自身にとっても、国においても、産業面でも このセカン
ドライフをどのように捉えて、新しい展開に導いて行くか、最近、手元に届いた講演録に
一つの試行について述べられていましたので、抜き読みで参照しながら少しまとめて
みました。

 講演録は「長寿時代におけるセカンドライフの設計」(秋山弘子氏、東大高齢社会総合
研究機構特任教授)と題して、2009年に千葉県柏市でスタートした社会実験『長寿社会の
まちづくり』での取り組み視点やそれらの意義について様々な角度から検討しながら推進
されている内容が述べられています。

 下のグラフは、もうよくご存知の人口ピラミッドの変化ですが、これは既に“ピラミッド”ではなくなっていますね。私たちが子供の頃には、確かにピラミッドの形でした。

  人口ピラミッドの変化 (ネット画像より)
 

 

 で、急速に進む長寿社会に3つの課題があると述べられています。
①個人の課題、②社会の課題、③産業界の課題の3つです。

 ①個人の課題は、当然ながら人生が倍長?するわけですから、リタイヤ後、体力・健康
を維持しながら、どのような人生を送るか、自分で設計しなければならないということ
なんですね。『都心でサラリーマン生活が長かったせいで、多くのシニアは、地元に知り
合いがおらず、名刺なしでどうやって地域に出て知り合いを作ればよいかもわからず・・』
と講演録が言うように、確かに、組織から離れた途端、なすすべに迷う・・そんな環境に
多くの人達が突入しているのかもしれません。

 ②社会の課題には、これまでのピラミッド型の時代にできた雇用制度であるし、教育
制度も若者向きに出来ているわけで、これからの長寿社会にあっては、これら雇用制度、
教育制度の作り直しが急務であると指摘されています。
 2015年の65~79才、5000人を対象とした調査によれば、一番は「働きたい」、二番が
「自分を磨きたい」という結果で、多くの高齢者が就労できる環境を作ることが重要で、
これは、『高齢者の就業率が高いと医療費は低い』という緩やかな相関から、国の財政
にも好影響を与えるともありました。


『長寿社会のまちづくり』プロ
ジェクトでは、9つの領域で就労の場を設定したそうです。
うち3つが 農業関連(休耕地を活用した都市型農業、ミニ野菜工場、屋上農園)で、
この他、食関連(団地内の食堂、移動販売)、 保育(子育て支援、学童保育)、生活
支援・福祉(家事代行、介護施設での短時間労働)で、最低賃金を支払って運営されて
いるとありました。 千葉県柏市のHPには次のような記事がありました。

 『 長寿社会に向けたまちづくり~地域包括ケアシステムの具現化に向けて~

  市では、東京大学・UR都市機構と協力し、「いつまでも自宅で安心した生活が送れ
るまち」「いつまでも元気で活躍できるまち」を目指して、柏市の長寿社会に向けたまち
づくりプロジェクトを行っています。

 現在75歳以上の市民のかたは約3万5000人。ところが2030年(平成42年)には75歳以上
のかたが約7万人になると予想されています。

 高齢になっても、住み慣れた地域で、人間関係や生活環境を変えずに暮らし続けられる
仕組みが必要と考え、このプロジェクトでは大きく2つの取り組みを推進しています。

○在宅医療の推進

「いつまでも自宅で安心した生活が送れるまち」の取り組みでは、病気になっても住み
慣れた家で暮らすことができるために、介護保険サービスと医療サービスを切れ目なく
適切に受けられる仕組みを整えています。

  1. 在宅医療に対する負担を軽減するバックアップシステムの構築
  2. 在宅医療を行う医師等の増加及び多職種連携の推進
  3. 情報共有システムの構築
  4. 市民への啓発、相談・支援
  5. 上記を実現する中核拠点(柏地域医療連携センター)の設置

○生きがい就労の創成

「いつまでも元気で活躍できるまち」の取り組みでは、各分野で、専門の事業者が高齢者
と雇用契約を結び、高齢者のかたが培ってきた経験と知恵を借りながら地域課題の解決の
ために「働く」仕組みを整えています。
 1、農業での就労  2、生活支援  3、子育て  4、食堂  5、福祉  』


 ③産業界の課題 では、『長寿社会は、イノベーションの宝庫である。』といっていま
す。 つまり、課題とは、『長寿社会対応の産業を日本の基盤産業の一つに育てること』
と断言し、これがまさに、世界で長寿社会の先端を走る日本にとって新しい産業として
有望だとしています。

 産業界とシニア消費市場との連携が重要であり、プロジェクトでは『ジェロントロ
ジー・コンソーシアム』を結成して、さまざまな業種企業と連携した研究を進めている
という。 自動車、住宅、鉄道、金融、食品、化粧品など多様な産業と高齢社会との関
わりから新しいビジネスとして、これら拡大するシニア市場をターゲットとして展開し
ようというのです。
 単にシニア層向けの要介護層と富裕層だけを主たるターゲットしたこれまでの展開は、
わずか1割程度のシェアですが、全体の8割を占める普通のシニア層はまだ未開拓だと言っ
ています。しかもこれが拡大するわけですから、大きな課題ではあるのですね。

