Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

愛しい即物としての「生」

2009-09-28 | 文化一般
スパイヤーでのライヴのあと打上げの席に参じた。そこで、はじめて机を囲む面々と自己紹介やらしていて、カールツルーヘからのお客さんと作曲家ヴォルフガンク・リームの話などが出たのだが、当夜のプログラムにあった中島宏行のプロジェクト「生」に関連して自殺の話も出た。

その女性はハンブルクの貴族の娘さんのようだが東ドイツ出身なので本日開票される選挙における左翼党のポピュリズムに怒っていた、そして日本での自殺の多さが話題となった。これに関しては、ここでも繰り返し書いているように個人的に大変興味ある話題なのである。

さて中島氏の芸術を振り返る。「生」と題されたこのプロジェクトでは百枚の「生」の字が生にて次から次へと書かれていくのである。つまりその数は、日本で一日に自ら命を絶つ人の数に相当すると言うのである。それを五秒間に一つづつの早さで書き上げていく。その数は、世界中で子供が死んでいく早さなのである。

これをして私は「分かり易い」と表現した。何が分かり易いのか?

中島氏は、並べられた紙に左から右、右から左へと、思い思いにひとつとして同じではない文字を描いていく。そこには強くふてぶてしいものもあれば、細く神経質なものもある。ある時は霞み滲んで、ある時は血潮のように広がる。

それを発止発止と、または静かな祈りの如く書いていくのがパフォーマンスとなっている。そのライヴこそが「生」であるのだ。こうした判じ物は説明するにも一分ぐらいの時間を要する。しかし、そうして次から次へとかいていく流れは分かり易いのである。そして、各々が気に入った字を購入して持ち帰ればユニセフに寄付されるとなれば尚更分かり易いのである。

そこには、対象となるものが存在して、その意志が具体的な形で存在している。それは、既に紹介したジョイントライヴであったトム・バウマンの動的でありながら、否定の否定であるどうしても珍奇となり易い抽象とは相反するパフォーマンスなのである。謂わば、スパイヤードームの石を積み重ねたような実存がそこにある。

打上げの場において、こうしたパフォーマンスを受け入れる余地が何処にあるかという宇陀話となると、どうしてもカトリック社会における普遍的な包容と、プロテスタント社会におけるアンガージュマンへと集約されて来る。

中島氏は、万以上の数の「生」を大きな空間へと展示したいと語ったが、丸い穹窿にそれを放つのは容易ではないなどと考えて、安楽死を肯定するカルヴァン派の教会ならずスイスの木造の平屋根の教会などにそれが展示される様子を空想してみたりする。このプロジェクトの分かり易さは、そうした肯定的な意味でのザッハリッヒカイトでもあるのだろう。要するにバウマン氏のそれのような性的な肉体感を必要としない実存なのである。



参照:
NAKAJIMA HIROYUKI (HP)
プロジェクト 『生』/Speyer (中嶋宏行/おぼえがき)
Tom Baumann (HP)
皿まで食えないほどの毒 2009-09-26 | 生活

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