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映画「ハワイ・マレー沖海戦」~「接吻映画」と映画界の左翼化

2014-01-18 | 映画

さて、案の定こういう「歴史的戦争映画」というお題を得たが最後、

微に入り細に入り、何度も咀嚼し「重爆の隅」をつついて止まないこのブログですが、
「皇国の興廃」以来、中々真珠湾攻撃に突入することが出来ません(笑)

とくに本日のタイトルを見てまたかよ、とかすかにうんざりされたかたも
読者の皆様方のなかにはおられるかもしれませんが、
こういう映画を見ると、監督や役者の戦後の在り方というものにまで
深く考察せずにはいられないのが習い性となっているゆえご容赦下さい。



出撃前夜。

飛行兵の部屋では明日に備えて田辺飛曹長が、「鑑名当てシルエットクイズ」をやっています。



シルエットでわかっても実際のフネでわかるものだろうか、とつい思いますが、
それを言ってはだめ。



「えーと、これはですな・・・えーと・・これはですな」

この俳優の名前がわかりません。
wikiにある「谷本二飛兵」の沼崎勲か、古い映画雑誌の「斎藤二等兵曹」の河野秋武か。

これに対し、飛曹長は

「なんじゃ自分の嫁さんの名前忘れてどうするんじゃ!
これはお前の目標じゃろうが!」

・・・・・何?

日本海軍では戦時中艦の「擬人化」ついでに「萌え化」を行ない、
さらに敵艦を「艦娘」化していたのか?


「みんなせっかくハワイに婿入りするんじゃけん、
自分の嫁さんの名前くらいしっかり覚えとけよ。
そうでないと水臭いちゅうてふられるぞ」

と飛曹長。

「艦隊これくしょん」みたいに、女の子のキャラだったら、
みんなあっというまに覚えられると思うけどな。
自分が婿入りする相手ならばよりいっそう愛着もわくというものです。


さてこれは出撃してからなのですが・・・・




臨時治療室に仕立てられたのは、士官の食堂兼休憩室のようです。



ここで艦の「インテリ」である主計長と軍医がまた何やら・・。
ラジオのチューニングをハワイからの周波に合わせると、
軽快なリズムとともにDJのおしゃべりが聴こえてきました。



途端に

「おれ内容わかっちゃったもんね」

とばかりに得意げにニヤニヤする主計長、津村少佐。
ええそりゃあんたは帝大出の短期現役ですからわかるでしょうさ。

津村少佐を演じているのは北澤彪(きたざわ・ひょう)

なんだかこの字面に見覚えがありますね。
戦後バイプレーヤーとしていろんな映画やドラマに出演しましたが、
特にまげを結った時代物の姿に見覚えがあるような気がする俳優です。

若い頃はインテリタイプの優男役が多かったそうですが、それもそのはず、
与謝野晶子らによって設立され、当時の流行の発信地でもあった文化学院の卒業です。
多くの著名人、文化人、芸術家を輩出した当時の「憧れ」の学校だったとか。



英語の分からない士官が「なんですか」と尋ねると、
こちらもインテリの軍医長が解説してあげます。

なんと、ハワイでは海軍軍人も加わってキャバレーでどんちゃん騒ぎ、
それをラジオでは実況放送していると。

実際の真珠湾攻撃で第一攻撃隊が出撃したのは夜中の1時半。
それなら週末は夜通し遊ぶアメリカ人ならない話ではありません。

ところがこの映画の設定は、朝5時に総員起こしをして、それから
なんだかんだあって出撃してからなのでどんな早くてもせいぜい6時。
いかに週末のタフに遊ぶアメリカ人と言えども、朝の6時に
キャバレーから実況をするほどは遊びませんって。
この日は日曜で、みんな教会に行かないといけないんだしさ。

とツッコミどころ満点ですが、このニュースはあっという間に艦内を駆け巡ります。



早速このニュースを聞きつけて来た飛曹長、大喜びで

「おい、ハワイじゃ今海軍さんたち何をしとるか知っとるか?
これよ。これをやっとるんじゃ!」

とダンスのマネをして皆大笑い。

「夜通しオナゴと抱き合うて踊っとるそうじゃ!」

また皆爆笑。

今からそこに奇襲を掛ける、という日本軍がこんなことを言って笑っていた、
ともしアメリカ人が知ったらさぞかし腹が立つでしょうなあ。
まあもっとも、マイケル・ベイはこの部分も観てなかったと思いますがね。

