Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

花見遊山のように探訪

2013-04-19 | 文化一般
落穂拾いならず、花見遊山のようにCDを漁った。今回は、先日訃報に触れた指揮者コリン・デーヴィスのシベリウスの交響曲の録音があまりに良かったので全集を見つけて注文した。当然のことながらCD一枚分を過ぶるが、良いものならば人に上げても良い。7CDで18ユーロ見当ならば六枚でも十分に安いのである。

ボストン交響楽団のそれも有名だったが、調べていくとライヴ録音シリーズもその後に完結しているようだ。七曲の交響曲集だけなら四枚組で十分で、プロコフィエフのような量が無いので、十ユーロ少しで買えるのだが、今回のロンドンでの録音は交響組曲などが殆ど入っているようだ。

交響曲全集と言うのはLPでのベートヴェン以降数年前のシュスタコーヴィッチまで購入したことが無いので、シベリウスが二つ目のCD交響曲全集となる。シベリウスの交響曲は生でもラトル指揮バーミンガム響の初日本公演で二番位しか聞いたことが無いので、数年前に様々な演奏で少しづつ購入した。それでも七番や六番などが欠けているままなのだ。

正直今までそれらを繰り返して流してみようとは思わなかったので、今回上の一番と五番のそれを聞いてみてかなり新鮮であった。そしてその真意と言うか音楽が良くわかるのだ。例えばアシュケナージ指揮のフィルハーモニア版などでは、あまりにも長いアーティクレーションなどで思わせぶりたっぷりとしたフレージングを紡んでいくので、余計にそのヴェクトルが不明になって分かり辛いのだ。ショスタコーヴィッチならばそのような鳴らし方で行間を読みとらせるような効果も生じるであろうが。

同じような観点から、正反対のご当地の放送交響楽団を使ったオッコ・カム指揮のそれになると、あまりにも粗末に演奏していて、十分にちぐはぐで素朴過ぎでその面白さが浮かびあがらない。その正反対が、上の録音で、それほどに的確に管弦楽を鳴らして交通整理していかないとこの作曲家の創作意図が全く見てこないようだ。

そこでドライヴ上手のF1レーサー指揮者ヤンソウンスの録音を流してみた。予想通り強引に絶えず音楽のヴェクトルを定めて音楽学生のような楽団員もろとも一心不乱にそこへと突き進む。なるほどピアニスト出身の指揮者などとは違ってプロ中のプロの仕事であるには違いないのだが、オスロのプロの管弦楽はまるで桐朋の学生オーケストラのような集団となってしまう。案の定、そのような音楽構造にはなっていないので支離滅裂となる。ショスタコーヴィッチならばそこになにかを思わせさせるのだが、ここではそのようには行かない。若しこのような交響曲をマーラーよりもあとに書いていたとすれば、ブゾーニがベルリンへとト招聘する筈も無かったであろう。またそうした作曲家を称えるフィン族は余程知的程度が低いということになる。デーヴィス指揮盤が楽しみである。

序にトレイルランニングシューズ用の靴下を注文した。メーカーのサイトを研究して素材などから選んでみた。さて、こちらの考えているコンセプトの商品だろうか?



参照:
ボストンでの中庸なあり方 2013-04-17 | 文化一般
試走で十日ぶりの運動 2013-04-15 | アウトドーア・環境

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