 2017年に、地域(鎌倉)に常設された「鎌倉リビングラボ」では、大学、行政、住民、
と多数企業の産学官民の協同が展開されています。 ここでは、①住民の課題、②行政の
課題、③企業の課題 を設定して活動されているそうです。

      

 最近、街中を走るタクシーの中に、車高の高いのがあることに気がつきましたが、これ
も、新しい発想で 長寿境に向けた、つまり高齢者にとって乗降が楽にできる・・そんな
ところから導入されているのかもしれないと、ちょっと目につきました。

 地球上で誰も経験していない、長寿社会に向けて、それぞれの課題を発見して、それを
新産業に展開するとともに、シニアにとっての充実したセカンドライフが、本人、国、
産業界にとってウインウインの形になるよう進んでほしいものです。

 講演録の最後に、次のような下りがありました。
『 時間・収入・知識・スキル・人脈・健康は、セカンドライフの特典です。これからの
高齢者はこれらの特典をフルに活用して、自分の人生を自由に設計できるのです。
こういう自由は、三十代ではありませんでした。』

 

        ベランダのチョウジソウ
              
        



 

 

 

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戦友との飲み会‛18  (bon)

2018-04-21 | 日々雑感、散策、旅行

 今年も、昨日(4/20)この会があり、参加してきました。

  戦友・・といっても、本当の戦争ではなく、当時(1990年頃)会社として駆け出しの
営業部隊の第一線戦士として、社会に揉まれていた同僚の集まりなんです。

 毎年この時期に、遠くからも参加される仲間の顔を合わせて、呑みながら楽しい会話を
尽くす・・そんな雰囲気の中でお互いの今日ある自分を再確認するとともに、また新しい
エネルギーを交換し合うのでした。

 特別に新しいイベントがあるわけでもなく、参加することが直接何かの利益になるとか、
そんな次元のことではなく、会って話すことが、お互いを暖かい気持ちで満たす・・
そんな感じなんでしょうか。

      みんなで記念写真を~
       (過門香點 有楽町にて)

 


    スナップ
   
    

 

 考えてみれば、会社勤めで、同じ組織にいながら、日夜奮闘を重ねていた仲間が、今
このように心を温めて集うというのは、珍しいことなのかもしれません。
昨年のこの会のブログ記事から、一部をコピペします。

 『 所属する営業軍団は、日本の大企業様への電気通信設備、ネットワークを主とする
営業を担当する大集団で構成されていまして、その集団にあって、27年前に突如 新しく
発足した 私たちのグループは、これら、大営業集団に共通して抱える問題解決部署とし
て創設されたのでした。 その名を「システムインテグレーション(SI)技術部」と
呼ばれました。』
 つまり、これまで全く未経験な分野に突撃するような感じだったのですね。

 『 当時は、客先からの注文や要望を受けて、それに対処して行くという いわゆる
“御用聞き”営業だったところに、これでは“いかん”ということで、この新組織(私た
ちのグループ)が誕生したのです。

 顧客の業務改善や課題解決を目的とした“提案営業”が まだ走りの頃でしたので、
大営業集団は、こぞってその方向に取り組みを始めていましたが、実質的にはあまり成果
が上がっていなかったため、これをサポートするなり、さらに本格的な企業への提案を
行うというのが、私たちグループのミッションだったのです。』


 そんなグループの深い絆の故なのでしょう、28年を経た今も、遠くは、札幌、盛岡、
和歌山方面からも参加され、各自の近況スピーチも加わり、懐かしい想い出と共に 会は
盛り上がるのでした。
 会社には優れた人材が多くいる中で、このグループにはひときわ傑出した人たちが集
まっていたのではないか・・そんな思いさえしています。 形にはまらず、臨機応変に
自在に舵をとり 解決策を編み出す能力集団・・そんな仲間が現在も各方面で重責をこなし
頑張っている皆さんの中にいて、改めて力強いエネルギーをもらったようでした。

 忙しいさ中に、このような会を今年も開催していただいて、幹事の皆さんには心から
感謝申し上げます。ありがとうございました。

      夕暮れの有楽町
       
      

 

 

 

 

 

 

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発明の日

2018-04-19 | 日々雑感、散策、旅行

昨日、4月18日は、発明の日でした。

 “発明”などからは、ついぞ遠ざかっていたような気がしますが、この日に因んで少し
状況などを見てみたいと思いました。

 ウイキペディアによれば、『 発明の日は、産業財産権制度の普及・啓発を図ることを
目的として1954年(昭和29年)に制定された記念日で、毎年4月18日である。
』とあります。
 ずいぶん昔に制定されていたのですね。 その背景も出ていました。
そもそもは、『現在の特許法にあたる「専売特許条例」が、1885年(明治18年)4月18日に
公布されたことに由来する。
』とあり、これが、上述の昭和29年に通商産業省(当時)に
より制定されたということなんです。

