市民活動総合情報誌『ウォロ』(2013年度までブログ掲載)

ボランティア・NPOをもう一歩深く! 大阪ボランティア協会が発行する市民活動総合情報誌です。

2008年11月号(通巻440号):目次

2008-11-01 15:51:54 | 2008 バックナンバー:目次
《V時評》
金融危機と国民総幸福(GNH)
 ・・・増田宏幸

《特集》
ニュータウンの栄と枯と
 折り返しを始めたまちづくり
 ・・・杉浦健、山中大輔、長谷川計二(関西学院大学総合政策学部教授)

《うぉろ君の気にな~る☆ゼミナ~ル》
コミュニティ・ユニオン
 ・・・ラッキー植松&牧口明

《語り下ろし市民活動》 
「カマやん」とともに歩んだ30年
大阪・釜ヶ崎~日雇い労働者の街、そして「まちづくり」へ(1)
ありむら潜さん(釜ヶ崎のまち再生フォーラム事務局長、漫画家)
 ・・・早瀬昇

《市民活動で知っておきたい労務》
労働契約を交わす際、どんな点に注意すればいいの?
 ・・・石田信隆

《ゆき@》
相模野、小さな病院の大きな挑戦、です(*^^*)。
 ・・・大熊由紀子(福祉と医療、現場と政策をつなぐ「えにし」ネット)

《この人に》
東志津さん(記録映画作家)
 ・・・村岡正司

《ウォロ・バルーン》
 ・・・竹島一恵、辰巳砂悦子、堀井隆弥

《コーディネートの現場から ~現場は語る》
若者と障害者のワークキャンプとボランティア活動の動機からみえてくるもの
 ・・・白井恭子(大阪ボランティア協会・市民エンパワメントセンター)

《VOICE NPO推進センターの現場から》
助成する側の立場で考える
 ・・・江渕桂子(大阪ボランティア協会・NPO推進センター)

《リレーエッセイ 昼の月》
21通の手紙

《わたしのライブラリー》
「市場経済を超える領域での豊かさ」について考えるための本
 ・・・川井田祥子

《3つ星》
陶芸くらぶ&オーガニックカフェ寿(大阪府高槻市)
 ・・・岡村こず恵

《共感シネマ館》
『ブラジルから来たおじいちゃん』

《レポートR》
映画『ひめゆり』監督&本誌編集委員トークショー
 ・・・吉田泉

《レポートL》
未来の「日常」へ『ポレ壁』プロジェクト
 ・・・村岡正司

《ニュース》
CB・CSOアワードおおさか2008・大賞50万円 ほか


2008年11月号(通巻440号):V時評

2008-11-01 15:49:40 | ├ V時評

金融危機と国民総幸福(GNH)


 指標から見る市民活動の方向性

編集委員 増田宏幸

 米国発の金融危機は、自分の生活に影響があるのか、ないのか。あるとしたら、どんな形で降りかかってくるのか。株取引をしていなくても、先が見えない不安を感じている人は多いだろう。経済情勢が極度に悪化すれば雇用や賃金水準を落ち込ませ、失業などによって暮らしの基盤を壊される場合もある。
 地道に物を作り、適正な価格で売買し、サービスを提供する人が世界中にいて、その営みは何も変わらない。ところがある日、株価という得体の知れない数字が下落しただけで、多くの人の暮らしが危機に瀕する。これはどう考えたっておかしい。人類の健康度を、もっと適切に表せる指標はないものだろうか。例えば「GNH(国民総幸福)」のように。

