rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

EU離脱は本当にポピュリズムか

2016-06-25 14:11:08 | 政治

英国のEU離脱かを問う国民投票は僅差でEU離脱が多数を占め、2年後の離脱に向けて準備に入ることが確定されました。英国のEU存続派を含め、日本を含めた諸外国の反応としては、EUからの離脱はEU圏内からの人の移動が自由であるため、貧しい地域からの移民が増加して地域社会が対応しきれなくなってきたことから、大衆が移民を拒否する、また民族主義を正面にかかげる右派、ポピュリズムの主張によるものであると批判しています。一方でグローバリズムの精神に則り、世界を受け入れてゆくことが理性的であり世界の経済にも有益であるとそれが規定の正しい姿であるがごとく上から目線で語る評論家が目立ちます。しかし私はそのような決め付けには違和感を抱かざるを得ません。

 

理性で煩悩を克服できるというのは既に否定された共産主義的思考である。

 

私有財産を否定し、計画経済で物を管理すれば全てうまく行くと考えた共産主義の実験は既に否定されました。人間は理性のみで生きてゆくことはできないのです。個々人の価値観や生き方が違うように、地域、民族によって社会のありようは異なります。それを統一した経済社会体制にしようというグローバリズムの考え方でうまくゆくはずはありません。結局うまくゆかずに末端の人達が苦労をする事に対しては力で押さえつけるか、「皆のために理性で我慢しろ」と強いることになります。

「世界は原始共産制に向かって進んでいる」というかつての愚かな信念と同じく「世界はグローバリズムの統一した価値観、経済観に向かって進んでいる」という宗教のような信念を恥ずかしげもなく語る学者がいます。そんな勝手な信念を押し付けられてはたまりません。世界は多様であり、多様性を保つことが進歩や予想外のカタストロフィーから人類滅亡を防ぐ担保になるのです。これは自然界における真実ではないでしょうか。共産主義経済と市場に任せれば全てうまく行くといった拝金資本主義経済は対極にありながらも、ともに理性を万能と考える類似した片手落ちの思想であり、どちらもその原理主義的な状態では人類全体の幸福につながることなどないのです。

 

ユーラシア大陸の両端にある政治経済共同体

 

ユーラシア大陸の西の端には、二つの大戦を経て力による統合ではなく、協調による経済統合を目指したEUおよびユーロ圏ができました。一方大陸の東の端には二千年前から力による他民族の統合で中国という政治経済共同体があります。ただし支配者はたびたび変わっており現在は漢民族が主体の共産党が支配しています。中国というのは中央権力がめちゃくちゃ強い欧州共同体のようなものと言えるのではないでしょうか。その中でEUにおける英国の位置は中国と日本の関係に似ていると私は思います。米国との強いつながりも同様でしょう。

 

今日本が中国を中心とするアジア共同体に属していて、人の移動が自由であり、チベットやウイグルから言葉の通じない移民たちが続々と日本国内に越してきて住みだしたとしたら明らかに困りますし、「共同体などに入らなくても日本は日本だけでやって行けます」となるのではないでしょうか。そこで諸外国から「理性的な判断をして中国経済圏にとどまれ」とか「移民を受け入れないのはエゴである」とか言われる筋合いはないと普通考えると思います。

 

ギリシャがEUやIMFの命令を聞かない政権を選挙で選ぶのはポピュリズムであると批判されます。フランスにおける移民排斥を訴える政党は超右翼とレッテルを貼られてやはりポピュリズムであると批判されます。米国の大統領選挙もトランプはポピュリズム、若者に人気のあるサンダース候補も人気のないクリントンと比較されるときはポピュリズムに分類されて批判されていました。国民が日々の生活に本当に困って「何とかしてくれ」という声に応えようとすることを「ポピュリズム」といって批判するのは誤りです。一部の既得権益者が金融支配を持続できるグローバリズムの発展だけが正しいことであるような幻想は否定しないといけません。またグローバリズムを阻もうとする勢力を「ポピュリズム」と言って一段下の問題であるように批判するのは民主主義の否定でしかありません。今世の中で問題になっている事のほとんどは1%の既得権益層が推進するグローバリズムと99%の一般民衆の日常生活を守ろうとする戦いであるように見えます。

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映画 セッション(Whiplash) 感想

2016-06-07 19:13:02 | 映画

セッション(Whiplash)2014年米国 監督 デイミアン・チャゼル 主演マイルズ・テラー(アンドリュー)、J/K シモンズ(フレッチャー)

 

偉大なジャズドラマーになるべく名門シェイファー音楽学校(バークリーみたいな所)に通い、練度ピカイチのジャズバンドに参加することになったアンドリューだが、その指導者(フレッチャー)の指導が人間の極限を追求する理不尽なもので多くの若者は挫折してゆく。最後憎しみ会う程対立する二人だがその対立の頂点で珠玉の演奏が生まれるというもの。

 

   映画表紙  度を超した指導(なかなかこんな先生いない)  血が出るまで練習   熱演でアカデミー賞を授賞したJK Simmons

 

実際に視ていないと音楽を通した映画の緊張感は理解できないと思いますが、教育者のフレッチャーのやり方は度を超していて現在の日本ではまず受け入れられないとは思います。しかし小中学校の音楽の授業ではなく、プロのしかも時代を代表するような天才ミュージシャンを育てたい、或は才能を引き出したいのであれば、こういった教育方法もありではないか(勿論映画のはやり過ぎですが)と思わせるものがあります。

 

「この演奏が好き」という場合、ミュージシャンの人柄や人生とは関係なく「演奏自体が良い」というのが聴く人の本音だと思います。そこが絵画や小説のようにある程度作者の人間観と共鳴する部分を持つ芸術と音楽の違いでしょう。だから「究極の良い演奏」を追求するには奏者の日常生活や感情を切って捨てて音楽そのものに全身全霊のめり込む必要がある、というのがフレッチャーの思想なのではないかと思います。音と譜を極限まで追求して指揮する者と演奏する者の時空が完全に共有されて初めて満足のゆく演奏に至るという考えなのでしょう。フレッチャーの悪い点は「こいつは行ける」と見込んだ相手をとことん追いつめて潰してしまう所です。主人公のアンドリューも追いつめられながらも必死に反発して答えようとして遂に壊れてしまいます。多くのカリスマ的ジャズミュージシャンが薬などに溺れて短命であるのはそういった純粋さから来るものかも知れません。米国のジャズ奏者は即興部分を徹底的に練習してから演奏する(もはや即興とはいえない)と言われていますが、一見自由に演奏しているように見えるジャズもそういった厳しさがあるから素晴らしい演奏に繋がるのだろうと思います。自分自身の仕事への情熱や厳しさを改めて見直してみるという気持ちにさせる映画でもあります。その点音色が複雑な管や弦でなくあえてドラムスを主題とした事で訴えかける内容が解りやすくなったと思いました。

Law & Orderで渋々の役を演じたスコダ先生、このwhiplashでアカデミー助演男優賞も授賞していて実は幅の広い上手な役者なのだなと感じました。全ての男児に一見の価値ありの映画です。

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オバマの広島訪問における「論理と倫理」の使い分け

2016-05-11 15:09:38 | 政治

広島訪問、謝罪ではない 報道官「核廃絶の熱意伝える」

オバマ大統領が2016年伊勢志摩サミットに出席する際に被爆地である広島を訪問することが大きな話題になっています。日本では原爆投下という無差別大量殺戮に対する「加害者としての米国の謝罪」を期待する論調が当然ながらあります。第二次大戦の話題では日頃日本が常に加害者として扱われ、中国・韓国から「謝罪」を執拗に要求されていること、帝国主義における領土と覇権拡張のための戦争が延々と行われてきたにも関わらず、第二次大戦においてのみ敗者に対して「倫理的悪」という規定がされて子孫にまで贖罪が要求されるという「戦後秩序」という特別な規範が当てはめられて来た事が問題を複雑にしているとも言えます。

 

米国はオバマ大統領の広島訪問を「謝罪」や「贖罪」の意味ではない、と規定します。勿論敗戦が見えていたあの段階で「原爆」を日本に使う必然性については米国人の誰もが疑問を抱くでしょう。日本人に使用するについては戦後のソ連との関係や日本人が白人でもキリスト教徒でもないことなどの因子が当然あって、その論理的必然性などを追求されることは米国にとって片腹痛い部分があるでしょう。日頃奇麗事を並べる欧米のヒューマニスト達に対して「ダブルスタンダード」だと感ずることは日本人のみならず共感する所でしょう。しかし彼らはその矛盾についてはあまり気にしていないようにも見えます。

 

我々がダブルスタンダードと感じるほどには彼らはその矛盾を気にしていないと思われる原因は西洋人ならではの論理と倫理の使い分けにあると私は思います。以前のブログで「倫理的善悪の決め方が歴史観に反映する」として日本人と欧米の人達では倫理的な善悪の決め方が異なることを紹介しました。また日本語では「良い」と「正しい」は同じ感覚であり、論理的にも倫理的にも良い、正しいという意味で「これは正しい」と言われると論理的にも倫理的にも良いことであると解釈するのが一般的で原語的に使い分ける習慣がありません。