 この日を中心に、特許庁や経済産業省の地方経済産業局等によって様々なイベントが開催
されているようです。そして、この1週間を、科学技術週間とされているのです。

          (特許庁HPより)

 特許庁HPによれば、専売特許条例は、明治18年4月18日に 初代特許庁長官である
高橋是清らによって交付されたとあります。 そして、遠くアメリカでも、第16代大統領、
エブラハム・リンカーンは、大統領に就任する前年の1859年の演説で、「特許法は、発明者
に一定期間、独占権を補償することによって、天才の火に利益という油を注いだ」と述べて
おり、特許制度に支えられた産業を礎として、20世紀にアメリカは大いなる繁栄を遂げまし
た・・ともありました。

 そうなんですね。 日本でも、特許制度が導入されてから、多くの発明者や研究者の方々
が努力し、特許を生み出し、経済成長をもたらすとともに、私たちの生活を便利にしてきま
した。

 特許庁が挙げた、日本の10大発明家が載っていました。そのまま転記します。

●高峰譲吉 1854(安政元)年生まれ  消化酵素「タカヂアスターゼ」の発見。現在も
 胃腸薬などに用いられている。また、副腎分泌ホルモン「アドレナリン」の結晶化にも
 成功。止血剤や強心剤に使用される。

●豊田佐吉 1867(慶応3)年生まれ  木製人力織機、木製動力織機の改良と開発を続け、
 世界発の完全無停止杼換式自動織機(布を織るスピードを落とさず、よこ糸を自動に補充
 できる織機)を発明する。


●御木本幸吉 1858(安政5)年生まれ  養殖真珠で真円真珠を生産する技術を開発。
 「ミキモト・パール」の名で世界に普及した。


●池田菊苗 1864(元治元)年生まれ  うまみ成分「グルタミン酸ナトリウム」の解明と
 工業化に成功。味の素の創設者鈴木三郎助によって調味料「味の素」として国内外に普及
 した。


●鈴木梅太郎 1874(明治7)年生まれ  米ぬかからビタミンB1を抽出に成功。その後、
 愛弟子高橋克己博士と、タラの肝油からビタミンAの分離・抽出に成功した。

 

●本多光太郎 1870(明治3)年生まれ  従来の3倍の抗磁力を持つKS鋼、さらに数倍の
 抗磁力を持つ新KS鋼を発明。これら磁性材料の発明は、計測機器の性能を飛躍的に向上
 させた。


●杉本京太 1882 (明治15)年生まれ  字数が多く複雑な邦文(和文)のためのタイプ
 ライターを開発。ワープロが普及するまでの間、長期にわたって使用されていた。


●八木秀次 1886(明治19) 年生まれ  極めて簡単な構成で電波の指向性通信を可能す
 る「八木アンテナ」を開発。しかし、当時の日本では理解されず、欧米でまず実用化され
 ることに。第二次世界大戦では、相手国のレーダー用アンテナとして利用され、日本人を
 驚かせた。


●三島徳七 1893(明治26)年生まれ  ニッケル鋼にアルミニウムを添加したMK磁石鋼と
 よばれる永久磁石を発明。安価で小型化できるため電子機器や通信器、航空機や自動車な
 ど、産業機器に幅広く使用される。


●丹羽保次郎 1893(明治26) 年生まれ  現在のFAXの基礎となる写真電送装置を開発。
 これによって昭和天皇即位式の写真が京都から東京まで電送された。

 う~ん、そうなんですね!

 昔は、特許出願をこぞって促進していましたが、近年は少し穏やか(というより下降
気味)となっています。しかし、特許登録件数は増加していますから、以下の図のように
その効率は高まっていると考えられますね。 また、あわせて、世界の5大特許庁での特許
出願件数推移を挙げておきます。
       

 

 
                                (
以上特許庁HPより) 

 

 全国でも、いろんなイベントが行われているかもしれませんが、東京では、下記の
セミナーがあったようです。 

  発明の日記念セミナー2018 「判例に見る地財活用の現状と今後の展望」

    ◆講 師:知的財産高等裁判所 所長 清水 節 氏
    ◆日 時:平成30年4月16日(月)14時00分~17時00分(科学技術週間)
    ◆会 場:発明会館7階研修ルーム    東京都港区虎ノ門2-9-14


 当ブログの2017.9.8「論文数」の記事とも関連する部分もあるかと思いますが、特許
出願の内容も、時代とともに変化し、現状では、物理化学関連が依然多いものの、情報
関連や薬学・バイオなどの出願も多く推移しているのではないかと思われます。
 最近の傾向として、すぐに製品などの役に立つ(金になる)部分に注目されているよう
にも感じますが、真に実力ある国に成長するためには、やはり特許に結び付く基礎研究が
充実される必要があるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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子ども食堂  (bon)

2018-04-17 | 日々雑感、散策、旅行

 『子ども食堂』 ご存知でしたか?

