rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

若い医師達が大学に帰り始めている?

2011-08-28 23:13:37 | 医療

さる食事会で他大学の教授との話しに出た話題です。医学部を卒業して最初に研修する先を、厚労省が大学の医局制度解体を目指して市中の総合病院でも可能になるよう大改定をしたのが先の医師初期研修、後期研修制度改革でした。

 

以前は大学を卒業した医師は主に出身大学か、どこかの大学医局に所属してそこで関連病院などを転々としながら研修を積む中で「学位」を取得し、留学を経験して、ある程度一人前になってから大学に残る、関連病院の医長になる、開業するなどの選択をして医師人生(キャリアパス)を築いてゆきました。

 

そこには大学教授を中心としたヒエラルヒーと人事管理制度があり、厚労省が病院を管理したくても人事には手が出ないという状況がありました。また医師の側からも一人前になるまでは大学の医局に奉仕、雑巾掛けをする期間が必要で、見方によっては人権無視の無賃金強制労働的なことを強いられる素地があったことも否めません。

 

欧米では制度化された専門研修制度が確立されており、日本でも医学部に女学生が増加し、また病院管理を厚労省ががっちりやりたい(病院評価機構やDPC—医療費一括制度などを通じて)ことの一環として、研修医が自由に研修病院を選べる(病院側も研修医を選択できますが)マッチング制度が導入されて、全国の大学は卒業生の3割から半分位しか残らないという事態になりました。勢い大学では人手が足らなくなり、また医学生の定員増加による教育負担の増加も伴って、各大学は派遣している病院から医局員を引き上げ初め、地方を中心に病院医療の崩壊が起こってきた事は周知の通りです。

 

若い医師達は研修先として、便利で症例が多い都会の病院を選んだために医師数の偏在がより顕著となり、地方大学を含む過疎部の医療崩壊がなおさら進んでしまったというのが現状です。

 

しかし新しい制度ができて数年が経過し新制度で研修を終えた若い医師達がその後の人生設計を考えねばならない時期になって問題が生じてきました。以前であれば、大学で雑巾掛けをしながら修業を積んだ後にはそれなりの複数の人生航路が開けていたのですが、新しい制度ではまた一から自分で開拓しないといけない状態になるのです。特に研究や留学を希望しても道がないために再び大学に戻る必要が出てきます。しかし大学には少ない若手として頑張ってきた同年代の研修上がりの医師達がいるので自分のやりたいことだけ大学に戻ってやると言う訳にはゆかないのが人情です。

 

厚労省は研修終了後の医師人生のキャリアパスまで考えて研修制度を作っていませんでした。「研修が終わって専門医の資格を取ったら終わりでしょ」と言う感覚であり、一人前の外科医が育つには10年かかるとか、研究の指導ができる大学教官が育つには15年かかるとかそのようなことは考えていませんでした。日本の理系を志望する高校生の上澄みの殆どを医学部が吸収してしまっているにも係わらず、その優秀な若者達を5年間研修させた後は「勝手にしろ」と放り出してしまうのが今の研修制度です。もっときちんと教育を続けたり研究や留学の機会を与えて次の時代の日本・世界の医療を担える人材を育ててゆくのが本来の姿ではないかと私は思うのですが。

 

厚労省もやっと自分たちの誤りに気付き、かといって自分たちが医師達の面倒を見る能力はないですから、「各学会は専門医達のキャリアパスについて指導できる体制を作りなさい」と今度は大学から専門学会に仕事を転化してきました。専門学会というのは大学の教員達が作り上げているのが現状ですから、畢竟「若い医師達はどうぞ大学に戻ってきて下さい」ということになるし医師達も「先が見えない一般病院よりも大学の方が選択肢が広がる」ことに気付いてきました。但し今のところ人気があるのは都心部の有名大学だけで地方の大学には若手は戻ってきていません。

 