 

日本人にとっては自分の属する集団(家族、地域、会社、民族、人類など状況で異なりますが)にとって利益になることが倫理的な善ですが、一神教のキリスト教徒(ユダヤやイスラムも)にとっては神との契約に従うことが倫理的な善(good)であるという根本的な違いがあるのです。社会における取り決めなどで正しい事は論理的に正しい(rationalとかrelevant)かどうかが問題であり、自分達に利益があるかどうかは利がある(beneficial)かどうかの問題で倫理とは異なります。

 

原爆投下の正当性について米国の言い分をそのような観点から見ると、「戦争を終結させるために論理的に正しい選択(rational)であった。」「日米両国民にとって(本土決戦を行うよりも犠牲を減らすことができて)良かった(beneficial)。」と言っていて、「倫理的に善」という言い回しは巧妙に避けている事が解ります。もし日本が米国に倫理的な意味での「謝罪」を要求するならば、米国の原爆投下は「神の御心に反する行為」である事を正面から突きつけてしかも納得させる必要があるでしょう。それは今後の日米関係に民間の交流も含めてかなりのダメージになることを覚悟しないといけないでしょう。勿論心の中では原爆投下が倫理的に悪だと彼らも感じているからこそ「米国は反キリストだ」と我々日本人が責め立てることは破滅的な結果になるように思います。

 

欧米や周辺国が日本に対して倫理的に執拗に贖罪を求めるのは「南京の虐殺」や「従軍慰安婦」の問題であり、ドイツに対しては「ユダヤ人の虐殺」や「人体実験」などいずれも「神の御心に反する」所業についてであることが解ります。ドイツの首相の謝罪もナチス(とそれに加担したドイツ国民の)「神の御心に反した」所業についてでありました。日本は真実の歴史において「神の御心に反する行為」はしていないのですが(731部隊の件は真実と思います)、「戦争をした」事自体が「倫理的な悪」と戦後の日本人が規定してしまったから問題が複雑になって誤らなくて良い事まで周辺の国々に謝罪する羽目になって内心忸怩たる思いをすることになっていると言えます。

 

原爆投下の倫理的な善悪は一時置くとして、核の犠牲者を日米両国の首脳が追悼することが今後核の無い世界を希求する上で論理的にも倫理的にも良い(rationalでbeneficialでgoodだ)と規定することが今回のオバマ広島訪問にあたって日米が丸く収まる落としどころなのだろうと思います。これから海外を含めていろいろなメディアで報道されると思いますが、このような見方でチェックするとそれぞれの論理が理解しやすくなるのではないかと思います。

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書評「憲法改正の真実」

2016-04-16 15:43:52 | 書評

書評「憲法改正の真実」小林 節、樋口陽一 著 集英社新書0826A 2016年刊

 

集団的自衛権を日本が発動する事を合憲と解釈した上での立法について、参考人として国会に招聘され、招聘した自民党の意に反して「違憲」を明言した「改憲派」の憲法学者の小林 節氏と古くから護憲派の重鎮として有名な憲法学者の樋口陽一氏の対論形式で、現在の自民党政権が行いつつある立法の異常性、新たに定めようとしている憲法の異色性について明快に論じた解説書です。

 

「集団的自衛権に反対している人達は平和ボケの左翼でしょ」「本の内容もそんな感じでしょ」というレベルの人達には何を言っても無駄と思いますが、私には現在進行している議論や自民党が示す新たな憲法案とされるものの異常性について、普段感じているもやもやしたものを整理して説明してもらったような内容でした。本の表現とは異なりますが、内容を要約すると以下のようになると思います。

 

1)          閣議で憲法解釈を変更してよいという認識は著しいコンプライアンスの欠如である。(法的根拠がない、しかもその事に誰も異議を唱えないという異常)

2)          解釈を変えれば何をしても良いという考えは立憲主義、法の支配(rule of law)に反する。

3)          自民党の憲法草案は改憲ではなく新たな憲法の制定である。

4)          自民党の憲法草案は西欧諸国の常識とされる立憲主義を否定し、国のあり方を大和朝廷の時代にまで遡らせようとするに近い。

5)          憲法制定権力(新たな憲法を制定する権力)の基本は革命政権である。従ってそれを試みる安部政権は革命勢力とみなされる。

6)          憲法も人と同様「出自」にこだわるのではなく、「社会に何をなしたか」で評価されなければならない。

 

1については以前から私が主張している内容と同じですが、国民にはコンプライアンスの遵守を強制しておきながら、政府、政権党がこれを軽視するというのは「あはれ」さえ感ずる知能の低さです。法は所詮人の作ったものであり、完璧ではありません。現実に照らして国家国民の存立にかかわる事態において「法を破らねばならない」場合があることは認めますし、それを決断するのが政治であると思います。しかしその場合には「これからこれこれの状況に対応するために止む無く法を破ります。その責任は事態が収拾したら必ず取ります」と宣言してから行うのが為政者たる者の姿です。それが納得のゆくものであれば国民は違法であっても従います。現政権にはそういった「自己への厳しさ」が著しく欠けている。あるのは政権の延命ばかり、それだけで国家を預けるに足る資質に欠けていると私は思います。

 

2は法律学の基本であり、理系の私でも理解できている問題なので記するまでもありません。

 

3について、憲法改正と新憲法制定は全く別の事態であるという認識を今回新たにしました。憲法改正とは、国のあり方についての基本は変えず、現実に合わなくなった一部の文言などを時代に合わせて変えることを意味します。無謬の不磨の大典は一言一句変えるべからずなどということはありえない。その意味で小林 節氏の改憲容認の姿勢は私と同意見と思いますし、9条についても自衛隊の存在を自然権としての個別的自衛権発現の手段として明記することは日本国憲法をよりよくする意味でOKと思います。集団的も個別的と同じ自衛権だという議論が間違いであることについては別の本(亡国の集団的自衛権 集英社新書0774A 柳沢協二著) で十分解説されているのでここでは割愛します。

 

新憲法の制定とは国家の作り変えを意味します。明治維新(革命)、昭和敗戦(革命)によって日本国の憲法は新しくなり、国家の基本的な概念が変更されました。明治維新では徳川幕府による封建体制から近代西欧の立憲君主国になるべく国家のあり方が変更になり、主権者は天皇でしたが、憲法に基づいて法が作られ、それに従って政治が行われることが徹底されました。本でも紹介されていますが、伊藤博文が帝国憲法制定会議において「そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と明言しているように、本来明治の元勲たちは新日本を作るにあたって天皇の地位を玉として利用しただけであり、「天皇機関説」としての国を治める上での役割を与えたに過ぎないというのが真実だろうと考えます。戦前の一時期天皇が神として祭り上げられ、天皇の権威を持ち出せば誰も反論さえできないなどという時代は日本国の姿としては一過性のものでしかも誤りであり、日本は天皇を中心とした神の国などという概念は「戦前お花畑幻想派」のノスタルジー的な夢に過ぎないといえます。

本来明治期における日本の姿はもっと西欧的民権主義の躍動感に満ちたものであったというのが真実です。憲法の存在する意味は、「憲法は国民からの国家権力への命令である」という小室直樹氏の本のタイトルの通りです。そして明治憲法においても基本はここにあったのであり、国民のあり方を憲法で規定するという自民党の改憲案は明治憲法すら否定して大和朝廷の時代に遡るほど時代錯誤した不勉強極まりない内容の物という事がわかります。

 

自民党にもかつては世界のインテリ達に引けをとらない知性のある勉強家が多く存在したと思いますが、小選挙区制となり党の公認を得ればサルが服を着ているような馬鹿でも国会議員になれるようになり、地方議員を含めて「ろくな奴が議員になっていない」ことは最近の低レベルのスキャンダルを見ても明らかです。仕事柄地方の各政党の議員後援会長などと話す機会もあるのですが、「議員となる人の人材の劣化」は目を覆うばかりであると後援会の人達でさえ嘆いているのが事実です。あとの望みは優秀な国家官僚達が天下国家を思考し、国益と国民を守るために奮闘してくれることを望むしかないということでしょうか。省の壁を越えて彼らが結託し、愚かな政治家達の暴走を防いでくれることを望むばかりです。

 

6の日本国憲法の評価ですが、この言葉は私も学生時代に憲法学の本を買って勉強したことがある憲法学者の宮沢俊義氏が1957年に「憲法の正当性ということ」という論文で述べたと本書で紹介されているのですが、これは戦後70年経過した現在でも全く正当な評価だと私も思います。法学の基本も理解していないような人達が薦める新憲法など出自を問題にするならば初手から失格と言えます。まずは本当に改定しないといけない字句の有無を丁寧に精査した上で時間をかけて変えてゆくのが憲法改正の本来の姿といえます。

 

そんな事を言っても「急迫する世界情勢が」という意見もあると思います。その急迫する世界情勢と言われている物の特に軍事的な面(中国軍の動向など)について、別の本で検討しているのですが、どうも元自衛官の私からみて、その認識も随分一方的で怪しい議論のように見えますので、その件については後日解説したいと思います。