 このところ急増しているそうです。 ウイキペディアなどを調べてみますと、2010年頃
からこのような動きがあり、2012年に、大田区に「気まぐれ八百屋だんだん こども食堂」
が出来、子どもが一人でも安心して、無料または低額の食堂が利用できる場所が生まれ、
続いて豊島区でも、地域ぐるみの子供たちへの支援の目的から、子ども食堂はじめプレイ
パーク、学習支援、児童館、交流会などを行うところが出来る場所が開かれ(WAKWAKネッ
トワーク)たのです。 

 その後、徐々に拡大の方向にある中、2014年4月に「NHKあさイチ」で取り上げられ、
新聞、テレビなどで報道され急拡大し、2016年には300程度と見られていたのが、今や
(2018.4)全国に2286か所に急増したそうです。

 都道府県別では、ばらつきがありますが、東京335、大阪219、神奈川169、沖縄127、
北海道113・・と都市部に集中しているようです。
  2015年から「こども食堂サミット」が毎年開催されており、内閣官房長官賞「あしたの
まち・くらしづくり活動賞」を受賞したとあります。

       (ネット画像より)

  内容は、食堂を開催しているところはまちまちのようですが、週5日開催しているとこ
ろも多いそうで、時間帯は大体が、平日夜のようですが、登校前の朝食の時間帯や、給
のない週末の昼食時、長期休暇期間を中心として取り組む食堂などもあるという。

 参加費(料金)は、子どもについては「お手伝い」などの条件付きを含めて無料として
いるところが半数以上であり、有料の場合も50~ 500円、や100~300円のところが多い
ようです。 保護者など大人については子どもより割高に設定されている場合が多いそう
ですが、子ども・大人共に完全無料の店もあるなど様々です。

       高知市の例
       (ネット画像より)

 どのように運営されているかといえば、殆どがボランティアであるようです。 地域の
主婦たちのほか、調理学校の学生、家政学を学ぶ学生が調理を手伝ったり、大学生が子ど
もたちの遊び相手をしているなど 多くの関連で支えられているようですが、その中心は、
子育てが一段落した50歳代から60歳代の主婦たちが担っているとあります。

 運営費用は、主に寄付によっているようですが、公的補助や民間企業の助成金などでも
賄われており、中には持ち出しのところもあるようです。 インターネットや、クラウド
ファンディングなどで資金を募っている食堂もあるそうです。 また、食堂に通う子ども
たちが募金箱を作って、コミュニティセンターや地域の医院に置いたり、運営者がオリジ
ナルの文房具などを販売して運営の足しにしたり、高齢者たちによるバザーの収益金が
寄付されるケースもあるなど、やはり資金的には大変なようです。

 さらに、運営資金の他、食中毒などの安全・衛生管理、や子供のけがに対する保険など
の課題があるとともに、地域の子供たちとの繋がりにも解決すべき事項が多いとありまし
た。 子供たちとの繋がりとは、初期には貧困対策の意味合いが強いところでは、“貧困
でないと利用できない” 反対に “貧困だと思われたくない” などから利用者が少な
いところもあったそうです。
 子どもを孤食から救い、地域の子供たち同志のコミュニケーションが計られ、さらには
大人たちも含むコミュニティへと発展して行くとの目標に向かってのソフト面での課題も
多いとか。

     

 「子どもの貧困」(当ブログ2017.11.29)を救済・支援するとの立場は勿論ありますが、
そればかりではなく、孤食で寂しく過ごしている子供たちを何とかしたいとの思いから
始まった民間運動がここまで拡大してきており、継続性の不安がよぎりますが、何とも
心温まる活動だと思います。
 しかし、ボランティア中心で、資金、人手不足から担当する人たちへの負担増加や内容
の質の低下など 懸念事項が多いのも事実であるでしょう。

 ネットなどには、本当に 子どもの貧困対策なのか? 子供じゃなく大人向け?など批判
的な意見も散見されましたが、そのような否定的な発想ではなく、何とか継続発展して行
く手立てを差し伸べて行きたいものです。

 

 

 

 

 

 

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大茶盛西大寺  (bon)

2018-04-15 | 日々雑感、散策、旅行


 一昨日は、京橋・孤松庵にて、pookyさんによる「お茶事」が設けられ、蓼科浪漫倶楽部
東京メンバ―6人がお招きにあずかりました。
  pookyさん奥様(亭主)の
お点前で、正客 児玉先生のなめらかでそして格式と意味合いを
巧みに織りなすリードに、八寸とお濃いとお薄のお茶をいただき、和やかで心の通った、
寛ぎすら覚える
楽しいお茶事を体験させていただきました。

