DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

自分が忘れてしまえば、もはや誰も知ることがない:上原隆(1949-)「この道を泣きつつわれのゆきしこと」『雨にぬれても』(2005年)所収

2018-02-16 20:05:07 | 日記
文学者、小沢信男(1927ー)が「新日本文学会」(1945ー2005)の解散にあたり、回顧する。
(1)
①1980年代、1990年代と、新日本文学会は、活力を失っていった。
②今や2000年代に入り、入会者は定年後の高齢者ばかりだ。雑誌は文学好きの同人誌にすぎない。

(2)
③小沢は1950年代前半、26歳で入会した。当時、大西巨人30歳代、花田清輝編集長40歳代。
③ー2 新日本文学会がスタートした1945年には、中野重治、佐多稲子とも40歳代だった。

(3)
④1970年代に、小沢は事務局長となる。
花田さんは、「つくれ、つくれ」と言う。
しかし「創作」とは、「いまだかつてないものを、新しくつくり出すこと」だ。そんなこと「しょっちゅうやってられますか」と小沢。
「十年かけ二十年かけて自分の代表作にやっとたどりついた」というのが普通。
⑤今は、雑誌『新日本文学』が、「なんかスカスカして見える」。

(4)
⑥かつては、1949年佐多稲子『私の東京地図』、1950年島尾敏雄『ちっぽけなアバンチュール』、井上光晴『書かれざる一章』が、新日本文学会から出た。
⑥ー2 1950年代に、金達寿『玄界灘』。これは「在日の文学を開拓した作品」と小沢。
⑦1960年代になると、大西巨人『神聖喜劇』、佐木隆三『ジャンケンポン協定』、野呂重雄『天国遊び』、小関智弘『ファンキー・ジャズ デモ』。
⑦ー2 「ワン・オブ・ザ・ベスト」が「ポコポコと出てきてるんだよ」と小沢が言う。

(5)
「ところが、あれからこっち、どうもね。」
「新日本文学界の会員が会の仕事をやると」、時給800円とか、1000円とか、財政難なのに、平気で受け取って帰る。
(5)ー2
ここで小沢の声が大きくなり、怒りが噴出する。
小沢は、26歳で新日本文学会に入会し、今や、76歳直前だ。
「運動というものは間尺にあわないものですよ。間尺にあわない運動をやるから獲得するものもあるわけじゃないですか」と小沢。

(6)
2003年、58年間続いた新日本文学会は、総会で解散を決定した。
小沢が解散の提案者だった。
小沢信男『わが忘れなば』に次の短歌がある。
「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」

《感想》
50年間、自分が、かかわってきた「間尺にあわない運動」、つまり損得勘定からすれば全く割に合わない運動に対する気持ちを、小沢の短歌が示す。
彼は、この道を、「泣きつつ」進んだ。
その苦労は、自分のみが知るのであって、自分が忘れてしまえば、もはや誰も知ることがない。
人生は、みな、たいてい、こういうものだ。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 笑い話「足の痛み」:《潜在... | TOP | 後藤 静香(セイコウ)(1884- 19... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 日記