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物理音痴の理系に雑誌Newtonの特集が解りやすい

2016-04-05 19:15:22 | その他

雑誌Newtonは昭和56年からある古い雑誌ですが、たまに興味があると買ったりしていました。今年の2月にアメリカ重力波観測装置LIGOが遂にアインシュタインの最後の宿題と言われていた重力波の測定に成功したというニュースがあったことで感心を持ったのですが、雑誌ニュートンで重力や分子間力といった基本的な力について解りやすく解説した特集がありました。

 

そもそもエネルギー不滅の法則というのがあるのに常にある重力は作用した後どうなってしまうのか、磁力は目に見えないのにその強さの違いはどのように物質に異なって作用しているのか、といった事は気にしなければどうということはありませんが、きちんと説明しろと言われると困ってしまう事柄です。

 

今回ニュートンスペシャル2号連続企画と題されて2016年4月号と5月号で物質を形作る素粒子と反物質について、重力、電磁気力、素粒子を結びつけて陽子や中性子を作る強い力、素粒子や電子をやり取りする弱い力の4種類の力について解りやすく解説されていました。

 

この特集を読んで何に感心したかというと、スタートレックなどのSFの世界で描かれていた反物質エネルギーエンジンや、物質転送などの技術もかなり実際の最先端の科学で解って来たこれらの理論に基づいて考えられていた事、ニュートリノとか最近のノーベル賞における話題がどの辺りの発見についての事であったかが解った事です。

 

反物質などというのは空想上の物かと思っていたのですが、エネルギーが質量に変わる時に物質と反物質が対で生成される(加速器で)とか、病院で日常的に診断に使っているPETは反物質(陽電子)を見ているといった説明は非常に興味深いものでした(良く知りませんでした)。

 

物質を構成する素粒子には質量を持つ素粒子と力を伝える質量を持たない素粒子がある(下図)、これらは交互に移行しあえると考えるのが「ひも理論」であり、質量のある素粒子はヒッグズ粒子(見つかっていないがそこら中に充満している)とぶつかるので光速で移動することができないが、力を伝える素粒子は質量がないのでヒッグズ粒子と衝突せずに光速で移動できる、というのは面白いと思います。前回のブログで紹介したコメディ「Big bang theory」の主人公シェルドン・クーパーが研究しているのは「ひも理論」ですし、スタートレック・ネクストジェネレーションで人を空間転送する際、一度素粒子まで分解して質量のないエネルギーに変えて波として相手方の装置に送って再度質量のある素粒子に復元して人に戻すという作業を瞬時に行うということになっていて、「転送開始」の指令は原語では”energize”(エネルギー化せよ)であるというのが理解できた時には成る程と膝を打ってしまいました。

   

  Star trek next generationの転送室

まあ半可通はすぐ襤褸が出てしまうのでこれ以上は書きませんが、重力などのエネルギーを伝えるしくみはこうなっていたのか(いると考えられている)と感心し、時々読み返してみようと思う雑誌の特集でした。

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米国の宿痾とクリントン候補

2016-03-20 19:59:38 | 政治

米国の大統領選は2016年3月中旬の時点では共和党トランプ候補、民主党クリントン候補が優勢と伝えられています。共和党のトランプ氏以外の本命視されていた候補者達が消えて行く中で、何故共和党中枢とかメディアがトランプ氏や民主党のサンダース氏が本命になることを嫌うのかを考える時、米国の政治における潮流を検討せざるを得ません。

 

1)      理想主義と現実主義に揺れる米国政治

A)  理想主義 自由と民主主義を押し出し、世界に広げる。侵略的 世界統一的 キリスト教を押し立てて未開地を侵略して行った精神に通じる。

  成功例  戦後日本へのsocial engineering ソ連崩壊と東欧の民主化

  失敗例  イラク、中東の春、中国が民主化しなかったこと、ベトナム戦争、中南米諸国への介入など多数

B)  現実主義 孤立主義 国内の充実に重点 愛国的、多極主義的

 

以前米国の政治について解説した中野剛志氏の「世界を戦争に導くグローバリズム」(集英社新書0755A)でも紹介しましたが、歴史家E.Hカーが分析するように、米国政治には理想主義と現実主義の二つの潮流があり、理想主義に立脚して政治をすると戦争になる(1919年から1939年、2001年以降のブッシュの時代)と言われています。また慶応大学教授の渡辺靖氏の米国の社会と政治を紹介した「アメリカのジレンマ」(NHK出版新書464)においても米国の政治潮流の4つの柱としてハミルトニアン、ジャクソニアンを現実主義、ジェファソニアン、ウイルソニアンを理想主義として紹介しています(179ページ)。つまり米国の政治はAとBの狭間を行ったり来たりしながら行われて来た歴史があります。そしてソ連が崩壊して社会主義経済が消滅してからは、米国の一極社会によるグローバリズム、世界統一政府の方向に向かおうという勢力と多極社会で国家として米国を繁栄させようとする勢力に別れているように見えます。

 

現在の大統領候補を見ると、クリントン候補は明らかにAであり、トランプ候補はB、サンダースやクルーズもBであることが明らかです。ウォール街やグローバル企業、投資家達にとってはAであるクリントン候補が都合よく、大量の資金援助をしています。一方でBを勧める候補者達には米国市民からは多くの賛同が集まっているにも関わらず、メディア(資本家から金をもらっている)を含めて冷たい報道しかないことは見ていても明らかです。トランプやサンダースは大統領の器ではないと決めつける報道が多いのですが、単に彼らに都合が悪いだけのことで大統領の器とはAを押し進める人でなければならない訳ではありません。むしろ1回一時間の講演で7,000万円の講演料をもらっておかしいと思わない「貧富の差開いて当然」と思っているクリントンを大統領としてふさわしいと考える人達の方が狂っているとしか思えません。草の根募金でクリントンを追い上げているサンダースこそ「自分達自らの力で旧世界の束縛から自由な国家を作ろう」としたアメリカ建国の精神に基づいた戦いをしていると外国人である私にも解ります。

 

2)      Political Correctnessという虚構への挑戦

トランプ候補の毒舌や差別的な発言をPolitically correctとされる暗黙の社会通念への挑戦であるという評価を聞きます。どこかから金をもらって急に広がった「反トランプデモ」もpolitically correctに反しているというのが主張です。しかし人種や性差別、LGBTへの不自然な気の使いようなどを「胡散臭い」「虚構」と感じている米国民はやはり多いと私は思います。米国コメディの超人気番組「The Big Bang Theory」は2007年からCBSでシーズン8まで放送されている人気番組で日本でもCSで見れますが、これなどは黒人の女性教官にテレビ映画「ルーツ」のビデオを家族で見るようにプレゼントするなどpolitically correctを徹底的に皮肉ったような内容があります。台詞もコメディだから許せるギリギリ差別的なものも多く、この番組が大人気(コメディ部門は1位で主演のジム・パーソンズもエミー賞など取っている)であることは、米国人が本音では奇麗事的理想主義に辟易しているのだろうと感じさせます。もっと社会が安定して中間層が豊かであった1960年代の方がほのぼのとしたコメディ番組が多かったように思います(I love Lucyとか奥様は魔女とか)。

 

今全米で大人気のBig bang theory                             かつての人気番組奥様は魔女

 

現代は過剰なpolitically correctを強調する一方でテロ対策と言えば愛国者法によって人権の殆どは無視してよいとされ、拷問も合法とされます。それでいてテロの犠牲者は年間10人程度である一方で銃の乱射は日常茶飯事(オバマ大統領言)で年間3万人が犠牲になります。形だけの理想主義はもう沢山と考えるまっとうな米国人が増えるのも当然と思います。

 

3)      戦後秩序という言葉を2つの流れから再度考える

私のブログでも度々取り上げる「戦後秩序」という言葉ですが、この意味は第二次大戦の戦勝国が戦後の世界を支配しやすくするための秩序であるという定義は変わらないのですが、米国が使う場合、中ロが使う場合で多少実際の意味合いが異なって来ていることは否めないと思います。米国にとっては一極支配に基づいて大資本を中心とした拝金的資本主義と(米国に都合が良い)民主主義で世界が統一されてゆくことが望ましい戦後秩序であるのに対して、中ロは地域覇権国家としての両国の地位が担保されていることを要求している、多極社会を担保した秩序を想定していることは明らかです。中ロにとってはAよりもBの方が彼らの唱える「戦後秩序」に適う候補者達であると言えるのです。

 

4)      日本にとってどちらが良いのか

では日本にとってはAとBどちらが国益に適うのでしょうか。TPPを推進し、世界統一政府とグローバリズムを信奉し、日本の特異性や文化などどうでも良い、そのくせ中国やロシアがのさばるのは嫌だという人達にとってはAこそが希望に適う候補つまりクリントン氏が大統領になって欲しいと思っていることでしょう。クリントンに好意的な意見や報道を見ればその本心が上記のような人達であることが解ります。一方で真の日本独立派、大変だけれど日本の独自性を保ちながら、二千年の歴史を大切にし、今後は米中ロと丁々発止でやりあってゆくのが日本国の未来に有益であると考える人はBを好ましいと思うはずです。私はBです。好みではサンダースでしょう。