■ヒマラヤの王国・ブータンの取り組み
 GNHとはGross National Happinessの略で、よく見聞きするGDP(国内総生産)のP=Productを「幸福(度、量)」に置き換えたものだ。「GNH研究所」のサイトによると、この考えは1976年12月、スリランカで開かれた第5回非同盟諸国会議の記者会見で、当時21歳だったヒマラヤの王国・ブータンのワンチュク国王が「GNHはGDPより重要だ」と述べた言葉から広がった。
 環境ジャーナリストの枝廣淳子さんが日経新聞サイトに載せた解説(07年9月12日)が分かりやすい。それによると、ブータンは60年代~70年代初めに先進国の経験やモデルを研究し、「経済発展は南北対立や貧困問題、環境破壊、文化の喪失につながり、必ずしも幸せにつながるとは限らない」という結論に達し、GDPではなく人々の幸せの増大を求めるGNHの考えを打ち出したという。
 枝廣さんはGPI(Genuine Progress Indicator=真の進歩指標)も紹介している。医療費の増大や乱開発すら総量に含まれるGDPに対し、GPIは家庭やボランティアなど幸せをつくり出す活動の経済的貢献をプラスし、逆に犯罪や公害など幸せや進歩につながらない活動に伴って動いたお金や、健康や環境への被害額を引いた数値だという。
 GPIに取り組んでいる団体が50年代以降の米国のGDPとGPIを比較したグラフを見ると、70年ごろまでは両者が平行して伸びているのに対し、その後はGDPだけが上昇している。GPIは横ばいで、経済指標が幸福感や豊かさの実感とリンクしていないことがよく分かる。まして株価など、人間の活動の一断面を示すに過ぎない。枝廣さんは「GDPを追い求めるような経済政策や国づくりをしていていいのでしょうか?」と問いかける。

■世界大戦を招いた大恐慌
 とはいえ、降りかかる火の粉は払わねばならない。米政府や各国は緊急対策を打ち出したが、10月下旬段階では効果を上げたとは言えない状況だ。危機が当面回避されたとしても、ただちに経済情勢が好転するわけではない。多くの専門家が今後の世界的な景気減速を予想しているし、これからが本当の危機だと指摘する声もある。
 1929年10月、ニューヨーク株式市場で起きた株価暴落は、その後の世界恐慌を招いた。当時と今回とでは各国の対応スピードと協調に雲泥の差があり、銀行が連鎖倒産するような事態にはならないだろう。それでも忘れてならないのは、世界恐慌がナチズム、ファシズムを台頭させ、日本でも5・15事件など軍部の暴走を引き起こしたことだ。
 同じようなことが起こるとは考えられないが、変化は半年や1年で現れるわけではない。第2次世界大戦が始まったのは、株暴落からちょうど10年後の1939年9月だった。当時、10年後の世界大戦を予見した人はいなかっただろうし、今、2018年の世界を正確に見通せる人もいないだろう。苦境にある米自動車大手の経営破綻など実体経済に顕著な影響が出てくれば、暴落で直接の損害を被らなかった人も動揺する。不安は更に消費を抑制し、米国市場に依存する各国も大きく揺さぶられるに違いない。世界大戦はなくても、地域紛争の緊張は高まるだろう。

■市民セクターの力で制度づくりを
 金融危機と並行して、日本ではNPO法施行から最初の10年が終わろうとしている。次の10年、不安定化するかもしれない社会で、市民活動にはどんな役割が求められるだろうか。
 大きな柱は「制度づくり」への関与だと思う。単体のNPOでは対処しきれない問題や、対症療法的な支援では解決につながらない課題について、共通の問題意識を持つ個人・団体や、場合によっては市民活動セクター全体が動いて制度化による解決を働きかける。連携を強めるにはハブの役割を果たす存在も必要となる。不要なダム建設や補助金などに無駄な税金が使われないよう、政治に物申すことも大切だ。
 結局のところ市民活動の充実は、GNHの増大と同義ということになる。セーフティーネットや拠り所がある安心感、一人一人の自己決定権が尊重され、少数意見が受け入れられる信頼感は、経済指標とは別の価値だ。この社会的な富に目を向ければ、たとえ景気後退でGDPがマイナスになったとしても、幸福量が減少したと思わずにすむのではないだろうか。
 与信という言葉があるように、考えてみれば経済も信用・信頼で成り立っている。信頼のベースは人間と、人間の活動がもたらす手応えのある実体だ。経済が人から離れるとバブルが生まれ、疑心暗鬼とともに崩壊する。その傷は無関係な人も巻き込んで相当に大きく、治るまでには長い時間がかかる。痛みを和らげるには、温かな看護の手が必要だ。次の10年、市民活動は大忙しとなるかもしれない。

