やはり記憶が新鮮なうちに書き留めておかないといけないのは楽劇「神々の黄昏」についてだ。写真が示すように、演出家のカストルフもブーイングを悠々と浴びていた。なにか手で示していたが、インタヴューを読むと分るのだろうか?いずれにしても悪役を一手に引き受けていたが、一部の支持者どころか可也のブラーボーも飛んでいた。今回分ったのだが、バイロイトの聴衆は、その他の音楽祭のエリート層とは異なり連邦共和国のごく普通の劇場訪問者層なので人気投票のようなところがある。それは一部の新聞評でも指摘される。しかし、もはや肯定的な反応が殆どとなってしまったのには意味がある。
その中で一人だけ大分得をしているのが指揮者ペトレンコで、また多くの歌手も可也得をしたようだ。徹底的に甘えた声で歌ったジークフリートは損をしたかもしれないが、カーテンコールでおどけた姿を見せていたので、なかなかつぼに入っていたということでもあろう。大変な経歴になったことだろう。
カストルフほど細かく台本を読んでいれば、指揮者はその舞台を助けに思い切って楽譜を読むことが出来る。第三幕冒頭のラインの乙女たちの歌への繋がりは、最初の「ラインの黄金」に対応していて、「フィナーレの始まり」と大見得を切るようなブルックナー効果が示されるところだが、その前夜祭の冒頭のそれ以上にその音楽的効果にはぞくそくとさせられた。ジークフリートの角笛が響き、陽の出を思わせるかのあの情景に張り巡らせられた「苦悩の動機」などの究極の音楽表現をここまで完璧に示せたのは、薄汚れたたようなオールドタイマーのメルセデスのトランクに死体を放り込み手の血のりを拭うラインの娘たちがいたからだ ― ここだけみてもこの演出が音楽と台本に如何に忠実かであるかが示されている。
その光景は殆ど喜劇的なつくりで、まさしく武のヤクザ映画でおなじみの場面なのだ。楽譜を引っ張り出してみれば分る筈だが、そのように作曲されているのである。あの薄汚れ感は今まで聞いたことのない音楽表現であり ― 反面最初のノルン三重唱は街中のブーデュー教のアジトで血ぬられていたが、音楽的にそのもの裏町効果を逸脱するものではなかった ―、初めてヴァークナーの音楽の本質に触れた気持ちがした ― そういえば「ジークフリート」でのドビュシーを越えて全く表現主義的な音楽表現は、ここに来てグスタフ・マーラーの萌芽を見せるのである。そうしたときに必ず舞台では相応の演出が為されていることを中々専門の音楽評論家も気が付いていない。舞台が指揮者を助けて、歌詞に音楽が付いている好例なのだ。
しかし頭でっかちの人はどうしても意味を考えてしまうようだ。例えば最後に覆いが外された建物はニューヨークの証券取引所であったりと、そこになんらかなの意味を探してしまうのだ。私などは完全にバイロイトの建物を感じていたので、同じ角度を探して写真を撮ったぐらいである。恐らく、神々の居所はバイロイトの祝祭劇場だったのだろう。ドイツェバンクでもない、流石にそこまでは挑発は出来まい。ギャグに深読みの意味合いなどを考える方が阿呆である ― カストルフは皆が彼のことを馬鹿扱いすると怒っていたようだが、中途半端な教養があるとどうしても実験劇場的な意味で納得したがるのだ。寧ろギャグはそのまま、挑発行為であるから意味があると、今回のプログラムに執拗に挑発している ― その意味から吉本新喜劇のギャグと変わらないのである。
開演前のベンチでシュトッツガルトのヴァークナー協会員と話したが、ああした保守的な層にとってももはや今回の演出は受け入れられないものではないようで、音楽の邪魔にならなければ良いとする意見が方々で聞かれた。そうしたいい方をする人は決まって音楽を十分に読めない人なのだが、そうした好意的な印象はなんといっても退屈させない演出と進行のお陰なのだ。既に書いたようにギャグや設定に関わらず創作の通りの演出だから違和感が少ないのである ― 上の会員にも寧ろヴィーラントのやり方が如何に本筋から離れていることを示唆したが、当然シェローとブーレーズの制作もあまりにもフランスらしい一貫した論理を主張したものであったかが明白だ。
そして何よりも重要なのは、今回は昨年観劇出来なかった後半の二作のために御忍びでやってきたメルケル首相夫妻ではないが、劇場空間の自足の中にだけ劇場の価値があるのではなく全く正反対に開かれていなければいけないのだ。それはどういう意味か?(続く)