アメリカの宿痾とは、米国を取り締まるより強い権力がないため、戦争をやり続け、世界で必要のない殺戮を続け、結局自国民をも不幸にしてゆく現実を言います。クリントンが勝てばその宿痾が間違いなく続きます。この宿痾を排除し、米国国民全体の幸福を考える政府を作れるのはサンダースくらいしか見当たりません。結果的に世界へのアプローチは減るでしょう。それで丁度よいのです。米国が出しゃばるほど世界は不幸になってゆくのですから。現在の米国はグローバル資本家や兵器産業の利権を犠牲にして世界を動かすことは決してしません。理想主義をかかげながらやる事は資本家による搾取と政府に変わる大企業による社会の統治を手伝う結果にしかなりません。大統領選は次第に宿痾クリントンが本命になりつつあるようですが、米国民の覚醒と大逆転を期待して見守りたいと思います。

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魔女の秘密展に行って来た

2016-03-01 18:31:35 | 歴史

先日原宿のラフォーレミュージアムで開催されている「魔女の秘密展」に行ってきました。新聞にポスターが掲載されていて、黒猫があしらってあり、場所も若い人の多い原宿でしたので、どちらかと言えば漫画や明るい魔女を中心に、魔術や今流行の猫とのからみなどを展示した物かなと軽い気持ちで行ったのですが、真面目な内容でドイツの複数の博物館でテーマ開催された内容を日本に運んで来て1年かけて各地で開催されているという本格的なものでした。

 

せっかく真面目な内容であったので備忘録的に感想を記しておこうと思います。詳しくはホームページからも見れます。

展示はテーマ毎に大きく4つに別れていて、「第一章」信じるーでは、中世の一般の民衆にとって魔女と言われる人達の扱う呪術や錬金術など初歩的な科学的な行いが、「自分とは違う能力、異能」として信じられていた様子が展示されます。

「第二章」妄信するーでは、当時の寒冷気象による不作や疫病の蔓延がキリスト教的には「異端」とされる魔女達の悪魔的な行いのせいである、という思い込みから魔女の弾圧に至る心理的な経緯が書物や絵画などで説明されます。

「第三章」裁くーではいよいよ「反キリスト」「「異端」とされる「魔女達」あるいは「魔女っぽい流浪の民」、単に気に入らない「全くの無実の人」までも無理矢理拷問で「自分は魔女です」と言わせて処刑してきた歴史が様々な道具や書物ともに展示されます。ビデオによる疑似魔女裁判体験というのも日本語で流されています。

「第四章」想うーでは18世紀になって科学の進歩とともに非科学的な魔女狩りや魔女伝説による処刑は反省されるようになり、逆に魔女を文化として受け入れて行こうとするムーブメントが起こり現在に至る状況が説明されます。

 

全体としては良くできた内容なのですが、キリスト教や一神教の素養がない我々日本人としてはもう一ひねり説明があると良かったと感じました。つまり魔女弾圧は「キリスト教が各地域に伝来していた地場の宗教(多神教)を弾圧して一神教を徹底させるため(異端審問制)に行った」言ってみれば「日本におけるキリシタン弾圧の逆バージョン」であったという基本概念を理解する必要があるということです。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは地場に置ける伝統的宗教をキリスト教が殺した、という意味だと言われていますが、その基本が理解できていないと魔女展の4つの章の成り立ちが解りにくくなります。つまり魔女とは各地域における伝統的宗教の呪術や薬草などを用いた医術、おまじないを行って来た人達であり、1198年のローマ法王の十字軍による異端討伐や1231年の異端審問制によって伝統的宗教が弾圧されてきた歴史が魔女狩りに裏付けられていると言えるのです。今流行の薬草やハーブは伝統的な西洋医術の中で伝えられて来たものですし、ハロウイーンのように反キリスト教的な伝統的祭りがキリスト教に取り込まれて残っている(潰しきれなかった)ものまであるという事です。

もし日本が戦国時代からキリスト教国になってカソリックのローマ法王に従う国になっていたら、巫女やイタコは魔女として火あぶりになっていたでしょうし、仏教もどうなっていたか解りません。尤も日本は神仏習合という特殊な宗教観が根付いている位なので多神教的一神教(結婚はキリスト教、死んだら仏教、子供が生まれたら神道)に早くからなってしまったかも知れません。江戸時代にキリシタンになった若者が「死んだおっかあに会えないならば地獄に落ちても良いからキリスト教が認めない先祖供養をしたい」と言って棄教したという話も伝わっています。一神教の非寛容性は日本人には馴染まないのだと思います。

 

そのような視点で再度展示を見てみると、キリスト教側も伝統的な宗教が持つ魔術に対抗するための護符を作ってみたり、キリスト教における悪の化身と無理矢理魔女をくっつけて見たりと苦心の跡が見られます。現代科学はキリスト教自体の非科学性までも暴いてしまうのですが、キリスト教、イスラム教それぞれの原理主義が現在の世界平和の障害になっていること、また一見科学的に見える経済学(実は限られた帰納的論理展開しかできないという説もある)が行き詰まって宗教をダシにした戦争(イスラムテロとの戦争を含む)で「ウオーエコノミーによる経済活性化」を狙っているという現実を考えると「魔女の秘密展」というのは意外と深い物を展示しているかもしれないと思うのでした。

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BCD層間の争いになってきた米国大統領選

2016-02-16 18:30:54 | 政治

B層支持  ヒラリー・クリントン マルコ・ルビオ(ジェブ・ブッシュ)

C層支持  バーニー・サンダース テッド・クルズ

D層支持  ドナルド・トランプ

 

民主党サンダース候補とクリントン候補                共和党トランプ候補とクルズ候補                                  共和党ルビオ候補

 

オバマ大統領を継ぐ次の米国大統領を決める選挙戦は3月1日のスーパーチューズデーを前に盛り上がって来ています。アイオワ、ニューハンプシャー州の予備選挙では民主党はヒラリー、サンダース両候補、共和党はクルーズ、トランプ両候補が勝って今後の趨勢がある程度決まって来たようにも思われます。今までの大統領選挙は民主、共和どちらが勝ってもウォール街にとってマイナスにならない、(大して変わらない)結果であったので面白くなかったのですが、今回はかなり毛色の変わった人達が勝ち残って来ていて本当ならばもっと日本のメディアで詳しく取り上げられるべきです。しかし詳しく解説すればするほど米国社会の矛盾、ひいてはアベノミクスのインチキ度合いや日本の政治が米国の一部勢力の「言うがまま」になっている現実が明らかになってしまうので、ミサイル、シャブや下衆の話題ばかりを取り上げています。

 

さて、現在の米国大統領選挙の状態を解りやすくまとめる方法はないかと考えたのですが、私は米国におけるBCD層間の争いと考えると理解しやすいと思います。人を層分けするのは好きではないなどと言っておきながら矛盾する事になりますが、前ブログの「書評ミシマの警告」で紹介した政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念です。国民をABCDの各層に分類して、構造改革を進めるA層、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の善悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を設けました。一方構造改革に明確な政治意識を持って反対する立ち場の人をC層、なにも考えていない無関心層をD層と名付けました。B層を最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、思惑通り大勝利を収めました。

 

米国の1%のウォール街支配層達や軍産複合体の人達にとっては、グローバリズム(one world構想)推進や戦争を起こして経済を活性化させるといった方策を行える大統領を選ぶことが第一優先であり、多額の選挙資金寄付をしたり、支配しているマスコミを使って間接的に支援させたりしていますが、その思惑通りに支持をしてくれる人達がB層と言って良いでしょう。候補としてはネオコンの指示通りに動く民主党ヒラリー・クリントンや共和党では本流と言われる候補者達、マルコ・ルビオ、ジェフ・ブッシュといった人達です。マスコミの予想(願望)ではこれらの人達が最後は勝つと言っています。

 

一方社会の矛盾に目覚めた貧しい若者達やインテリ層に爆発的な人気を得ているのが自らを「民主社会主義者」と呼び、強欲な拝金資本主義を辛辣に批判するバーニー・サンダース上院議員です。ヒラリー・クリントン候補との公開討論会をCNNで見ましたが、「ウォール街やコーク兄弟から選挙資金をもらったら彼らの儲けを制限するような政策は取れないだろう。」とサンダース候補が言うと「国家社会にとって本当に必要な場合には躊躇無く制限する政策をやります。」とヒラリー、そこですかさずチッチッと指を立てて横に振りながら「あのね、彼らはお金を配りたいという理由でお金を配っているのではないのですよ。」と厳しい突っ込みをサンダース議員が入れて会場はやんやの喝采、ヒラリーも返す言葉に詰まるという見ていて面白い論戦です。

 

共和党のテッド・クルズは茶会がバックに付いていて、米国社会生粋の右派、リバータリアンに人気があります。日本人は米国の保守本流の理解は乏しいと思いますが、信条として小さな政府、反連邦制に近く、政府の統制が強いワンワールド構想やTPPなどという制限を嫌い、真の自由主義を信奉する「米国の建国の理念に忠実」な人達と言えます。だからサンダース議員とは正反対の立場にあるとも言えます。しかしサンダース、クルズを支持する政治意識に目覚めた自分の考えを持つ人達がC層と言って良いでしょう。