 ちょうど時を同じくする、4月第2日曜日とその前日土曜日に奈良・西大寺で行われる
『大茶盛式』が、今年は、この土・日にあったのでした。

 こちらは、私たちのお茶事とはちがって、5㎏ほどもある大茶碗で回し飲みするという
行事で、800年の伝統を持ち、今や観光の一つとして位置づけられて賑わっているようです。
 (大茶盛は、1、4、10月に行われているとありました。)

 

 西大寺HPより、謂れや、その様子などを、拾い読みの形で以下にご紹介します。

『 大茶盛式は、延応元年(1239)年に叡尊上人が八幡神社に献茶した余服を民衆に振る舞っ
たことに由来する伝統行事で、「戒律復興」(不飲酒の戒め)、「民衆救済」(当時高価な
茶を民衆に施し 医療・福祉の実践)そして「一味和合」の3つを意味しているとあります。
 この最後の「一味和合」の意味は、同じ一つの味をともに味わって、和みあい結束を深め
るという意味を持っており、同じ一つの大きな器でたてた同じ味のお茶を、そこに集まった
人々が、皆で助け合いながら同じ茶碗から廻し呑みして、和合を深めるということなんですね。

 つまり、仲たがいすることなくお互い助け合いながら結束して同じ目標に向かって修行に
励むための、釈尊が定めた規範の一つなのだそうです。』

       大茶盛式
        (ネット画像より)


 一昨日の、京橋で催されたお茶事も、まさしくこの意味を言い当てている和やかで心が通じ
合った 印象に残る楽しい場でありました。

 

 西大寺は、近鉄奈良線の「大和西大寺駅」近くにありますが、その歴史は古く、平神護元年
(765)に 称徳天皇が、金銅製の四天王像を鋳造されたのがそもそもの起こりで、父・聖武天皇
が平城京の東郊に東大寺を創建したのに対し、宮西の地に本格的伽藍が開創されたとあります。
 しかし、その後衰退し、荒廃してしまうのですが、鎌倉時代半ばに、上述の 叡尊上人が、
1235年に当寺に入住して再興するのです。

       西大寺(本堂)
        (西大寺HPより)

 年間、色んな行事が行われますが、主要行事として、毎年10月3~5日に厳修される光明真言
土砂加持大法会と、春秋二回に行われる大茶盛式が挙げられていました。
 前者は叡尊上人が一門結束と民衆廻向を二大眼目にして創始した最重要法会で、後者は同じく
上人による八幡神への献茶した余服の茶を、薬種として、また「一味和合」の精神で、参詣の
人々に振舞ったことに由来する、巨大な茶碗で回し飲みする茶儀として多くの参拝客で賑わう
とあります。

       光明真言大法会
        (ネット画像より)

 

 

 

 

 

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蓼科農園‘18(畑整理) (bon)

2018-04-13 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 今年初めての蓼科農園です。4/10~12ですから、例年よりかなり早い始まりなのですが、
昨年10月下旬の収穫祭が雨などで遅れてしまい、11/9~12でしたので、収穫祭と畑じまいを
かねて昨年は終わりにしたのです。 で、畑の方は、若干整理が残っていて、全面を新しく
開墾してもらうために、その前座として今回“整理のため”の蓼科農園行きとなりました。

 芋がらや黒豆の枝などの焼却とマルチ・防草シートのはがしがメインでしたが、良い
お天気の下の 久し振りのこれらの作業に汗ばんだのでした。 畑の中央3か所に積み上げて
火をつけると、勢いよく音を立てて燃え上がり、その後には上質の草木灰が残り、翌日、
畑面上に散らし、さらに米ぬか5袋(15㎏/袋)を全面に散布して整理は完了しました。
 大型耕運機による開墾を次回畑開きまでに実施してもらうよう依頼しました。

 雪を頂く八ヶ岳             芋がらなどの焼却
   


 冬越しをしたタマネギ、ニンニクは順調に成育していて、マルチ穴に延びた雑草を除去し、
スッキリしたところに液肥を散布しました。

  タマネギ、ニンニクの除草       液肥も散布
  

 おにぎりタイム              米ぬか散布
  

            きれいに整理できました。
          


 初日は良いお天気でしたが、翌日は一転急変し、小雨交じりの突風が吹きまくる嵐のよう
でした。夜の雨は上がり、最終日には初めての高遠城址公園の桜まつりに足を延ばしました。
 タカトウコヒカンザクラ(固有種)は、既に満開を過ぎていましたが、城址公園一面の
1,500本に及ぶ桜にたくさんの人々が訪れ、賑わっていました。 遠く戦国時代を偲ぶ、地形
を巧みに利用した、深い空堀や土塁からその戦闘的な城の姿が思い描かれるのでした。

             高遠城址公園の桜まつり
  


     楽しいひと時・・
       


 桜の下では、団体による大正琴の演奏や、田楽座と称する一座の狂言ようの出し物など、
のどかな雰囲気に包まれ、ひらひらと散る桜の下で五平餅をほうばり、ひととき 別次元の
感覚を味わい帰路に向かいました。

