ジョルディ・サヴァールとコンセル・デ・ナシオンのコンサートを初めて聞いた。バロセロナ出身の音楽家サヴァールはバーゼルの音楽院で学んだ関係からもっと頻繁に接しているかと思ったが殆ど記憶がない。
プログラム自体は会の性格上バッハのブランデンブルク協奏曲から二曲が演奏されたが予想通りの出来で、その不満度はガーディナー指揮のバッハと双璧だろうか。最後の最後にブーイングも聞かれた。古楽器の演奏上の不安定さ以上にアンサンブルの基本がおかしいと思わせるものであった。要するにバッハの書法とその音楽実践が合い入れないのである。ブランデンブルクの協奏曲の一番とか二番とか呼ばれる編成の多い曲はどちらかというと、管弦楽組曲に挟まれて、人気の薄い曲ではなかろうか。それはなぜなのか?
通奏低音と上声部がコンツェルティーノとリピーノのように適当に漂う一番ヘ長調の好い加減極まりないアーティクレーションの冴えない演奏が続く中で、突如として精彩を放し出したのは四楽章のメヌエットであった。これほどに踊れる演奏はなかなか聞いたことはない。手元にある話題となったラインハルト・ゲーベル指揮の演奏の程度ではなく全く飛びはね弾み、さらに舞曲的なアクセントはモーツァルトのオペラに出てくる舞踏曲以上に影をもって音楽的な深みと味わいを醸し出す。あの楽譜からああした情報を引き出せなかったのはそもそもその舞曲らがあまりにも洗練されてしまって、そこで忘れ去られた土着的なものも本来は含まれていただろうと想像させるに足る解釈である。そうなると牧童や狩のトリオですら、バロック画の黒い背景にしたような牧草やポロネーズや森の情景となって、挙句の果ては牧歌や民族的なものを通りこして殆ど血生臭い風情まで響かせてしまうのだ。こうした演奏実践を体験すると、なるほど楽譜にはおかしなアクセントは付け加えられていないのが不思議で、他の演奏が全く正しくない事をやっているようにしか響かなくなる。それを称して音価にセマンティックな意味合いの有無で、開かれた作品か閉じられた作品かという相違となる。
このメヌエットを体験出来ただけでも価値があったと思ったのだが、期待していたヘンリー・パーセル作曲の「ザ・フェアリー・クィーン」がこれほど優れた曲だとは知らなかった。女王に捧げた曲は数多くあるが、シェークスピア「真夏の夜の夢」の付随音楽であるこれらの曲集で、舞台作品での作曲家の力量をここでも思う存分示している。特にパーセルのミニマル音楽に通じるような作曲技法の妙に、舞台裏から響くエコー効果まで手伝って、一向に満員とはならない大会場のお客さんを唸らすのである。休憩時には未だ発売されていないこの演奏の録音を求める人の列が出来るほどであった。
休憩後に演奏された同じへ長調の協奏曲二番は少なくとも最初の曲よりも会場で受け入れられる要素は強かったが、パーセルのあとで演奏されるとバッハのケーテンで演奏されたこうした如何にも管弦楽のための「閉じられた作品」が意図されていたように響き、反対にバッハが勤めていたプロテスタントの支配的な中央ドイツの文化が察せられて、少なくともこうした視点からするとバッハの音楽が辺境のものに留まっていた意味は実感できるに違いない。
それと対極にいるのが中央ドイツ出身のコスモポリタン作曲家ヘンデルの創作であり、機会音楽でありながらその最上質の芸術性を疑う余地はない。当夜はサヴァールの判断で当時のように様々な楽章が組み合わされてニ長調・ト短調の組曲としてHMV349が演奏された。ジョージ一世の舟遊びの慰めに演奏されたという。現代の庶民はきっと自分の好きな曲順でアイポットにこれを入れて出かけるのだろう。もちろん、ここでもメヌエットのだけでなくブレーなどの素晴らしい舞曲に心躍らせる。現代楽器に限らず古楽器にも散々演奏されて少々食傷気味のこの楽曲であるが、手元にあるマンコスキー指揮の演奏などより遥かに興味深かった。