 

D層にとってのヒーローは何と言ってもドナルド・トランプ候補でしょう。彼自身悪態や差別発現は確信犯と思われますが、あまり政治に興味が無いD層の人達を大いに掘り起こして大統領選に注意を向けさせている点、ウォール街が推すつまらない共和党候補者達を毒舌で切り落とした点で大きな貢献と言えます。

 

A層推薦、共和党B層が支持するマルコ・ルビオ氏は我が安倍総理とも親交があって(ネオコンの手下仲間だから)、トップ候補に上がってくれば日本のニュースでも盛んに取り上げられると思いますが、トランプ氏とサンダース氏がトップの間は日本のニュースで大きく報道されることはないでしょう。こういった理解でこれからの展開を見て行くと面白いと思いまとめてみました。

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認知症は治るか

2016-02-11 01:12:25 | 医療

認知症について精神科の専門の医師の講演を聞く機会がありました。「目から鱗が落ちる」というか、医師であり高齢者の医療にそれなりに感心がありながら、実にあやふやにしか理解していなかった「認知症」について認識を新たにすることができたので備忘録の意味で記しておきたいと思います。

 

まずは題名の「認知症は治るか」という問いを発すること自体があまり認知症を正しく理解していないと言えます。認知症は「糖尿病」とか「胃癌」といった独立した疾患概念ではなくて「種々の症状の総称」であることを理解しないといけません。西洋医学はscienceですから、その組み立ては経験的(帰納的)ではなくて演繹的(論理的)でなければいけません。解剖学や病理学的な欠陥の裏付けに基づいて病気は定義されるのですから、症状があるだけで病気を定義することは本来の西洋医学から外れる考え方と言えます。 

認知症の話に戻しますと、アルツハイマー病や脳血管障害などの病気(これは病理学的な定義がある)の結果起こってくる記憶障害、見当識障害(時間や空間を認識する能力の障害)、計画力(論理立てて物を考える能力)の障害などの中核症状と、その中核症状に付随して起こってくる日常社会生活を送る上での様々な障害(周辺症状)を総称して「認知症」と呼ぶというのが正しい理解です。だからアルツハイマーや脳血管障害になったから必ず認知症になると決まった訳ではないし、その程度や内容も様々であると言えます。また「病気」ではなく「症状」なので治療ではなく、「対応の仕方」で軽減することが可能と言えます。治すという事で言えばアルツハイマーの治療は研究中ですし、脳血管障害は急性期であれば治癒の可能性もあります。

 

「認知症に対応」する上でその症状を軽減させる(社会生活をできるだけ送れるようにする)ためには、認知症の中核をなす症状の特徴を理解しないといけません。つまり中核症状と言われる記憶障害、見当識障害、計画力の障害の特徴を理解する必要があるのです。以下にその特徴をまとめます。

 

中核症状の特徴

1)記憶障害   生まれてから今までの人生経験の部分的な所を覚えていないのはほぼ全ての人がそうだが、例えば30代の経験がすっぽり抜けていてない、とか1週間前の記憶が全くない、といった時間の連続が途切れたような記憶の無くなり方が特徴、特に近い過去の記憶がすっぽりないことが多い。だから見慣れない所に来ると何故そこにいるのか理解できなくなる。直近の記憶がないと常に見知らぬ土地に来た不安な旅行者のような心理状態になっている。

 

2)見当識障害  記憶障害もからんで時間と空間の認識力が落ちる。空間認識の障害はベッドを縦に使わず横に使って寝たり、料理のフタを取って中を見るといった単純な行動ができなくなったりする。

 

3)計画力の障害  駅に行くためには、(1)着替えをして(2)財布を持って(3)戸締まりをして(4)近くのバス停に往き(5)駅往きのバスに乗るという動作が必要になりますが、(1)を先にやるか(3)を先に行うか考えつかない、そもそも(1)から(5)までの段取りを計画する事自体(普通は無意識のうちにやっている)ができなくなり「駅には行かない」と突然言い出してしまう。同様の事が食事を作る、買い物をする、といった当たり前の日常生活の障害(IADL=Instrumental activity of daily lifeの障害という)として現れる。「困ったら電話してね」と話していても「困る」と「電話」が計画性の中で繋がらないので電話はかかってこないことになる。

 

中核症状から現れる周辺症状

上記の中核症状の結果どうして良いか解らなくなり、起こしてくる反応には

 

どうして良いかわからない   パニック症状

自分や周囲への怒り      暴力、暴言、排泄物などを投げるなどの行動

拒絶、鬱、何もしない     閉じこもり、拒食、栄養障害による衰弱など

子供還り           全て依存する、小児期の風景を探す徘徊

 

といった問題行動(BPSD=Behavioral and psychological symptom of dementia)を起こしてきます。大抵周りの家族や介護をする人はこの周辺症状のBPSDに難渋することになって、医療者に「鎮静剤を打って」とか「薬で何とかして」と懇願するようになり、また社会的に「管理責任」が問われるのもこのBPSDの結果であることが多いと言えます。先日線路を徘徊して電車事故を起こし、ダイヤを乱したということで遺族が鉄道会社から管理責任を問われて損害賠償を請求された裁判があり、遺族側が敗訴するという判決が出ました。まさにBPSDが社会問題として取り上げられた例と言えます。

 

 

では、どうすれば良いのか

 

環境を変えない。

初めての場所に来た旅行者に説明するように丁寧に教える。

問題行動を起こしている時は、本当は何が困っているのかを見つけてあげる。

一度に一つの事だけすれば良いように接する。

中核症状の特徴を理解して接する。

 

といった事が挙げられると思われます。要は日本人が得意とする「阿吽の呼吸」は通用しないということをよくよく理解することだと思います。初めの問い「認知症は治るか」については中核症状を治すことはできないが、周辺症状を改善することはできる。接し方によって日常生活をほぼ問題なく送ってもらう(本人が心から満足しているかは別として)事は可能であるという結論になるでしょう。

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書評 ミシマの警告

2016-01-20 00:09:14 | 書評

書評 ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 適菜 収著 講談社+α文庫2015年刊

 

早稲田大学でニーチェを専攻した哲学者の適菜収氏が市ヶ谷の自衛隊司令部で自刃した文学者三島由紀夫の思想を紹介しつつ、真の保守とは何かを解説し、一方で保守を自任しながら日本のためになっておらず、日本を破壊するB層保守の姿を舌鋒鋭く批判した著作です。私は三島由紀夫は「楯の会」などで制服にみを包んだ危ない同性愛的な右翼で、自衛隊員に決起を促して自刃した経緯(たまたま家で風邪をひいて休んでいた時にテレビで中継を見た記憶があります)からあまり深入りしたくない存在と誤解し、思い込んでいたのが正直な所です。若い頃読んだ三島由紀夫の随筆に「桃色の定義」というのがあって、自由がない裸身はエロス(桃色)だ、という説明はなるほどと思った事があります。

 

今回本書で紹介された多くの三島由紀夫の思想に触れて、氏の信奉する保守本流というのが戦前回帰や軍国主義といった皮層なものではなく、私が度々紹介している「理性で社会を決定づけるのが革新であり左翼」「理性に懐疑的で、習慣や古くからの文化で社会を決定づけるのが保守」という定義に忠実であったという事実に氏に対する認識を新たにする思いがありました。

 

私は人をA層とかB層とか決めつけ、批判しやすいステレオタイプの型にはめて評価するのはあまり好きではありません。人間全ての分野において深い思索と独自の判断力において物事を判断することなど不可能だからです。政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念として有名になりました。国民をABCDの各層に分類して、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の全悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を儲け、最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、結果的に思惑通り大勝利を収めました。そういった事実からはB層をターゲットにした政治戦略というのは特に日本のような国家においては有効なのだなと確かに思います。

私のまわりには集団的自衛権に賛成する人が多いし、アベノミクスを有効だと思っている人、TPPが危険だと感じない人、世界で起こっている事態において、米国は善でロシア・中国は悪だと信じている人が多いのが現実です。しかしどうして?と聴くと新聞やテレビでのワンフレーズ的な解説以上の説明ができる人はいません(日常生活で込み入った政治的議論などしないのが普通ではありますが)。こういったものに疑問を感ずることなくメディアや政府の言う事をそのまま信じてしまう人がB層とくくられて、メディア戦略の通りの考えを持つようにしむけられるのでしょう。もっとも集団的自衛権の法案に反対して、SEALSの集会に集まっていた学生達も面倒な長演説よりもワンフレーズの掛け声によく反応したという点では何となくB層的で似ていると思いましたが(それでもじっくり話してみると違う反応だったかもしれませんが)。

 