      “高遠の さくらの下で 五平餅” ぼん


 
 お待たせしました。オートスライドです。(3‛30”)

 





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今頃のベランダ‛18  (bon)

2018-04-09 | 日々雑感、散策、旅行

          二刀流の大谷選手は大リーグで3試合連続ホームランでチームを
               勝利に導く大活躍です。今日月曜日は、先発投手として、いきなり

               3連続三振の立ち上がりで、7回までパーフェクト。合計12奪三振と
        活躍しました。  日本の若者は、大したもんですね。

 小さなベランダの定点観測のようになりますが、昨年も、2017.4.14「今頃のベランダ」
の記事に、花たちの様子がアップされていました。 花木などの種類は、もう増やすことを
止め整理の方向にありますので、お馴染みの花たちばかりです。

 毎年、同じ季節には同じ花が巡ってきて、季節を上手に告げてくれていますが、その時季
は、昨年より1週間~10日(早く)ずれているのですね。 昨年のページ(記事)にあります、
窓から見える公園の満開の桜は今年はもう葉桜で、みどり色していますし、ベランダでも
レンギョウやハナモモが終りかけていて、昨年よりは、春はずいぶん早かったのでした。

 あまりダブらないように、写真をアップします。(一部ダブりますが)
 ベランダに出ると、一面甘い香りが漂っているのは、白いフジが咲いているからです。
もうだめかと思っていた、ドウダンツツジにもたくさんの小さな白い花が咲いて、フジ
(カ
ピタン)とともに白い景色を作ってくれています。

          カピタン
                     

 

 昨年記事にあるチューリップは、どこかに消えて、今年は見当たりません。ツタンカー
メンは、昨年新しく購入したタネをまきましたので、なんだかいきいきしているように
えます。 もう一つのプランターにはタマネギを詰め混んで植えてみましたが元気です。

  ツタンカーメンえんどう          タマネギ
  

 

 ジュウニヒトエも細々と咲いていますし、3月初めに一輪大きな花を付けたツバキ3兄弟
は、新しい葉が勢いよく出てきました。 昨年、12月に種まきしたハナミズキが少し芽を
出してきました。昨年も同じようにして発芽しましたが、定植時期が早すぎたせいか、
定植後枯れてしまいました。

 ジュウニヒトエ            ツバキ3兄弟(挿し木の頂き物)
   
                                          (左端に大きな花が咲きました。)

 

 ハナミズキの芽吹き          アザレア
  

 

 ハナミズキ、ヤマボウシはこれからというところです。 そして、もう少しすれば、
定植予定のカクテルキュウリ苗(前出)
はまだトレイの中にあります。

  そういえば、以前あったはずの、アイリス、花ショウブや馬酔木などは、いつの間に
か消えてなくなってしまいました。

 

 明日から、今年最初の蓼科農園に行ってきます。ちょっと寒いかも~?


 

 

 

 

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法然上人  (bon) 

2018-04-07 | 日々雑感、散策、旅行

 ご存じ、平安時代末期~鎌倉時代の僧で、浄土宗の宗祖です。

  法然上人は、平安の末、1133年4月7日(旧暦)、美作国久米(現在の岡山県久米郡)に
押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれました。 幼名を勢至丸
(せいしまる)といい、9歳の時に父親は夜討ちに会い死亡し、母方の伯父の僧侶に引き
取られますが、その才を認められ 比叡山で勉学に励むのです。18歳で「法然房」という
房号と、師匠の字をとって「源空」という諱(名前)を授かりました。 法然の僧として
の正式な名は「法然房源空」なんですね。

      法然房源空
        (ウイキペディアより)

 

 知恩院HPによれば、『浄土宗の総本山知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、
没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、
江戸時代以降だそうです。 徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々
からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。』とあります。

 伽藍は、いくたびか盛衰があったそうですが、多くの人々の支援によって乗り越え、
800年以上にわたる、念仏の教えがここに生き続けている・・とありました。

      知恩院(国宝)
       (ウイキペディアより)

 

 上人の時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災
にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にあったそうです。当時の仏教は学問をして経典を
理解し厳しい修行をし 自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとした貴族のための
宗教で、不安におののく民衆にとって、仏教は無縁の状態にあったのです。
 法然上人は、そうした仏教に疑問もち「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることで、
すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道を開かれるのです。
上人43歳の春のことで、ここに浄土宗が開宗されたとあります。 
 いわゆる、民衆に開かれた大乗仏教(鎌倉仏教)のはしりなんですね。

 法然上人には、諡号の他、大師号が8つもあります。 『大師号は、500年遠忌の行なわ
れた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、
円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師で
ある』とあります。 最後の法爾大師は今上天皇の命によるのだそうです。 
 しかし、「大師」といえば、空海があまりにも有名で、空海のことを大師と呼ばれている
ほどで、ネットに、「大師は空海に取られ、太閤は秀吉に取られる」などとありました。