最後はやはり最も期待の大きかったジャン・フィリップ・ラモーの舞曲を堪能できるオペラ「レ・ボレアーデ」組曲が演奏された。髭が長髪か分からない逆さ絵のような顔付きの打楽器奏者のパフォーマンスが大うけしていたのだが、これこそこれ以上にない舞踏性とそれが織りなすずれた和声感もその醍醐味を見せていた。パーセルの書法に二十世紀の作曲家アントン・ヴァーベルンを想起するとき、ラモーの音楽を同僚のアルバン・ベルクと比較してみたくなるのだが、現代楽器においてもラモーが演奏されたその和声感覚自体がこうして演奏されるとき遥かに示唆に富んだものとなる。
所謂クラシック音楽愛好家は今でもベートーヴェンの交響曲の聞き比べなどをするのかもしれないがそのような作業よりもラモーの古楽器による演奏実践の比較をすれば余程面白いと感じた。私自身、サイモン・ラトル指揮のザルツブルクでのオペラ公演、その手本となった再発見された楽譜の初演者であるエリオット・ガードナーの録音、ウイリアム・クリスティーによる抜粋の演奏会などと結構体験しているのだが、今回のサヴァールの演奏実践は上記の点で一線を隔していた。これならば、ジャン・ジャック・ルソーなどが攻撃した状況も更に実感出来るような気がする。
最初に提示した問いに答えたとは思わないが、この演奏会がネガの形でバッハとその環境の特殊性を十二分に示していて、それはトン・コ-プマンのマルコ受難曲が音楽芸術的な出来事であったように、バッハの名演奏とかそうした行い以上の意味合いがある。アンコールに応えてパーセルのマーチと更に「とても早いコントラダンス」が客席の手拍子指導の下指揮された。この曲を他の演奏と比べるだけでも途轍もなく拍子感覚が異なるのであった。
参照:
試聴22(Conterdanses tres vives) (jpc)
夜空に輝く双子座の星達 [ 音 ] / 2007-02-27
円熟した大人の文化 [ 文化一般 ] / 2005-01-02
プログラム自体は会の性格上バッハのブランデンブルク協奏曲から二曲が演奏されたが予想通りの出来で、その不満度はガーディナー指揮のバッハと双璧だろうか。最後の最後にブーイングも聞かれた。古楽器の演奏上の不安定さ以上にアンサンブルの基本がおかしいと思わせるものであった。要するにバッハの書法とその音楽実践が合い入れないのである。ブランデンブルクの協奏曲の一番とか二番とか呼ばれる編成の多い曲はどちらかというと、管弦楽組曲に挟まれて、人気の薄い曲ではなかろうか。それはなぜなのか?
通奏低音と上声部がコンツェルティーノとリピーノのように適当に漂う一番ヘ長調の好い加減極まりないアーティクレーションの冴えない演奏が続く中で、突如として精彩を放し出したのは四楽章のメヌエットであった。これほどに踊れる演奏はなかなか聞いたことはない。手元にある話題となったラインハルト・ゲーベル指揮の演奏の程度ではなく全く飛びはね弾み、さらに舞曲的なアクセントはモーツァルトのオペラに出てくる舞踏曲以上に影をもって音楽的な深みと味わいを醸し出す。あの楽譜からああした情報を引き出せなかったのはそもそもその舞曲らがあまりにも洗練されてしまって、そこで忘れ去られた土着的なものも本来は含まれていただろうと想像させるに足る解釈である。そうなると牧童や狩のトリオですら、バロック画の黒い背景にしたような牧草やポロネーズや森の情景となって、挙句の果ては牧歌や民族的なものを通りこして殆ど血生臭い風情まで響かせてしまうのだ。こうした演奏実践を体験すると、なるほど楽譜にはおかしなアクセントは付け加えられていないのが不思議で、他の演奏が全く正しくない事をやっているようにしか響かなくなる。それを称して音価にセマンティックな意味合いの有無で、開かれた作品か閉じられた作品かという相違となる。
