rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

効果が期待できる薬ですが国が滅びる可能性というのもあながち

2016-07-14 12:56:09 | 政治

がん新治療薬 適応外投与で副作用 死亡例も

切除不能の進行癌に対して癌に対する自己の免疫的排除を抑制するポイントを解除することで患者自身の免疫機能で癌を治療するという新しいコンセプトに基づく薬です。悪性黒色腫他肺がんで日本において適応となり、日本中で使用されています。確かに化学療法が効かなくなった進行癌に一定の効果を示して(全例に効く訳ではありません)いて有効な薬であることは間違いありません。

問題は2週間毎の投与で1回150万円かかること、毎月小型車2台を買って行くのに等しい医療費を当然国民全員の保険で賄って行くことになります。しかも終了地点は効いている限りずっと(年単位ではマンションや家が買える値段になります)続けるという事です。

癌の抗原性を認識して自己の免疫力で攻撃するというコンセプトですから、現在適応の癌腫以外にもいくらでも効果が期待でき、今後適応癌腫が広がって行きます。この秋には腎癌にも保険適応が広がり、いずれ膀胱癌など他の癌腫にも広がると言われています。

特定の癌細胞をターゲット(攻撃目標)にしている訳ではないので、もともと癌細胞は自分自身の細胞であることから、正常な自分自身の細胞に対して攻撃が行われて所謂自己免疫疾患を副作用として併発する可能性が高いこと(指摘されている間質性肺炎など)も問題です。例えは悪いかもしれませんが、暴漢やテロリストを取り締まる警官隊の機能をめちゃくちゃ高めて、しかも抑制する司令官を拘束して「好きなように怪しい奴を攻撃しろ」と言って街に放した状態と考えて下さい。まともな市民でも少しでも怪しいそぶりをみせようものなら機関銃を乱射されて銃殺というのがこの治療です。

この免疫治療、残念ながら「癌の根治」は望めません。早期に導入すればもしかすると可能なのかもしれませんが、以前この治療の研究を専門に行っている研究者の方と討論した時にも「可能性はあり、完治例も世界の中では散見されているようでもありますが、現在の使い方では無理」ということでした。本来毎日人間の体内では何万という癌細胞が誕生しているのですが、自己の免疫能や癌細胞自体の不完全さによって自然に体内から除去されています。そういった免疫チェックをすり抜けた希有な癌細胞がたまたま増殖してしまって臨床的な癌になると言われています。自己の免疫チェックをすり抜けて臨床的な癌に発展した「臨床癌」を再度自己の免疫機能で完治するというのは所詮無理がある設定ではないか、と私には思います。神はそのような免疫能力を人間や動物には与えていないと私は思うのですが皆さんはどう思われるでしょうか。

さて、子宮頸癌のワクチン療法の際にも、一例の子宮頸癌の発症を抑えるために750万円の税金がかかることを紹介しましたが、癌の延命に一例3,600万円皆の払う保険医料と税でかかるこの治療を広げて行くことに国民は皆賛成なのでしょうか。日本国民の平均年収が1,000万円を超えているような裕福な国ならば永続可能と思いますが。

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クリントン候補の私用メール問題不問か

2016-07-08 18:52:46 | 政治

サンダース氏、12日に支持表明か=クリントン氏とそろい踏み―米紙

クリントン候補の私用メール問題不問か

東京新聞2016.7.6朝刊(引用開始)

 

私用メール問題 クリントン氏の訴追求めず FBI、意図的でないと判断

 

 【ワシントン=後藤孝好】米大統領選で民主党の指名獲得を確実にしたヒラリー・クリントン前国務長官(68)が公務で私用メールを使っていた問題で、米連邦捜査局(FBI)は五日、訴追を求めないとの捜査結果を発表した。司法省が近く最終的な判断を示すが、訴追されない可能性が高まった。

 FBIによると、クリントン氏が国務長官時代に私用のメールアドレスで送受信した内容に、機密情報が含まれていた疑いがあるとして捜査。三万通以上のメールを精査したところ、当時、機密情報に指定されていた内容を含むメールがあったことが判明した。

 だが、クリントン氏や側近らが意図的に機密情報を流出させたことはなかったと判断。FBIのコミー長官は機密情報の取り扱いについて「極めて軽率だった」と批判したが、訴追には至らないと結論づけた。

 FBIは二日、首都ワシントンでクリントン氏から三時間半にわたって任意で事情聴取。側近らからも事情を聴いて捜査していた。

 クリントン氏は私用メールを使ったことが間違っていたと認めつつも、当時は機密情報と記されていなかったなどとして、違法性はないと主張していた。

 

この私用メール問題というのは機密情報が含まれる内容を私用メールで送ったということが問題になっているようですが、本当の問題はこの機密情報の内容であると副島隆彦氏は指摘しています。要は2012年9月11日にリビアの米国大使が惨殺された「ベンガジ事件」に至る経緯、2011年の10月にヒラリー指示の下特殊部隊がカダフィを殺害した報復とされていますが、それらの経緯をやりとりした極秘情報の内容が私用メールを使っていたために漏れてしまったという事です。その内容(下記)については私でも普通にNew York timesのサイトで見れます。米国はカダフィを殺害して潤沢にあったリビアの資産を収奪してシリアの半政府軍に配った(間接的にISに渡った)ということです(重たい掲示板1945)。しかもカダフィを暗殺したアフガニスタンの部隊はタリバンによって輸送機ごと始末されてしまったとか。

 

           リビア解体における英仏政府の暗躍みたいな内容が書いてある文書

共和党の下院議長のポール・ライアン氏(反トランプ)はクリントン氏への訴追中止は「法の支配を傷つける悪しき前例」と批難しています。一方でオバマ氏はノースカロライナ州の集会でクリントン候補支持を表明したそうですが、メール問題やTPPには触れず、(本当は応援したくないんだけどね)という雰囲気だったようです。これでサンダース氏もクリントン支持ということになると悪女クリントン氏が本当に次の大統領になってしまうかも知れません。

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今回問われているのは自衛隊を海外で戦わせる是非だ

2016-07-06 18:23:06 | 政治

参議院選挙までの残り日数が短くなってきました。ある調査では改憲を主張する党が得る改選議席は全議席数の2/3を超えて改憲を発議することが可能になる確率が高いとの調査結果もあります。私にはどうも改憲論議、特に9条を巡っての論議について紛らわしく、論点がぼやけてしまっているように見えます。

 

今回、主に自民党が掲げている改憲の趣旨は、自衛隊を日本の国外においても戦闘ができる国軍として扱えるようにすることであると認識するべきです。「専守防衛に限って存在を銘記する」という従来の「自衛隊の存在を認めるための改憲」をするつもりはないと考えねばなりません。そうでなければ昨年あれだけ揉めた集団的自衛権についての解釈改憲をする必要もなかったのですから。

 

改憲論議についての解りにくさをまとめると下図のようになると思います。つまり1980年頃まで国論を二分していたのは自衛隊の存在自体を認めるかどうか(A対BCD)だったのです。その中で専守防衛のみとしても現在の日本国憲法で自衛隊が存在することは合憲と言いがたいというのがCの意見であって、現実問題として自衛隊は存在しても良いというBCDを合わせると国民の半数近くだったのですが、自衛隊を合憲とはっきり考えていたのはせいぜい20%程度(私もその一人)だったと思います。憲法学者に至っては合憲派はほんの数人程度で殆どの人は裁判官も含めて違憲であると考えていました。だから統治行為論のようなものが出て来たと言えます。

 

ところが現在は自衛隊の存在を認めないとする国民はごく少数(5-10%以内)であり、殆どの国民は自衛隊の存在自体は認めようと考えています。但し集団的自衛権を認めて日本国外においても戦争できるよう変えて行こうと積極的に考えているのは1980年頃のごく少数よりは増加して20-25%位はいるかも知れませんが、全体としてはまだ少数派であると思います。今回改憲の是非という論点で可否を問えば図のように国論を二分(AB対CD)する可能性が出てきますが、きちんと「自衛隊の海外派兵による戦闘行為に対する可否」で問えば否決されることが明らかと思います。我々は今回の選挙を憲法解釈の問題における自衛隊の存在の可否という論点(図で言えばBと考えるかCと考えるか)で投票すべきではありません。ABCに属するか、Dかで選択投票することを解りやすく説明しないと投票率も伸びないし、野党が勝つこともないと思います。

 