最近内田 樹氏の文章をよく参考にさせていただきますが、氏の最近のブログに「大勢の中から悪い奴を見分ける説明不能な能力のある人が警官になるべきだし、証拠が不足していても犯人を適確に有罪にできる能力がある人が裁判官になるべき」という文章がありました。これは医師にも言える事で、同じような症状で受診をした大勢の患者の中から重い病気を嗅ぎ分ける能力がある人が医者になるべきだと言えます。そしてこのような能力は初めは備わっていなくても「本人の努力と適切な教育」によって育てる事ができると確信します。それは残念ながら現在の新研修体制では作りがたい状況のように思います。教育プランやカルテの書き方の充実ではこの「説明不能の能力」を身に付けることはできません。教わる側が「この先生のようになりたい。」という師と仰げるあこがれの人を見つけ、その人から努力をして説明不能の能力を盗み取ることをしないとこのような能力は身に付かないからです。以前の教育体制では例え大学の中に師と仰げる人材がいなくても、若い内にいくつかの病院を転々とするうちにそのような人に会える機会がありましたし、留学した先でスケールの違う恩師に出会うこともありました。

 

地域人材育成と言う名目で、出身地方に一定期間残ることを条件に医科大学に推薦入学させる制度が増えてきていますが、今後は地方の大学を中核として周辺の病院と連携を組ながらキャリアパスを考慮した教育研修制度を再構築してゆくべきではないかと考えます。

 

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WHOの健康の定義

2011-08-25 01:07:19 | 医療

世界保健機関(WHO)は「健康とは身体的、精神的そして社会的に完全に良好な状態を言い、単に疾病や病弱でないことではない(Health is a state of complete physical, mental, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity)」と定義しています。実は前回のブログで感想を述べた「現代霊性論」を読んで知ったのですが、平成10年のWHO理事会ではこの健康の定義に霊的(spiritual)にも健全(dynamic stateと表現されている)であることが追加されることが決まったけれど総会では否決されたということが紹介されていました(http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1103/h0319-1_6.html)。

 

WHOの健康の定義には種々異論があって「これは幸福の定義ではないか」という意見もあり、またcompleteと限定することにも異論があるようです。一方で2000年の改訂案で検討されたようにより積極的に「生き甲斐」や「信仰」にも踏み込んで初めて「健康」と定義できるのではないかと言う意見も出ています。ただいずれにしても「病気ではない状態が健康だ」という定義にならないことに異論はないと思います。

 

我々臨床医が提供する医療は「病気を治す(或いは癒す)」ことが精一杯であり、精神的な健康にもある程度貢献することはできますが、主な役割は「病気でない状態にする」ことに尽きるように思います。

 

人間の健康が身体的、精神的、社会的、霊的に健全で満たされた状態と定義されてその状態を目指す必要があるとされるならば、行きすぎた予防医療によって「これこれの数値を正常化しないと病気になるぞ」と脅して精神的に不安にさせたり、食の楽しみを奪って生きる楽しみを損なうような医療行為は謹まないといけません。また癌末期の患者の単なる延命のためだけに本人の意思に反した治療行為を行なうことも健康の定義に反するでしょう。

 

先日、進行癌となった父親と中学生の娘、二人だけで暮らしていた家族がいよいよ父親の余命が限られてきたので年老いた祖母の実家に娘を転居させて父親も実家近くの病院である我々の病院に転院してくるという事例がありました。父親としては「自分が居なくなってからの娘の行く末を見届けたい」という希望があるだろうと思われたので、少々病態として無理は承知だったのですが退院して在宅療養ができるように私は準備を進めました。確かに老親と中学生の娘だけでは起き上がることもままならない父親のケアが十分できるとは言えません。私としては「蓐瘡ができようがケアが悪くて死期が早まろうが、新しい生活環境で3人少しでも暮らして見れば今後の娘の行く末をある程度実見できるし、それは入院しながらの延命よりも大事だろう」と思って患者を退院させたのですが、退院の翌日訪問看護や在宅医師の指示でその患者さんは救急車で病院に送り返されてしまいました。「とても家ではケアできない」という理由なのですが、患者さん本人は「家にいたい、帰りたい」と希望していました。

 

結局その患者さんは入院のまま1ヶ月ほどで亡くなったのですが、「死ぬ瞬間まで自分の生き方は本人が決めるべきだ」という終末期医療のありかた、身体的な健康をプラスする医療のためにスピリチュアルな健康は犠牲にして良いのか、と言う問題を強く感じさせる事例でした。医療は人の生き甲斐まで提供することはできないのだから、「医学的に正しいからといって病人の生き方を勝手に決めつけるような傲慢なことを軽々しく行なってはいけない」と私は常々思っています。

 

医療が提供できるのは健康に関するごく一部ではないでしょうか。

 