このメヌエットを体験出来ただけでも価値があったと思ったのだが、期待していたヘンリー・パーセル作曲の「ザ・フェアリー・クィーン」がこれほど優れた曲だとは知らなかった。女王に捧げた曲は数多くあるが、シェークスピア「真夏の夜の夢」の付随音楽であるこれらの曲集で、舞台作品での作曲家の力量をここでも思う存分示している。特にパーセルのミニマル音楽に通じるような作曲技法の妙に、舞台裏から響くエコー効果まで手伝って、一向に満員とはならない大会場のお客さんを唸らすのである。休憩時には未だ発売されていないこの演奏の録音を求める人の列が出来るほどであった。
休憩後に演奏された同じへ長調の協奏曲二番は少なくとも最初の曲よりも会場で受け入れられる要素は強かったが、パーセルのあとで演奏されるとバッハのケーテンで演奏されたこうした如何にも管弦楽のための「閉じられた作品」が意図されていたように響き、反対にバッハが勤めていたプロテスタントの支配的な中央ドイツの文化が察せられて、少なくともこうした視点からするとバッハの音楽が辺境のものに留まっていた意味は実感できるに違いない。
それと対極にいるのが中央ドイツ出身のコスモポリタン作曲家ヘンデルの創作であり、機会音楽でありながらその最上質の芸術性を疑う余地はない。当夜はサヴァールの判断で当時のように様々な楽章が組み合わされてニ長調・ト短調の組曲としてHMV349が演奏された。ジョージ一世の舟遊びの慰めに演奏されたという。現代の庶民はきっと自分の好きな曲順でアイポットにこれを入れて出かけるのだろう。もちろん、ここでもメヌエットのだけでなくブレーなどの素晴らしい舞曲に心躍らせる。現代楽器に限らず古楽器にも散々演奏されて少々食傷気味のこの楽曲であるが、手元にあるマンコスキー指揮の演奏などより遥かに興味深かった。
最後はやはり最も期待の大きかったジャン・フィリップ・ラモーの舞曲を堪能できるオペラ「レ・ボレアーデ」組曲が演奏された。髭が長髪か分からない逆さ絵のような顔付きの打楽器奏者のパフォーマンスが大うけしていたのだが、これこそこれ以上にない舞踏性とそれが織りなすずれた和声感もその醍醐味を見せていた。パーセルの書法に二十世紀の作曲家アントン・ヴァーベルンを想起するとき、ラモーの音楽を同僚のアルバン・ベルクと比較してみたくなるのだが、現代楽器においてもラモーが演奏されたその和声感覚自体がこうして演奏されるとき遥かに示唆に富んだものとなる。
所謂クラシック音楽愛好家は今でもベートーヴェンの交響曲の聞き比べなどをするのかもしれないがそのような作業よりもラモーの古楽器による演奏実践の比較をすれば余程面白いと感じた。私自身、サイモン・ラトル指揮のザルツブルクでのオペラ公演、その手本となった再発見された楽譜の初演者であるエリオット・ガードナーの録音、ウイリアム・クリスティーによる抜粋の演奏会などと結構体験しているのだが、今回のサヴァールの演奏実践は上記の点で一線を隔していた。これならば、ジャン・ジャック・ルソーなどが攻撃した状況も更に実感出来るような気がする。
最初に提示した問いに答えたとは思わないが、この演奏会がネガの形でバッハとその環境の特殊性を十二分に示していて、それはトン・コ-プマンのマルコ受難曲が音楽芸術的な出来事であったように、バッハの名演奏とかそうした行い以上の意味合いがある。アンコールに応えてパーセルのマーチと更に「とても早いコントラダンス」が客席の手拍子指導の下指揮された。この曲を他の演奏と比べるだけでも途轍もなく拍子感覚が異なるのであった。
参照:
試聴22(Conterdanses tres vives) (jpc)
夜空に輝く双子座の星達 [ 音 ] / 2007-02-27
円熟した大人の文化 [ 文化一般 ] / 2005-01-02
構成的でなくリズムもあいまいで非常に短詩型ともいうべきカッチーニの方は、古風で雅なところがなかなかよかったですが、やはりバッハの実践は難しいようですね。
音楽議論の内容も一度詳しく調べてみたいとも思いますがなかなか暇がないですね。
DHMシリーズなどでバーゼル・スコラ・カントルムとサヴァールの面白い演奏がありましたらまた是非紹介してください。