この部分を観ると、この頃の日本人の道徳というのは今とかけ離れていたと感じますし、
アメリカ機のノーズペイントのことを、日本の少年たちは

「アメリカ人は飛行機に裸の女を描くんだと」
「嫌らしい奴らだ。そんなので戦争に勝てるもんか」

などと笑っていた、という話を思い出します。

この映画で、この飛曹長の言葉に皆どうしてこうウケるのか。
これは今から攻撃する敵がこんなに油断している、ということで
作戦成功が予想されることに心が浮き立って、ということでしょうが、
それより、当時の日本人がアメリカや西欧的な愛の表現を
生理的道徳的に受け付けなかった、ということを物語っています。

日本映画映画に男女のキスシーンが登場したのは戦後になってからです。
『はたちの青春』で、主演の大坂史郎と幾野道子がほんのわずか唇をあわせただけ。
それでも話題を呼び、映画館は連日満員になりました。

このキスシーンですが、実はGHQによって入れることを強要されたと言われています。
当時、映画製作もGHQの検閲下にあり、民間情報教育局(CIE)のコンデが、
完成した脚本がその前に見せられたものと違うことを指摘した上、
接吻場面を入れることをわざわざ要求してきた、というのです。

この意図、お分かりですか?

戦後、GHQは、物資を日本に供給すると同時に東京裁判による「リンチ」で
日本人の憎しみを嘗ての国家指導者に向け、
彼らが裁かれる様子をまるで見せ物のように楽しませる、
「パンとサーカス」 の手法を用い日本人をコントロールしました。

これは世界権力の大衆コントロール法

「3S政策」
のアレンジでもあります。
3Sとは「Sports,Screen,Sex」の3つを使う手法のことです。

大衆が興味を持つこれらの刺激を与えて日本人をコントロールするため、アメリカという国は
占領早々に日本映画にわざわざキスシーンを導入させたのです。

これは、洗脳であると同時に、このときの飛曹長のように

「おなごと抱き合うとる」

と自分たちの文化を馬鹿にしていた日本人への
価値観を
モラルから覆す一種「復讐」のようなものでもあったとわたしは思っています。



許せん鬼畜米(笑)
 


そんな下士官兵を笑いながら見守る山下隊長始め士官連中。

さて、そんなこんなでいろいろ訓示とかもあって出撃。 



映像は、母艦「赤城」ということになっているらしい実は「鳳翔」の甲板と思われます。

実物大の艦橋を備えたセットを地上に作り上げてしまった(ただし米海軍母艦を参考に)
この映画のスタッフですが、このシーンはどう見ても飛行機が本物であるうえ、
明らかに海上での撮影となっているからです。

前々回「活動屋は信用ならん」という理由でスタッフは母艦を見せてもらえず、
この「最初から空母として建造して完成した艦」、
つまりは旧式艦しか見ることを許されなかった、という話をしましたが、
そこで撮影まで行なわれたのかどうかは謎です。

因みに「世界最初の空母」はイギリスの「フューリアス」ですので誤解なきよう。


海軍がフネを見せてくれないので苦心して「ライフ」を見ながらセットを作ったら、

「こんなもんは我が帝国日本海軍のフネではな~い!」

ととある皇族が(わたしの予想では『最強の皇族海軍軍人であるあの方』)激怒し、
あわや映画は上映禁止になりかけ、監督は「はらわたが煮えくり返った」と
そのときの想い出を語った、という話をしたときに

「そういう軍の『しょせん活動屋風情』という扱いがため、
戦後の映画人は左翼になってしまった者が多かったのだろうか」

とテキトーなことを書いてみたわけですが、今日たまたま俳優の津川雅彦氏が

「戦後の左翼思想が日本映画をダメにした」

といっているニュースを目にしたので、ちょっとだけこのことを書きます。

「聯合艦隊司令長官山本五十六」を観に行ったとき、日本の映画はどんどん幼稚になっている、
どこかで自分が観ていいなと思ったものを
「カタチを変えて真新しくする」ことしか考えていないので、最初から最後まで
「分かり易すぎる」、と書いたことがありますが、津川氏も同じようなことを言っています。

「映画は目に見える部分は30%で、70%は観客の想像力を喚起させよ」

たとえばマキノ雅広監督はこのようなドラマ作りをしていたそうです。
ところがそういった極意はいつの間にか「見えるものしか理解しないですむ」
テレビ的エンターテインメントによって全く失われてしまった、と津川氏は言います。

それでは「左翼が映画界をダメにした」とは具体的にどういうことかというと、
津川氏の説ではいまひとつすっきりしないのでわたしが代わりに説明すると、
戦後の、たとえば「大日本帝国」「戦争と人間」などに代表される
強烈な左翼映画全盛の頃に、左翼映画人がはりきって我が思想を映画に盛り込みすぎて、
まあ要するにそれがはっきりいってつまらなかったんですね(笑)