自民党が目指す改憲のもう一つの目標は「秩序維持」「公共の利益」のためならば国民の権利を制限して良いということの銘記です。これは2001年911以降の米国「愛国者法」の下に国民個人のプライバシー他殆どの人権の制限が許される法体系ができていることへの憧憬によります。米国は国力衰退と共に、長期に渡るアフガニスタン、イラクなどでの戦争で疲弊し、米欧の資本主義を中心とするワン・ワールド形成のために戦争を遂行する能力が減退しています。だから数年前から米国は自衛隊にも海外で戦争をする能力を高めることを執拗に迫るようになりました。

 

一方、中国を現在のような大国に育てたのは米国でありながら、大国になっても米欧財閥中心の資本主義の傘下に入ろうとしない(独自の通貨発行権を持ち続けて国家資本主義を発展させる)ことに業を煮やした米国は中国に対して敵対政策を取り始めました(ピボット戦略)。これに対して中国も軍事力強化で対抗しているというのが現在の姿です。一方で米国国内も1%の権力者が経済を支配することに国民が反発を始め、トランプ現象、サンダース現象が起きていることは周知の通りです。本音では国内で勝手な事をさせないために戒厳令に近い厳戒態勢を布いて完全な管理社会にしてしまいたいというのが愛国者法を作成した理由です。最近頻繁に「テロリストによる凶行」が米国内で報道されるようになりましたが、何とかテロ事件を増やして完全管理社会にしてしまいたいと焦っているようです。

 

中国の目下の最大目標は中国貨幣(CHY)の価値の維持に他なりません。AIIBを作り、国際通貨バスケットに元を認めさせた事、ロシアなどとの間で自国通貨による貿易を増やしている事など全てCHYの価値を維持させることが目的と言えます。軍事力の強化は軍人の暴走も否定はできませんが、自国の領土拡張などという前時代的な政策で国力が増大できないことは本当の天才達が揃っている中国指導者達は理解していることと思います(中国は想像を超えたバカ野郎も沢山いるので困ってしまうのですが)。

 

日本は今ここで自衛隊を領土外で戦争できるように変えても何も得るものはありません。ワン・ワールド達成など二千年の歴史を誇る日本国にとって迷惑千万な話であり、米中(ロシア欧州も)ともにあまりうまく行っていない実情が見えているのですから、何も変えることなく静観しているのが得策であると私は思います。その意味でも今回改憲はノーでしょう。

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何故トルコにISがテロを仕掛けるか

2016-06-29 18:06:25 | 政治

トルコ空港テロ、首相「IS関与の可能性」 36人死亡

トルコにおけるテロはクルド人組織のせいにされることが多く、トルコは陰でISを支援しているという評判もありました。今回トルコの空港でISがテロを仕掛けたとすれば(政府がクルド人ではなくIS関与と声明を出したということはかなり確実なのでしょう)、エルドアン大統領がロシアに対して昨年のISを攻撃しているロシア軍機を領空侵犯を口実に撃墜した事件を正式に謝罪し、ロシアとの関係修復に乗り出したことへの警告と取るのが妥当ではないでしょうか。

NATOに属するトルコは領空侵犯を理由にISに効果的な爆撃を行っていたロシア軍機を撃墜し、ロシアによるIS撲滅を止めるか、あわよくばNATOを巻き込んだロト戦争にまで発展させようとしていた可能性があります。ウクライナの内戦ではロシアが正式に親ロシア派勢力に加勢することを避け、NATOとの開戦に発展しそうになることをプーチンは避けてきました。トルコによるロシア軍機撃墜もプーチンは挑発にのらず激怒したいところを抑えて米国の一部勢力が画策する戦争への発展を防ぎました。戦争を始めたくないオバマやメルケルらの欧州指導者達もどこかでプーチンにシグナルを送っていたものと思われます。結局リスクを犯したエルドアンだけがはしごを外されて浮いた存在になり、国内の治安や経済が厳しい状態になってしまい、大量のシリア難民を欧州に送り出す戦略もEU諸国から総スカンを食って遂に英国のEU離脱といった事態にまでなりました。

もう中東で大規模な戦争は起こらない、サウジとイエメン、シリア、イラク、イラン、トルコがいくら挑発してもどこにも大規模な戦争は起きないことがはっきりしたからロシアと手打ちをしたということではないでしょうか。

現状に不満を持つ若者が銃の乱射など起こしても、ISに示唆されてやったことになり、ISも後追いで声明を出すような風潮が見られますがどうも怪しい。本当は何の関係もないのではと思います。

ところで、英国のEU離脱問題で、早速移民に対する嫌がらせなどが増加したと報じられ「多様性に対する寛容が足りない」といった批判が見られます。本当は多様性を認めていないのは移り住む先の文化や生活様式に対して寛容でない移民の方が問題なのだという視点はありません。大抵迷惑を被っている一般市民が批難の対象となります。異なる文化や生活様式で暮らす世界各地の人達の多様性を認めず、一つの経済法則を押し付ける左翼グローバリズムこそが「多様性への寛容」を身につけるべきであると私は思います。

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EU離脱は本当にポピュリズムか

2016-06-25 14:11:08 | 政治

英国がEUに留まるか離脱かを問う国民投票は僅差でEU離脱が多数を占め、2年後の離脱に向けて準備に入ることが確定されました。英国のEU存続派を含め、日本を含めた諸外国の反応としては、EUからの離脱はEU圏内からの人の移動が自由であるため、貧しい地域からの移民が増加して地域社会が対応しきれなくなってきたことから、大衆が移民を拒否する、また民族主義を正面にかかげる右派、ポピュリズムの主張によるものであると批判しています。一方でグローバリズムの精神に則り、世界を受け入れてゆくことが理性的であり世界の経済にも有益であるとそれが規定の正しい姿であるがごとく上から目線で語る評論家が目立ちます。しかし私はそのような決め付けには違和感を抱かざるを得ません。

 

理性で煩悩を克服できるというのは既に否定された共産主義的思考である。

 

私有財産を否定し、計画経済で物を管理すれば全てうまく行くと考えた共産主義の実験は既に否定されました。人間は理性のみで生きてゆくことはできないのです。個々人の価値観や生き方が違うように、地域、民族によって社会のありようは異なります。それを統一した経済社会体制にしようというグローバリズムの考え方でうまくゆくはずはありません。結局うまくゆかずに末端の人達が苦労をする事に対しては力で押さえつけるか、「皆のために理性で我慢しろ」と強いることになります。

「世界は原始共産制に向かって進んでいる」というかつての愚かな信念と同じく「世界はグローバリズムの統一した価値観、経済観に向かって進んでいる」という宗教のような信念を恥ずかしげもなく語る学者がいます。そんな勝手な信念を押し付けられてはたまりません。世界は多様であり、多様性を保つことが進歩や予想外のカタストロフィーから人類滅亡を防ぐ担保になるのです。これは自然界における真実ではないでしょうか。共産主義経済と市場に任せれば全てうまく行くといった拝金資本主義経済は対極にありながらも、ともに理性を万能と考える類似した片手落ちの思想であり、どちらもその原理主義的な状態では人類全体の幸福につながることなどないのです。

 

ユーラシア大陸の両端にある政治経済共同体

 

ユーラシア大陸の西の端には、二つの大戦を経て力による統合ではなく、協調による経済統合を目指したEUおよびユーロ圏ができました。一方大陸の東の端には二千年前から力による多民族の統合を成し遂げた中国という政治経済共同体があります。ただし支配者はたびたび変わっており現在は漢民族が主体の共産党が支配しています。中国というのは中央権力がめちゃくちゃ強い欧州共同体のようなものと言えるのではないでしょうか。その中でEUにおける英国の位置は中国と日本の関係に似ていると私は思います。米国との強いつながりも同様でしょう。

 

今日本が中国を中心とするアジア共同体に属していて、人の移動が自由であり、チベットやウイグルから言葉の通じない移民たちが続々と日本国内に越してきて住みだしたとしたら明らかに困りますし、「共同体などに入らなくても日本は日本だけでやって行けます」となるのではないでしょうか。そこで諸外国から「理性的な判断をして中国経済圏にとどまれ」とか「移民を受け入れないのはエゴである」とか言われる筋合いはないと普通考えると思います。

 

