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酒巻少尉のみた大東亜戦争~小野田・酒巻対談より

2016-08-12 | 海軍

「コンスティチューションシリーズ」の途中ですが(マサチューセッツもね)
8月15日に向けての大東亜戦争特集として、捕虜第一号の酒巻和男氏、
そして最後の日本兵となった小野田寛郎氏について話すことにしました。


酒巻和男海軍少尉については、このブログで何度か取り上げています。
最初は特殊潜航艇に乗り組んで真珠湾攻撃をした酒巻少尉を描いた
アニメーション「平和への誓約(うけい)」について書いたとき。

特殊潜航艇に乗り込んだ士官と下士官の二人の間に特殊な「関係」が
あったという設定で、酒巻艇をモデルに書かれた小説、
「同行二人ー特殊潜航艇異聞」(井上武彦著)を取り上げたとき。

その後、酒巻少尉が戦後すぐ出版した「捕虜第一号」を読んだ後、
史実冒涜捏造ドラマ「土曜ドラマスペシャル 真珠湾からの帰還~軍神と捕虜第一号 」
を糾弾するという形で「捕虜第一号」からの解説を加えながらお話ししました。

その後は、「捕虜第一号」の内容そのものについて取り上げたのが一回、
映画「日本の長い夏」で酒巻少尉の出演がないと書いたことが一回、
山崎豊子の遺作「約束の海」について書いたときに触れる形で一回。

というわけで、結構な回数、アプローチを変えつつ語ってきたのですが、
ある日、こんな本を見つけました。

「小野田寛郎・酒巻和男対談 はるかに祖国を語る」時事通信社

小野田さんについては自著を含むたくさんの本が書かれ、本人も
2014年まで存命だったこともあり、30年間ジャングルにいたあいだのことや
小野田さん自身の言葉は数多く残されていますが、酒巻氏は
「日本の長い夏」という、戦後に様々な関係者を集めて行われた対談でも
一言しかしゃべっていませんし、「捕虜第一号」出版後は
特殊潜航艇について語らず、自身のドラマ化も許可しませんでしたから、
その意味では現在残された数少ない証言の一つといっていいのではないでしょうか。


この対談では、小野田氏と酒巻氏がお互いのことをどう見ていたかを始め、
二人のあの戦争観、そして戦後日本への提言など大変興味深い発言が残されました。

酒巻和男少尉は兵学校68期。
昭和16年12月8日、特殊潜航艇「甲標的」の10人の搭乗員の
ひとりとして出撃し、捕虜第一号となってしまった海軍軍人です。

戦後はブラジル・トヨタの社長をされていましたが、この対談のきっかけとなった
小野田氏との共通点は
「ブラジル」であろうと思われます。

小野田寛郎少尉もジャングルで「終戦を迎え」、日本に帰ってきた後は

日本の社会になじめず、日本を出てブラジルにずっと居住していたため、
この両人は現地で何度か会ったことがあったそうです。


今日は、あまり世の中に資料の出回っていない酒巻氏のことについて、

本人の言葉を抜き書きしつつ、触れたいと思います。

● 捕虜第一号となって

オアフに漂着した特殊潜航艇と共に発見され、
捕虜になった酒巻少尉でしたが、そのことを大本営は早々と知っていました。
特殊潜航艇のメンバーが酒巻少尉を除く「真珠湾の九軍神」として
開戦と同時に大きく報じられたというのはそれを意味します。

酒巻少尉だけが戦死せず、捕虜になったことは、
第三国のスイスを通じて日本に知らされました。
国際法によって捕虜名簿の受け渡しをすることになっていたのですが、
中立国の外交官を通じて、色々な方面から情報が入ってきたそうです。


