Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

週末から年末年始へ

2017-11-26 | 生活
週末にはプッチーニの三部作の楽譜に一通り目を通したい。それが終わらないと目算が立たなくなる。先ず何よりも「ジャンニスキッキ」や「修道女アンジェリカ」は子供のころからラディオなどで一部を聞いたことがあるが、もう一つ「イルタバロ」は殆ど印象がなかった。そもそも筋などもはっきり分かっていない。それでも今はヴィデオがネットにあって、ざっと見れば筋も分かり場合によればテロップも下に入っている。だから楽譜に目を通す以上に重要な情報はない。音楽の大きな流れさえ見ておけば細かな歌詞もストーリーも必要なものは自然に頭に入る。

NHK音楽祭とやらでテキストのテロップが出ないとの苦情を多く目にしたが、自分自身が日本で海外公演の引っ越し公演などを経験した時にはテロップなどはなかった。あの当時はヴィデオもアナログだけで、輸入オペラヴィデオを集めている人は特殊で、一般的にはLPを大きな対訳頁を広げながら何回となく聞いたのだった。特にオペラの場合はオートチェンジャーでない限り何度もLPをひっくり返さなければいけないので、それだけの時間と根気をもって、引っ越し公演に通う人たちは今でいうオタクなどとはもう一つ行っている特殊層だった。だから今でもオペラには馴染めないというある年齢層以上の日本の音楽ファンもいて、欧米でのようにコンサートゴアーズよりもより大衆的なオペラファン層というのは存在しなかった。

そのような訳で、日本の聴衆がイタリア語やドイツ語などで歌われるそれを理解していたかなどに疑問を呈した文章すらが音楽雑誌に出ていたのを思い出す。要するに熱心な人たちはそれだけ労力を掛けていたことは間違いない ― むしろ高度な音楽ファンとさえ見做されていた。それを考えると、楽譜に目を通して、細かな情景やら全体像を定着していくことは何でもないことで、劇場にもテロップが用意されていて、聞き取れない言葉でも確認できるのだからまさしく便利になったものである。

そのような事情は何も極東の嘗てはオペラ劇場などがなかった日本だけのことではなくて、ミュンヘンの聴衆でも全く事情が変わって来ていて、昔ならば同じ公演に何度も通って楽曲を馴染んでいうことなくなって来ていると思う。要するに聴衆から最初から高度な要求が突き付けられるようになっているのは間違いがない。

一寸気になって、メシアンの「聖フランシス」の初演の録音を聞いたら、CDを持っているにも拘らず楽団がこんなにひどい演奏をしていたのかと驚いた。パリのオペラ劇場での上演だからあの程度なのかとも思ったが、小澤征爾の良さがよく表れているとしてもあそこまでしか出来なかったのかと思った。後任のヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダン指揮の演奏が酷いなと思うが、それともあまり変わらないとさえ感じた。

また年末年始からはミュンヘンでの最後の「指輪」上演のお勉強もより深くしなければいけないと思うようになって、ドレスデンでの「ヴァルキューレ」の公演の情報が出てきたので見た。初代バイロイト音楽監督が歌手を上手く都合していて、バイロイトへの前哨戦のようにパントラコーヴァが日本でと同じようにジークリンデを歌っている。一寸羨ましいのはツェッペンフェルトのフンディングぐらいだろうか。トレーラーを聞くとこれがまた下手な演奏をしていて、こんなものをネットに出しているのかと笑ってしまうのである。それでも売り切れになっているのは音楽旅行パックなどではゼンパオーパは人気があるからだろうか。



参照:
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評

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