ギリシャがEUやIMFの命令を聞かない政権を選挙で選ぶのはポピュリズムであると批判されます。フランスにおける移民排斥を訴える政党は超右翼とレッテルを貼られてやはりポピュリズムであると批判されます。米国の大統領選挙もトランプはポピュリズム、若者に人気のあるサンダース候補も人気のないクリントンと比較されるときはポピュリズムに分類されて批判されていました。国民が日々の生活に本当に困って「何とかしてくれ」という声に応えようとすることを「ポピュリズム」といって批判するのは誤りです。一部の既得権益者が金融支配を持続できるグローバリズムの発展だけが正しいことであるような幻想は否定しないといけません。またグローバリズムを阻もうとする勢力を「ポピュリズム」と言って一段下の問題であるように批判するのは民主主義の否定でしかありません。今世の中で問題になっている事のほとんどは1%の既得権益層が推進するグローバリズムと99%の一般民衆の日常生活を守ろうとする戦いであるように見えます。

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映画 セッション(Whiplash) 感想

2016-06-07 19:13:02 | 映画

セッション(Whiplash)2014年米国 監督 デイミアン・チャゼル 主演マイルズ・テラー(アンドリュー)、J/K シモンズ(フレッチャー)

 

偉大なジャズドラマーになるべく名門シェイファー音楽学校(バークリーみたいな所)に通い、練度ピカイチのジャズバンドに参加することになったアンドリューだが、その指導者(フレッチャー)の指導が人間の極限を追求する理不尽なもので多くの若者は挫折してゆく。最後憎しみ会う程対立する二人だがその対立の頂点で珠玉の演奏が生まれるというもの。

 

   映画表紙  度を超した指導(なかなかこんな先生いない)  血が出るまで練習   熱演でアカデミー賞を授賞したJK Simmons

 

実際に視ていないと音楽を通した映画の緊張感は理解できないと思いますが、教育者のフレッチャーのやり方は度を超していて現在の日本ではまず受け入れられないとは思います。しかし小中学校の音楽の授業ではなく、プロのしかも時代を代表するような天才ミュージシャンを育てたい、或は才能を引き出したいのであれば、こういった教育方法もありではないか(勿論映画のはやり過ぎですが)と思わせるものがあります。

 

「この演奏が好き」という場合、ミュージシャンの人柄や人生とは関係なく「演奏自体が良い」というのが聴く人の本音だと思います。そこが絵画や小説のようにある程度作者の人間観と共鳴する部分を持つ芸術と音楽の違いでしょう。だから「究極の良い演奏」を追求するには奏者の日常生活や感情を切って捨てて音楽そのものに全身全霊のめり込む必要がある、というのがフレッチャーの思想なのではないかと思います。音と譜を極限まで追求して指揮する者と演奏する者の時空が完全に共有されて初めて満足のゆく演奏に至るという考えなのでしょう。フレッチャーの悪い点は「こいつは行ける」と見込んだ相手をとことん追いつめて潰してしまう所です。主人公のアンドリューも追いつめられながらも必死に反発して答えようとして遂に壊れてしまいます。多くのカリスマ的ジャズミュージシャンが薬などに溺れて短命であるのはそういった純粋さから来るものかも知れません。米国のジャズ奏者は即興部分を徹底的に練習してから演奏する(もはや即興とはいえない)と言われていますが、一見自由に演奏しているように見えるジャズもそういった厳しさがあるから素晴らしい演奏に繋がるのだろうと思います。自分自身の仕事への情熱や厳しさを改めて見直してみるという気持ちにさせる映画でもあります。その点音色が複雑な管や弦でなくあえてドラムスを主題とした事で訴えかける内容が解りやすくなったと思いました。

Law & Orderで渋々の役を演じたスコダ先生、このwhiplashでアカデミー助演男優賞も授賞していて実は幅の広い上手な役者なのだなと感じました。全ての男児に一見の価値ありの映画です。

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オバマの広島訪問における「論理と倫理」の使い分け

2016-05-11 15:09:38 | 政治

広島訪問、謝罪ではない 報道官「核廃絶の熱意伝える」

オバマ大統領が2016年伊勢志摩サミットに出席する際に被爆地である広島を訪問することが大きな話題になっています。日本では原爆投下という無差別大量殺戮に対する「加害者としての米国の謝罪」を期待する論調が当然ながらあります。第二次大戦の話題では日頃日本が常に加害者として扱われ、中国・韓国から「謝罪」を執拗に要求されていること、帝国主義における領土と覇権拡張のための戦争が延々と行われてきたにも関わらず、第二次大戦においてのみ敗者に対して「倫理的悪」という規定がされて子孫にまで贖罪が要求されるという「戦後秩序」という特別な規範が当てはめられて来た事が問題を複雑にしているとも言えます。

 

米国はオバマ大統領の広島訪問を「謝罪」や「贖罪」の意味ではない、と規定します。勿論敗戦が見えていたあの段階で「原爆」を日本に使う必然性については米国人の誰もが疑問を抱くでしょう。日本人に使用するについては戦後のソ連との関係や日本人が白人でもキリスト教徒でもないことなどの因子が当然あって、その論理的必然性などを追求されることは米国にとって片腹痛い部分があるでしょう。日頃奇麗事を並べる欧米のヒューマニスト達に対して「ダブルスタンダード」だと感ずることは日本人のみならず共感する所でしょう。しかし彼らはその矛盾についてはあまり気にしていないようにも見えます。

 

我々がダブルスタンダードと感じるほどには彼らはその矛盾を気にしていないと思われる原因は西洋人ならではの論理と倫理の使い分けにあると私は思います。以前のブログで「倫理的善悪の決め方が歴史観に反映する」として日本人と欧米の人達では倫理的な善悪の決め方が異なることを紹介しました。また日本語では「良い」と「正しい」は同じ感覚であり、論理的にも倫理的にも良い、正しいという意味で「これは正しい」と言われると論理的にも倫理的にも良いことであると解釈するのが一般的で原語的に使い分ける習慣がありません。

 

日本人にとっては自分の属する集団(家族、地域、会社、民族、人類など状況で異なりますが)にとって利益になることが倫理的な善ですが、一神教のキリスト教徒(ユダヤやイスラムも)にとっては神との契約に従うことが倫理的な善(good)であるという根本的な違いがあるのです。社会における取り決めなどで正しい事は論理的に正しい(rationalとかrelevant)かどうかが問題であり、自分達に利益があるかどうかは利がある(beneficial)かどうかの問題で倫理とは異なります。

 

原爆投下の正当性について米国の言い分をそのような観点から見ると、「戦争を終結させるために論理的に正しい選択(rational)であった。」「日米両国民にとって(本土決戦を行うよりも犠牲を減らすことができて)良かった(beneficial)。」と言っていて、「倫理的に善」という言い回しは巧妙に避けている事が解ります。もし日本が米国に倫理的な意味での「謝罪」を要求するならば、米国の原爆投下は「神の御心に反する行為」である事を正面から突きつけてしかも納得させる必要があるでしょう。それは今後の日米関係に民間の交流も含めてかなりのダメージになることを覚悟しないといけないでしょう。勿論心の中では原爆投下が倫理的に悪だと彼らも感じているからこそ「米国は反キリストだ」と我々日本人が責め立てることは破滅的な結果になるように思います。

 

欧米や周辺国が日本に対して倫理的に執拗に贖罪を求めるのは「南京の虐殺」や「従軍慰安婦」の問題であり、ドイツに対しては「ユダヤ人の虐殺」や「人体実験」などいずれも「神の御心に反する」所業についてであることが解ります。ドイツの首相の謝罪もナチス(とそれに加担したドイツ国民の)「神の御心に反した」所業についてでありました。日本は真実の歴史において「神の御心に反する行為」はしていないのですが(731部隊の件は真実と思います)、「戦争をした」事自体が「倫理的な悪」と戦後の日本人が規定してしまったから問題が複雑になって誤らなくて良い事まで周辺の国々に謝罪する羽目になって内心忸怩たる思いをすることになっていると言えます。

 

原爆投下の倫理的な善悪は一時置くとして、核の犠牲者を日米両国の首脳が追悼することが今後核の無い世界を希求する上で論理的にも倫理的にも良い(rationalでbeneficialでgoodだ)と規定することが今回のオバマ広島訪問にあたって日米が丸く収まる落としどころなのだろうと思います。これから海外を含めていろいろなメディアで報道されると思いますが、このような見方でチェックするとそれぞれの論理が理解しやすくなるのではないかと思います。

