rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

So whatだけど素晴らしい

2018-06-27 18:52:35 | その他

 NHKの科学番組は時に解り易く面白い内容の物があります。BSプレミアムで6月7日22:00から放送されたコズミックフロント☆NEXT「重力波 天文学を変えた奇跡の2週間」もその一つでした。アインシュタインがある(はず)と理論付けしながら、実際に測定することができなかった重力波が2016年に初めて測定され、この重力波がブラックホールや中性子星の変化で放たれる事が解ってから、新たな「重力波天文学」の幕開けであるとまで言われていました。

 

 私も実際は理解できていないのですが、宇宙(現実世界)には重力、電磁力、ミクロレベルの(電磁力より)強い力、弱い力の4種類があって、全ての現象はこの4つの力で説明できるとされます。重力は「空間のゆがみ」だそうですが(この辺から感覚的には理解不能になる)、その小さな変動を波として捉える方法が90度直角にしつらえた4Kmに渡る管の中をレーザー光線を当てることで事が可能になったというものです。このLIGOという装置は米国の南部(ルイジアナ-リビングストン)と北部(ワシントン州-ハンフォード)にあって、同時に測定された「ゆがみ」が同一であればそれは「宇宙からの空間のゆがみ」=重力波を捉えたものであるということです。

 

LIGO施設(ハンフォード)                 初めて捉えられた重力波(2016年4月号Newtonに掲載されたもの)

 今回の番組で何が感動的かというと、このLIGOで2017年8月17日にたまたま1億3千万年前に起こった中性子性の衝突によって起こった重力波が捉えられた、というニュースが瞬く間に世界中の天文学者に共有されて、真夜中や早朝を問わずそれぞれの分野でその解明のための研究が動き出した事です。特にどの中性子星が衝突して得られた重力波なのかという追求が素晴らしい。設定の方角が異なるイタリアの重力波測定装置VIRGOでは測定できなかったことから、その角度設定に影響を及ぼさない方角からの重力波である、という仮定で仮説が立てられて、衝突後短時間で輝きが出現して消えてしまう中性子星の衝突を光で捉えるために世界中の天体望遠鏡が協力して可能性のある方角の観測を始める。そして南米の大学院生が当番であった観測所からのデータから、とある小さな点でしかないはるか宇宙のかなたの中性子星の衝突の場所が特定されるという展開になります。この点は世界各地の天文台で観測を続けるうちに数週間で消えてしまうのですが、その変化によって金やプラチナの宇宙における生成過程も明らかになって、それらの多くに日本人の研究者もかかわっていることが紹介されます。

 

中性子星の衝突の想像図(キロノバと言うらしい)

 まあこのような事が人類の幸福に貢献するのかというとそうでもないように思いますし、「それで?」という感じでもあるのですが、何より「重力波で中性子星の衝突を捉えた」という事実からこれだけ多くの世界中の研究者達がその意義を理解して夏期休暇返上で一斉に協力しながら研究を進める、そこには人種、宗教、経済の対立もない所が素晴らしいと感じました。観測から作成された論文には世界中の天文台の観測者達の名前も載るのですが、浮世離れした世界でも追求される真実は一つと言う所が良いと思います。医療の世界ではデータの再現性は実は一流と言われる雑誌の論文でもあまり高くありません。基礎医学のデータは70%、臨床医学では50%の再現性があれば良い方です。しかし物理や化学では100%の再現性が求められます。世界中の天文台から集められたデータで一つの真実に迫るということが普段やや再現性が緩んだ論文を見慣れている私には新鮮だったのかも知れません

