Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

十二音の対位法の映像化

2013-12-20 | 
承前)ミヒャエル・バレンボイムと称するヴァイオリニストがシェーンベルクを弾いた。指揮者バレンボイムが創設した西東詩集交響楽団のコンサートマスターであるが、この協奏曲でブーレーズの指揮でシカゴ交響楽団の舞台にデビューしている。そのような経歴での人選であったのだろう。その演奏は、作曲家が献呈しようとしていたハイフェッツのそれを彷彿させるような本格的なヴァイオリンであって、出だしから若干下がり気味の音程が不安にさせたが - 流石に初演者の適当な調性感への接近と伝えられる次元とは全く異なるのは確かであるが ― 、ギーレン指揮のとても落ち着いたサポートもあってか、素晴らしい出来となっていた。こうして本格的に弾かれると、CDで成功しているヒラリー・ハーンなどよりも立派なヴァイオリン演奏をしなければいけないことが分かる。

なんといってもギーレン指揮は、シェーンベルクのやり方を十二分に掌握していて、その演奏実践はブーレーズ指揮の早いテムポで響かしてしまうのとは大いに異なるのである。そのために音色旋律の対位法的なまさに12音技法の面目躍如である魅惑的な重なりと刺激的な軋みの音楽構造が大管弦楽とヴァイオリンソロというこれまたとても古典的な音響パレットの中で実現化されるのだ。その素晴らしさは、マーラーの交響曲のテクスチャーの中などではとても体験できない研ぎ澄まされて輝く響きであったりと、大管弦楽団の室内楽的な使用と炸裂の核分裂の放射であったりするのだ。なるほどベートヴェンの協奏曲のティムパニ―の背奏を模したりの薄い対位法的な音色の成果となる傾向は少なくはないのだが、左右に分かれたヴァイオリンの配置によって、その精妙さはとても大管弦楽団のそれと思わせない域に至る。

その反面教師の様にして手持ちの録音を鳴らしてみる。ブーレーズ指揮のアモワイヤルが独奏を受け持った録音は、思ったよりもテムポは早い印象はないが、ヴァイオリンは全く違う世界のヴァイオリンで、この曲を弾くにはあまりにも弱すぎる。最も問題に思ったのは、ロンドン交響楽団の合奏とその録音の質で、重要な独奏楽器と管弦楽団の掛け合いが全て引っ込んでしまっていて、まるで管弦楽団に独奏ヴァイオリンが装飾しているような塩梅になってしまっていることである。録音技術上の問題もあるが、独奏者が若干弱いと管弦楽団を引っ張るほどの威力もないのであろう。勿論、SWR放送管弦楽団バーデン・バーデン・フライブルクと比べるとロンドンの奏者は音楽的に感覚が鈍い。それでもブーレーズの明確な指示のもとでの正しい演奏をしているようなのだが、あまりにバランスが悪過ぎて音響として十分な効果を得ていない。

そこで針を下したのが、ラファエル・クーベリック指揮のバイエルンの放送交響楽団の演奏である。独奏を受け持つのはジュリアード出身のズヴィ・ザァイトリンと称するヴァイオリニストである。昨年亡くなったようだが1922年生まれのロシア系ユダヤ人のようだ。その演奏も端正なもので素晴らしいと思ったが、意外に管弦楽が良い演奏をしている。裏面のブレンデルとのピアノ協奏曲はその質の高さを承知していたが、第一面のこれも全然悪くはなかった。なによりも放送交響楽団が素晴らしいバランスで声部間の受け渡しが出来ているのと、録音も優れている。指揮もどちらかというと素直に楽譜の音を引き出している様子で、若干の手持ち無沙汰の感はあるが、決してバランスが崩れていないのは大した音楽性である。若干、管弦楽団の妙技を指揮が十分に引き出していないようであるが、独奏と合わせて今でも十分なレファレンス録音であり得る。以前に比較試聴した時には謝肉マーチの部分などでもう一つ鳴りが良くないので、印象は弱かったのだ。

そこでパンチを効かして鳴らすことに全力投球しているエサペッカ・サロネン指揮のハーン嬢のCDを鳴らす。この演奏に関しては好意的な感想を既に書いているが、今回彼女自身のブックレットの序文などを読んでみた。なるほど新たな指のポジションを練習しなければいけなかったほどに弾き込んでいるが、残念ながらこの創作の重要な技法である管弦楽との協奏にはほとんど無頓着である。勿論ミヒャエル・バレンボイムがそれを全てギーレンに任せていたように、サロネンに責任があるのは間違いないのだが、あのように弾かれると可成り打ち合わせをしておかないと上手につけるのは難しいのではないだろうか。それにしてもどんな曲を作曲しているかは知らないが、よくもあれだけ鈍感な指揮が出来るものだと呆れるのである。それに放送交響楽団と称するスェーデンのそれの鈍いことにも驚かされる。

ハーン嬢のやり方を間違っているとは言えない。ハイフェッツを初演者にと考えたように本格的なヴァイオリニストを想像して作曲されたのである。その意味からバレンボイムのヴァイオリンはやや昔風の本格的なヴァイオリンであって、それが逆にトーマス・マンの「ファウスト博士」のヴァイオリン協奏曲の初演を思い浮かべてしまうのだが、そうした側面を過去との繋がりにしてこうした書法で創作したのに違いないのである。しかし、それはアルバン・ベルクの協奏曲とは全く異なった方法での音楽であり、それとは管弦楽も全く異なるのである。だから、ハーン嬢が書く「ドラマやウィット、リリシズム、ロマンティズム、優雅さの絵画的表出」などだけではここでは協奏曲とはならないのである。

なるほど隣に座っていた楽団員の知り合いの婆さんの咳が止まなかった。彼女はシェーンベルクが終わった時に謝っていたが、全く気にならなかった旨を伝えた。要するに響きを聞くと言ってもある狙い通りに響く音を聞くだけなので要所要所が聞き取れればそれでよいのだ。その婆さんがブルックナーの第三楽章になって初めて落ち着いていたのは、それ以外では緊張が支配していたからなのだろう。特にシーェンベルクのそれは響きとしても構造としても研ぎ澄まされたものなのを再確認した。そしてギーレンの指揮が楷書のようにキッチリと付けることで初めて伝統的な独奏が活きるという書き方にもなっているのである。見事な筆さばきと言うしかない。(終わり)


追記:12月20日(金)の20時(日本時21日4時)から同じプログラムでフライブルクからのラジオ生中継がある。



参照:
バロックな感性の反照 2008-03-23 | 音
暖める努力もしなければ 2011-10-29 | 暦
ファウストュス博士への礼状 2012-01-29 | 音
自由の弁証を呪術に解消 2007-11-05 | 文学・思想
購入した安いティケット 2013-09-30 | 雑感

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