日々徒然に

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  あしたを考える一日をつくりたいね……

『緊急事態宣言』がでてから・・・職場・生活は日々災禍をうけている

2020年04月12日 | Weblog
 こんにちは。
 少しずつ温かくなってきました。毎日通る店の軒先、上を見上げてみたらツバメの巣が出来上がっていました。今年も同じところで子育ての準備がはじまっているようです。それでも、まだ少ないようです。温かくなってくればもっとたくさんの巣作りの様子がみえるのでしょうか。
 桜も今週で終わりそうです。こんどは、ハナミズキが咲き始めています。青い空にまっすぐにのびる木々は若葉も美しくなっています。自然は、今の騒ぎなどもろともせず、自然のなかで成長しているようです。



 とはいえ、新型コロナはますます拡大していますね。世界中でその拡大は大きな問題になっています。こんなときはどうしても、ネガティブになって生活が進んでいっていくようです。現実、ウイルスという存在がいつ、どこで降りかかるものか心配な日々が多い毎日です。政府は『緊急事態宣言』を出しました。その内容が、あまり具体的になってないようです。内容をみれば希望的なことのような宣言に思えてしまいます。「不要不急外出自粛」といわれても生活に必要なことには出かける必要もあるのでしょうし、マスクを探してみることで出かけることもあるでしょう。

 最悪だと思うのは「在宅勤務」といわれても、それに必要な機器の保障もないし、さらには具体的な指示もない状態が現実ですね。「夜間の外出自粛」も残業になってしまえば夜間に動いています。さらには、飲食店などはお客さんあっての商売にかかわらず、外出がなければいない状態です。まるで、日々真綿で首を絞められるようになっているのだと思います。お店への補償も必要になってくるのでしょう。それがますます、日々変わっていくように見えます。
 「全国民のマスク2枚配る」とかコロナでの「休業要請」で利益がなくなったところへ「30万円給付」とかいわれていますが、どこをどうやったらそなるのか、役所仕事だから、めんどうな手続きを何回もして・・・と勘ぐって「出したくないのでは」と思うこともあります。(黒澤明『生きる』という映画のなかに役所の仕事の実態が描かれていました。今も同じではと思います)。


 新型コロナウイルス感染がいっこうに減らない状況になった。日々、朝から晩まで感染者数とその対応についてのニュースを聞かない日はないくらいである(実際、新型コロナに対する状況は数字にしかわからないのが現実です)
 とうとう私のところも、毎週一日の出向先では「自宅勤務」という緊急行動にうつっていました。職種の中で新聞をつくるということは、印刷以外は、けっこうハードルは低いようです。だから、強行してみたようです。

 内容はといえば、各自が自分の持っている危機を最大限に工夫をして対応しているようです。実際には大きな危機がなくてもそれに代わるものさえ工夫すればできるものです。A3のプリントできなくても、A4で送って会社でA3に拡大してまらえばいいとか、画像は無料のソフトで大容量のものをダウンロードさせて送るとかしていました。圧巻だったのは、自分の作った用紙に書いたレイアウトをスマホで画像にして送ってきたものを、拡大してプリントしてやったことでした。けっこう、身の周りの機器を利用すればできることが多いようです。最近は、パソコン中心の新聞つくりになっていますから、それに関わる安い危機を使えれば、印刷以外はできてしまうことがわかりました。(さすがに印刷では数万枚といことでできませんが・・・)。

 それでもどうにか出来上がって翌日の刷り上がったものをみたときは「感激!」してしまいました。まさに「瓢箪からでたコマ」てきな在宅勤務強行突破のできごとでした。
 でもね・・・。それを最終的にまとめあげるところが、2カ所。(最終判断するデスクに一人、判断されるまで在宅から送ってきたそれぞれの材料をまとめる人が会社にいなければならないというわけです。出向がなくなった分、今度は会社でその仕事をするようになりました。それでも移動が軽減され、できるだけ多くの人との接触は避けられたということができたわけですからいいのでしょうか。
 大企業では、在宅勤務ができる機器一切を貸し出して設置してくれるそうです。個人情報漏えいの問題などもあり、そうやっているのでしょう。でも、私の従事する職場ではそれは出来ない、やらないようです。それも予算の関係もあるのでしょう。ひらたく言えば、それほど重要な情報を発信していないのかもしれません。それでも、読者の知らない情報を待っていると思えば、大切な仕事など思います。

 そんな経験を思いながら、いまいちばん大変なところは医療従事者でしょう。「医療崩壊」と聞くたびに「そうなるわなー」と思う日々です。これまでの政治がとってきた政策が「病院統廃合」などとことで、赤字といわれた病院がなくなってきたことが思い出されます。病院で働いている人にはいっさい関係ない所で病院が減らされてきたことを思います。なんでも経済効果をつくろうとした政治の結果でしょう。だから、命を守るべき拠点がなくなることで「医療崩壊」が出てくるのもわかるような気がします。これが安倍政権だったことを反省すべきじきなのだと思えます。
 そんななかでも最前線でこの災禍にたずさわっている人がいて新型コロナの終息もないことだと思います。1機何百億円とする戦闘機よりもはるかに人の役にたつことを思えば、これからは予算の在りかたを考え直すときでしょう。そんななかで、医療従事者の感染のニュースを聞くたびに、市民の感染がもっと増える予想がついてしまうことも現実なように思えます。