本書で指摘されていた、「共産主義、自由平等主義、資本主義、グローバリズム、一神教といったものは理性を社会規範の元に据えているという意味で左翼的、革新的であり保守ではない」という主張に私も同感です。小泉郵政改革、安倍政権、橋下大阪都構想といったものは日本を破壊する革命思想であるという批判にも賛成です。本書の終わりの方でニーチェの思想を紹介した部分があるのですが、ニーチェが「神は死んだ」と言った意味は宗教一般を否定したのではないと説明されています。ニーチェはキリスト教の根底にある「反人間的なもの」を批判したのであって民族の神までも否定したのではない、むしろ個々の民族が古来伝えて来た民族の神をキリスト教などの一神教がその全てを否定し去り、教義という理性の押しつけによって民族の神を殺したことを批判しているのであるという件は納得できるものです。

 

プロテスタンティズムの倫理に基づく資本主義が否定され、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が消滅してそれぞれの民族が古来伝えられて来た神を信奉する社会が再現すれば、現在の紛争の多くは解決に向かうかも知れません。

 

今年夏の参議院選挙は既に衆参同時選挙の噂が出ています。衆参同時選挙というのは参議院廃止と同じ思想です。衆議院と参議院、別々の党に投票する人は殆どいないでしょう。だから結局衆参同様な党派割りになって全ての法案が与党の案通りに通る、一院制議会と同じになるということです。こんなバカな話はありません。一院制議会の暴走という苦い経験から欧米の民主国家は二院制という面倒な手続きを歴史的に作って来たのです。参議院不要論、衆参同時戦に意義を唱えないメディア、人達というのは使いたくありませんが、「B層」ということです。為政者から「なんて使いやすい人達」とバカにされていることに気がつかなくてはいけません。これもこの本にはっきりと書いてあり、同感と思いました。

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書評 市民ホスピスへの道

2016-01-17 14:02:55 | 書評

書評 市民ホスピスへの道  山崎章郎、二の坂保喜、米沢 慧 著 春秋社 2015年刊

日本におけるホスピスのあり方について、実践を通して進めてきた医師である山崎章郎氏と二の坂保喜氏、そして高齢者や終末期医療のあり方について研究を進めておられる評論家の米沢慧氏のそれぞれの著作と対談形式でのまとめを示した8部構成になっています。

 

前半は「いのちを受け止める町」と題して、米沢氏の項では長寿高齢社会において、痴呆を含めた高齢者が自由に有意義に過ごせる「場所」をいかに工夫するかが各地における試みとともに解説されています。前回紹介した「宅老所」の話も出てきます。山崎氏の項ではホスピスを25年運営して終末期医療にかかわってきた中で今話題となっている「スピリチュアルペイン」「スピリチュアリティ」にどう向き合うか、そもそもスピリチュアリティとは何なのかを氏の経験と考察を元に解説されています。二の坂氏の項では「医療は在宅へ」という日本および世界の流れにおいて、ホスピスケアを在宅において行うモデルをインド、バングラディシュにおけるコミュニティを中心にしたケアから学ぶことについて解説されています。

 

それぞれについて、普段このような問題に関心がある人にとっては示唆に富む深い内容を持った物と思います。本当は身近な問題になりつつある終末期医療や高齢者の介護の問題も、自分の問題として直面してみないとこれらの話題についてゆくのは困難かもしれず、一般受けする内容の本ではないのはしかたありません。

 

私はこの本を読んでホスピスや高齢者医療についての思索が「技術的或いは制度的」な医療や介護の視点から「生き方や死生観」といったより深い視点に進化してきているように感じました。終末期医療を考える上では生き方や日本人独特の死生観といったものを抜きにして語ることは現実的に不可能であることは日々の臨床の上でも感じることであり、今までのブログで取り上げてきたとおりです。この前半の内容では特に山崎氏が解説するスピリチュアリティについて学ぶところが多いと思いました。一部紹介しますと、

 

人間の苦痛を構成する4つの要素にはキューブラー・ロスが提唱したように

1) 身体的苦痛

2) 社会的苦痛

3) 精神・心理的苦痛

4) スピリチュアルペイン

 

の4つがあるとされています。肉体的苦痛は身体的苦痛であるし、病気によって社会生活から途絶してしまうのは社会的苦痛になります。そして将来への不安や希望の喪失は精神的苦痛といえます。ではスピリチュアルペインとは何か、いままであまり語られていない、或いは良くわからないとされてきました。

しかしWHOの健康の定義にもスピリチュアルに健康であることを入れようという動き(否決されましたが)があったように、世界においてスピリチュアリティは人類が生きてゆくうえで重要な要素になりつつあるのです。

 

スピリチュアルペインとは「看護に生かすスピリチュアルケアの手引き」という本によると

・人生の意味・目的の喪失

・衰弱による活動能力の低下や依存の増大

・自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性

・家族や周囲への負担

・運命に対する不合理や不公平感

・自己や人生に対する満足感や平安の喪失

・過去の出来事に対する後悔、恥、罪の意識

・孤独、希望のなさ、あるいは死への不安

 

と紹介されています。なんとなくまだ具体的に判りにくいです。所詮英語で表現された抽象的な精神の表現を日本語で適確に示すことに無理があるだろうと言うのが私の意見です。しかし人間である以上喜怒哀楽や生き甲斐についての基本的構成は万国共通であり、「日本ではこのように取り組んでいる」という世界への情報発信も必要であることは確かです。

 

山崎氏はスピリチュアリティについての論考のまとめとして

「スピリチュアリティとは人生の危機的状況のなかでも人間らしく、自分らしく生きるために自分の外の大きなものに拠り所を求めたり、内省を深めることでその状況における、自己の在りようを肯定しようとする力のことである」とし、「スピリチュアルペインとは、スピリチュアリティが適切に力を発揮できなかった結果出現するその状況における自己の在りようを肯定することができない状態から生ずる苦痛であり、人間らしく、自分らしく生きることができない状態からくる苦痛である」と定義しています。

 

これはかなり判りやすいかもしれません。氏は「人間の存在」を構成するのはスピリチュアリティを中心に身体、社会、精神心理がそれを取り囲むようにオーバーラップしながら存在する3重円のようなものであると解説しています。

ここで私は人間存在についての仏教の定義と重なることに気がつきました。前のブログで紹介したように人間の存在は五蘊の集まり、つまり色・受(身体と感覚)、行(行動としての外界への働きかけ)、想(精神・心理)、識(阿頼耶識、価値観)によって形成されるという中で、スピリチュアリティとは正に「識」に相当する部分ではないかということです。

人間を見極めるには論語で言われるように、「その人の行動を見て何を考えているかを見て何に満足するかを見れば良い」というその満足の基になる部分が「識」なのですが、「識」のない人間はある意味魂が抜けた機械のような存在と言えますし、「識」を遮断した生活を強いられれば単に生きているだけの意味のない人生になるでしょう。スピリチュアリティとはこの「識」のことではないかというのがrakitarouとしての解釈です。

 

後半は「ホスピスは運動である」と題されて、二の坂氏は小児ホスピスのあり方から重度障害児施設の経験、英国での小児ホスピスのありかたなどから、ホスピスを特別な隔離場所でなく地域の一部、日常生活の一部にいかになってゆくかの論考をしています。山崎氏は厚労省が進める地域包括ケアシステムと在宅ホスピスをどう整合するかという視点で論考を進めます。そして米沢氏は「市民ホスピスへの道」と題していままでのホスピスの歴史を踏まえた今後の生活に溶け込んだホスピスのあり方について提言をします。

 

「ホスピスは運動である」というフレーズはやや捕らえどころがないように感ずるかも知れません。何か政治的、流行的なムーヴメントとしての「運動」ととらえると敷居が高いもののように感ずるかも知れません。「ホスピスは運動」というフレーズを用いたのは最初に日本にホスピスを紹介した岡村昭彦氏ですが、私はもう少し平易に言うとホスピスとは施設や制度のことではなく「道」つまり柔道や華道、書道といった「行いに精神的なあり方」を含んだ「道」としてとらえるべきだという意味ではないかと思います。つまり「ホスピス道」としてそのあり方を検討してゆく物ではないかという事です。ただし伝統的な確立された「道」というものではないので、師範や経典、免許皆伝といったものもなく試行錯誤の中で今後最も望ましい形を皆で確立してゆくというものではないかと考えます。ホスピスは運動、「ホスピス道」としてそのあり方を考える、そう捕らえると本書の題名「市民ホスピスへの道」という意味がすんなりと理解できるように思いました。

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Joey Alexanderはすごい!

