Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

実行のプログラミング

2024-04-14 | 
承前)ブラームスの「ハムマークラヴィーアソナタ」が弾かれた。この曲をプロフェッショナルな演奏で生で聴くのは初めてだったと思う。このプログラムのモットーであった青年の息吹は今回の演奏だったからこそ全身に浴びれた。何故この曲がそれほど演奏されていなく、リヒテルなどの録音で聴かれていたかが明らかになる。

そういう演奏は本当に楽譜からその音楽を読み起こしていないと叶わない。要するにコンセプト通りに弾こうと思っても発想が現実に音としてならない。このピアニストが必ずしもブラームを得意としている訳でもなく、そのピアニズムに合致したわけでもないだろう。但しはっきりしているのは、ペトレンコ指揮でブラームスが演奏される時の様に余りにも浪漫的な響きというものを求めることなく、和声的な支配関係にも極力留意することで、その漸くブラームスの音楽が洗練されて響くことになる。

そうした浪漫性というのが、前半ではラプソディ―一曲に絞った訳だが、そのハンガリーのリトネロであるロンド形式のロ短調の作品79-1は情熱が燃え上がる訳なのだが、こういう曲は実際には後年の作品として事始めの曲でシューマンがブラームス自身が軽やかな技巧で弾いたとされたように、中々そのオスティナートの扱いなどよりその作曲家自身の演奏が聞こえる様でなければいけないやはり通も楽曲実践が要求される。
Brahms | Rhapsodie en si mineur op. 79 n° 1 par Alexandre Kantorow


そして、そこからのリストの二曲がこれまたそのクライマックスへの持って行き方やその浪漫性の形式としての実践は、例えば自由自在のトリフォノフなどの演奏に比較する迄もなく、よりその創作におけるその環境を実感させる。

そうした演奏実践がどこから来ているかというと、どこかで習ったとかということではなくてしっかりと最初から譜読みをして創作をつぶさに見ているということで、決してステレオタイプな演奏とはならないことに証明される。まさしくアルフレード・ブレンデルなどがベートーヴェンのソナタを自らの楽器を使って端から洗い出したような作業にも似ている。

つまりこうした本格的な演奏家にとっては、バッハでもモーツァルトでもリストでもブラームスでも、バルトークでもそこに最初から歴史の中にあるのではなく、再創造という知的で尚且つ職人的な作業が為されているということに過ぎない。

その点からもリストの演奏は、アラウのロ短調ソナタからポゴレリッチそしてブレンデルなども聴いているのだが、改めて見えてくる背景があってとても興味深い。それはトリフォノフが素晴らしい演奏をするのとはまた意味が異なる。要するによく考えられていて巧い。そして何よりも昨今のピアニストの様に音を割ることが全くない。それは大ホールでも変わらないだろう。

そこにそうした歴史的視座を踏まえたバルトークのラプソディ―がとても知的なリズム的な描き分けで演奏されるとなればそれだけで超一流のリサイタルである。この優れた一部修正されたプログラミングが実行される時がライヴなのである。



参照:
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
とても革新的な響き 2021-01-16 | 音

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