当然ながら国民は新聞の「九軍神」の中途半端な数に疑問を持ちました。
小野田氏はその頃中支の武漢にいてニュースを聞き、

「9は5で割れないけど、どうしたのだろう」

と不思議に思っていたものの、誰となくいいだした、
一隻だけ特殊資材が多くてひとりしか乗れなかったんじゃないか、
などという解釈に納得したりしていたそうです。

また昭和19年末頃、小野田少尉はフィリピンである海軍下士官から、

「そのひとは捕虜になっていて、アメリカが今”再教育”して
アメリカ式の開けたもののの考え方を仕込まれており、
非常に大切にされているらしい」

という噂を聞いています。
「九軍神」への国民の素朴な疑問は「やはり一人士官が捕虜になったらしい」
という噂になって広がっていき、それらの噂の中には

「その軍人は絶えず自殺を図るものだから、アメリカが心配して
歯を全部抜き取られてしまったらしい」

というまことしやかなものもあったということです。
ここで簡単に酒巻少尉が捕虜になった経緯を説明しておきます。


出撃直前まで修理していたgyrocompassが直らない

潜望鏡を頼りに出撃したら90度ずれて進んでいた

警備の米駆逐艦から爆雷を受ける

リーフに座礁

何回もやっているうちに日本軍の空爆が始まる

艇内の空気が悪化して頭がぼんやりしてきた

これではいかんと合流地点に進むが、間違ってオアフに接近

また座礁したので艇附の稲垣兵曹と海に脱出、稲垣兵曹は水死

岸まで泳ぎ着いて倒れていたらアメリカ兵が近づいてきた

捕虜←いまココ


何かのサイトで、酒巻少尉を「特攻隊員」と称しているのがありましたが、

特殊潜航艇は特攻をすることを目的とはしていませんでした。
そもそもこの頃、まだ特攻という言葉は生まれてもいません。
海底から敵軍艦を攻撃し、事後には集合する地点も決まっていたそうです。
酒巻艇が突入できずに「合流地点」を目指したというのはそこのことです。


捕虜になった後、昭和18年に、酒巻少尉は本人も知らぬまま予備役に入っていました。
家族はもちろん何も知らされませんでしたが、兵学校の同級生が
家族に「どうやらまだ生きているらしい」とこっそり連絡をしていたので、
酒巻家では息子の墓は作らなかったということです。


酒巻少尉は、開戦後の捕虜第一号として半年ほど一人で葛藤していましたが、
環境に慣れ、その間自分の生きて行く方向性を定めたころには
日本人の捕虜を士官として率いていかねばならない立場になっていました。

収容所には捕虜になった軍人だけでなく、在留邦人、外交官などもいたそうです。

●戦争中のアメリカで

小野田少尉はご存知のように、30年間日本の敗戦を知らなかったわけですが、
酒巻少尉はアメリカで日本の敗戦をいち早く知ることになっただけでなく、
アメリカ国内報道によって戦況も薄々わかっていたようです。

日本国内では、サイパンが落ちたとき、これはまずいという気持ちが
一般化したのですが、(よく言われるミッドウェーは、勝ちとして報道された)
酒巻少尉がアメリカで感じた「空気」、これは勝てるということで
メディアが自信のある発表の仕方になってきたのはガダルカナル以降だったそうです。

ちなみにこのガダルカナルの頃、アメリカでは学徒が動員されて
もうすでに飛行機に乗ったりしていました。

小野田少尉の親の世代、日露戦争を体験した世代は、

「日露戦争の頃はこんな悠長なことをしなかった。
国家百年の計なんていって乗り切られたらおしまいなんだ。
なぜ早く動員しない。アメリカが学徒動員しているのに」

というようなことを皆が言いつつ歯がゆがっていたそうです。


●海軍について

「山本長官には兵学校や、連合艦隊の長官のときに話を聞いたが、
航空兵力、近代戦に対する認識とその対策については、
お金がなかったということもあるがちょっとお粗末だと思った。

戦略戦術的な面でも時代に即していないことが惜しいなと。

兵学校時代、つまり戦前、源田実参謀が「源田サーカス」で帰ってきたときに
講演があったが、まだ戦艦を中心にしての艦隊の海戦思想であり、
実際に連合艦隊もわれわれ特殊潜航艇も、最初はそういう思想の元に訓練していた。