で、その頃から映画自体がすっかり衰退してしまったと。



ついでに言うと、わたしはその思想が日本に呼び込んだ「獅子身中の虫状態」が、

今、映画界どころか一般の日本人を「強く怒らせている」と感じます。

ちっとも「具体的に」言ってませんけど。言わずもがなってやつなのでご理解下さい。
津川氏も「具体的」には言っていませんが、きっとこのことは痛感しておられるでしょう。



で、話を戻すと、この映画の監督である山本嘉次郎の戦後。

このことを書いている古い映画雑誌を古書店で見つけました。

「連合艦隊」「潜水艦イー57降伏せず」「太平洋の翼」「人間魚雷回天」

これらを創った松林宗恵(まつばやし・そうえ)監督の話です。
松林監督の本名は「釈宗恵(しゃく・そうけい)」
海軍予備士官であったと同時に僧籍にもあった人物ですが、
松林は昭和17年に東宝に入社し、翌年予備士官として『学徒出陣』しました。

21年、戦争が終わって東宝に帰って来たのですが、そのときの社内の空気は

「右から左へと急旋回」

していたのだというのです。

「昨日まで”撃ちてし止まん”と叫んでいたのが労働組合の先頭に立って
”資本家を倒せ!”と声を張り上げていた。
変わりぶりがあまりに節操がない。
山本嘉次郎さんにそのことを話し、
”2.3年山にこもって情勢を見られたらどうですか?”
と尋ねたら、

”君ね、われわれ映画監督はオポチュニストでいいんだ。
時代を先取りして、時流に合うようにすればいいのだから、
そんなに深刻に考えることはない”

一つの考えとして耳に留めましたが私自身そうなれなかったですね」

松林監督は結局10人くらいのスターを中心にした「スト破り」、
つまり労働騒動と対立した演出部の中心となりました。


要は、敗戦によって昨日までの「聖戦の意義」が瓦解し、一夜にして思想転向し、
昨日までの自分を否定しついでに行くところまで行き過ぎてしまうという、
日本中で演じられていたあの茶番劇が映画界でも起こったというだけのことです。

「ハワイ・マレー沖海戦」は東宝の制作です。
この有名な国策映画を手がけたことで東宝は「戦争協力者の汚名」を着ました。

わたしなどは不思議で仕方ないのですが、それでは一体誰がその糾弾を行なったのでしょう。

戦争中の日本国民は須く国策に忠実に、戦争に赴き銃後を守り、
つまり皆が戦争に協力して来たではないですか。
きっと勝つと信じて耐え忍んでいたこと、つまり
戦時下の日本で良民として生きていたことがすなわち「戦争協力」ではないですか。

そもそも「戦争協力者」であることをなぜ疾しく思ったのか。

そう、それが戦後の日本を覆ったGHQ主導による「日本悪玉論」、
「懺悔派」といわれる元軍人たちが醸成した「自虐」です。

その自虐論ゆえ敗戦した日本国民がその怒りのはけ口を「軍」「日本」
に求めるようになりました。
そのとき戦争中非常にわかりやすい「協力者」となっていたマスコミ、
映画等のメディア、芸術家や思想家に至るまで・・・、
彼ら表現者は自分が糾弾されるまえに戦時のアリバイを証明し、
「心ならずも協力した」という釈明をする必要があったのだと思われます。

(『空の神兵』の作詞者、高木東六氏などがそうでしたね)



それもこれもつまりは戦勝国に押し付けられた「日本罪悪論」の賜物であったと
今になって見れば歴然とわかることなのですが、哀しいかな当時の日本人には
そんな「神の目」を以て日本と我が身を見ることなど不可能でした。

というわけで当時の映画界にいたのは、

1、一夜にして「撃ちてし止まん」から「資本家を倒せ!」に変わり身した者

2、山本監督のように時流に流されるオポチュニストであることを良しとして動じぬ者

3、松林監督のように変節を潔しとせず流行の「赤化」を断固拒んだ者
 

というような当時の揺れ動くこの時代の日本の象徴のような人たちでした。
終戦から3年ほどの日本の縮図がここにあったといえましょう。

おそらく「燃ゆる大空」の阿部監督は、2と3の混合のような立場をとっていたのではないか、
と思われますが、じつはこの世界に一番多かったのが1番。
この変わり身の早さはある意味日本人が日本人らしさを発揮したともいえますが、
ともあれ、映画界の現在に至る「左翼化」にはこんな事情があったのです。


日本人が戦後一年にして初めて日本人同士のキスをスクリーンで観るのと、
その映画界が見事に「左翼化」したことには、辿ればそこに
「GHQ」という日本に対して壮大な社会実験をした組織の存在が見えてきます。