Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蝸牛が殻に篭るように

2008-05-17 | SNS・BLOG研究
幾つかの興味深いディアローグがあった。対立する意見の並置あり、さらに止揚されるべきテーゼあり、視差に事の本質を垣間見せるたりありで様々である。

その内容に関しては、どれもここで比較的よく扱っているような話題なので、繰り返しになるような自らの私見はここでは述べない。しかし、掻い摘んでその要点だけを指し示しておく。

一つ目*は、日本社会における個人と社会の関係で、我々からすれば自己犠牲とされるものも個人の自由として、― おそらく生甲斐やライフスタイルとして ― 考えるべきだとする意見である。もちろん、そこには無制限の自由はないという自明があるのだが、その甚大なる価値を社会の各々がどのように扱い議論して行けるかが要点であるように思われる。

二つ目**は、上の件にも関わっているが、己の食生活までをも社会の規範の中で位置付けようとするかのような「解放されていない社会」の存在である。そこでは適当な市場を形成して、仮想社会を経済と言う現実社会に見せ懸ける事が可能なのである。明らかにボトムアップの決定と志向がそこにはなく、トップダウン式の封建社会が未だにそこに存在している証拠であろう。その目的のために日本では歴史的に稲作が為政者により利用されているのは周知ではないか。

三つ目***は、最も複雑な話題なのであり、容易に争点を纏めることはできないが、重要な点である自己と外界との関係とその提示に関する。つまり、認知不可能なもしくは制御不可能な現象に接するとカタツムリが殻に篭るように外界から仮想の自己を遮断するのである。その仮想自己の世界が心情となる。

自己と環境の関係は、システムの把握方法に他ならなく、それを認知するものが世界観と言えるのだろう。



参照:
日本人の働く目的は* (クラシックおっかけ日記)
VDP新酒試飲会 in マインツ** (モーゼルたより)
蜉蝣のような心情文化*** (Wein, Weib und Gesang)
「『ロハス』ということ」 (関係性)
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14

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