2008年11月号(通巻440号):この人に

2008-11-01 15:45:34 | ├ この人に
観る人と被写体をつなぐ橋渡し役。
映画の創り手としての私の使命です。

記録映画作家
東 志津さん

32歳の記録映画作家の初監督作は、80余年を生き抜いた女性の物語だった。
60年以上も前の日本と「満州」の記憶、そして自分は知るよしもない大戦の記憶…。テレビや本の中でしか見聞きすることのなかったそれらを、みずから継いでいこうとカメラを回し続けた東志津さん。彼女を突き動かしたもの。それは栗原貞子さんという、一人の中国残留婦人との出会いである。

■『花の夢 ある中国残留婦人』、何ともいえない柔らかな映像に引き込まれ、気がついたら1時間37分が終わっていました。撮影も全編ご自分で手がけられたんですね。

 あの映像を出せたのは奇跡です。私自身も信じられないくらいで。「孫」の世代にもあたる私ですが、同じ女性として栗原さんの優しさと強さを秘めた生き方に共感し、かつ敬意を込めて撮り続けていました。
 3年間通って撮った60分テープが7、80本。これをどれだけ使うかということよりも、カメラを回すことで、栗原さんの心の中により近づけるのではないかと思ったんですね。撮影は栗原さんを疲れさせないように、かなり断続的に行いました。お住まいの都営住宅に幾度となく寄せていただいて。観客の方などから、相当長い時間家にお邪魔して撮影したんですね、と言われることもあるんですが、実際は30分から1時間くらいです。長くても2時間を超えないようにしました。回を重ねるごとに撮影のためにという意識がだんだんなくなり、遊びに行ったらカメラがある。お話のついでに撮影もしましょうか、みたいになっていきました。

■映画の冒頭、洗濯機の回るシーンが延々と長巻きで映し出されますね。次いで台所にあるペットボトルのジュース、風を送る扇風機など、ともすればカットされるようなシーンをひとつひとつ残されているのが印象的でした。

 お住まいの部屋にあるいろいろな生活の小道具は、栗原さんの「今」とともに存在するんですね。「今、栗原さんが生きている場所」というのを、私自身がていねいに見つめ直してみたかったんだと思います。でも撮影をしているあいだは、他に撮るものがないしとりあえず撮っとこうかな、みたいな感じでした。「これを撮らなければ」とかは全然考えてなかったんですよ。それが最終的に編集をする段階になって、それらの持つ重要な意味に気づかされました。
 それぞれのカットが映し出された瞬間だけではなく、エンドロール(映画の終幕に流されるスタッフなどの一覧)になったときに、今まで映し出されていたシーンが全部つながって、わあっ、こんなことなんだ、と感じてくれるような作品になればいいな、と、ずっと考えていたんです。だから部屋の中のものを大事に撮っておいたことはよかったですね、今になって思えば。
 私は日本へ帰ってからの栗原さんしか知りません。だから中国の映像などは一切ないし、あえて使わないようにしたんです。たとえ今、中国の映像を撮ったとしても、それは栗原さんが住んでいたころの中国ではないんですよね。「ここに住んでました」とナレーション入れて、栗原さんがその前で語ったとしても、それはあくまで「過去」になっちゃうんです。
『野や山にそのまんま、死んで棄てられた子ども。川で流された子ども。何も食べるものもなくて飢え死にした子。あの、野原にこう、死んでるのか、生きてるのか、寝てるのかっていうような。寝てるんじゃない。もう、死んでるんだけど、かわいそうでね…』
 こんな壮絶な話も、現在のお住まいで語るなら永遠に「過去」にならない。むしろ観る人の想像の世界では「現実」っていうか、終わってない物語になっていくんじゃないかと。「過去を振り返ればこういうことがありました」という映画にはしたくなかったんです。

