最初で最後、ザッケローニジャパンを観た。独第二放送では、より価値ある試合のギリシャ戦を流したので、VIDEO映像で観た。前半の最後の三十五分がこの四年間のハイライトだったに違いない。香川などの動きは良くなかったようだが、八年前のカイザースラウテルンでのそれと比べると大分進化しているのは分る。あの当時は、日本人に「シュヴァルツヴァルトの友人がキーパーしているチームと勝負してもどっこいだ」と評したのだが、信じてくれなかった。
それから比べると、そこそこの普通の世界的なプロ選手を有するホンダチームになっていて、流石にプロのチームの印象は持ったが、ご近所のパン屋さん息子がキーパーをしているブンデスリーグの地元チームのレヴェル程度だろうか。なによりも、四年前の特殊なボールを持ち続けてと言う作戦でなくても普通に戦えるようになっているのは見て取れた。
しかし、解説番組で指摘されるように、十分な人数の守りが付いていても距離感を保っているだけの素人のサーカーもしくはからかいを含めて英国式のサッカーしか出来ない程度であることは明らかで、日本のサッカーと呼べるようなものを魅せるには到底至っていなかった。その証拠に、得意のパスワークの精度が問われ、勿論埋めようの無い体格差を補うだけの技を身につけていないことは明らかであった。グラウンドが悪いとか、条件が悪いとかのそれを補うだけの技術が無ければいけないことなのだ。
それよりもなによりも、日本のメディアにジャーナリズムが存在しないことがなによりもの問題で、これはスポーツジャーナリズムに限らないことであるのは周知の事実である。その背景には、マスメディアがありとあらゆる商業主義の摂理に則って、ジャーナリズムを封殺していることであり、それだけではなく政治メディアにもおいてその場限りの利権構造を保持するために、ありとあらゆるジャーナリズムやそれどころか学術・科学的な思考や批判が封殺されている構造があることも明らかなのである。
そこそこに良い選手である本田選手に余分に金が廻ること以上に、それ以上の大きな金や利権が隠されているように、安倍の「誇大妄想的な世界の日本」こそが、多くの日本国民が真実を知らされていない日本代表の実力と現実と同じことなのである。本物のジャーナリズムや科学やエリートが存在しない社会は、その大衆とともに痴呆化が進むだけなのである。
参照:
ライヴカメラを覗いてみる 2006-06-13 | ワールドカップ06・10
みっともない未開な文化 2010-06-30 | マスメディア批評
スカンポンなカメルーン西瓜 2010-06-15 | ワールドカップ06・10
それから比べると、そこそこの普通の世界的なプロ選手を有するホンダチームになっていて、流石にプロのチームの印象は持ったが、ご近所のパン屋さん息子がキーパーをしているブンデスリーグの地元チームのレヴェル程度だろうか。なによりも、四年前の特殊なボールを持ち続けてと言う作戦でなくても普通に戦えるようになっているのは見て取れた。
しかし、解説番組で指摘されるように、十分な人数の守りが付いていても距離感を保っているだけの素人のサーカーもしくはからかいを含めて英国式のサッカーしか出来ない程度であることは明らかで、日本のサッカーと呼べるようなものを魅せるには到底至っていなかった。その証拠に、得意のパスワークの精度が問われ、勿論埋めようの無い体格差を補うだけの技を身につけていないことは明らかであった。グラウンドが悪いとか、条件が悪いとかのそれを補うだけの技術が無ければいけないことなのだ。
それよりもなによりも、日本のメディアにジャーナリズムが存在しないことがなによりもの問題で、これはスポーツジャーナリズムに限らないことであるのは周知の事実である。その背景には、マスメディアがありとあらゆる商業主義の摂理に則って、ジャーナリズムを封殺していることであり、それだけではなく政治メディアにもおいてその場限りの利権構造を保持するために、ありとあらゆるジャーナリズムやそれどころか学術・科学的な思考や批判が封殺されている構造があることも明らかなのである。
そこそこに良い選手である本田選手に余分に金が廻ること以上に、それ以上の大きな金や利権が隠されているように、安倍の「誇大妄想的な世界の日本」こそが、多くの日本国民が真実を知らされていない日本代表の実力と現実と同じことなのである。本物のジャーナリズムや科学やエリートが存在しない社会は、その大衆とともに痴呆化が進むだけなのである。
参照:
ライヴカメラを覗いてみる 2006-06-13 | ワールドカップ06・10
みっともない未開な文化 2010-06-30 | マスメディア批評
スカンポンなカメルーン西瓜 2010-06-15 | ワールドカップ06・10
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