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書評「憲法改正の真実」

2016-04-16 15:43:52 | 書評

書評「憲法改正の真実」小林 節、樋口陽一 著 集英社新書0826A 2016年刊

 

集団的自衛権を日本が発動する事を合憲と解釈した上での立法について、参考人として国会に招聘され、招聘した自民党の意に反して「違憲」を明言した「改憲派」の憲法学者の小林 節氏と古くから護憲派の重鎮として有名な憲法学者の樋口陽一氏の対論形式で、現在の自民党政権が行いつつある立法の異常性、新たに定めようとしている憲法の異色性について明快に論じた解説書です。

 

「集団的自衛権に反対している人達は平和ボケの左翼でしょ」「本の内容もそんな感じでしょ」というレベルの人達には何を言っても無駄と思いますが、私には現在進行している議論や自民党が示す新たな憲法案とされるものの異常性について、普段感じているもやもやしたものを整理して説明してもらったような内容でした。本の表現とは異なりますが、内容を要約すると以下のようになると思います。

 

1)          閣議で憲法解釈を変更してよいという認識は著しいコンプライアンスの欠如である。(法的根拠がない、しかもその事に誰も異議を唱えないという異常)

2)          解釈を変えれば何をしても良いという考えは立憲主義、法の支配(rule of law)に反する。

3)          自民党の憲法草案は改憲ではなく新たな憲法の制定である。

4)          自民党の憲法草案は西欧諸国の常識とされる立憲主義を否定し、国のあり方を大和朝廷の時代にまで遡らせようとするに近い。

5)          憲法制定権力(新たな憲法を制定する権力)の基本は革命政権である。従ってそれを試みる安部政権は革命勢力とみなされる。

6)          憲法も人と同様「出自」にこだわるのではなく、「社会に何をなしたか」で評価されなければならない。

 

1については以前から私が主張している内容と同じですが、国民にはコンプライアンスの遵守を強制しておきながら、政府、政権党がこれを軽視するというのは「あはれ」さえ感ずる知能の低さです。法は所詮人の作ったものであり、完璧ではありません。現実に照らして国家国民の存立にかかわる事態において「法を破らねばならない」場合があることは認めますし、それを決断するのが政治であると思います。しかしその場合には「これからこれこれの状況に対応するために止む無く法を破ります。その責任は事態が収拾したら必ず取ります」と宣言してから行うのが為政者たる者の姿です。それが納得のゆくものであれば国民は違法であっても従います。現政権にはそういった「自己への厳しさ」が著しく欠けている。あるのは政権の延命ばかり、それだけで国家を預けるに足る資質に欠けていると私は思います。

 

2は法律学の基本であり、理系の私でも理解できている問題なので記するまでもありません。

 

3について、憲法改正と新憲法制定は全く別の事態であるという認識を今回新たにしました。憲法改正とは、国のあり方についての基本は変えず、現実に合わなくなった一部の文言などを時代に合わせて変えることを意味します。無謬の不磨の大典は一言一句変えるべからずなどということはありえない。その意味で小林 節氏の改憲容認の姿勢は私と同意見と思いますし、9条についても自衛隊の存在を自然権としての個別的自衛権発現の手段として明記することは日本国憲法をよりよくする意味でOKと思います。集団的も個別的と同じ自衛権だという議論が間違いであることについては別の本(亡国の集団的自衛権 集英社新書0774A 柳沢協二著) で十分解説されているのでここでは割愛します。

 

新憲法の制定とは国家の作り変えを意味します。明治維新(革命)、昭和敗戦(革命)によって日本国の憲法は新しくなり、国家の基本的な概念が変更されました。明治維新では徳川幕府による封建体制から近代西欧の立憲君主国になるべく国家のあり方が変更になり、主権者は天皇でしたが、憲法に基づいて法が作られ、それに従って政治が行われることが徹底されました。本でも紹介されていますが、伊藤博文が帝国憲法制定会議において「そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と明言しているように、本来明治の元勲たちは新日本を作るにあたって天皇の地位を玉として利用しただけであり、「天皇機関説」としての国を治める上での役割を与えたに過ぎないというのが真実だろうと考えます。戦前の一時期天皇が神として祭り上げられ、天皇の権威を持ち出せば誰も反論さえできないなどという時代は日本国の姿としては一過性のものでしかも誤りであり、日本は天皇を中心とした神の国などという概念は「戦前お花畑幻想派」のノスタルジー的な夢に過ぎないといえます。

本来明治期における日本の姿はもっと西欧的民権主義の躍動感に満ちたものであったというのが真実です。憲法の存在する意味は、「憲法は国民からの国家権力への命令である」という小室直樹氏の本のタイトルの通りです。そして明治憲法においても基本はここにあったのであり、国民のあり方を憲法で規定するという自民党の改憲案は明治憲法すら否定して大和朝廷の時代に遡るほど時代錯誤した不勉強極まりない内容の物という事がわかります。

 

自民党にもかつては世界のインテリ達に引けをとらない知性のある勉強家が多く存在したと思いますが、小選挙区制となり党の公認を得ればサルが服を着ているような馬鹿でも国会議員になれるようになり、地方議員を含めて「ろくな奴が議員になっていない」ことは最近の低レベルのスキャンダルを見ても明らかです。仕事柄地方の各政党の議員後援会長などと話す機会もあるのですが、「議員となる人の人材の劣化」は目を覆うばかりであると後援会の人達でさえ嘆いているのが事実です。あとの望みは優秀な国家官僚達が天下国家を思考し、国益と国民を守るために奮闘してくれることを望むしかないということでしょうか。省の壁を越えて彼らが結託し、愚かな政治家達の暴走を防いでくれることを望むばかりです。

 

6の日本国憲法の評価ですが、この言葉は私も学生時代に憲法学の本を買って勉強したことがある憲法学者の宮沢俊義氏が1957年に「憲法の正当性ということ」という論文で述べたと本書で紹介されているのですが、これは戦後70年経過した現在でも全く正当な評価だと私も思います。法学の基本も理解していないような人達が薦める新憲法など出自を問題にするならば初手から失格と言えます。まずは本当に改定しないといけない字句の有無を丁寧に精査した上で時間をかけて変えてゆくのが憲法改正の本来の姿といえます。

 

そんな事を言っても「急迫する世界情勢が」という意見もあると思います。その急迫する世界情勢と言われている物の特に軍事的な面(中国軍の動向など)について、別の本で検討しているのですが、どうも元自衛官の私からみて、その認識も随分一方的で怪しい議論のように見えますので、その件については後日解説したいと思います。

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物理音痴の理系に雑誌Newtonの特集が解りやすい

2016-04-05 19:15:22 | その他

雑誌Newtonは昭和56年からある古い雑誌ですが、たまに興味があると買ったりしていました。今年の2月にアメリカ重力波観測装置LIGOが遂にアインシュタインの最後の宿題と言われていた重力波の測定に成功したというニュースがあったことで感心を持ったのですが、雑誌ニュートンで重力や分子間力といった基本的な力について解りやすく解説した特集がありました。

 

そもそもエネルギー不滅の法則というのがあるのに常にある重力は作用した後どうなってしまうのか、磁力は目に見えないのにその強さの違いはどのように物質に異なって作用しているのか、といった事は気にしなければどうということはありませんが、きちんと説明しろと言われると困ってしまう事柄です。

 

今回ニュートンスペシャル2号連続企画と題されて2016年4月号と5月号で物質を形作る素粒子と反物質について、重力、電磁気力、素粒子を結びつけて陽子や中性子を作る強い力、素粒子や電子をやり取りする弱い力の4種類の力について解りやすく解説されていました。

 

この特集を読んで何に感心したかというと、スタートレックなどのSFの世界で描かれていた反物質エネルギーエンジンや、物質転送などの技術もかなり実際の最先端の科学で解って来たこれらの理論に基づいて考えられていた事、ニュートリノとか最近のノーベル賞における話題がどの辺りの発見についての事であったかが解った事です。

 

反物質などというのは空想上の物かと思っていたのですが、エネルギーが質量に変わる時に物質と反物質が対で生成される(加速器で)とか、病院で日常的に診断に使っているPETは反物質(陽電子)を見ているといった説明は非常に興味深いものでした(良く知りませんでした)。

 

