商品価値について異なった視点を教えて頂いた。我ながら、全く気が付かなかった視点の相違が出て来て驚いている。元来、そういった経済の基本に疎い人間は、こうしてその相違を知るとなんとも嬉しくなる。
プリンターの純正インクの価格についての評価が始まりである。そこから携帯電話の普及の為のサーヴィス供与と一台当たりの生産コストへと考えは至る。つまり、消費者にとっては少なくとも見かけ上は供与されるほどの価値しかないと云う新たな主観的価値観が生じるようだ。
また、その使用目的によって価値観が変化してくるので、生産者は其々の目的に合致した商品を供給する事が市場を正しく生き残ると云う商業の基本となる様である。
もう一つ、その購買者の経済力が商品価値に影響すると云う考え方である。
これら三点についてだけ考慮しても商品への価値観は、規定出来ないと云うのがご意見である。目から鱗が落ちるような気がした。どれも近代的もしくは後期資本主義的な消費経済の基礎の基礎のようなことであるにの、青天の霹靂のような印象を持った。
その驚きを視点の相違点として纏めると以下のようになる。
先ず商品価値は、個人にせよ法人にせよその商品が生み出す経済価値に基本を置くべきと考える。つまりプリンターの場合は、A4紙一枚あたりの単価であり、作業を成し得る時間でも人件費でもある。すると、この経費に関しては、その価値は失業者であろうともビル・ゲートであろうとも変わらないのである。寧ろ、ありえるような偽請求書を送りつけて振り込み詐欺を働く犯罪者の方が、ビル・ゲートのホワイトハウスへ宛てた一枚の手紙よりも経済価値は高いかもしれない。購買力には関係しないと考える。
付加価値が付いた商品や贅沢な商品、嗜好品などにこそ、購買力の差が生まれる。しかし、ビル・ゲートがマイバッハやロールスロイスに乗らず、レクサスに乗っていても決しておかしくは無い。反対に失業者がポルシェに乗っている事などもありえる。これらの主観的な価値観は存在しても、商品の客観的価値とは需要供給の関係で存在するのだろう。
それに関して、市場への目的に応じた商品供給の細やかな配慮が問われる。これはトヨタ社などが高級車市場へと参入して来て、ダイムラークライスラー社がA、Bクラスへと進出しているのに等しい。しかし、失業者に適当なメルセデスが無いからといって、誰もこの生産者を批難しない。つまり、生産者が幅広い市場を睨むのは当然としても、市場は生産者間の相違から商品を選択する事も出来る。もしそういった選択が出来ないならば、自由競争市場が機能せず独禁法に抵触するのではないかと云う考え方である。
この視点からは、「100ドルPC」を扱っての記事が書かれている。ビジネス音痴の人間としては、大変興味を持って拝読した。中華圏でのNECコピー事件の記事などを読むと益々、こう云った下請企業の技術力を活かした第三世界での経済の展開を予想させる。知的財産権の保護に加えて、経済活動の可能性を考えるべきと思われる。
その権利こそが、今回の話題の発端となったのであった。つまり純正品はその権利を開発経費の名目で行使する事で、大量生産による実際の削減されたコストを逸脱していないかと云う疑惑が消費者に常に存在している。電気剃刀の老舗の商品の質の低下とその親会社の営業方針などを見ても、国際的シェアーの高いブランド商品は明らかに質が悪くなって来ており、有名ブランドには信用では無く不信感が募って来ている。こうした弊害を取り除き、自由経済競争の実行のために独禁法の厳正な行使が求められていると承知している。
商品価値はやはり客観的に存在して、必需品は最低の所得の者が購入出来る価格である必要があり、それを逸脱する価格帯の商品購入時の剰余価値は新たな投資として厳密に計算されるべきであろう。その剰余価値に拡販などの経費が含まれているとすると、経済の基本のような話になる。マルクス経済はドイツ的であると云う特集があったがやはりそうなのか?昨日もラジオの文化波の番組で盛んにぺーター・リヒトの「やっとのことキャピタリズムスは過ぎ去った」が流れていたが、どうしたものだろう。
結論を纏めるならば、こうした生活感が欧州の経済感覚として確り根付いている。蓄積された富が、ゆとりとなって新たな経済活動の資本となる。その資本が文化と云うソフトである事も多く、今後益々高齢化社会となって若い世代がそれを引き継いでいけないとすると、何時かは井戸のように枯れて仕舞う。文化を継承するとは、こう云ったものなのだろう。