 

 また、上人が生まれた地(岡山県久米郡)には、1193年に熊谷法力房蓮生(熊谷直実)が、
師である法然上人の命を奉じ、旧邸を寺院に改めた今日の「浄土宗特別寺院 美作 誕生寺」
があります。
 こちらでは、珍しいことと思いますが、上人のご両親をお祭りする行事があり、今年は、
平成30年4月15日(日)に法然上人御両親御追恩会がおこなわれるとありました。 

     誕生寺 御影堂(重文)
       (ウイキペディアより)

 

 

 

 

 

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カクテルキュウリ  (bon)

2018-04-05 | 日々雑感、散策、旅行

 オランダからやってきた、スナック感覚のミニキュウリです。 まだ、発芽して少し
過ぎた頃ですから、口に入るのはまだしばらく先のことなんです。

 カクテルキュウリと言って、香りが強くみずみずしいミニ(10㎝)程のキュウリです。
昨年初めて、種を蒔いて発芽させたのですが、油断して徒長してしまい、その後定植しま
したが結果的に枯れて失敗してしまいました。
 すぐ前の、市民農園で、夏野菜と一緒に、毎年普通のキュウリ苗を植えますから、それ
で十分なんですけれど ちょっと違ったキュウリを種から育ててみたいのです。

      ミニキュウリの種まきセット
        

 
 発芽に必要な温度が、25~30℃とありますから、3月段階ですと温室でもない限り無理
なんですね。夜もありますから。 なので、小さな段ボール箱の中に、アンカをタオルで
巻いた上に、プラスチックトレーに乗せたポットを置いて、軽くビニールカバーをしました。
いろいろと考えた末にとった方法です。

 カクテルキュウリ種まきセットを購入すると、中に、種まきポット6個とキュウリのタネ
8個が入っています。ポットは、500円硬貨を少し大きくしたような、コイン状で、水を吸う
と膨らんでポットのような形になります。 このポットの、上部真ん中に種を蒔きます。

 種まきから、2週間過ぎた頃の状態の写真です。

      トレイ上で育つキュウリ苗
       

 

 簡易温室(箱)の中で、4~5日で発芽しました。 徒長を防ぐため、完全に双葉が出た
ところで箱から出して、昼は屋外の陽の当たるところ、夜は、部屋に取り入れる・・そんな
ことを繰り返して、上の写真のような姿になりました。
 本葉が2枚くらい出て、もう少し大きくなったころに、プランターに植えることにしてい
ます。 市民農園の普通のキュウリと区別して、ベランダ栽培として見ました。
 無事に収穫できそうになりましたら、ご報告したいと思います。

 

 

 

 

 

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断捨離  (bon)

2018-04-03 | 日々雑感、散策、旅行

 どこかで聞いたような気がしますが、「断捨離(だんしゃり)」は、2010年の流行語にも
選ばれているのですね。

 やましたひでこ(山下英子)という人が、そのころに出版した著書において発表された
『 不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想』なのだそうです。
「断捨離」は山下の登録商標だとありました。

      (ネット画像より)(ダイヤモンド社)

 ウイキペディアに、その概要がありました。
 『 断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの
行法である 断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷
からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。 ヨーガの
行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。』

 とありますが、なんだか痛いところを突かれているみたいです。しかし、ちょっと深い
意味もあるような感じです。
 受け売りばかりで恐縮ですが、著書の中の次のようなくだりが紹介されていました。

 『日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが(これはこれでひと
つの考え方・価値観ではあるが)、この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなく
なり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中
に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、
また 人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、
知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう。』 

 私もそうなのかもしれません。 ガラクタばかりがたくさん転がっています。狭いとこ
ろがますます狭くなっています。 若いころは、転勤が多く転居するたびに次の家に合う
家具に変えたり、荷物を減らすために、かなり大胆な整理を余儀なくされ“引っ越し貧乏”
などと冷やかされたりしたものですが、もう何年も一所に住んでいると、ガラクタはたまる
一方です。

 ・まだ使えるから、少しとっておこう
 ・箱や板切れなども時に重宝する
 ・ワイシャツ、スーツ、スラックス、ネクタイ・・などなど お世話になった身の回りの
    物は、20年程前にキチンとして資源にだしたりしましたが、またまたたまっています。
 
  とくに、最近ウエスト周りが急膨張ですから、着ることができないのに、まだきれい
  だから、もしスリムになったら・・と捨てずに置いてあるのです。
 ・まだ履けるけれども履くことはない靴がごろごろしている。
 ・植木鉢や鉢皿、園芸関連の小物も、もう2年も使っていないものがかなりある。

 思い切って断捨離を実践してみる必要がありそうです。

            (ネット画像より)