物質を構成する素粒子には質量を持つ素粒子と力を伝える質量を持たない素粒子がある(下図)、これらは交互に移行しあえると考えるのが「ひも理論」であり、質量のある素粒子はヒッグズ粒子(見つかっていないがそこら中に充満している)とぶつかるので光速で移動することができないが、力を伝える素粒子は質量がないのでヒッグズ粒子と衝突せずに光速で移動できる、というのは面白いと思います。前回のブログで紹介したコメディ「Big bang theory」の主人公シェルドン・クーパーが研究しているのは「ひも理論」ですし、スタートレック・ネクストジェネレーションで人を空間転送する際、一度素粒子まで分解して質量のないエネルギーに変えて波として相手方の装置に送って再度質量のある素粒子に復元して人に戻すという作業を瞬時に行うということになっていて、「転送開始」の指令は原語では”energize”(エネルギー化せよ)であるというのが理解できた時には成る程と膝を打ってしまいました。

   

  Star trek next generationの転送室

まあ半可通はすぐ襤褸が出てしまうのでこれ以上は書きませんが、重力などのエネルギーを伝えるしくみはこうなっていたのか(いると考えられている)と感心し、時々読み返してみようと思う雑誌の特集でした。

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米国の宿痾とクリントン候補

2016-03-20 19:59:38 | 政治

米国の大統領選は2016年3月中旬の時点では共和党トランプ候補、民主党クリントン候補が優勢と伝えられています。共和党のトランプ氏以外の本命視されていた候補者達が消えて行く中で、何故共和党中枢とかメディアがトランプ氏や民主党のサンダース氏が本命になることを嫌うのかを考える時、米国の政治における潮流を検討せざるを得ません。

 

1)      理想主義と現実主義に揺れる米国政治

A)  理想主義 自由と民主主義を押し出し、世界に広げる。侵略的 世界統一的 キリスト教を押し立てて未開地を侵略して行った精神に通じる。

  成功例  戦後日本へのsocial engineering ソ連崩壊と東欧の民主化

  失敗例  イラク、中東の春、中国が民主化しなかったこと、ベトナム戦争、中南米諸国への介入など多数

B)  現実主義 孤立主義 国内の充実に重点 愛国的、多極主義的

 

以前米国の政治について解説した中野剛志氏の「世界を戦争に導くグローバリズム」(集英社新書0755A)でも紹介しましたが、歴史家E.Hカーが分析するように、米国政治には理想主義と現実主義の二つの潮流があり、理想主義に立脚して政治をすると戦争になる(1919年から1939年、2001年以降のブッシュの時代)と言われています。また慶応大学教授の渡辺靖氏の米国の社会と政治を紹介した「アメリカのジレンマ」(NHK出版新書464)においても米国の政治潮流の4つの柱としてハミルトニアン、ジャクソニアンを現実主義、ジェファソニアン、ウイルソニアンを理想主義として紹介しています(179ページ)。つまり米国の政治はAとBの狭間を行ったり来たりしながら行われて来た歴史があります。そしてソ連が崩壊して社会主義経済が消滅してからは、米国の一極社会によるグローバリズム、世界統一政府の方向に向かおうという勢力と多極社会で国家として米国を繁栄させようとする勢力に別れているように見えます。

 

現在の大統領候補を見ると、クリントン候補は明らかにAであり、トランプ候補はB、サンダースやクルーズもBであることが明らかです。ウォール街やグローバル企業、投資家達にとってはAであるクリントン候補が都合よく、大量の資金援助をしています。一方でBを勧める候補者達には米国市民からは多くの賛同が集まっているにも関わらず、メディア(資本家から金をもらっている)を含めて冷たい報道しかないことは見ていても明らかです。トランプやサンダースは大統領の器ではないと決めつける報道が多いのですが、単に彼らに都合が悪いだけのことで大統領の器とはAを押し進める人でなければならない訳ではありません。むしろ1回一時間の講演で7,000万円の講演料をもらっておかしいと思わない「貧富の差開いて当然」と思っているクリントンを大統領としてふさわしいと考える人達の方が狂っているとしか思えません。草の根募金でクリントンを追い上げているサンダースこそ「自分達自らの力で旧世界の束縛から自由な国家を作ろう」としたアメリカ建国の精神に基づいた戦いをしていると外国人である私にも解ります。

 

2)      Political Correctnessという虚構への挑戦

トランプ候補の毒舌や差別的な発言をPolitically correctとされる暗黙の社会通念への挑戦であるという評価を聞きます。どこかから金をもらって急に広がった「反トランプデモ」もpolitically correctに反しているというのが主張です。しかし人種や性差別、LGBTへの不自然な気の使いようなどを「胡散臭い」「虚構」と感じている米国民はやはり多いと私は思います。米国コメディの超人気番組「The Big Bang Theory」は2007年からCBSでシーズン8まで放送されている人気番組で日本でもCSで見れますが、これなどは黒人の女性教官にテレビ映画「ルーツ」のビデオを家族で見るようにプレゼントするなどpolitically correctを徹底的に皮肉ったような内容があります。台詞もコメディだから許せるギリギリ差別的なものも多く、この番組が大人気(コメディ部門は1位で主演のジム・パーソンズもエミー賞など取っている)であることは、米国人が本音では奇麗事的理想主義に辟易しているのだろうと感じさせます。もっと社会が安定して中間層が豊かであった1960年代の方がほのぼのとしたコメディ番組が多かったように思います(I love Lucyとか奥様は魔女とか)。

 

今全米で大人気のBig bang theory                             かつての人気番組奥様は魔女

 

現代は過剰なpolitically correctを強調する一方でテロ対策と言えば愛国者法によって人権の殆どは無視してよいとされ、拷問も合法とされます。それでいてテロの犠牲者は年間10人程度である一方で銃の乱射は日常茶飯事(オバマ大統領言)で年間3万人が犠牲になります。形だけの理想主義はもう沢山と考えるまっとうな米国人が増えるのも当然と思います。

 

3)      戦後秩序という言葉を2つの流れから再度考える

私のブログでも度々取り上げる「戦後秩序」という言葉ですが、この意味は第二次大戦の戦勝国が戦後の世界を支配しやすくするための秩序であるという定義は変わらないのですが、米国が使う場合、中ロが使う場合で多少実際の意味合いが異なって来ていることは否めないと思います。米国にとっては一極支配に基づいて大資本を中心とした拝金的資本主義と(米国に都合が良い)民主主義で世界が統一されてゆくことが望ましい戦後秩序であるのに対して、中ロは地域覇権国家としての両国の地位が担保されていることを要求している、多極社会を担保した秩序を想定していることは明らかです。中ロにとってはAよりもBの方が彼らの唱える「戦後秩序」に適う候補者達であると言えるのです。

 

4)      日本にとってどちらが良いのか

では日本にとってはAとBどちらが国益に適うのでしょうか。TPPを推進し、世界統一政府とグローバリズムを信奉し、日本の特異性や文化などどうでも良い、そのくせ中国やロシアがのさばるのは嫌だという人達にとってはAこそが希望に適う候補つまりクリントン氏が大統領になって欲しいと思っていることでしょう。クリントンに好意的な意見や報道を見ればその本心が上記のような人達であることが解ります。一方で真の日本独立派、大変だけれど日本の独自性を保ちながら、二千年の歴史を大切にし、今後は米中ロと丁々発止でやりあってゆくのが日本国の未来に有益であると考える人はBを好ましいと思うはずです。私はBです。好みではサンダースでしょう。

アメリカの宿痾とは、米国を取り締まるより強い権力がないため、戦争をやり続け、世界で必要のない殺戮を続け、結局自国民をも不幸にしてゆく現実を言います。クリントンが勝てばその宿痾が間違いなく続きます。この宿痾を排除し、米国国民全体の幸福を考える政府を作れるのはサンダースくらいしか見当たりません。結果的に世界へのアプローチは減るでしょう。それで丁度よいのです。米国が出しゃばるほど世界は不幸になってゆくのですから。現在の米国はグローバル資本家や兵器産業の利権を犠牲にして世界を動かすことは決してしません。理想主義をかかげながらやる事は資本家による搾取と政府に変わる大企業による社会の統治を手伝う結果にしかなりません。大統領選は次第に宿痾クリントンが本命になりつつあるようですが、米国民の覚醒と大逆転を期待して見守りたいと思います。

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魔女の秘密展に行って来た

2016-03-01 18:31:35 | 歴史

先日原宿のラフォーレミュージアムで開催されている「魔女の秘密展」に行ってきました。新聞にポスターが掲載されていて、黒猫があしらってあり、場所も若い人の多い原宿でしたので、どちらかと言えば漫画や明るい魔女を中心に、魔術や今流行の猫とのからみなどを展示した物かなと軽い気持ちで行ったのですが、真面目な内容でドイツの複数の博物館でテーマ開催された内容を日本に運んで来て1年かけて各地で開催されているという本格的なものでした。