戦争に近づいた途端切り替わるように航空母艦に力を入れたが、
近代戦の様相を先見する力に欠けていたと思う」

面白いのは酒巻少尉の「理想の司令長官像」です。
司会者が、

「小沢治三郎を初めから長官にしておいたらという説がある。
また、米内光政を司令長官にして、山本五十六が南雲忠一の位置だったらとか」

と水を向けると、なんとこう返しています。

「いや、僕らの感じで言えば、長官というのは渋い男でないといけない。
士官を魅きつける統率力と、そしてものに動じてはいかんです。
顔が良すぎてもいけない」

うーん・・・・これってどういうこと?
小沢と米内は

1、渋くない 2、統率力がない 
3、ものに動じるからよくない 
4、顔が良すぎる 


という意味かな。
ちなみに小沢治三郎のあだ名は「鬼瓦」だったそうですが・・。
司会者が「米内さんはダメですか」というのに対し、酒巻少尉、

「はあ、米内さんは人がいいし、ぼくらもお話を兵学校で聴きましたが・・」

と言葉を濁しています。
まあ、何を仮定したところで当事者である酒巻少尉にとっては
「敗軍の将兵を語らず」の心境であったようですが。

そこで小野田少尉が

「最初に立てた方針、大鑑巨砲主義か航空機主義かの誤りでしょう」

といいつつ、「大和」「武蔵」の分(費用)を航空に回したらどうだっただろう、
と水を向けると、

「大和、武蔵がまだ工廠におるときに何回も行きました。
ちょっと疑問の感じはあったけどまだそのときには的確にはわからなかった」

そして、後からならなんとでも言えるけど、小野田少尉の意見には賛成で、
大和・武蔵のお金で航空母艦を何ばいか作った方がずっと実際的だった、
と答えています。

当時の海軍の考えは、日本には渡洋作戦を行うだけの海軍勢力を持たないから
どうせ近海での海戦になるはずだが、そこで叩いたとしても出ていくためには
戦艦がなければというものだったと言われています。

ともあれ、先日来このブログでも話題になっていたように、
空母中心の機動部隊を作ったのは日本が最初で、そういう意味では
先見の明があったということだけはたしかです。

このことはいざ戦争が近づいてきてわかったことなので、
航空も船舶も、すべてその方向に向かって戦術戦略が変わりました。
酒巻少尉の特殊潜航艇も同じで、洋上海戦を前提に訓練するようになったそうです。

酒巻少尉の特殊潜水艦は水上機母艦の「千代田」に搭載されていました。

海戦当初から彼我の「兵力差」をいかに克服するかは、戦闘員の間で
なんどもシミュレーションされていました。
酒巻少尉はこの対談で

戦争に勝つためには最初にその数字の差を消さないと、
優勢勢力と劣勢勢力が戦った場合には、
優勢の方が差の分を自乗する形で勝ち残っていくわけです」

といかにも兵学校卒らしい説明をしています。
最後の一行はどういう意味かというと、兵法による公式で

兵力量AとB(A>B)が同等の能力で戦った場合、

 √A²ーB²

というものがあるのだそうです。
たとえば5隻対3隻で戦うと、3隻が全滅し、勝者には

  √5²ー3²=4

 つまり4隻が残る、ということを言っているわけです。
(もちろんこの公式は現代には全くそぐわないと思いますが)
それではその差をどう埋めるかなんですが、

「緒戦において敵の大勢力をとにかく削ぐ」

これは戦後、真珠湾攻撃を決心した山本長官の言葉として
広く膾炙されたものでもありますが、酒巻少尉もまたこれが

「われわれが真珠湾に行った根拠です」

と言っています。
身を賭しても犠牲になって敵の主力に当たるんだ、
なんとかして葬るんだ、これしか方法はない、と。

「真珠湾は一応の成功はしたけれど、時期的に遅かった、
もう10年以上前から手を打っていれば違ったというのは
当時の海軍周辺では周知のことではあったけど、
日露戦争の勝者でもあった当時の首脳部はどうしても
大鑑巨砲に代表される旧式な考えが根強かった。
海軍はそれでもむしろ進んでいる方だったけど、
他が全くそうではないのが大きな問題だったのではないか。」