■非常に重たいテーマを、あの部屋にあるいろいろなものが中和してくれているような…。

 栗原さんの言葉が生きるためには、どういう舞台を揃えれば一番いいのかを考えたんです。さまざまな小道具のシーンをつなぎ合わせながら、「今」の生活に流れる淡々とした「日常」を映せば、それが活かされてくるのではないかと。あんまり深く考えてなかったんですけどね。いわば凡人のなげやりといいますか(笑)。
洗濯物が風になびく窓。外からは子どもたちの声が聞こえる。そんな空間のなかで語られる言語を絶する体験。でもそこは私たちが普段生活している場とさほど変わらない。この距離の近さが、観る人一人ひとりと非常につながりやすいものになってたと思うんです。自分の家の隣に住んでる人が、もしかしたらそんな体験をしてきた人かも知れない、と自分の身に引き寄せて考えてみる、想像してみる。それは決して難しいことではなく、私たちの日常とも密接に結びついているんだということを伝えたかったんですね。

■栗原さんとはどうやってお知り合いになられたのですか。

 大学卒業後、フリーのディレクターとしてたまたま関わったケーブルテレビの番組制作がきっかけです。中国残留孤児や残留婦人、あるいはその二世・三世が多く住んでおられる地域での取材だったので、あちこちで中国語を耳にしました。当初、「残留婦人」の存在はおろか、その言葉自体もまったく知らなかった私は、日本の名字なのに、あの人たちはなぜ中国語を話しているのだろうかと不思議に思っていました。その後いろんな歴史的背景を知るにつれ、残留孤児のお子さんやお孫さん、残留孤児ご本人、そして残留婦人へと、取材の対象が変わっていきました。
 そんな時期、ある支援団体の方から新年会にお誘いいただき、会場で栗原さんに出会ったんです。ご本人から初めて中国での体験談を聞いたあと、「こんなことがあっていいのか」と憤り、今まで「知らなかった」自分に腹立たしさも覚えました。小学校や中学校のとき、担任の先生が年配だったこともあり、戦争体験はよく聞かされ、私自身もわりと興味を持ってたほうでした。でも広島、長崎はもとより、東京大空襲の話にしても、主に日本がどれだけ被害を受けたかに終始するんです。何でそうなったのかまでの説明はないし、「満州」のことなんか教科書では2、3行で終わっちゃうんですね。まあそれを語ろうとすると「日本が何をしたか」というふうになってくるので、大人もあまり話したがらないんですが。
 だから、この映画をつくるきっかけは「もっと聞かせてほしい」「もっと知りたい」という、私自身の思いからスタートしています。

■映画の中で語られるエピソードは想像を絶する悲惨な話ばかりです。栗原さんご自身、語るのが辛いと思われてはいませんでしたか。

 始めは話を聞く私の方にためらいがありました。戦争を知らない時代に生まれた、半世紀近く年代の違う私と、戦禍をくぐり抜け、何十年も苦労を重ねながら異郷の地で6人のお子さんを育て上げてきた栗原さんの境遇はかなり違います。そんな耐え難いほどの辛い記憶を、ご本人の人生の奥深いところまで入り込んで、私なんかが聞いていいのだろうかと。でも後でビデオテープを観ると確かに辛そうな場面もあるんですが、「知りたい」私に対して、一生懸命答えてくれる栗原さんがいる。ということは、この話は外に向かって開かれていくべきものなのでは、と思えるようになりました。私自身の見方が変わってきたんです。
 どんな話をするときも栗原さんの語り口は優しく柔和で、決して誰かを告発したり恨んだりという感じがないんですね。そういうお人柄にひかれ、次々とインタビューを続けていけるようになりました。
 映画が完成したとき先輩から言われて嬉しかった言葉があります。「東は映画を創っていたというより、(映画制作を通して)東自身が栗原さんに包まれていたんだね」。

■「日常の目線」で感じた問題意識がふくらんで、大きな実が結べたということですね。後に続く若い世代がドキュメントを撮るときのアドバイスなどがあればお聞かせください。

 そうですね、逆に私がアドバイスしてほしいくらいなんですが。まあ、独りよがりにならないということでしょうか。編集、つまり仕上げの段階になると、人に観てもらう、ということが大前提なので、音楽、ナレーションにしても、自分が観客であれば次のカットに何を観たいか、ということを始終考えています。
 常に頭をよぎるのは、作品のなかから「いかに自分を消すか」ということですね。完成したら、もう私という存在は完全に消えてなくなってる、そんな映画を創りたいなと思います。もう少しあなたの主張が出てもいいんじゃない、って言われることもあります。でも映画を創ること自体がもう主張なので、私の場合、どうやってもそういうふうに主張を出した作品にはならないと思うんです。それが私の個性なんですから。あとは観客の方の見方、感じ方にすべてを委ねていけたらと思いますね。
 私のような仕事を一般的には「監督」と呼びますが、自分としてはあまり意識してないんですよ。私は観る人と被写体をつなぐ橋渡しのような存在にすぎないし、それが映画の創り手としての私の使命かなと思っています。