2016-01-13 01:12:00 | 音楽

今日は雑駁で思いつきの音楽の話で、興味のない人にはつまらないと思います。題名ですが、若い人ならば、すごいではなく「やばい」と言う言葉を使うかもしれません。暮れから正月にかけて私が少しゆっくり過ごす事ができた中で、早朝のFMラジオ番組や、インターネットのWyoming radioのChristian McBride(Dream of youとかI Guess I’ll have to forgetなどの美しい曲を書く私の好きなベーシスト)の番組で紹介されていた、今年のグラミー賞候補になっているという弱冠11歳のインドネシア出身のジャズピアニストJoey Alexander君の話です。私は今回初めて知ったのですが、2年くらい前から一部で話題になっていた少年のようです。当然ピアノが単に上手いというレベルではなく、you tubeでも多数挙げられていますが、既にグループを率いてコンサートを開くレベル、しかも十分にジャズ好きの「うるさ方」達を堪能させる内容なのです。Christian McBrideも絶賛しておりました。

 

軟骨異栄養症で小人症ながら天才と言われたMichel Petruccianiは10歳にして巨匠Oscar Petersonの完全コピーをこなしていたと言われていますが、Alexander君は誰かのコピーではなく、既に彼のジャズを展開しているところがすごいのです。例えばGiant steps( John Coltraneの曲で転調に継ぐ転調で複雑なコード進行であり、1959年のオリジナル版レコーディングではばっちりimprovisationを組み立ててきたコルトレーンが気持ちよく吹きまくっている一方で初見だったというバーチュオーソのピアニスト、トミー・フラナガンはアドリブを最後放棄して和音だけ弾いているなんてゆうクダリもある)ではAlexander君は複雑な楽曲を新たに組み立ててしかも実に切れの良い演奏をしています。この「切れの良い演奏」というのは他の評論家達も一致した感想を述べていて、要はimprovisationの展開に迷いがない、魂の命ずるままに自由に弾いている、という事だと思うのです。外国のジャズ奏者は日本のジャズ奏者が勢いでアドリブを演奏する人も多いと言われる中で、意外にも?細かく内容を組み立ててしつこく練習してから即興(即興とは言えませんが)の部分を演奏すると言われています。スペインのジャズピアニストChano Dominguezは数多くのミュージシャンを採譜してそこから彼独自の展開・世界を築いてゆくと言われていて、マイルスの名曲フラメンコスケッチをオリジナルが激しい踊りの一場面を切り出して来た油絵のような「静の表現」であるのに対して、彼の演奏は再びスペイン人として独自の息吹を入れ「動の表現」にした素晴らしい演奏になっています。

 

Alexander君の話に戻しますが、最近私のブログで取り上げている「生まれ変わり」の概念からすると、彼は優れたjazz pianistの生まれ変わりであり、生まれた時から既にjazzの基本からかなりの熟練した技術に至るまで前世の記憶と能力を持ち続けたまま育って来たということになるかも知れません。Jazz Vocalのバックピアノを勤めている画像もアップされていますが、Vocalistに合わせて曲の魅力を引き出す演奏をするのはピアニストとしてもかなり手練な技を必要とするはずです。それを10歳かそこらで事も無げにやってしまうというのは「天才」というだけでは片付けられない能力だと思います。アメリカ人ではなく、インドネシアに生まれたということも何か意味があるのかも知れません。

 

私も50代後半になって「今回の人生における自分の果たすべき役割は何だったのか」を考えながら生きるようになりましたが、Alexander君は持って生まれたjazz pianoの才能をさらに開花させて人に楽しみを与え、音楽文化を発展させることが天命なのだろうと思います。

 

New Yorkに留学中まだ存命だったMichel Petruccianiの演奏を本場Blue Noteで聴く幸運に恵まれたのですが、がっちりした体型のドラマーの肩にひょいと乗って舞台に現れたPetruccianiが一度鍵盤に向かうと戦慄を覚えるような鬼気迫る演奏を聞かせてくれた事を思い出します。身体に障害を持った短い人生でしたが、彼も天命を意識して毎日を真剣に生きていたのかな、そんな凄さを感じました。2014年のCopenhagen Jazz FestivalにおけるAlexander君の演奏など見るとPetruccianiとは違った物怖じしない凛としたすごさを感じます。Lush Lifeの展開とか10年かそこらの人生でそんなに自信もって行ける?と思ってしまうほどです。やはり凄いです。天才であろうが、生まれ変わりであろうが彼は彼であって他に代わりはいないのですから、今後とも大いに我々ジャズファンを楽しませて欲しいと思いました。

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戦後秩序維持と反戦平和はイコールではない

2016-01-06 20:33:19 | 歴史

安倍政権が始まって、中韓の反日姿勢に対して強行な態度で接するようになり、また憲法9条改正や集団的自衛権といった戦後聖域とされてきた問題を何の躊躇もせずに変えて行こうという姿勢に対して国内だけでなく海外からも「歴史修正主義」「戦後秩序に対する挑戦」といった評価がなされています。日本において左派と言われる集団やメディアからも戦後秩序を破壊し、歴史認識の修正を計ろうとしている危険な姿勢と言う批判がなされています。

 

前回のブログにおいて現在日本における左翼と右翼の定義がデタラメになっていることを指摘しましたが、私はこの「戦後秩序」という言葉も極めて曖昧な定義の下に使われている感じがします。

 

諸外国における「戦後秩序」の定義は「第二次大戦前のドイツと日本をファシズム国家で連合国(united nations)の敵とみなし、この二国の国民は虐殺してでも国家体制が滅びるまで(無条件降伏)戦い、戦勝国(国連常任理事国)がその後の世界をコントロールしてゆく」事を是とする秩序の事を言います。現在の中共は当時の戦勝国である中華民国とは異なりますが、昨年秋に行われた戦勝70周年における習近平首席の演説からも「戦後秩序」をこの定義の下に語っていることが明らかです。2003年にブッシュ大統領がイラクに攻め入る時にも「悪の枢軸(axis of evil)」という戦後秩序の定義を意識した言葉を用いて徹底的にイラクを攻撃することの正当性を強調しました。安倍総理が昨年米国議会で演説を行った際にも、第二次大戦における日本の行いを悪とし、それを深く反省した上で「米国を中心とした秩序への挑戦」に日本も全力で立ち向かうことを高らかに謳い上げることで歴史修正主義者、戦後秩序を壊す者、という米国の懸念を払拭し万雷の拍手を受けることになりました。

 

もうお気づきのように「戦後秩序の維持」と「反戦平和」はイコールではありません。戦前の日独と戦った連合国に戦後日本も加わったからには、その連合国が新たに戦争をする時には戦勝国が世界を支配することを助けるために日本もその戦争に付き合う、できれば先頭に立って戦うことが「戦後秩序の維持」として評価されます。日本は60年から80年にかけて特に当時の左翼勢力が旺盛であった時代に反戦平和と日本の戦前を全て悪とみなす極東裁判史観が同一の物とされていたために、未だに戦後秩序の維持と反戦平和が同一であると錯覚している人達が沢山います。安倍政権はその錯覚をうまく利用して自分達のやりたい事(米国の一部勢力から強要されていること)を進めようとしているのです。

 

昭和20年、日本が敗戦を迎えた時、焼け野原になった日本の姿を見て、国民(私の父母以上の年代の人達)は「もう戦争はこりごりだ、二度と戦争はするまい」と心から誓ったのだと思います。日本における反戦平和の原点はこの思いにあります。戦前の明治憲法下の体制が悪かったとか、軍部の独走が悪かったとかは後付けで占領軍に教え込まれたことを素直にその通りだと受け入れたに過ぎません。もし明治憲法のまま戦後世界が築かれたらそれはそれで日本の国民もその状態を受け入れていたことでしょう。ただ「もう戦争はやりたくないね。」という素朴な思いは多くの国民が抱いたことは間違いないと思いますし、日本軍が形として残ったとしても連合軍に加わったかどうか疑問です。今「戦後秩序の維持のため、連合国の先頭に立って戦争に向かいます」と話す安倍総理に欧米諸国から歓迎の意を表されて、その方向で法整備がなされようとしていることに「一寸待て、誰か(外国の人)止めてくれ」と慌てている日本人が多いのではないでしょうか。

 

私は第二次大戦を含めて、「敵対する相手を戦争で無差別に虐殺してでも自分達の思い通りになる世界秩序を作る」という概念自体が誤りである、と考えます。相手が無条件降伏するまで原爆を投下し、無差別爆撃で市民を虐殺して戦勝国になった米英ソこそ最も戦争のやり方を反省するべき国々だと考えます。米英ソ(ロ)の国々(今は中共も含む)が自らを反省しない限り中東の平和も来ませんし、中ロと米欧の対立(無理矢理対立させている感が高いですが)もなくならないでしょう。その意味での歴史認識は修正されるべきであるし、戦後秩序は破壊されるべきだと私は考えます。そうでないと日本はまた連合国の一員として戦争に参加させられてしまいます。戦争で世界の人達が幸福になることはありません。日本が再び戦争をするとすれば、それは直接自国の領土、国民が侵略、殺戮された時だけです。

 

戦後培った平和主義を貫くためにこそ、歴史修正主義はいけない、戦後秩序は絶対に守らねばならない、と何も考えずお題目のように唱える愚は避けるべきです。保守と革新の定義、右翼左翼の定義、戦後秩序と平和主義、既知の事実の如く使われているこれらのことばを再度確認し、日本がこれから向かうべき方向を考えて行かねばならないと、サウジとイランが国交断絶し、北朝鮮が水爆実験に成功したと大騒ぎしている2016年の年頭にあたり痛感しました。