この考えは今日では全く珍しいものではありませんが、
結局それらが戦後どこからでてきたかというと、そういう上の体質に
戦時中不満を持っていた海軍軍人からだったのではないかと思わせます。

昭和16年の5月、海軍は南雲機動部隊を結成しました。
これは小沢治三郎の発案だったということですが、
これ自体世界の先駆けでもありました。

酒巻少尉はそれを認めつつも、先駆けならではの手探りと
国力が付いて行かず、それらが実際の対策に総合的に活かせなかったのが、
あくまでも「惜しかった」と繰り返しています。
「活かせなかった」というのは、戦略的に新しい兵器を政治に適応させて
展開していくかということを見据える「戦略家」が、ついには
日本海軍には一人も出なかったということを言っているようでした。

山本五十六は戦略眼はあったが、戦略家にはなりえなかったということでしょうか。



酒巻少尉は、候補生時代、旗艦「長門」の甲板で
日本側の艦隊を山本、敵を南雲がつとめ、候補生が駒を動かして
「図演」を行った思い出があると語っているのですが、この思い出は
もしかしたら酒巻氏の勘違いかもしれません。

わたしがそう思うのは、実際に「長門」が旗艦になったのは
真珠湾攻撃直前の10月8日で、酒巻少尉のいた海軍兵学校68期は
その半年前にはすでに少尉任官しているからです。



旗艦としての「長門」で初めて行われた図演は10月9日から13日までの間、
室積沖に停泊していた「長門」艦上で真珠湾攻撃を想定したものでした。



実はこのとき、かねてから意見具申されていたものの、山本長官が
乗員収容の手段が不十分であるとして採用しなかった特殊潜航艇の
当作戦参加が正式に許可されています。

機材の改造による航続時間を延長するなどの処置を施し、
乗員を収容する目鼻がついたから、という理由でした。

このときの図演は航空母艦6隻が使用されたもので、現実に行われた
真珠湾攻撃とほとんど変わりのないものだったということです。



「最初の半年は暴れて御覧に入れる」

と戦争の遂行について山本五十六が言ったとされる言葉は有名ですが、
これは当時の海軍上層部の総意でもあったようです。
酒巻少尉も、最初はとにかく勝てる、と上の方の人が言っているのを
聞いたことがあり、確かにその言葉の通りチャンスもいくつかあったけど、
交渉に入ることができなかったのが問題だったと言っています。



●工業力の限界


戦地の舞台が南方諸島になったとき、将兵たちを苦しめたのは
マラリアでした。(餓えはもっと後のことになります)

日本ではキニーネなどを配布して対処していたようですが、
アメリカはそのためにDDTなんかもあっという間に作ってしまう。
そして散布してマラリアを防ぎました。
また、本国で献血を募り、ドラム缶で血漿を送ってくるわけです。

実際あそこの戦争は、戦闘よりもマラリアと戦ったり、
補給をいかに行うかの方が問題だったのはみなさんもごぞんじでしょう。
そういうのも、原子爆弾も、つまり工業力の差でした。
工業力の違いは歴史的な積み重ねがないことが根本にあります。


工業力の差、で思い浮かべるのが、彼我の勝敗を分けることともなった
「レーダー」ですが、当時捕虜だった酒巻少尉によると、
アメリカではこんなことがありました。
「シカゴ・トリビューン」紙が、ミッドウェイ海戦の前に

「アメリカ側はすでに日本の暗号を解読することに成功した。
そしてその結果、日本から来つつある艦隊の構成とその兵力規模がわかった。
近くこの機動部隊と我が海軍との間に海戦が起こるであろう」