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書評 現代霊性論

2011-08-19 22:42:42 | 書評

書評 現代霊性論 内田 樹、 釈 徹宗 講談社 2010年刊

 

内田氏が勤めていた神戸女学院大学において同名のテーマで行われた対論形式の大学院の講義を一冊の書籍に対論形式のまままとめた物で、社会学者(文学部教授というより)の内田氏と浄土真宗住職である釈氏が現代のスピリチュアルブームと宗教、習俗の関係を解りやすく考察したものです。

 

前に書評を書いた「日本辺境論」や普段読ませてもらう内田氏のブログでも感ずることですが、氏は皆が漠然と感じている風潮についてやや雑駁ながらもおおまかに分析してその社会的背景などを解りやすく解説するという手法に大変優れていると感心させられますが、本書においても現代の心霊ブームの背景、旧来の宗教との関わり、新興宗教、そしてオウムなどのより新しいオカルト的な宗教が現代日本社会に受け入れられやすくなっている状況などを日本人の心にある「霊性」という論点から実に腑に落ちる感じで明快に解説しています。

 

まず神や霊という科学的に実態を証明できないものをいかに規定するか、という話から入る所はトマスアクイナスの神学大全がまず「神の存在の規定」から始まるのと同様に目の前に示すことが出来ないものを論ずる場合の常と考えられます。ここで氏は「現象学的アプローチ」と称して、神や霊が存在すると考えられているために引き起こされている種々の行動や事象を検討することで神や霊魂の「ありよう」を考えれば良いのだと今後の話の展開方法を規定します。神や霊魂がある、ないの論争は結論も出ないしそれらが影響している社会の分析も導かれない不毛の内容になることが明らかなので、読者がその領域(ある、ない論争)に入り込むことをあらかじめ予防しているとも言えます。

 

以降は「ことだま」の力、ことだまを操るカウンセラーとしての霊能者、死と宗教の関係など、霊的なものの社会に及ぼす影響を自在に話を展開して論を進めてゆきます。そのそれぞれが「なるほど」と思わせる説得力があるのが読んでいてい面白い所でしょう。

 

本書の柱になる部分は宗教と霊との関わりなのですが、旧来の宗教が日常的な儀礼を重視して社会生活に関わってきたのに対して、日本では戦後に興隆した新興宗教は日本の経済復興や発展を背景にした「現世利益」を比較的前面に打ち出している傾向があると分析。また80年代以降に興隆してきたポスト新興宗教と分類される宗教は、都市生活における社会の非儀礼化に伴う個人の孤立化に対応して個人の悩みにより向き合う傾向を持ち、霊的体験の希薄化からよりオカルト的な傾向も併せ持つようになっていると分析しています。また旧来の宗教が社会とつながりを保つことで宗教が個人の社会生活を壊しかねない暴走を防ぎ、内容的にも時間をかけて洗練されてきたのに対して、新しい宗教は実社会から隔絶する方向性を持っているから霊的な心情に訴えかけられて信じてしまった個人が客観的に判断して行動できにくい(要は信者が洗脳されやすい)状況になっているとその危険性を指摘しています。

 

私は個人的には緩和医療において最近注目されている「スピリチュアルケア」というのはどのような事を目指しているのか、それはキリスト教圏と仏教や儒教を信奉する社会圏において違いがあるのか、といったことに興味をもっています。本書にもキューブラーロスの有名な死の需要の過程などの話が紹介されていますが、旧来のキリスト教の霊の扱いとニューエイジと言われる世代の霊魂の扱いがどの程度矛盾対立するものなのかの詳しい論考はありません。アメリカの映画やテレビドラマなどでも死後の霊魂を扱った作品が多くありますが、「ゴーストNYの幻(映画)」とか「ゴーストー天国からのささやき(ドラマ)」などで描かれる死と霊魂のありようは我々日本人からみてもあまり違和感がない描かれ方に見えます。

 

本書の後半で「タブーとは境界領域であることが多い」といった論考や最後に学生からの質問に答えて「死は生の対極にあるのではないだろう(死によって生の意味がわかる考えると、生きている時の迷いや悩みは大きいほどある時点で得られる悟りも大きいのではないか)」といった論考はかなり宗教的な深い考察を含んでいてためになりました。

 