 

せっかく真面目な内容であったので備忘録的に感想を記しておこうと思います。詳しくはホームページからも見れます。

展示はテーマ毎に大きく4つに別れていて、「第一章」信じるーでは、中世の一般の民衆にとって魔女と言われる人達の扱う呪術や錬金術など初歩的な科学的な行いが、「自分とは違う能力、異能」として信じられていた様子が展示されます。

「第二章」妄信するーでは、当時の寒冷気象による不作や疫病の蔓延がキリスト教的には「異端」とされる魔女達の悪魔的な行いのせいである、という思い込みから魔女の弾圧に至る心理的な経緯が書物や絵画などで説明されます。

「第三章」裁くーではいよいよ「反キリスト」「「異端」とされる「魔女達」あるいは「魔女っぽい流浪の民」、単に気に入らない「全くの無実の人」までも無理矢理拷問で「自分は魔女です」と言わせて処刑してきた歴史が様々な道具や書物ともに展示されます。ビデオによる疑似魔女裁判体験というのも日本語で流されています。

「第四章」想うーでは18世紀になって科学の進歩とともに非科学的な魔女狩りや魔女伝説による処刑は反省されるようになり、逆に魔女を文化として受け入れて行こうとするムーブメントが起こり現在に至る状況が説明されます。

 

全体としては良くできた内容なのですが、キリスト教や一神教の素養がない我々日本人としてはもう一ひねり説明があると良かったと感じました。つまり魔女弾圧は「キリスト教が各地域に伝来していた地場の宗教(多神教)を弾圧して一神教を徹底させるため(異端審問制)に行った」言ってみれば「日本におけるキリシタン弾圧の逆バージョン」であったという基本概念を理解する必要があるということです。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは地場に置ける伝統的宗教をキリスト教が殺した、という意味だと言われていますが、その基本が理解できていないと魔女展の4つの章の成り立ちが解りにくくなります。つまり魔女とは各地域における伝統的宗教の呪術や薬草などを用いた医術、おまじないを行って来た人達であり、1198年のローマ法王の十字軍による異端討伐や1231年の異端審問制によって伝統的宗教が弾圧されてきた歴史が魔女狩りに裏付けられていると言えるのです。今流行の薬草やハーブは伝統的な西洋医術の中で伝えられて来たものですし、ハロウイーンのように反キリスト教的な伝統的祭りがキリスト教に取り込まれて残っている(潰しきれなかった)ものまであるという事です。

もし日本が戦国時代からキリスト教国になってカソリックのローマ法王に従う国になっていたら、巫女やイタコは魔女として火あぶりになっていたでしょうし、仏教もどうなっていたか解りません。尤も日本は神仏習合という特殊な宗教観が根付いている位なので多神教的一神教(結婚はキリスト教、死んだら仏教、子供が生まれたら神道)に早くからなってしまったかも知れません。江戸時代にキリシタンになった若者が「死んだおっかあに会えないならば地獄に落ちても良いからキリスト教が認めない先祖供養をしたい」と言って棄教したという話も伝わっています。一神教の非寛容性は日本人には馴染まないのだと思います。

 

そのような視点で再度展示を見てみると、キリスト教側も伝統的な宗教が持つ魔術に対抗するための護符を作ってみたり、キリスト教における悪の化身と無理矢理魔女をくっつけて見たりと苦心の跡が見られます。現代科学はキリスト教自体の非科学性までも暴いてしまうのですが、キリスト教、イスラム教それぞれの原理主義が現在の世界平和の障害になっていること、また一見科学的に見える経済学(実は限られた帰納的論理展開しかできないという説もある)が行き詰まって宗教をダシにした戦争(イスラムテロとの戦争を含む)で「ウオーエコノミーによる経済活性化」を狙っているという現実を考えると「魔女の秘密展」というのは意外と深い物を展示しているかもしれないと思うのでした。

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BCD層間の争いになってきた米国大統領選

2016-02-16 18:30:54 | 政治

B層支持  ヒラリー・クリントン マルコ・ルビオ(ジェブ・ブッシュ)

C層支持  バーニー・サンダース テッド・クルズ

D層支持  ドナルド・トランプ

 

民主党サンダース候補とクリントン候補                共和党トランプ候補とクルズ候補                                  共和党ルビオ候補

 

オバマ大統領を継ぐ次の米国大統領を決める選挙戦は3月1日のスーパーチューズデーを前に盛り上がって来ています。アイオワ、ニューハンプシャー州の予備選挙では民主党はヒラリー、サンダース両候補、共和党はクルーズ、トランプ両候補が勝って今後の趨勢がある程度決まって来たようにも思われます。今までの大統領選挙は民主、共和どちらが勝ってもウォール街にとってマイナスにならない、(大して変わらない)結果であったので面白くなかったのですが、今回はかなり毛色の変わった人達が勝ち残って来ていて本当ならばもっと日本のメディアで詳しく取り上げられるべきです。しかし詳しく解説すればするほど米国社会の矛盾、ひいてはアベノミクスのインチキ度合いや日本の政治が米国の一部勢力の「言うがまま」になっている現実が明らかになってしまうので、ミサイル、シャブや下衆の話題ばかりを取り上げています。

 

さて、現在の米国大統領選挙の状態を解りやすくまとめる方法はないかと考えたのですが、私は米国におけるBCD層間の争いと考えると理解しやすいと思います。人を層分けするのは好きではないなどと言っておきながら矛盾する事になりますが、前ブログの「書評ミシマの警告」で紹介した政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念です。国民をABCDの各層に分類して、構造改革を進めるA層、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の善悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を設けました。一方構造改革に明確な政治意識を持って反対する立ち場の人をC層、なにも考えていない無関心層をD層と名付けました。B層を最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、思惑通り大勝利を収めました。

 

米国の1%のウォール街支配層達や軍産複合体の人達にとっては、グローバリズム(one world構想)推進や戦争を起こして経済を活性化させるといった方策を行える大統領を選ぶことが第一優先であり、多額の選挙資金寄付をしたり、支配しているマスコミを使って間接的に支援させたりしていますが、その思惑通りに支持をしてくれる人達がB層と言って良いでしょう。候補としてはネオコンの指示通りに動く民主党ヒラリー・クリントンや共和党では本流と言われる候補者達、マルコ・ルビオ、ジェフ・ブッシュといった人達です。マスコミの予想(願望)ではこれらの人達が最後は勝つと言っています。

 

一方社会の矛盾に目覚めた貧しい若者達やインテリ層に爆発的な人気を得ているのが自らを「民主社会主義者」と呼び、強欲な拝金資本主義を辛辣に批判するバーニー・サンダース上院議員です。ヒラリー・クリントン候補との公開討論会をCNNで見ましたが、「ウォール街やコーク兄弟から選挙資金をもらったら彼らの儲けを制限するような政策は取れないだろう。」とサンダース候補が言うと「国家社会にとって本当に必要な場合には躊躇無く制限する政策をやります。」とヒラリー、そこですかさずチッチッと指を立てて横に振りながら「あのね、彼らはお金を配りたいという理由でお金を配っているのではないのですよ。」と厳しい突っ込みをサンダース議員が入れて会場はやんやの喝采、ヒラリーも返す言葉に詰まるという見ていて面白い論戦です。

 

共和党のテッド・クルズは茶会がバックに付いていて、米国社会生粋の右派、リバータリアンに人気があります。日本人は米国の保守本流の理解は乏しいと思いますが、信条として小さな政府、反連邦制に近く、政府の統制が強いワンワールド構想やTPPなどという制限を嫌い、真の自由主義を信奉する「米国の建国の理念に忠実」な人達と言えます。だからサンダース議員とは正反対の立場にあるとも言えます。しかしサンダース、クルズを支持する政治意識に目覚めた自分の考えを持つ人達がC層と言って良いでしょう。

 

D層にとってのヒーローは何と言ってもドナルド・トランプ候補でしょう。彼自身悪態や差別発現は確信犯と思われますが、あまり政治に興味が無いD層の人達を大いに掘り起こして大統領選に注意を向けさせている点、ウォール街が推すつまらない共和党候補者達を毒舌で切り落とした点で大きな貢献と言えます。