 判断基準をもっとわかりやすくして、著者は、最近次のようなことを言っています。

『「今」の私にとって「不要・不適・不快」なモノを手放していくのです。その際、次の
3つの視点でモノを選び、手放す時は 知性・感性・感覚を総動員させます。

 ・不要なモノ…あれば便利だし、まだ使えるけれど、なくても困らないモノ
 ・不適なモノ…かつては大切だったけれど、今の自分には合わないモノ
 ・不快なモノ…長年使っているけれど、どこかで違和感や不快感を感じているモノ 』

 また、自分と物との関係だけでなく、仕事と人間関係にも断捨離を実践することを
すすめる書物も出版されているとありました。

              


 意味も内容も全く違いますが、“離”がついた3文字の言葉を思い出しました。
守破離です。

 『守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の
一つ。日本においてこれらの文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなって
いる思想でもある。』とありました。

 すなわち、師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まり、その後、研究
を重ねて、より良い型をつくり古い型を「破る」段階となり、最終的には師匠の型、さら
には自分自身の型から「離れ」て自在になる・・という成長過程をいうのです。

 武道や家元制などには、新たな流派が生まれるのですね。

  

 

 

 

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会計年度  (bon)

2018-04-01 | 日々雑感、散策、旅行

           第90回センバツは、連日熱戦が繰り広げられ、準々決勝に入りました。
       ベストエイトに石川勢が2校も残り、頑張っています。

 

 今日から4月に入りました。今年はサクラが早かったので、花びらがひらひらと舞い散り
陽光に映えてうららかな春を迎えました。
 ピッカピカの1年生、新入社員 いそいそと、うきうきと・・新しいスタートが始まり
ました。

 今日から新年度になりました。『 学校法人の年度は会計年度だが(私立学校法第48条)、
株式会社の年度は事業年度である(会社法)。会社の年度を、会計年度というのは誤りで
ある。』とウイキペディアにありました。

 そうですね。会社では事業年度ですね。4月1日から翌年の3月31日までの1年間と定められ、
始まりの年を基準に○年度といいますね。この新年度は、18年度です。

 ところで、4月~3月の1年を年度としたのは、いつ頃からで、どのようなことからそう
なったのでしょうか? やはりウイキペディアから・・

  国家の会計を1年間で区切る方法は、7世紀末期には「1月 - 12月制」が導入され、租税の
納付・輸送、監査、予算配分などが実施されていたそうです。
 明治政府における「会計年度」は、明治元年(1868年)においては、従来の慣例に従って
「1月 - 12月制」だったものの、 明治 2年に 近代大蔵省が創立すると、同年旧暦9月に
「金穀出納ノ実計ニ適合セス」として、会計年度は新米の収穫後に合わせて「10月 - 9月制」
と決め、同年より導入されました。
  しかしこれも、明治5年の新暦採用時に「
1月 - 12月制」に変更されますが、翌年7月に
地租改正法が制定されると、地租の納期(第1期が8月)に合わせて「
7月 - 6月制」が決定さ
れ、明治8年から実施されるのです。

  さらに、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発し、多額の戦費を捻出するため政府は不換
紙幣を濫発し、インフレを招き、紙幣整理、緊縮財政を取る一方、たばこ、酒造、醤油税
などの増税を計るが、帝国海軍拡充計画のため、財政赤字の穴埋めの必要から明治18年度の
酒造税を明治17年度に繰り入れしてしまったことから、これを改善するには、明治19年度より
酒造税の納期(第1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないことになり、明治17年
10月に4月 - 3月制」の導入が決定され、明治19年(1886年)4月から実施されました。
  その後、「4月―3月制」が、明治22年に法制化せれたとありました。
 すいぶん激しく変遷したのですね。

 『 終戦後の公共機関では、日本国憲法第86条および90条により「1会計年度は1年」「各々の
会計年度は独立」と規定されているが、始期と終期の規定はない。会計年度を「4月 - 3月制」
と規定しているのは、国では財政法第11条、自治体では地方自治法第208条第1項である。』と
ありました。 憲法では、1年と規定しているだけで、4月―3月とは言っていないのですね。

 ややこしいですが、ウイキペディアに整理した評がありました。

     年度の変遷
     (ウイキペディアより)

 なお、会計年度の始期・終期を変更しようとする議論は、実際に変更がなされた以外にも
明治時代から何度も提起されているが、いずれも見送られているそうです。 1972年に、
当時の田中角栄首相が会計年度の暦年制移行を訴えたが、大蔵省(当時)などの反対により
移行は実施されなかった・・とありました。

 年度に、このような経緯があったなどは、全く知りませんでした。

 また、この年度については、外国では、それぞれに決められており、下表の通りです。

     外国の年度
     
                        (ウイキペディアより作成)

 ついでに、年度に関しては、『特定の目的のために規定された1年間の区切り方』という
ことで、会計、学校の他、作物などについて、下表のようにいろいろとあるようです。

   その他の年度
     
                          (ウイキペディアより)


         昨夜のブルームーン、きれいでした。

            (3月31日21時頃、ベランダより)



 

 

 

 

 


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