コメント (3)
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日本の医学部進学システムについて思う

2018-06-18 23:39:16 | 医療

 医学部の学生や若い医師達に指導医として接していると、多くの若者達は「良い医者になろう」という意欲が見えるので安心なのですが、一部「この人は医者には向いていないのではないか。」と考えざるを得ない人達もいます。以前にも指摘したことがありますが、これは日本の医学部進学システムの問題ではないかと思います。米国では医学部は一般大学を卒業してからbusiness schoolや法律家になるlaw schoolのように専門家になる専門学校として進学します。だから難しい入学試験であるMCATに合格しなければ他の職業に大学卒として就く事が可能ですし、自分は医者に向いていないと気付いて医学部の途中で退学しても他の職業を選べます。しかし日本では高校の1-2年の間、15−6歳という年齢で自分が一生の職業として医者を選ぶ事を決めねばなりません。そして理系進学者の上位1%に入れば、ほぼ間違いなく医学部に入学できます。しかし医者、特に臨床医は数学や物理の素養が天才的である必要は全くなく、むしろ卒なく人付き合いができて、広く注意散漫でない、目端が利く人間であることが求められます。また他人に対して思いやりがあり、患者さんを実験台とか練習台としか考えないような人は医者失格です。ところが、高校で数学や物理化学が上位1%に相当する位よくできる人が、上に示した素養を持っている保証はどこにもありません。全く異なる素養だからです。

 

 勿論医者は理系で科学的な思考法ができねばならず、覚える事も多いので暗記が得意でなければなりません。また死ぬまで勉強を続ける必要があります。だから勉強嫌いや暗記不得意者はハナから失格です。現在の各医学部の教育シラバスはほぼ共通の内容になっていて、どの医学部を卒業しても一定の臨床医としての規準を満たす素養を叩き込む事になっています。つまり高校1-2年で医学部進学を決め、医学部に入学したらほぼ同じような規準を満たした卒業生の姿で医学部から送り出され、国家試験を受けてこれまた日本国中で同じようなしくみの初期研修プログラムに沿って2年間の臨床研修を行うことまで運命付けられています。医学部に入学したら医者以外の職業選択枝はありません。超優秀な人は司法試験にも受かって弁護士になったり、政界の道を選ぶ人もいますが、それも一度は医師国家試験に受かるというステップが必要です。臨床検査技師や理学療法士になることもできません。鍼灸やマッサージの資格も医学部では取れません。警察では検死を行う検死官が不足していますが、解剖学や生理学の知識があっても医学部で学んでいたというだけでは資格は取れません。私はどうもこの一方通行しか許されない医学進学のシステムはどうにかならないかといつも思います。他学部から医学部2年生への編入、医学部4年生から他学部への転出といった道がもっとあっても良いのではと常々思います。

 

 他学部を卒業してから医学部に入り直したり、編入して医師になる方も少数ながらいます。なかなかユニークな人が多いのですが、それなりに強く思う所があって医師になっただけの事はあると感ずることが多いです。一方、私が「この人は医者に向いてないかも」と思う人でも医者以外の職業であれば大いに成功したであろうという人が多いです。協調性に欠ける人もその押しの強さは起業などでは成功に必須のアイテムになるでしょうし、冷徹であることは物理学やある種の商品開発などでは緻密な研究に有利に働くでしょう。天才的な数学や物理の素養は将来の原子物理学や日本のエネルギー開発のために使っていたら大きな飛躍の素になった可能性があります。それがお年寄り相手の生きる上で必須と言えないかもしれない医療を遂行するために使われるのは日本国にとっても不幸としか言えないように思います。

 

 最近の医学部の学生は、10-20年前に比べると真面目で良く勉強している印象があります。授業に行っても皆良く聞いています。良い子であること自体、それは悪くないのですが、もう少し自由で人生に疑問を持って斜に構えて悩んでいそうな学生の方が、吹っ切れて医者になってから人間味のある良い医者になるような気もします。今年の医師国家試験など見ると、いよいよ一定の方角を向いて勉強していないと(良い臨床医になる心構えで学生のうちから取り組んでいないと)合格しないような内容に改変されてきていることが解ります。医学部を目指す高校生達はこういった現実を十分理解して勉強しているのでしょうか。高校の進路指導の先生達も成績のみでなく、こういった現実を踏まえた指導が必要になるように思います。

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映画「ある戦争」感想

2018-06-12 00:10:51 | 映画

ある戦争 (Kriegen) 2015年 デンマーク 監督トビアス・リンスホルム 主演ピルー・アスベック(クラウス・ペダーゾン)2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート

 あまり期待しないで見たのですが、とても良い作品だったので紹介します。デンマークは米国主導のアフガニスタン紛争における不朽の自由作戦にNATOの有志連合諸国として参加、戦死者も出しています。これは国連の平和維持活動とは異なり、米国との集団的自衛権に基づくタリバンとの戦争にあたります。あらすじは以下(ネタバレあります)—

 アフガニスタンのカルザイ政権支援のために駐留するデンマーク軍の部隊長、クラウス。3人の子と妻マリアを国に残して命がけの任務に没頭する彼は、ある日のパトロール中にタリバンの襲撃を受け、仲間と自分を守るため、敵が発砲していると思われる地区の空爆命令を行った。しかし、そこにいたのは民間人だった事が判明。結果として彼は、11名の罪のない子どもを含む民間人の命を奪ってしまった。帰国後、クラウスを待ち受けていたのは軍法会議。愛する家族に支えられながらも、消えることのない罪の意識と、過酷な状況で部下たちを守るために「不可欠」だった決断との間で揺れ動く彼に、運命の結審が訪れる。

本作は前半が戦場、後半が裁判とはっきり分かれた構成になっています。

 

非常にリアルな戦場の場面                                   隊長は裁判のために帰国するが・・

 

 主人公クラウス・ペダーソンが率いるデンマークの国際治安支援部隊の隊員ひとりがIEDによって吹き飛ばされ死亡するところから始まる前半。ドキュメンタリータッチで描かれる戦地での状況は非常にリアルです。これらシーンはもしかすると将来派遣されるかもしれない自衛官の人達にとっては他人事でなく感ずるでしょう。無為に死んで行く若い兵士を見て、アラブ系の移民?のやはり若い兵士が「こんな任務に何の意味が・・」と神経症に。クラウスは皆を鼓舞して自分達の任務がアフガニスタンの人達に受け入れられつつあるとして率先してパトロールに出かけます。しかしその後の展開で自分達のために村人がタリバンに殺され、助けを求められたのに助けてやれず、任務が無意味と嘆いた兵士が首を撃たれて死にかけます。部下を助けるために敵が撃ってくると思われる方角に空爆を指示するクラウス。その甲斐合って兵士は助かるのですが、空爆をした場所には子供達を含む民間人がいて11人が犠牲になります。

 その後クラウスは敵の存在の確証(PID)を得ずに空爆を指示したとして軍法会議にかけられます。PIDを得ていない事にクラウスは罪の意識に苛まれるのですが、裁判結審に近い6ヶ月目に部下が「敵の発火を見た」という証言によって無罪となります。

 

(あらすじ終了)

 私はこの作品、アメリカン・スナイパーゼロ・ダーク・サーティよりもはるかに内容としてはクオリティの高い作品だと思います。作者はこの1本の作品の中に実に様々な問題提起をなし得ています。つまり

1)アフガン紛争への参戦は集団的自衛権の発動として適切か。

2)テロとの戦争に軍という組織を用いる事は適切か。

3)軍の駐留とパトロールが当該国の平和維持に役立つのか。

4)戦争において国際法は確実に守られるのか。

 といった事です。

 この作品で後半時間をかけて審議しているのは4の敵を確認せずに無差別に爆撃を指示した結果民間人が犠牲になった事は戦時国際法違反であるという部分だけなのですが、1)から3)の問いかけが直接間接的に作品中でなされて、それについては審議されることはありません。僅かに3について兵士から疑問が呈されるだけです。

作品の後半では4について時間をかけてクラウス個人を裁くのですが、クラウスが意図的に民間人の殺戮を行ったのではない事が明らかであるので、民間人が誤爆されたのは「事故」という扱いです。しかしPIDを意図的に無視した事は軍紀違反であり、その結果「重大事故」が起こったのですから、民間人を意図的に殺戮すれば終身刑になるものの、PID無視では最高刑である懲役4年が求刑されるという展開でした。