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韓流ブーム・反韓流ブームに思う

2011-08-10 23:58:44 | 社会

現在反韓流ブーム論がネット上を賑わせています。確かにNHKまでもしょっちゅう韓国ドラマを流しているし、歌番組もk-pop歌手のたどたどしい日本語の曲ばかりが流れています。

 

「作られたブームであって実際のファンなど大していない」という声もありますが、どうもそうでもないように思います。というのはわが家の女性軍(家内と娘)は韓流ファンで近所の韓流大好きグループとコンサートやイベントによく出かけているからです。家の中は韓流スターのポスターが至る所に張られているし、テレビやDVDも韓流だらけです。娘は大学生ですが、すでにハングルは読めるようで、会話も少しはできます。「あなた在日?」と聞かれたこともあるとか。理系ではありますが、その特技を就職に生かして見たら、と思います。

 

「韓国は国を挙げて文化を輸出している」というのは本当だと思いますし、「日本のマスコミ、芸能界には在日朝鮮人の表裏様々な勢力が抜き差しならぬ力を持って介入していてある程度言いなりになっている」ことも事実でしょう。戦後日本の朝鮮人達が「自分達は戦勝国の一員」と勘違いをして暴虐の限りを働いたことに対してマッカーサーが「君たちは戦勝国でも敗戦国でもない第三国の人員だ(からちゃんと秩序ある行動をしなさい)。」とたしなめたのに、そのまま日本の表・裏社会にそれなりの経済力を持った勢力としてあり続け、政界にもそれなりの経済的支援をして影響力を持ってきたという事実を日本人が知らなさすぎるだけだと私は思っています。

 

前にもブログに書きましたが、朝鮮の人達がフィリピンやインドネシアなどの他のアジアの人々と同様に「自分達は戦勝国でも敗戦国でもない」ことを自覚して植民地から解放されて新たな自主国家作りに真摯に向かったならば、南北朝鮮は遠の昔に統一されていたことでしょう。戦後の南北分断・信託統治を連合国に抗議し統一を希望した人達がもっと力を持っていれば、或いは朝鮮戦争を戦勝国同士の代理戦争としてでなく、他のアジア諸国と同様の(植民地的傀儡独立状態からの)「独立戦争」ととらえて戦っていればと私はつくづく思います。

 

明治以来の日本の発展は、朝鮮の人達にとってあこがれであったことは明らかで、しかも日本が朝鮮を併合してしまったことで「あこがれ」が「憎しみ」に変ってしまい、それがずっとルサンチマンとしてあり続けて戦後も日本が気になってしかたがない存在になってしまっていることは否めないと思います。嫌いなら嫌いで国交などせずに放っておけば良いのに、と思うのですが日本の一挙手一投足にいちいち過敏に反応してデモをしたり国旗を焼いたりしてしまうのですな。しかも韓流ブームを起こさせてわざわざ若いスター達に日本語で歌を歌わせたりと韓国の日本に対する「気になり方」は大変なものだと思います。

 

戦前、日本がアジアに雄飛していた時代、我々日本人はもっとアジア諸国に対して関心を持っていたように思います。現代の日本人は英語はある程度理解できる人が多いでしょうが、アジア諸国の言葉を話せる人がどれくらいいるでしょうか。戦前は中国語や朝鮮語を話せる日本人はもっと沢山いたと思います。私の母は朝鮮の大邱(たいきゅうーテグとは言わない)生まれですが、祖父は当地で弁護士をしていましたし祖母もある程度朝鮮語を話せたようです。自分のひ孫が朝鮮語を話せると知ったらきっと喜ぶように思います。

 

私は子供たちに英語以外にも中国語とかロシア語とか何か一つは日本と関係が深くなるであろう国の言葉を勉強するように話しています。それは中国のエリート医師達との交流で彼らが日本語も英語も話せたりすることを目の当たりにして世界的な視野を持って活躍するには語学が大事なのだと感じたからです。勿論最も大事なのは母国語であることは間違いありませんが。

 

娘も盲目的に韓流ファンという訳でもないようで、「あのグループは反日だから来ない」とか「k-popも乱造しすぎて質が落ちてきている」とかかなりシビアな目でみています。韓国のドラマは80年頃の昔の日本のドラマっぽいとか感想を述べているので日韓の文化比較とか社会経済の発展具合の比較とかの勉強になればそれはそれで良いのではないかと感じています。

 