 

A層推薦、共和党B層が支持するマルコ・ルビオ氏は我が安倍総理とも親交があって(ネオコンの手下仲間だから)、トップ候補に上がってくれば日本のニュースでも盛んに取り上げられると思いますが、トランプ氏とサンダース氏がトップの間は日本のニュースで大きく報道されることはないでしょう。こういった理解でこれからの展開を見て行くと面白いと思いまとめてみました。

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認知症は治るか

2016-02-11 01:12:25 | 医療

認知症について精神科の専門の医師の講演を聞く機会がありました。「目から鱗が落ちる」というか、医師であり高齢者の医療にそれなりに感心がありながら、実にあやふやにしか理解していなかった「認知症」について認識を新たにすることができたので備忘録の意味で記しておきたいと思います。

 

まずは題名の「認知症は治るか」という問いを発すること自体があまり認知症を正しく理解していないと言えます。認知症は「糖尿病」とか「胃癌」といった独立した疾患概念ではなくて「種々の症状の総称」であることを理解しないといけません。西洋医学はscienceですから、その組み立ては経験的(帰納的)ではなくて演繹的(論理的)でなければいけません。解剖学や病理学的な欠陥の裏付けに基づいて病気は定義されるのですから、症状があるだけで病気を定義することは本来の西洋医学から外れる考え方と言えます。 

認知症の話に戻しますと、アルツハイマー病や脳血管障害などの病気(これは病理学的な定義がある)の結果起こってくる記憶障害、見当識障害(時間や空間を認識する能力の障害)、計画力(論理立てて物を考える能力)の障害などの中核症状と、その中核症状に付随して起こってくる日常社会生活を送る上での様々な障害(周辺症状)を総称して「認知症」と呼ぶというのが正しい理解です。だからアルツハイマーや脳血管障害になったから必ず認知症になると決まった訳ではないし、その程度や内容も様々であると言えます。また「病気」ではなく「症状」なので治療ではなく、「対応の仕方」で軽減することが可能と言えます。治すという事で言えばアルツハイマーの治療は研究中ですし、脳血管障害は急性期であれば治癒の可能性もあります。

 

「認知症に対応」する上でその症状を軽減させる(社会生活をできるだけ送れるようにする)ためには、認知症の中核をなす症状の特徴を理解しないといけません。つまり中核症状と言われる記憶障害、見当識障害、計画力の障害の特徴を理解する必要があるのです。以下にその特徴をまとめます。

 

中核症状の特徴

1)記憶障害   生まれてから今までの人生経験の部分的な所を覚えていないのはほぼ全ての人がそうだが、例えば30代の経験がすっぽり抜けていてない、とか1週間前の記憶が全くない、といった時間の連続が途切れたような記憶の無くなり方が特徴、特に近い過去の記憶がすっぽりないことが多い。だから見慣れない所に来ると何故そこにいるのか理解できなくなる。直近の記憶がないと常に見知らぬ土地に来た不安な旅行者のような心理状態になっている。

 

2)見当識障害  記憶障害もからんで時間と空間の認識力が落ちる。空間認識の障害はベッドを縦に使わず横に使って寝たり、料理のフタを取って中を見るといった単純な行動ができなくなったりする。

 

3)計画力の障害  駅に行くためには、(1)着替えをして(2)財布を持って(3)戸締まりをして(4)近くのバス停に往き(5)駅往きのバスに乗るという動作が必要になりますが、(1)を先にやるか(3)を先に行うか考えつかない、そもそも(1)から(5)までの段取りを計画する事自体(普通は無意識のうちにやっている)ができなくなり「駅には行かない」と突然言い出してしまう。同様の事が食事を作る、買い物をする、といった当たり前の日常生活の障害(IADL=Instrumental activity of daily lifeの障害という)として現れる。「困ったら電話してね」と話していても「困る」と「電話」が計画性の中で繋がらないので電話はかかってこないことになる。

 

中核症状から現れる周辺症状

上記の中核症状の結果どうして良いか解らなくなり、起こしてくる反応には

 

どうして良いかわからない   パニック症状

自分や周囲への怒り      暴力、暴言、排泄物などを投げるなどの行動

拒絶、鬱、何もしない     閉じこもり、拒食、栄養障害による衰弱など

子供還り           全て依存する、小児期の風景を探す徘徊

 

といった問題行動(BPSD=Behavioral and psychological symptom of dementia)を起こしてきます。大抵周りの家族や介護をする人はこの周辺症状のBPSDに難渋することになって、医療者に「鎮静剤を打って」とか「薬で何とかして」と懇願するようになり、また社会的に「管理責任」が問われるのもこのBPSDの結果であることが多いと言えます。先日線路を徘徊して電車事故を起こし、ダイヤを乱したということで遺族が鉄道会社から管理責任を問われて損害賠償を請求された裁判があり、遺族側が敗訴するという判決が出ました。まさにBPSDが社会問題として取り上げられた例と言えます。

 

 

では、どうすれば良いのか

 

環境を変えない。

初めての場所に来た旅行者に説明するように丁寧に教える。

問題行動を起こしている時は、本当は何が困っているのかを見つけてあげる。

一度に一つの事だけすれば良いように接する。

中核症状の特徴を理解して接する。

 

といった事が挙げられると思われます。要は日本人が得意とする「阿吽の呼吸」は通用しないということをよくよく理解することだと思います。初めの問い「認知症は治るか」については中核症状を治すことはできないが、周辺症状を改善することはできる。接し方によって日常生活をほぼ問題なく送ってもらう(本人が心から満足しているかは別として)事は可能であるという結論になるでしょう。

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書評 ミシマの警告

2016-01-20 00:09:14 | 書評

書評 ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 適菜 収著 講談社+α文庫2015年刊

 

早稲田大学でニーチェを専攻した哲学者の適菜収氏が市ヶ谷の自衛隊司令部で自刃した文学者三島由紀夫の思想を紹介しつつ、真の保守とは何かを解説し、一方で保守を自任しながら日本のためになっておらず、日本を破壊するB層保守の姿を舌鋒鋭く批判した著作です。私は三島由紀夫は「楯の会」などで制服にみを包んだ危ない同性愛的な右翼で、自衛隊員に決起を促して自刃した経緯(たまたま家で風邪をひいて休んでいた時にテレビで中継を見た記憶があります)からあまり深入りしたくない存在と誤解し、思い込んでいたのが正直な所です。若い頃読んだ三島由紀夫の随筆に「桃色の定義」というのがあって、自由がない裸身はエロス(桃色)だ、という説明はなるほどと思った事があります。

 

今回本書で紹介された多くの三島由紀夫の思想に触れて、氏の信奉する保守本流というのが戦前回帰や軍国主義といった皮層なものではなく、私が度々紹介している「理性で社会を決定づけるのが革新であり左翼」「理性に懐疑的で、習慣や古くからの文化で社会を決定づけるのが保守」という定義に忠実であったという事実に氏に対する認識を新たにする思いがありました。

 

私は人をA層とかB層とか決めつけ、批判しやすいステレオタイプの型にはめて評価するのはあまり好きではありません。人間全ての分野において深い思索と独自の判断力において物事を判断することなど不可能だからです。政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念として有名になりました。国民をABCDの各層に分類して、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の全悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を儲け、最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、結果的に思惑通り大勝利を収めました。そういった事実からはB層をターゲットにした政治戦略というのは特に日本のような国家においては有効なのだなと確かに思います。

私のまわりには集団的自衛権に賛成する人が多いし、アベノミクスを有効だと思っている人、TPPが危険だと感じない人、世界で起こっている事態において、米国は善でロシア・中国は悪だと信じている人が多いのが現実です。しかしどうして?と聴くと新聞やテレビでのワンフレーズ的な解説以上の説明ができる人はいません(日常生活で込み入った政治的議論などしないのが普通ではありますが)。こういったものに疑問を感ずることなくメディアや政府の言う事をそのまま信じてしまう人がB層とくくられて、メディア戦略の通りの考えを持つようにしむけられるのでしょう。もっとも集団的自衛権の法案に反対して、SEALSの集会に集まっていた学生達も面倒な長演説よりもワンフレーズの掛け声によく反応したという点では何となくB層的で似ていると思いましたが(それでもじっくり話してみると違う反応だったかもしれませんが)。

 