 この「事故」自体の責任を個人に問わない、というのは非常に法律的によく検討された内容と思います。交通事故、飛行機事故、医療事故、これら意図的に起こしたものでない事故による障害や死亡の責任は「個人の問題」と「システム・環境の問題」に別れ、個人の過失などが明確でなければ個人に罪を問うことはできません。信号が両方とも青で車がぶつかったならそれは信号のせいであって個人のせいではありません。上記の問題4で起こった事が「事故」であって、その原因が1、2、3の国家・政治のシステム的な事が原因で必然的に起こったということになると、国家の選択自体を法廷が裁く事に成る、だから法廷ではクラウス個人のPID無視だけを審議したということなのです。そもそも「アルカイダを匿ったから」という理由でアフガニスタンという国家を転覆させる事に、集団的自衛権を理由にデンマークのような全く関係ない国が軍で他国を侵略する事は適法性がありません(1)。私が前から主張するように、テロとの戦争に軍という組織を使うことは適しておらず、様々な不具合が生じます(2)。昼間時々パトロールに軍が来るだけで、いずれそれらが撤退して去ってしまう事が解っている状態で、タリバンのような地元に根ざした敵対勢力を根絶する事は不可能で、方法論として誤りです(3)。つまりシステム的に不適切な1−3の状態を放置して、その結果生じた「事故」(4)に個人の責任を問うことは無理があるのです。それなのに隊長であるクラウス一人に罪を追求する所に観客は釈然としないものを感ずるのです。システムの問題を正さず、個人の罪を求める法廷の馬鹿馬鹿しさに、部下の一人が「私が敵の砲火を見た」と後から嘘の証言をして決着をつけた事に、恐らく検事、判事、弁護人や関係者全ては承知の上で「無罪結審」を示したように見えます。このあっけない終わり方がまた観客に何か不条理感を抱かせる良い演出であるように感じました。

 

有名な人魚姫の像

 デンマークは一度訪れた事がありますが、コペンハーゲンは落ち着いた伝統ある奇麗な街で国全体はのどかな田園風景が広がる農業国でした。税金は高く、自動車一台買うと同じ額の税金を払う社会保障の充実した国です。一方でバイキングの歴史があり、グリーンランドもデンマークでアイルランドも昔領土でした。独仏よりも先進的であるデンマークが現在戦争状態にある国家で、このような課題を真剣に抱えているという事に改めて感慨を覚えます。デンマークでさえこれだけの悩みを持ち、解決ができないのですから、法整備も国民の心の準備もない日本が集団的自衛権などをあまり軽々に決めない方が良いのではないか、単なる無責任で「問題が起こってから考えよう」では遅いのではないかと強く思いました。日本人にとって一見の価値のある映画だと思いました。

 

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生きるということ

2018-06-08 17:54:37 | その他

 最近のブログへのコメントなどを踏まえて、やや漠然とした内容にはなりますが、自分が還暦を迎えたこともあり、「生きる」ということについての考え、意義などについてまとめておこうと思います。

 

人生は修行だと思う

 

 基本的に自分は仏教的な考えであり、人類が古くから自然と持っている「輪廻転生」の考え方が正しいと思います。一神教においては、人生は1回であり、神は死後審判を下して天国か地獄に行くということになっているようですが、どうも欧米の小説や映画を見ても「死後の世界はある」「輪廻転生がある」という前提で描かれた物が多く、しかもあまり異論なく受け入れられている所から「人生は一回きり」と本音では思っていない人が沢山いることが解ります。

 仏教的な考え方では、人間の今生は前世からの種々の業や因果によって規定され、現在の私は色、受、想、行、識の五蘊の統合による仮の姿(仮我)として認識されます。前世の五蘊は全く同じままで今生に引き継がれるというものではなく、種々の魂は交錯し得る物のようです(魂自体が複数あって一部が抜けると呆となる)。人間は徳を積む事で魂は次のステージに上がるものとされますが、罪を犯し、今生で償う事なく次ぎの人生に引き継がれる事もあるでしょう。

 