インタビュー・執筆 
編集委員 村岡 正司

●プロフィール●1975年大阪生まれ。生後まもなく東京へ移る。大学卒業後、映像の世界へ。PR映画、CMなどの制作をへて、03年よりドキュメンタリー映画の制作を始める。04年、『花の夢』の前身となる『あなたの話を聞かせて下さい~中国残留婦人栗原貞子さんの日々~』(30分作品)で、「2004年地方の時代映像祭(市民自治体部門)」奨励賞受賞。

■中国残留婦人とは
 1945(昭和20)年8月、日本が敗戦を迎えると、在満州開拓民たちは難民となった。ソ連(当時)の侵攻や中国人らの報復を受けながら、決死の思いで引き揚げた人もいたが、その3分の1にあたる約8万人が、避難途中の襲撃や、飢え・寒さのため命を落とした。難民の大半は女性と子どもで、それが犠牲者を増やした原因のひとつになった。日本の戦況悪化に伴い、男性は根こそぎ召集を受けていたのだ。
 中国に取り残された日本女性たちが生き延びる手段のひとつは、現地の中国人との結婚だった。子どもを生かしたい一心で、中国人のもとに身を寄せた母親も少なくなかった。
 近い未来、状況が落ち着けば帰国できると信じていた彼女たちであったが、1958(昭和33)年、長崎で起こった中国国旗侮辱事件を契機に、引き揚げ船事業が打ち切られるなど「日中国交全面断絶」といわれる事態になった。これら3千人以上にのぼる「中国残留婦人」は、以後20年以上にわたり異郷の地での生活を強いられたが、その間日本政府からの連絡は一切なかった。現在も約200人が中国で暮らす。
 厚生労働省は、「中国残留孤児」を終戦時12歳以下、「中国残留婦人」を13歳以上と区別し、補償にも一線を画している。13歳以上であれば正常な判断ができる大人だとみなし、中国へ残ったのもみずからの意思、つまり“自己責任”だというのが、現在までの政府見解である。

2008年11月号(通巻440号):わたしのライブラリー

2008-11-01 15:38:49 | ├ わたしのライブラリー
「市場経済を超える領域での豊かさ」について考えるための本

編集委員 川井田祥子

『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』
広井良典著、2001年、岩波新書(本体700円+税)

『持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想』
広井良典著、2006年、ちくま新書(本体780円+税)

『地域の力―食・農・まちづくり』
大江正章著、2008年、岩波新書(本体700円+税)

 この原稿を書いているのは10月初旬。ここ数日、新聞によく登場する言葉は、「世界同時株安」「金融危機」など、サブプライムローン(信用度の低い借り手向け住宅融資)問題に端を発したものだ。成熟社会への移行に伴って、製造業の成長がかつてのようには望めず、先進諸国は金融市場の拡大を競ってきたわけだが、投機による経済成長の危うさ、実体もなければモラルもない資本主義の暴走ぶりが再び露呈されたと言える。 
 グローバリズム、つまり世界全体を一つの市場とみなして行われる経済活動の進展を止めることは不可能に近く、世界中が米国の信用低下の影響を受けざるを得ない。だからこそ日本は、もう安易なアメリカン・スタンダードへの追随をやめて、豊かさとは何かを真剣に考えるべきだろう。