本書で指摘されていた、「共産主義、自由平等主義、資本主義、グローバリズム、一神教といったものは理性を社会規範の元に据えているという意味で左翼的、革新的であり保守ではない」という主張に私も同感です。小泉郵政改革、安倍政権、橋下大阪都構想といったものは日本を破壊する革命思想であるという批判にも賛成です。本書の終わりの方でニーチェの思想を紹介した部分があるのですが、ニーチェが「神は死んだ」と言った意味は宗教一般を否定したのではないと説明されています。ニーチェはキリスト教の根底にある「反人間的なもの」を批判したのであって民族の神までも否定したのではない、むしろ個々の民族が古来伝えて来た民族の神をキリスト教などの一神教がその全てを否定し去り、教義という理性の押しつけによって民族の神を殺したことを批判しているのであるという件は納得できるものです。

 

プロテスタンティズムの倫理に基づく資本主義が否定され、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が消滅してそれぞれの民族が古来伝えられて来た神を信奉する社会が再現すれば、現在の紛争の多くは解決に向かうかも知れません。

 

今年夏の参議院選挙は既に衆参同時選挙の噂が出ています。衆参同時選挙というのは参議院廃止と同じ思想です。衆議院と参議院、別々の党に投票する人は殆どいないでしょう。だから結局衆参同様な党派割りになって全ての法案が与党の案通りに通る、一院制議会と同じになるということです。こんなバカな話はありません。一院制議会の暴走という苦い経験から欧米の民主国家は二院制という面倒な手続きを歴史的に作って来たのです。参議院不要論、衆参同時戦に意義を唱えないメディア、人達というのは使いたくありませんが、「B層」ということです。為政者から「なんて使いやすい人達」とバカにされていることに気がつかなくてはいけません。これもこの本にはっきりと書いてあり、同感と思いました。

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書評 市民ホスピスへの道

2016-01-17 14:02:55 | 書評

書評 市民ホスピスへの道  山崎章郎、二の坂保喜、米沢 慧 著 春秋社 2015年刊

日本におけるホスピスのあり方について、実践を通して進めてきた医師である山崎章郎氏と二の坂保喜氏、そして高齢者や終末期医療のあり方について研究を進めておられる評論家の米沢慧氏のそれぞれの著作と対談形式でのまとめを示した8部構成になっています。

 

前半は「いのちを受け止める町」と題して、米沢氏の項では長寿高齢社会において、痴呆を含めた高齢者が自由に有意義に過ごせる「場所」をいかに工夫するかが各地における試みとともに解説されています。前回紹介した「宅老所」の話も出てきます。山崎氏の項ではホスピスを25年運営して終末期医療にかかわってきた中で今話題となっている「スピリチュアルペイン」「スピリチュアリティ」にどう向き合うか、そもそもスピリチュアリティとは何なのかを氏の経験と考察を元に解説されています。二の坂氏の項では「医療は在宅へ」という日本および世界の流れにおいて、ホスピスケアを在宅において行うモデルをインド、バングラディシュにおけるコミュニティを中心にしたケアから学ぶことについて解説されています。

 

それぞれについて、普段このような問題に関心がある人にとっては示唆に富む深い内容を持った物と思います。本当は身近な問題になりつつある終末期医療や高齢者の介護の問題も、自分の問題として直面してみないとこれらの話題についてゆくのは困難かもしれず、一般受けする内容の本ではないのはしかたありません。

 

私はこの本を読んでホスピスや高齢者医療についての思索が「技術的或いは制度的」な医療や介護の視点から「生き方や死生観」といったより深い視点に進化してきているように感じました。終末期医療を考える上では生き方や日本人独特の死生観といったものを抜きにして語ることは現実的に不可能であることは日々の臨床の上でも感じることであり、今までのブログで取り上げてきたとおりです。この前半の内容では特に山崎氏が解説するスピリチュアリティについて学ぶところが多いと思いました。一部紹介しますと、

 

人間の苦痛を構成する4つの要素にはキューブラー・ロスが提唱したように

1) 身体的苦痛

2) 社会的苦痛

3) 精神・心理的苦痛

4) スピリチュアルペイン

 

の4つがあるとされています。肉体的苦痛は身体的苦痛であるし、病気によって社会生活から途絶してしまうのは社会的苦痛になります。そして将来への不安や希望の喪失は精神的苦痛といえます。ではスピリチュアルペインとは何か、いままであまり語られていない、或いは良くわからないとされてきました。

しかしWHOの健康の定義にもスピリチュアルに健康であることを入れようという動き(否決されましたが)があったように、世界においてスピリチュアリティは人類が生きてゆくうえで重要な要素になりつつあるのです。

 

スピリチュアルペインとは「看護に生かすスピリチュアルケアの手引き」という本によると

・人生の意味・目的の喪失

・衰弱による活動能力の低下や依存の増大

・自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性

・家族や周囲への負担

・運命に対する不合理や不公平感

・自己や人生に対する満足感や平安の喪失

・過去の出来事に対する後悔、恥、罪の意識

・孤独、希望のなさ、あるいは死への不安

 

と紹介されています。なんとなくまだ具体的に判りにくいです。所詮英語で表現された抽象的な精神の表現を日本語で適確に示すことに無理があるだろうと言うのが私の意見です。しかし人間である以上喜怒哀楽や生き甲斐についての基本的構成は万国共通であり、「日本ではこのように取り組んでいる」という世界への情報発信も必要であることは確かです。

 

山崎氏はスピリチュアリティについての論考のまとめとして

「スピリチュアリティとは人生の危機的状況のなかでも人間らしく、自分らしく生きるために自分の外の大きなものに拠り所を求めたり、内省を深めることでその状況における、自己の在りようを肯定しようとする力のことである」とし、「スピリチュアルペインとは、スピリチュアリティが適切に力を発揮できなかった結果出現するその状況における自己の在りようを肯定することができない状態から生ずる苦痛であり、人間らしく、自分らしく生きることができない状態からくる苦痛である」と定義しています。

 

これはかなり判りやすいかもしれません。氏は「人間の存在」を構成するのはスピリチュアリティを中心に身体、社会、精神心理がそれを取り囲むようにオーバーラップしながら存在する3重円のようなものであると解説しています。

ここで私は人間存在についての仏教の定義と重なることに気がつきました。前のブログで紹介したように人間の存在は五蘊の集まり、つまり色・受(身体と感覚)、行(行動としての外界への働きかけ)、想(精神・心理)、識(阿頼耶識、価値観)によって形成されるという中で、スピリチュアリティとは正に「識」に相当する部分ではないかということです。

人間を見極めるには論語で言われるように、「その人の行動を見て何を考えているかを見て何に満足するかを見れば良い」というその満足の基になる部分が「識」なのですが、「識」のない人間はある意味魂が抜けた機械のような存在と言えますし、「識」を遮断した生活を強いられれば単に生きているだけの意味のない人生になるでしょう。スピリチュアリティとはこの「識」のことではないかというのがrakitarouとしての解釈です。

 

後半は「ホスピスは運動である」と題されて、二の坂氏は小児ホスピスのあり方から重度障害児施設の経験、英国での小児ホスピスのありかたなどから、ホスピスを特別な隔離場所でなく地域の一部、日常生活の一部にいかになってゆくかの論考をしています。山崎氏は厚労省が進める地域包括ケアシステムと在宅ホスピスをどう整合するかという視点で論考を進めます。そして米沢氏は「市民ホスピスへの道」と題していままでのホスピスの歴史を踏まえた今後の生活に溶け込んだホスピスのあり方について提言をします。

 

「ホスピスは運動である」というフレーズはやや捕らえどころがないように感ずるかも知れません。何か政治的、流行的なムーヴメントとしての「運動」ととらえると敷居が高いもののように感ずるかも知れません。「ホスピスは運動」というフレーズを用いたのは最初に日本にホスピスを紹介した岡村昭彦氏ですが、私はもう少し平易に言うとホスピスとは施設や制度のことではなく「道」つまり柔道や華道、書道といった「行いに精神的なあり方」を含んだ「道」としてとらえるべきだという意味ではないかと思います。つまり「ホスピス道」としてそのあり方を検討してゆく物ではないかという事です。ただし伝統的な確立された「道」というものではないので、師範や経典、免許皆伝といったものもなく試行錯誤の中で今後最も望ましい形を皆で確立してゆくというものではないかと考えます。ホスピスは運動、「ホスピス道」としてそのあり方を考える、そう捕らえると本書の題名「市民ホスピスへの道」という意味がすんなりと理解できるように思いました。

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