 罪を犯したにもかかわらず、償う事なく死んで行く者は、次の人生で黙々と徳を積む他ないと思いますし、罪を償う気さえない者は神からチャンスを与えられる事なく地獄行き(か人間界から追放=日本霊異記では畜生道、餓鬼道、地獄道の世界へ)となる「あはれ人」になってしまいます。今回の人生で夭逝するなど本懐を遂げる事なく不本意に終わる人も沢山おられますが、神は次の人生で今回果たせなかった夢を叶えるチャンスを与えて下さるだろうと思います。だから与えられたチャンスは活かして、大いに精進に励む事が「生きる」意義なのだと考えます。米国では優秀な若者が若い時は必死に働いて金を稼ぎ、四十代半ば以降は享楽的な人生を送るのが成功者の理想的人生だ、とする人生観を聞いた事があるのですが、私としては違和感を感じます。神は「優秀な才」をそのような人生を送るために与えたのではないだろうと。米国エスタブリッシュ達から何となくにじみ出る「軽薄さ」「あなた生まれてこなくても世の中困らなかったのでは?」のような感じはそのような人生観にあるのではないかと私は感じます。

 

 孔子の教えに三十にして「立つ」、四十にして「迷わず」、五十にして「天命を知る」とありますが、大体五十歳になれば、「今回の人生の意義、使命はこのような事だったのだろう」と理解して以降の生き方を定められるようになります。私も今回の人生は「一介の医師として可能な限り人の役に立つよう努力する(名誉、栄達、金銭ではなく)」というのが天命なのだな、と感じたのでそのように生きるのが自分にとって「徳を積む」ことになるのだろうと考えています。

 

清濁合わせ飲むということ

 

 社会の一員として生活してゆくには、必ずしも自分の理想や良心のままに全て事を運ぶことが許されないことがあります。最近社会で問題になっている組織の問題もそこに根ざしていると思います。所謂「おとなの対応」とか「組織の論理」という言葉で表現されているものです。また自分の利益のために必ずしも相手の利益にならない事を推し進める事もあります。これをどこまで許容するのか、というのは生きて行く上でかなり深刻な問題です。

 

 私は防衛医大出身ですが、大学当時はまだ反戦左翼全盛の時代で「自衛隊の存在」自体が許されない、といった雰囲気がありました。高校の同級生からも「人殺しのために医者になるのか」みたいな批判を受けましたし、ベトナム戦争で米軍が行った非人道的な事が取りざたされ、冷戦まっただ中の頃でもあり、将来自衛官になった時に米軍と共に戦場に行くような場合どのような心構えで行くか、といった事を真剣に大学の同僚達と話し合ったりしたものでした。森村誠一の「悪魔の飽食」といった731部隊の話も話題になっていました。そんな折、大学の倫理学の先生に「自分の本懐に沿わない命令を下された時にどうするべきか。」という問いを悩める青年達がぶつけました。

 先生は「日本には職業選択の自由がある。自分がどうしてもできない命令であれば職を辞するしかない。しかし少しでも意に添わなければ辞めるといった態度はよろしくない。自分が許容できない限界、red lineをはっきりと決めておきなさい。そこまで行かない命令は意見を言うのは良いとしても命令であれば最終的には従うのが社会人、組織人としての勤めだ。その覚悟で辞表は胸にいつでも用意しておきなさい。」と指導されました。これは自衛官のみならずどこの社会でも通用する至言であると思っています。このような指導をしてくれた倫理の先生を私は今でも最高の教育者であると尊敬しています。私は卒業後12年自衛隊に奉職して退職し、民間に移りましたが、red lineを超えたために辞表を提出する事態にその後も合わず勤務できたのは幸せであったと思います。

 

 還暦を過ぎて体力の衰えと共に長時間の手術などが耐えられなくなって来たことを痛感しています。しかし知識や経験を後輩に伝えたり、体力勝負でない治療を行う事はまだ可能だと思います。健康でいられる間、天命を果たすためにもう少し現職を続けて行きたいと思っています。

コメント (5)
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