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愛国の衣をかぶった革命政権

2015-12-17 00:09:20 | 政治

私が愛読しているブログの「しばやんの日々」に戦前の日本軍部にはかなり共産主義にシンパシーを感じていた者が多くいて、終戦間近ではソ連に大幅に譲歩した終戦工作を持ちかけ、満州、朝鮮や沖縄までソ連にやって日中(共産党)ソで戦後対米英連合を作り上げる理想に燃えていた若手の軍人が沢山いたことが示されています。軍による統制経済は実質社会主義経済と変わる事がなく、軍人達にとっては資本家が世界を牛耳る世の中よりも社会主義的統制経済の方が望ましいと考えていたと思われます。2.26事件や515事件における若手将校達の動機も腐敗した社会や貧富の差、地方農家の貧しさなどが改革の動機になっており、基本的な思想は共産主義革命と同じです。

 

近衛文麿が昭和20年2月に昭和天皇に宛てたとされる近衛上奏文に

是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」

という部分があって、昭和初期から終戦にかけてかなり社会主義にかぶれた人達が多くいたことを伺わせます。特高警察は「アカ」を厳しく取り締まったことになっていますが、天皇制そのものを否定しなければ、社会主義的統制経済は国家社会主義(ナチズム)として抵抗無く受け入れられていたはずです。このソ連びいきの人達のお蔭で満州はソ連の侵攻に一切の抵抗を示さず、ソ連が日本を占領するまで終戦に至らせないという玉音放送阻止計画なども画策されたと言われています(徹底抗戦をすればソ連と米国に日本が折半されることは終戦数ヶ月前のドイツの敗戦を見た軍人達には十分理解できたことです)。

 

さて、現在の安倍政権です。今世界には北朝鮮を除いて(北朝鮮も怪しいものですが)社会主義経済を取っている国は存在しません。だから右翼左翼を資本主義対社会主義経済と対比付けることはできません。今のネット界や社会における右翼左翼の線引きは米国贔屓の人達が同じ資本主義経済であるのに「中国やロシア、韓国寄りの人達」を左翼呼ばわりし、「安倍政権のやっていること大賛成の人達」を反対と考える人達が右翼呼ばわりしているだけのように思います。

 

以前左翼と右翼の定義をブログで記した事があります。そこで、京都大学人間環境学教授の佐伯啓思氏の「自由と民主主義をもうやめる」幻冬舎新書2008年刊に「何故インテリは左翼が好きか」という問の答えに近いものが書いてあったことを紹介しました。

 

ある学生の「左翼」と「保守」は何が違うのかという質問の答えとして、氏は

 

(引用はじめ)

「左翼」は人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。

 

一方「保守」とは人間の理性能力には限界があると考える。人間は過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りを犯すものである。従って過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けようと考える。

 

これが本来的な意味での「左翼・進歩主義」と「保守主義」の対立です。社会主義か資本主義か、或いは親米か反米か、といったこととは関係ありません。

(22-23ページ 以上引用おわり)

 

と説明していて、納得のゆく説明だと思いました。米国においては国家主導でコーポラティズムに基づくグローバリズムを進める民主党が左翼・進歩主義であり、国家による統制を嫌いあくまで自由に任せるリバータリアニズムが保守主義であると記しました。同じグローバリズムでもコーポラティズムを取る共和党の人達をネオ・コンサーバティブ(ネオコン)と呼ぶことはご存知だと思います。欧州においては民族主義・排外主義的な思想が右翼で、グローバリズム的な自由開放主義が左翼にあたるようです。

 

私は安倍政権が行っていることは上記の定義から言って「保守」ではないと結論づけています。表面的に愛国の衣をかぶってはいますが、欠陥だらけであることがほぼ解っているTPPを推進し、グローバリズムという過激な自由思想を推進しています。世の中に出回る紙幣を政権前の倍に増やしたにも関わらず、池田総理の時のように国民の所得倍増には繋がっておらず、刷った金は株式投資のファンドマネーに吸収されただけのようです。戦前の明治憲法を時の首相が勝手に解釈を変えて政治を行ったりしたら必ず暗殺されたことでしょう。安倍氏は閣議決定で勝手に解釈を変えて法を作ってしまいました。これを左翼革命政権と呼ばずして何と呼ぶでしょう。

 

初めに紹介した近衛文麿氏の言葉のように、右翼と呼ぼうが左翼と呼ぼうがそんな事はどうでも良い、日本を根本からめちゃくちゃにするような輩に政治を任せるような事をしてはならない。という事です。当時は行き着く先が共産主義だったかも知れませんが、現在の行き着く先は国家が消滅したグローバリズム社会(国の境を超えて強い者が弱者を支配する世界)になるのです。米国のコーポラティズムが支配する格差社会は米国内ではほぼ完成段階にきているように思います。一部草の根の右翼(ミリシア)の人達が抵抗を続けているようですが、大勢としては1%が99%を支配する世の中です。この米国流グローバリズムに抵抗するロシアと中国を第三次大戦でやっつけることで世界を米国流グローバリズムで統一しようという試み(陰謀論的にはニューワールドオーダーと呼ばれているようです)が現在の世界情勢のバックグラウンドと考えると一見種々複雑に見える状況も理解しやすいです。安倍氏の「愛国の衣」は中ロにしか向けられていない事は真の愛国者なら気がついていると思います。私は真の愛国保守として安倍政権には反対です。

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裁判員制度は見直される時期ではないか

2015-12-01 18:12:02 | 社会

最近オウム真理教の元信者が、1995年の都庁爆弾事件で爆弾の原料を運ぶなどして殺人未遂幇助などの罪に問われて、裁判員裁判の1審では懲役5年の有罪判決であったものが、東京高裁の控訴審で一審判決を破棄して無罪になりました。この判決については賛否両論別れていますが、控訴審判決を支持する意見に「裁判員裁判は心証に流される傾向にある(しろうとは冷静に法律判断が出来ない)」と決めてかかるものがあります。一方で何故17年も逃亡生活をしていたのか、という疑問については「オウム信者は初めに有罪ありきであり、裁判で正当な審理など受けられないと思ったから」ということのようです。つまり裁判員制度と関係なく、司法自体が心証に流されるからだと言われています。

この信者の裁判の場合、地下鉄サリン事件やVX殺人などで起訴する要件が満たされず、無理やり「都庁爆破事件の幇助」という罪で起訴したという「検察の無理筋」が感じられる事案であり、逮捕しても犯罪の立証がはじめからできないのであれば取り調べのみで釈放という選択肢もあったはずです。

 

本来、司法が世間の常識に合う合理的な判断を下せないから裁判員制度が始まったはずですが、いつの間にか裁判員制度では合理的な判断が下せないから控訴審で専門家が合理的な判断を下すのが良いという論理が出来てしまいました。既に裁判員制度を開始した理由が否定されているようです。

 

私はそろそろこの一般市民が犯罪者を裁くという「裁判員制度」の存続自体を見つめ直す時期に来ているのではないかと思います。欧米の諸外国では「陪審員制度」というのが歴史的にあります。日本の裁判員制度と諸外国の陪審員制度の大きな違いは「裁判員」が有罪無罪の判決と罪の重さ(量刑)まで決めるのに対して、陪審員は白黒の判定のみで量刑は検察と裁判官が後日専門家の判断として決定するという所です。つまり陪審員は白黒の判断をつけるだけであり、せいぜい故殺か謀殺か(殺意の有無)を判断することで量刑の度合いに間接的に関わる程度です。また大陪審が開かれるのは有罪無罪がはっきり判定しがたい場合に限られ、犯人が明らかであっても政治的な狙いを弁護側が突いて陪審員の共感が得られると無罪になる可能性がある場合などに限られます。 日本の裁判員制度は犯人が明らかな場合、量刑をどうするかが裁判員の判断に委ねられ、世界に類をみない過酷な判断を素人が短時日で行う責めを負うことになります。欧米の陪審員の考え方は民主主義に乗っ取り、有罪無罪の判断は国民が行うけれど、刑の重さは法律の専門家が決める、ということで人民裁判によるリンチ(私刑)のような事態を避けているのだろうと思います。

 

日本の場合、起訴された時点で刑事事件の場合ほぼ有罪は決まっているようなもので、裁判員は量刑の度合いを決めるために集められるような所がないでしょうか。外国の陪審員制度では、一般に全員一致の原則が定められていて有罪無罪の判定が別れて結論が出ない場合は「審理無効」となり「無罪」の扱いになります。量刑の程度を決めるとなると、白黒でなく、「どの程度の悪さか」の判定となり、それは法律と判例に従って専門家である司法(検察、弁護側、最終的には裁判官)が決める方が皆納得できるように思います。裁判員制度は国民が望んでいた訳でもなく、国家社会が必要性を痛感していた状態でもなく、また民主主義についての歴史的な背景(私刑の蔓延を防ぐとか)から苦心して作り出された制度でもありません。いずこかからの上意下達で国民が望んでもいないのに始まってしまった制度であり、殆どの国民はありがたみも必要性も感じていません。

 

裁判員制度によって、今までの硬直した検察による起訴や裁判制度を一新するような画期的な判決が次々と生まれるならばそれも良いかもしれません。また老老介護による疲弊した殺人とか、医療における安楽死に関する殺人などについての裁判は、国民の声として裁判員による判断は有益なものになってゆく可能性はあります。しかし現状のような、一般の人に死刑の判断をさせる裁判などに関わることを強制するのはやはり無理があるのではないかと私は思います。

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