中国や韓国が日本を侵略しているだのと危機感を煽っている諸兄は、是非中国・韓国社会にもっと関心を持って自らその国の言葉を勉強して逆に(ネット上でも良いから)乗り込んでいって対決(日本人の考え方を広める)するようにしたらどうでしょう。彼らも日本に関心を示し日本語を苦労して習得して乗り込んで来ているのですから。

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書評 不思議なキリスト教

2011-08-01 20:02:53 | 書評

書評 不思議なキリスト教 橋爪大三郎、大澤真幸 対談本 講談社現代新書 2011年 刊行 

 

本書は宗教に詳しい社会学者である両氏が、大澤氏が一神教を代表するキリスト教について根本的な疑問をぶつけて、橋爪氏がそれに解りやすく答えるという対談形式を取りながら、キリスト教的な世界の見方、考え方を理解してゆくというもので、正直「最近読んだ本の中では一番面白かった」本です。 

 

ユダヤ教やキリスト教はだいたいこんなもの、という知識はあっても元々信ずる気は無いから興味を持って深く聖書を読むといったことはできないのですが、この本ではキリスト者が困惑するような根源的な問い、例えば一神教なのにヤハウエとキリストと二人神がいるのはおかしいし、しかもキリストは大工のヨセフの子で兄弟までいると聖書に書いてあるのは人間として歴史上存在した証で、十字架で死んでいるから人間だし、それを神だとするのは偶像崇拝にあたるから教えに矛盾しているではないか、といった疑問を合理的に説明する過程(公会議などを開いて歴史的にとても苦労しながら解決してきた過程も)をとても興味深く読む事ができました。 

 

この本を通して「目から鱗」というか「ああなるほど」と腑に落ちるように感じたのは、西洋人の物の考え方が極めてキリスト教的であるということです。我々日本人が物事の善悪を判断する根拠は「統治者の哲学」と言われる儒教的思考をもとにしていて、「自分の属する集団にとって利があるか」が判断の元になります。立場と状況よってそれが家族であったり、会社、国、地球人、未来の日本人と範囲が変りますが、「属する集団の利害」を元に善悪を決めていることは明らかです。しかし一神教のキリスト者は集団の利害よりも万物の創造主である神と自分との関係(契約)で善悪を判断していると言えます。我々からすると、ときにはそれが非常に個人主義的に見えたり社会や自然との調和を乱しているように見えたりします。一方で我々日本人は非科学的、非論理的な結論も「集団の利」に適っていれば平気で選択しますね。

 

科学や法のあり方も我々は「生活の利便」のためとしか見ていませんが、キリスト者は神が創造した自然法を解明する神学の一分野として考えているから、あまり実生活に役立ちそうにない超原子物理やヒトが到達できない超遠方の宇宙とかの解明に莫大なエネルギーと情熱が注がれるわけです。また集団における和を考えていたら永久に出てこない「基本的人権」の発想も神と個人の契約の発想があったからこそ出てきた自然法の一部なのだと理解できました。

 

科学と聖書が矛盾している時は、原理主義者は聖書を普通の人は科学を優先するけど、矛盾していない部分はキリスト教全体を信じているのだから、両者には実は違いがない、という説明は面白いし納得がゆきます。我々の集団の利と科学の関係と一緒だと思えば宜しい。日本人は日本国憲法に定められたキリスト教的発想の諸権利や資本主義経済といったものを「こんなものだ」と頭で理解して日常生活を送っていますが、心底納得しているものではないから現実社会では諸外国と違った反応を示す事が多々あります。それは私の専門としている医学においてもそうかも知れないと実感しました(実はアメリカに留学していた時はあまり感じなかったのですが)。

 

つまり私はこの本を読んで書かれた内容からは離れますが、「キリスト教的に医学の達成目標はどこにあるのか」ということに興味を持ちました。日本の医療は制度的にも技術的にも非常に進歩して日本は世界一の長寿国となっています。しかし人間がどのように生きることを目的として医療を行なっているか、という医療の達成目標は実は明らかではありません。国民も「医療で病気が治れば良い」と漠然と考えているでしょうが、介護を含めて「治るとはどの状態を言うのか」明確でないように思います。西欧では何を目標に医療を発展させているのか、アンチエイジングの項で述べましたが、「不老不死」というのは中国道教の思想ですから、西欧で目標とされるアンチエイジングとは発想が異なるはずです。このあたりも機会があればもっと勉強してみたくなりました。

 

 

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