 それぞれの場所で、すくしでも社会をよくしようとして動いている人たちの工夫が大事なときなのだと思います。今年、新規採用になった人たちは、こんな時期に入ってしまったことは不幸です。それだからこそ、その人たちと一緒に働くことを続けることがいま大事なひと工夫でしょう。
 なんにつけ、政治の判断が現実的にならない今だからこそ大事だと思います。


 今年「東京五輪」は楽しみしていた。ところが「新型コロナウイルス感染」で日本どころか世界中が騒然とした年となってしまった。なかなか「新型コロナ」に対応が遅れたことが、日々の感染者数の増え方をみればわかるだろう。それというのも「東京五輪」があったからだろう思う。できれば、開催してほしいと思うが、今年は「命が第一」と考えればいち早く対応が必要だと思う。これも「経済優先」の結果なのだろうか。

 命がなければ経済もないだろうし、スポーツもない・・・ということがわからなかったことではあるまい。裏を返せば、いかに命が軽く扱われてきたことなのだろうと思う。そろそろ、経済はこれまでの稼ぎを新型コロナウイルス感染対策に吐き出す時なのかもしれない。とくに大企業は、もっと働きやすく残業の少なくすることや子育てが出来る労働環境を本気でつくる時代がやってきたのではにかと思う。これまで、政治が残業規制やパワハラ対策を出してきたが、現場では「過労死」や「自殺」などが報道される。その度に、政治がいくら法律をつくってところで「絵に描いたもち」である。

 やればできたのに「在宅勤務」も新型コロナが出てきてからやっと実施するような現実をみれば、現場では政治のなかみを実施してこなかったことがうかがえることだと思う。
 なんであれ、「垂れ幕ばかり立派」でもそれを実施できるのは現場の人たちだ。「緊急事態宣言」でこれまで以上の人や企業の「自粛」が声高に叫ばれている。要は人と人の接触をできるだけ避けるということなのだろう。
 とはいえ、そうはいっても災禍のときでも必要不可欠な人たちもいる。いまは、そういう人たちをいかに守るかがそれ以外を人々を守る指針にでもなるだろうから、実践していくときかも知れない。そらに言えばいま必要な「お上からの大型プロジェクト」ではなく「自分が暮らしを続けられる小さなプロジェクト」ではないのだろうか。その後に「東京五輪」の素晴らしさもあるのだろう。
 そんなことを覚えた「自宅待機」の一日。


 「日々を不安がかけめぐる」・・・日々です。確か詩人、吉野弘さんの詩の言葉では『日々が慰安をかけめぐる』であったような気がする。
 知人のこと、家族のこと、仕事のこと・・・、コロナに感染したらどうしようと。それでも、できることはマスクをしたり、これまで以上に手洗い・うがいなどをやっている。そして、今年は、私なりつくった「今日を忘れて眠る」日々となっている。クヨウヨせず朝陽があがればいいと思っている。さらに、眠っているうちに心臓がとまったらそれまで・・・だと。

 カミュの『ペスト』という本を読んでいる。感染症がつくる社会が描かれている。人々はウイルスによって多くの感染死に追い立てられていく。それでも生きていくという中で人々は代償として何をえるのだろうか・・・ということを考えさせられる。この機会を金儲けだとして、避難する人々にさらに災難をつくる(例えばマスクを買い占める人みたいに)人がいたり、それでも医療従事者のように生を最大限につくろうとする人びと。災禍のなかを生きていく人たち。「最善を尽くす」ということはいったいどういうことなのか、ということも考えさせられる。(まだ途中)

 「不安」であれ「慰安」であれ、私たちの生活の一部。いつ、どこで、何のために・・・と。背中合わせのことば。どちらもいつも一緒にいることには間違いない。



 今週は中央線も人が少ないようだった。電車が時間通り、遅れることもなく走っていた。本当はこんなことが当たりまえだったのだろう。ずーっと満員で5~10分も遅れていたのが当たり前だったころとは違っていた。だからストレスもたまらず乗れる日々が続いたのかもしれない。体がぶつかりあう電車はいったいなんだったと思う。
 来週は少しずつ、在宅勤務の人にも合わせることになれるだろう。

 「新型コロナウイルス感染」はまだまだ続きそうだ。通勤7割削減という目標が出たが、職場で7割いなくなったら給料がでなくなる。都市全体で7割としても、私の会社はきっと入れない。接触感染がいちばんこわいのはわかるが、削減されたら中小企業は大企業からの負荷がかかるから救われないかもしれない。だいたい、零細・中小企業はテレワークをする機材保障もないばかりか人員がたりない。これが、経済優先の政治がつくりあげた結果なのだろうと思う。できるのは、1割にも満たない人への自宅待機で、仕事のことを時々電話するくらいだろう。
 春がやってきたと喜びたい。花も虫も、そして人たちも明るい・・・とうのがいつもの光景なのだろう。今年は、いつもの春とちょっと違っていた。散歩をしていると、どこから「こちらは・・・新型コロナウイルス感染で・・・」という大音量の声がスピーカーから聞こえてきた。こんな春は、2011年の東日本大震災の時、計画停電のことをスピーカーから聞けえたきた。あれ以来の声が聞こえてきた。一気に散歩が緊張したように思う。