というようなことを発表してしまったのだそうです。
アメリカの軍部がこの新聞記事に怒りました。
こんなことを書かれたら日本の暗号を米軍がすでに解読したことが
日本にばれてしまいますから、当然ですね。
ところがアメリカという国の面白い?ところで、ここで報道側が
新聞の報道の自由をたてに軍部及び国に噛み付き、当時としては
大問題になって国内世論でワーワーやっていたというのです。

日本は日本で、ミッドウェイに行くことを町の人や芸者まで知っていて、
いったいどうなっているんだと出撃する軍人が暗澹とした、
という話があったわけですが、米軍が機動部隊のミッドウェイ進出を知ったのは
スパイ芸者からのリークではなく(笑)あくまでも暗号解読によってでした。

案外国内でのニュースや噂なんて伝わらないもんなんですね。


●収容所での酒巻少尉

NHK制作の感動コメディ「真珠湾からの帰還」では、酒巻少尉が
米兵に拷問を受けたり、反乱の責任を取って監房に閉じ込められているのを
他の捕虜が「艦隊勤務」を歌って励ます、というミュージカル仕立てで(爆笑)、
捕虜収監中、いかに辛い目にあったかが描かれていましたが、
(あらためて声を大にしていっておきますが、全くの創作ですからね)
酒巻少尉がこの対談でもいっていた収容所生活とは、

「最初の半年は自分との葛藤、あとは統率の苦労」

で、むしろ周りの状況からアメリカが有利となっていき、終戦近くなると
むしろ軍人でない捕虜の人々から「命を無駄にするな」ということを
学んだ、というようなものだったようです。

「(終戦は)ずっと前から分かっておりまして、わたしどもは絶えず
向こうではラジオを聴くことができたし、米国の雑誌も読めますし、
ニュースは次々と入ってきた。
戦局の推移をずっと見ておりますので、だいたいどんな経過をたどるかは
予想がついておりました。
米軍の方ではだいたいこういうことになると計画的にやってましたし、
それらへの評論とか意見も新聞や雑誌に出てくるのでだいたい予想されます。
(私は)どういうことが(戦争の経緯で)起こったら(捕虜たちは)
どうあらねばならないかということに(リーダーとして)
気を配っておりました」

「わたしがスポークスマンで、代表者として、
最初の頃は先任者でもあったので、
みんなを指導しておったわけです。
米軍との折衝で、この人にはどこの仕事をやらせるとか、
そういう割り振りをしたりしていました。
(日本側の捕虜の)士官仲間でポリシーを決めて討論し、
その結果に基づいてですけれどもね、そういう立場でした」

そして、終戦まで日本人として「勝ってもらいたい」「天佑さえあれば」
「勝たなくちゃならない」たとえ日本に帰れなかくなるとしても、
という思いを持っていたものの、いざ負けたとなったら、気持ちを切り替えて
何としても戦後日本の復興に身を捧げよう、と決心したということです。




酒巻少尉は戦後も日本の近代戦化がもう十年早かったら、
という考えを戦後ずっと持ち続けていたようです。
真珠湾では自分たちの行った攻撃も成功したと言い切っており、
捕虜生活を経ても敵への爆撃を「栄光」と称するなど、
戦後の価値観の逆転にも全く考えは左右されず、一部の軍人たちのように
「懺悔組」として日本を否定することもありませんでした。

その点実にプラクティカルで、芯のぶれない人物だったようです。
これは酒巻氏が戦後日本ではなくブラジルという「新天地」で職を得、
日本を外から見る立場にあったことと無関係ではないかもしれません。

戦後「捕虜第一号」を「いろいろ聞かれるので説明のために」一度だけ出版し、
あとは公的には全く沈黙を守ったのは、決して「反省や悔恨」からでなく、
時を経てもあのとき自分がしたことは日本の軍人として当然の行為であり、
戦前も、日本の復興に邁進した戦後も、国を守るために為した
その意味は変わらない、と信じている人の矜持からだったように思えます。




続きます。