Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

啓蒙されるのは誰なのか

2015-01-16 | 文学・思想
シャーリ・エブドの最新刊のカリカチュア―がエジプトのスンニ派から批判された ― イスラムの国で最高の文化を誇るシーア派のペルシャも批判した、世俗のトルコはカヴァーの画像のあるサイトを見れないようにして、大統領はPEGIDAとISISを同一視した。批判されるのは想定内であろう。トルコ語やアラブ語でも出版する確信的な行動である。それによって啓蒙されていない人々に何かを訴えかけることが出来ていると信じているのだろう。そうした希望がなければできない行為であり、ドン・キホーテ的な英雄行為である。

その記者会見ぶりや仕事ぶりを見て、我々啓蒙された近代人はその姿に感動する。そしてその雑誌のカヴァーの表現に全てを読み取る。そして連帯を誓うのだ。少なくとも何らかのものを表現したり、創造したりする人々は、こうした英雄的な活動を無視したり、第三者的に中立的な立場では報じたりできない筈である。

この件に関して文化欄が解説をしている。この預言者が誰のことを嘆いているか?と単刀直入に問うている。人殺しにか、命を存えた人にか、これならばあまりにも軽薄すぎる。それならば、残された人々にか、そのもの殺された人々にか?緑の背景はイスラムの色であり、希望の色であると分析する。我々世俗の人々にとっては、その穏やかな預言者はキリスト教的隣人愛に満ちていて、描くこと自体が問題としてもこれ自体が挑発などとは考えられないと確信するのだ。しかしイスラム社会の反応は「世界的な共通認識としての宗教的権威への尊重があるべきだ」と違っていた。そして、今回の事件を通して、預言者を描くことを禁止することの表現の自由の考察で落着するのではなく、宗教的権威にまたは不当な死罪に疑問を抱くところが問題になるのだとする。要するに預言者の具象化などは一つの軋轢でしかないとされる。

テレグラム紙は、そもそもカリカチューアの表現が攻撃の目標ではなくて、イスラミズムが夢想するモスリム対非モスリムの世界市民戦争が目標だと書いたようだが、そもそもイスラム社会での表現への制限は布かれていて全く繰り返す必要のないものであるとして、その事例を挙げる。西側のジャーナリストに対するもの以上に厳しく罰せられたり、凄惨な現状が書き連ねられる。カヴァー以外の内容の紹介もあるが、結局はこの表紙で語り掛けられたものは、我々の連帯へのメッセージであるとする結論に他ならないだろう。

水曜日IWJの生中継で辺野古ゲート前の闘争を見た。五六台のバスがやって来て、一時間半ほどで牛蒡抜きとなった。沖縄県警が行った反対派のゲート封鎖に対する強制撤去である。トレーラーがゲート内に入ると中での作業を阻止する方法がないらしい。夜の22時に遂行する抜き打ちの方法がとられた。どうしても市民の数が少なく、手薄な割にはかなり抵抗していた。大飯原発の時の抵抗運動との違いは、警察力を指揮する知事が市民運動の背後にあることで、警察権力の暴走を露わにしたことだろうか。その後、沖縄県知事の一言を観たが、「残念」としか漏らしておらず、県警に関しては一言も言及はなかったのではないか。東京の政府と沖縄の「自治政府」の間に対話がなされていない状況は異常であり、この状況からすれば東京の政府が独裁政権であることが明らかだ。諸外国がそのように認識していても、気が付いていないのは日本人だけだという指摘が木魂する。

なるほど、24時間体制で作業阻止を企てた100人ほどの住民や支援者は立派であるが、情報が流れて、メディアや二人の参議院議員が駆けつけているのにも拘らず数百人規模にもなっていなかった。学生などは幾らでも時間がある筈で、その示唆行為の価値つまり表現の価値を理解しているならば当然のごとく集合する筈なのだ。ここにイスラム社会との共通点がある。モスリムとして生まれ育って、その社会の中で一生を暮していると、なんら疑問も覚えずに、預言者の像に憤慨するのである。そして、そこでは日常茶飯に悲惨な人権の蹂躙がなされている。

これを許してならないとするのが西欧であり、こうした価値観を戦略として、世界を指導していくのである。新聞が書くように、今回のシャーリー・エブドの再刊で、更なる攻撃に晒されて、世界中でそれが流されて、さてなにが変わるだろうかとの問いかけがある。その通り、このカヴァーやこの雑誌の手法で啓蒙されるのは西欧人でしかない。ムスリムの反感を煽るだけかもしれない。それでもさまざまな方法を通して、我々の連帯を通じて、語り掛けていくしか方法はないのである。それは、ロシアに対しても、中共に対しても、日本に対しても全く同じことなのである。それがジャーナリズムと呼ばれるものなのだ。

毎日新聞編集部の見解などを読んだ。また今回の件は以前のデンマークのそれよりも判断を日本で難しくしているという論文も目にした ― 私の場合は全く正反対であった。前者は、ムスリムの心情を害したくないとする論調で、ジャーナリズムとは一切関係のない表明を編集者がしている。後者は、サイードの言葉などを例にとっての脱構造主義からの視座を想起させているが、まさしくこれが戦後レジームからの脱却と叫ばれるような社会の低脳化の典型に収斂されることになっている。一体日本人はなにを学んでいるのだろう?科学をどのように考えているのだろうと改めてその付け焼き刃の近代文化を確認することになる。文化人がこれでは、神道も天皇制などの扱いも明治の宰相の知恵の域を一つも出ておらず、まともな対話が出来ない元凶となっている。


今日の音楽:モーツァルト作曲「後宮からの逃走」



参照:
Um wen weint Mohammed?, Michael Hanfeld, FAZ vom 15.1.2015
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
不可逆な我々の現代環境 2014-10-12 | 歴史・時事
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想

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