プリンターの純正インクの価格についての評価が始まりである。そこから携帯電話の普及の為のサーヴィス供与と一台当たりの生産コストへと考えは至る。つまり、消費者にとっては少なくとも見かけ上は供与されるほどの価値しかないと云う新たな主観的価値観が生じるようだ。
また、その使用目的によって価値観が変化してくるので、生産者は其々の目的に合致した商品を供給する事が市場を正しく生き残ると云う商業の基本となる様である。
もう一つ、その購買者の経済力が商品価値に影響すると云う考え方である。
これら三点についてだけ考慮しても商品への価値観は、規定出来ないと云うのがご意見である。目から鱗が落ちるような気がした。どれも近代的もしくは後期資本主義的な消費経済の基礎の基礎のようなことであるにの、青天の霹靂のような印象を持った。
その驚きを視点の相違点として纏めると以下のようになる。
先ず商品価値は、個人にせよ法人にせよその商品が生み出す経済価値に基本を置くべきと考える。つまりプリンターの場合は、A4紙一枚あたりの単価であり、作業を成し得る時間でも人件費でもある。すると、この経費に関しては、その価値は失業者であろうともビル・ゲートであろうとも変わらないのである。寧ろ、ありえるような偽請求書を送りつけて振り込み詐欺を働く犯罪者の方が、ビル・ゲートのホワイトハウスへ宛てた一枚の手紙よりも経済価値は高いかもしれない。購買力には関係しないと考える。
付加価値が付いた商品や贅沢な商品、嗜好品などにこそ、購買力の差が生まれる。しかし、ビル・ゲートがマイバッハやロールスロイスに乗らず、レクサスに乗っていても決しておかしくは無い。反対に失業者がポルシェに乗っている事などもありえる。これらの主観的な価値観は存在しても、商品の客観的価値とは需要供給の関係で存在するのだろう。
それに関して、市場への目的に応じた商品供給の細やかな配慮が問われる。これはトヨタ社などが高級車市場へと参入して来て、ダイムラークライスラー社がA、Bクラスへと進出しているのに等しい。しかし、失業者に適当なメルセデスが無いからといって、誰もこの生産者を批難しない。つまり、生産者が幅広い市場を睨むのは当然としても、市場は生産者間の相違から商品を選択する事も出来る。もしそういった選択が出来ないならば、自由競争市場が機能せず独禁法に抵触するのではないかと云う考え方である。
この視点からは、「100ドルPC」を扱っての記事が書かれている。ビジネス音痴の人間としては、大変興味を持って拝読した。中華圏でのNECコピー事件の記事などを読むと益々、こう云った下請企業の技術力を活かした第三世界での経済の展開を予想させる。知的財産権の保護に加えて、経済活動の可能性を考えるべきと思われる。
その権利こそが、今回の話題の発端となったのであった。つまり純正品はその権利を開発経費の名目で行使する事で、大量生産による実際の削減されたコストを逸脱していないかと云う疑惑が消費者に常に存在している。電気剃刀の老舗の商品の質の低下とその親会社の営業方針などを見ても、国際的シェアーの高いブランド商品は明らかに質が悪くなって来ており、有名ブランドには信用では無く不信感が募って来ている。こうした弊害を取り除き、自由経済競争の実行のために独禁法の厳正な行使が求められていると承知している。
商品価値はやはり客観的に存在して、必需品は最低の所得の者が購入出来る価格である必要があり、それを逸脱する価格帯の商品購入時の剰余価値は新たな投資として厳密に計算されるべきであろう。その剰余価値に拡販などの経費が含まれているとすると、経済の基本のような話になる。マルクス経済はドイツ的であると云う特集があったがやはりそうなのか?昨日もラジオの文化波の番組で盛んにぺーター・リヒトの「やっとのことキャピタリズムスは過ぎ去った」が流れていたが、どうしたものだろう。
結論を纏めるならば、こうした生活感が欧州の経済感覚として確り根付いている。蓄積された富が、ゆとりとなって新たな経済活動の資本となる。その資本が文化と云うソフトである事も多く、今後益々高齢化社会となって若い世代がそれを引き継いでいけないとすると、何時かは井戸のように枯れて仕舞う。文化を継承するとは、こう云ったものなのだろう。
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