■『定常型社会』、『持続可能な福祉社会』
 この2冊は、別々の文脈で語られることの多かった「社会保障」と「環境」を結びつけ、経済成長に依存しなくても十分な豊かさが実現されていく社会のあり方を示すものだ。著者の広ひろいよしのり井良典は、2つの対立軸を交差させて現代社会が抱えている問題を浮き彫りにし、「環境|福祉|経済」の今後のありようを具体的に提示している。
 2つの対立軸とは、「大きな政府=高福祉・高負担」と「小さな政府=低福祉・低負担」が両極をなす軸と、「成長(拡大)志向」と「環境(定常)志向」という軸だ。前者は人間の経済活動の成果である“富の分配”をめぐる議論で社会保障政策に関わるもの、後者はいかに大きな成果を上げるかという“富の総量”をめぐる議論で環境政策に関わるものだと言える。
 大きな政府と小さな政府、これらはいずれも経済成長を前提に成り立っている。欧米でどちらを支持するかという議論が活発に行われてきたのは、富の分配をどうするか、すなわち成長だけをよしとせず社会の公正さをどう実現するかという「価値」の選択に人々が関心を寄せてきたからだ。その背景には資本主義が発展するべき理由を人々がきちんと認識できていたという事情がある。つまり資本主義において私的利益の追求が積極的に認められたのは、個々の私的利益の追求が、結果として社会全体の利益を増大させると信じられてきたからだ。有名なアダム・スミスの言葉を借りれば、「見えざる手」が働くというわけで、資本主義は本来、市場経済制度と社会保障制度とがセットになっているものなのである。市場経済による“効率”の追求と社会保障による“公正”の追求とを車の両輪にすることで、「経済と倫理の両立」をめざすものだとも言えよう。
 ところが日本は、経済成長のみを重視し、しかも「すべての問題は経済成長が解決してくれる」とばかりに公共事業の拡大路線をひた走り、社会保障をどうするかという価値の選択をめぐる議論を後回しにしてきた。そこで著者は、「物質的な豊かさが飽和し、経済が定常化した後の時代において、人々はいったい何に価値や幸福を見出していけばいいのか」という基本テーマを設定し、一連の書物を著している。『定常型~』では「成長という価値の絶対視からの脱却」に力点を置き、『持続可能な~』では豊かさを実現していくための具体的テーマ――機会の平等を実現する人生前半の社会保障、医療政策、コミュニティなど――について論じている。
 さらに、「定常型社会は自ずと分権型社会を導く」というように、質的豊かさを実現するには、一人ひとりが価値の選択をめぐる議論に参加し、なおかつ試行錯誤を繰り返していくというプロセスが必要だ。広井のいう“定常”とは、変化しないことではなく、創造的アイデアや自発性があってこそ実現されるものなのだろう。

■『地域の力』
 本書は、利潤の追求のみを目的としない、相互扶助を重視した「連帯経済」が生まれつつある地域の実践をルポルタージュしたものだ。取り上げられているのは、独立自営農民をめざす島根県の酪農家、「葉っぱビジネス」で産業型福祉を実現した徳島県上かみかつ勝町、適正な(Appropriate)利益(Profit)をあげる会社(Company)すなわちAPCによって豊かな森と持続可能な林業の共存をめざす高知県梼ゆすはら原町、LRT(ライトレール・トランジット)という路面電車の導入でまち全体の活性化を図る富山市、都市農業で農縁コミュニティを築く東京都練馬区など、8つの事例だ。
 共通しているのは、まず、地域資源を活かし、暮らしに根ざした中小規模の仕事を発展させ、雇用を増やしていること。そして、前例にとらわれない発想とセンスをもち、仲間を引っ張っていくリーダーが存在することだと、著者の大
お おえただあき江正章は述べる。
 先に紹介した広井が述べるように、資本主義が発展した近代化の過程で、相互扶助的な関係を基盤とする共同体が、私的利益の追求を認めたために「公」の領域(国家・政府)と「私」の領域(企業・個人)とに引き裂かれていった。大江が紹介しているところは、新しい「共」を生み出すべく「公」と「私」の連携に成功した事例だと言えよう。
 経済成長が望めない今、成長に頼らない社会保障は新しい「共」をいかに生み出すかにかかっている。市場経済を超える領域での豊かさは、自分の生き方や仕事に対する倫理観と適切なビジネス感覚とを持ち合わせた「私」を、「公」が適切に支援することで実現されていくのではないだろうか。