参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
その中で一人だけ大分得をしているのが指揮者ペトレンコで、また多くの歌手も可也得をしたようだ。徹底的に甘えた声で歌ったジークフリートは損をしたかもしれないが、カーテンコールでおどけた姿を見せていたので、なかなかつぼに入っていたということでもあろう。大変な経歴になったことだろう。
カストルフほど細かく台本を読んでいれば、指揮者はその舞台を助けに思い切って楽譜を読むことが出来る。第三幕冒頭のラインの乙女たちの歌への繋がりは、最初の「ラインの黄金」に対応していて、「フィナーレの始まり」と大見得を切るようなブルックナー効果が示されるところだが、その前夜祭の冒頭のそれ以上にその音楽的効果にはぞくそくとさせられた。ジークフリートの角笛が響き、陽の出を思わせるかのあの情景に張り巡らせられた「苦悩の動機」などの究極の音楽表現をここまで完璧に示せたのは、薄汚れたたようなオールドタイマーのメルセデスのトランクに死体を放り込み手の血のりを拭うラインの娘たちがいたからだ ― ここだけみてもこの演出が音楽と台本に如何に忠実かであるかが示されている。
その光景は殆ど喜劇的なつくりで、まさしく武のヤクザ映画でおなじみの場面なのだ。楽譜を引っ張り出してみれば分る筈だが、そのように作曲されているのである。あの薄汚れ感は今まで聞いたことのない音楽表現であり ― 反面最初のノルン三重唱は街中のブーデュー教のアジトで血ぬられていたが、音楽的にそのもの裏町効果を逸脱するものではなかった ―、初めてヴァークナーの音楽の本質に触れた気持ちがした ― そういえば「ジークフリート」でのドビュシーを越えて全く表現主義的な音楽表現は、ここに来てグスタフ・マーラーの萌芽を見せるのである。そうしたときに必ず舞台では相応の演出が為されていることを中々専門の音楽評論家も気が付いていない。舞台が指揮者を助けて、歌詞に音楽が付いている好例なのだ。
しかし頭でっかちの人はどうしても意味を考えてしまうようだ。例えば最後に覆いが外された建物はニューヨークの証券取引所であったりと、そこになんらかなの意味を探してしまうのだ。私などは完全にバイロイトの建物を感じていたので、同じ角度を探して写真を撮ったぐらいである。恐らく、神々の居所はバイロイトの祝祭劇場だったのだろう。ドイツェバンクでもない、流石にそこまでは挑発は出来まい。ギャグに深読みの意味合いなどを考える方が阿呆である ― カストルフは皆が彼のことを馬鹿扱いすると怒っていたようだが、中途半端な教養があるとどうしても実験劇場的な意味で納得したがるのだ。寧ろギャグはそのまま、挑発行為であるから意味があると、今回のプログラムに執拗に挑発している ― その意味から吉本新喜劇のギャグと変わらないのである。
開演前のベンチでシュトッツガルトのヴァークナー協会員と話したが、ああした保守的な層にとってももはや今回の演出は受け入れられないものではないようで、音楽の邪魔にならなければ良いとする意見が方々で聞かれた。そうしたいい方をする人は決まって音楽を十分に読めない人なのだが、そうした好意的な印象はなんといっても退屈させない演出と進行のお陰なのだ。既に書いたようにギャグや設定に関わらず創作の通りの演出だから違和感が少ないのである ― 上の会員にも寧ろヴィーラントのやり方が如何に本筋から離れていることを示唆したが、当然シェローとブーレーズの制作もあまりにもフランスらしい一貫した論理を主張したものであったかが明白だ。
そして何よりも重要なのは、今回は昨年観劇出来なかった後半の二作のために御忍びでやってきたメルケル首相夫妻ではないが、劇場空間の自足の中にだけ劇場の価値があるのではなく全く正反対に開かれていなければいけないのだ。それはどういう意味か?(続く)
参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
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