Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創作の時をなぞる面白み

2015-08-11 | 
ペトレンコ指揮の三年目の「ニーベルンゲンの指輪」第一クールにおける楽劇「ヴァルキューレ」を聞いた。DAC装置がないのでMP3でしか聞けないが、楽譜を見ながら全く退屈することもなく何回でも聞き通せる。それでも評判の悪いカストルフの演出がまだ映像で観れなくて、特に残念に思うのは第一幕の演出効果が味わえないところである。カストルフ演出にはファンクラブも出来るぐらいに夢中になる人も少なくないようだが、確かにここはラディオで聞いていただけではその効果は分からない ― どうしてこれほど、若い愛し合う兄弟のジークムントとジークリンデが、カーテンコールでの怒涛のごとくの喝采を浴びていたかの理由が分からないであろう。

それは、「非情の剣・ノートュング」の頂点での跳躍するジークリンデの動きは画期的なものだったが、音だけを聞いているととても走り回っているような息の乱れを感じさせない安定した歌唱で驚かされる。ジークムントは反対に静を演じる。歴史的にこの幕のミュージカル的な成功を考えるときに、今回の演奏のテムポ運びや管弦楽の扱いをこうして聞いていると興味尽きない。そのことは、楽匠がこの楽劇を創作するときの狙い目というか、創作意図とその作曲法への関心ということになる ― 恐らくは想像するに初代音楽監督ティーレマンなどが、本当は実践したくて仕方がないものなのだろう。

今回は、男の甘えた声がなかったのだが、ジークリンデのアンヤ・カムプのペトレンコとのゴシップ話などが流れていて、いやにその歌声に艶のようなものを感じてしまって仕方がない。昨年の印象はとても力強く、正確さもある可也質実剛健のブロンド女性の印象が強く、その分一種の抵抗感もあったのだが、役者でも歌手でもこうなると艶が欠かせないとなるのだろうか。

ここまでは、昨年までも誰もがこの楽劇が全体の中で谷と感じた者はいなかっただろうが、第二幕へと進んでいくとどうしても谷を感じてしまった人が多いかもしれない。それはこの楽曲の音楽的な作りにも拠っているのだが、やはりこの幕でのヴォータンの長いモノローグの最重要の山の出来如何によるのだろう。今回のラディオでは、ヴォルフガンク・コッホがとても健闘しているのを聞ける。そのイタリアベルカントの歌声の効果は指揮者ペトレンコが個人的に最初から中心に据えていたものであったようだ。

その部分における人声と管弦楽の音色をつぶさに読み取っていくと、この歌手の名技とか指揮者の狙いとか何とかではなくて、そのもの創作家がそこでなにをどのようにしてという創造の時を追うことができるのである。それは、必ずしもヴァークナー研究とか、または「ニーベルンゲンの神話」の読み解き方とかいったもので解説される歴史的な枠組みで定着したものではなくて、まさにその瞬間に作曲家がどのように音楽を固定化していくかという本質に触れることなのである。記者会見でペトレンコがCD化などは望まないとしたことで、「実践解釈が発展途上」などとFAZのおばさんは書くのだが、そこにある創作過程への視座が示されることと、その結果を固定することとは異なることぐらいは、こうした聴き処への示唆で理解できるだろうか。

フランクフルターアルゲマイネは、前から26列目にいたドイツで最も有名な哲学者夫婦のことを二度も扱っている。既にその哲学者のラインゴールトに関するエッセイは公開されているというがその出典は分からなかった。勿論、もはや神話の読み解きなどをする一流学者はいないだろう。我々にとって最も興味深いのは、こうしたカストロフの演出で、ペトレンコの音楽によって、そこの劇場空間において飛び交う思索のヴェクトルでしかないのである。それが、楽匠が創作過程においてあれやこれやと試行錯誤していたものであり、今回の一連のスキャンダルをして「そもそも緑の丘に最初からあった社会構造」と呼ばれるものとはまた別の次元の話なのである。

それにしても、今回は前回の「ラインの黄金」よりも綺麗に録音できたようだ。理由は分からないが、一つにはライヴ中継とは違って放送音量の調整が整っていることで、こちらも適当な音量で傷もなく録音できたことにあるかもしれない。更にその間にWIN10へと移行したり、一部のドライヴァーなどが更新されていたり、整理されていた影響もあるのだろうか?WAVで聞けば恐らくCD音質ぐらいになっているだろう。MP3にトランスレーションしたものでさえ、ある程度の質感があって、音色の手触りを感じるのだ。

第三幕の「ヴォータンの決別」もとても細やかさがあって感心した ― どこを切り取っても奈落のそこからの響きが壁の厚塗りとなるようなことがない。昨年も言及した、通常のフィナーレ感覚ではないひたひたと押し寄せる叙情の波に、録音でも耳に入る火の海となる灼熱に包まれる際のそのガス音かなにか、それよりも熱気に遮られることになるのだが、流石に録音では熱さを感じないので、落ち着いて身を委ねられる。こうして、放送を聴く限り、この公演の中でこの楽劇が全体の中で穴となっていたようなことは決して無かったのである。

こうした演奏を耳にすると、その管弦楽法が交響作曲家ブルックナーが模倣したものなのか、はたまたその響きがここにあるのかが分からないほどの音楽的な充実と構造が確りとあって、通常のブイブイと鳴らされる奈落の底からの響きでは全く分からない音楽があるのに驚愕するのだ。

火曜日は、続きの楽劇「ジークフリート」となる。これはこれで聴き処が満載だが、記憶に残っていない部分がどれぐらいあるものだろうか?またまた楽しみだ。



参照:
不特定要素である凡庸さ 2015-08-10 | 文化一般
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音

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