   たいへんな毎日になってしまいました。新型コロナウイルスは世界中に蔓延しているようです。今週では、米国がいちばん感染者数になっていました。日本ではこれからが感染者が増大していく状況のようです。だから、いまが「正念場」とでもラジオなどから聞かれるのでしょうか。それにしても「新型コロナウイルス」とは怖いものです。最近、後輩に「新型がるのだから旧型もあるんじゃない。旧型ってどんなもの?」と聞いたら「旧型はこれまでの感染症でワクチンなども開発されているもので、新型はワクチンもないものだよ」と言われました。「なるほど・・・だから怖いのか」と思いました。目にも見えず、においもしない。このウイルスに対応するにはどうしたらいいのかな・・・と日々思いました。

 では「ウイルス」とはいったいなんでしょうか。
 ちょっと長くなりますが3月29日(日)東京新聞「日曜版」に載っていた記事を引用してみました。そこでは・・・

 人は生活圏の外といえる環境に開発やレジャーで侵入し、そこで生きる動物たちと触れ、それらを食する機会も増えています。動物の多くは相性のよい、人間とは無縁のウイルスと共生していますが、普通、動物には病気は起こしません。ウイルスは地球の歴史の中で環境に応じて進化し、それぞれの生活圏で動物と共に生きています。

 そこに部外者である人間が入りこむと、人はこれまで遭遇することのなかった未知のウイルスに曝されることになります。その結果、たまたまそのウイルスに感染すれば、人間にとって新たな感染症となり、免疫がないため、時には大流行し大勢の命を奪うことになります。これはウイルスが人間という侵入者に感染症として応酬し、地球の進化の過程で定められた生活圏を守るようにと警告を発しているのかもしれません。

 しかし、今後も人間は飽くなき欲望のため未知の生活圏に入りことをやめず、新たな感染症の発生が繰り返されることでしょう。さらに科学技術の進歩で人口的にウイルスの性質を変えることが可能です。このように改造されたウイルスが生物兵器や研究室の事故などにより人間世界に入りこむ可能性もゼロではありません。

 しかも、現代では空路の著しい発達により、ウイルスを保有した人が1日あれば、世界中どこへでも運ばれます。空路は基本的に都市圏と都市圏を結ぶため、さらに感染が広がりやすい状況を作り出します。社会、経済のグローバル化は感染症もグローバル化しました。さらにグローバル化は経済援助も可能にする一方で、経済は格差も生みだしました。経済の弱い地域ほど医療現場が乏しいことが多く、このような地域に新興感染症が持ち込まれると一気に流行することになります。

 ただ、新たなウイルス感染症が勃発しても、たちどころにその原因ウイルスが突きとめられ、人間の細胞への侵入経路や増殖のメカニズムも解明され、ワクチンが作られてきました。
 感染経路を断つためにはマスクなどの防護具や手の消毒を行い、人の出入りや人が集まることを制御して感染の拡大防止に努めていく必要があります。
(慶應大学感染症学教室教授・長谷川直樹)

 だそうです。長くなりましたが、結局、ウイルスも人間の行動が何らかの作用で起きているように思えます。うらを返せば、人間の身勝手さからもウイルスが登場し、人間に警告をしてるようにも思えるのです。
 だからではないですが、今回の新型コロナもなにか私たちに問いかけているようにも思えることがあります。人類が地球に誕生していらい、ウイルスとの長き付き合いのなかでいくつかの感染症によって乗り越えてきたのだと思います。私が生れて初めての経験は、何百年かまえにも経験してきたことなのでしょう。それでも、まったく経験しないままの人もいたでしょう。
 それでも2000年になって「サース(SARS)」や「新型インフルエンザ」、「マース(MERS)」などがここ20年の間に多く出てきていることは何らかの環境変化があるのでしょうか。

 静まるまできっと時間がかかるでしょう。どんな環境になってしまうのか心配でもあります。誰でも感染する可能性もゼロではないでしょうか。しかし、こんな地球にしてしまってから、ウイルスに言わせれば「何をいまさら身勝手な・・・」など言ってのが聞こえてきそうです。どんな時でも、こんなとき、いちばん被害に遭うのが先述してもいたのですが体の弱い人、疾病を抱えている人、格差で貧しさに押し込まれてきた人たちだと思います。そしてできることは、よく食べて、よく眠ることなどしか浮かびません。働きすぎもあるんだろうなあー。その結果としての自宅待機やテレワークが生れてきたのではないのでしょうか。
 では今週はこの辺で・・・。くれぐれも、出来る範囲で感染防止に頑張りましょうや・・・。そしてご自愛ください。
早々

 さて、いつまで続くのやら。

 読者の会社ではいかがですか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。