2008年11月号(通巻440号):レポートR

2008-11-01 15:36:21 | ├ レポート
映画『ひめゆり』監督&本誌編集委員トークショー
編集委員 吉田 泉

 8月9日、大阪市淀川区の「第七藝術劇場」で、長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』の2年目の公開がスタート。初回上映後には、柴田昌平監督と、本誌編集委員(3人とも学生)によるトークショーが行われた。
 「ひめゆりを知っていますか?」ある大学でこんなアンケートをとったところ、5人に1人の学生が「知らない」と答えたという。終戦から63年。経験したことのない世代にとって、「戦争」と言われてもなかなかピンと来ない。「そんな若い世代にこそ観てほしい」と柴田監督が勧めるのが本作だ。
 トークショーには50人以上が参加、若者の姿も目立った。「スクリーンに登場する生存者の方の話を聞くと、戦争は日常生活の延長に存在していたことが分かる。若者にとっても生きにくい社会になりつつある現代、希望を持てず、生きる意味を見いだせない若者がいつの間にか権力に利用され、『気がつけば戦場にいた』などということにもなりかねない」「ひめゆりの方の体験を自分に置き換えると、自分は3か月間も耐える自信がない。過酷な体験を乗り越えて伝えている生存者の方々の強さを感じた」など、若い世代の視点で映画の感想を語った。
 また、若者が戦争の記憶に触れる機会の少なさについて「戦争の話を見たり聞いたりすると気分が暗くなってしまう、もっと明るく楽しいことに目を向けていたい」「小学校の頃から、教科書や映画を通じて悲惨な戦争の話や、戦争はいけないよ、というお決まりのメッセージに繰り返し接すると、『戦争』と聞くだけで耳を塞ぐような“戦争アレルギー”になってしまう」「今の平和な日本では、生きている間に戦争に巻き込まれることはまずないだろうと誰もが思っている。それが戦争のことを話さない原因になっている」など、それぞれの体験談が紹介された。
 どうすれば若者が戦争の記憶に触れる機会を持てるか、という監督からの問いかけには、「若者自身が小学生や外国の方などに戦争の話を伝えていけば、それを通してみずからが学んでいけるのでは。自分は小学生と関わる活動をしているが、ちょっとしたきっかけで戦争のことを教えてあげられるような大学生になりたい」、という提起もあった。
 対談を終えた柴田監督は「映画の観客層としての接点はもとより、今まで交流の少なかった学生たちのナマの声が聞けた。ひめゆりの語りを次世代に引き継ぐためのいろいろなヒントも得られ、大変有意義なイベントだった」とコメントした。

2008年11月号(通巻440号):レポートL

2008-11-01 15:34:18 | ├ レポート
未来の「日常」へ
『ポレ壁』プロジェクト

編集委員 村岡 正司

 市民派映画館「ポレポレ東中野(東京都中野区)」。その支配人大槻貴宏さんの呼びかけにより、映画『ひめゆり』、監督の柴田昌平さんやボランティアが中心となり、今年6月23日の沖縄慰霊の日にひめゆり学徒生存者、若い世代のゲストたちを迎え、トークイベントを開催した。また、6月の特別上映期間に並行させ、初の試みとして「ポレポレ壁プロジェクト(ポレ壁)・アオイソラ ヒロイウミ」を企画実施した。
 戦後、沖縄で子どもたちの青空教室が始まったときに配られた初めての教科書。その最初の1ページに書かれていた言葉が「アオイソラ ヒロイウミ」だった。生き残ったひめゆり学徒にも、教師としてその1ページをめくった方が多くいたことにちなみ、「百年後に贈りたいなにかを、空色か海色を使って作る」「百年後の毎日に贈りたいことをハガキに書いて送る」作品を市民公募。劇場に下りる階段の壁を使って、集まった作品を展示しようというものだ。
 映画を観に来た人たちも、ひめゆりの真実に触れた後、戻っていく場所は特別な場所ではなく、人それぞれそこにある日常。未来は毎日の繋がった先にいつもある。『ひめゆり』を感じながら、いろんな人の存在を感じながら、『アオイソラ ヒロイウミ』の空と海の色で繋いでみたいと、考えたのだ。
 反響は上々、全国から集まった若い世代を中心とした作品は多くのボランティアの手により “ポレ壁”を埋め尽くした。また締め切り後も応募は途切れることなく続き、6月23日のトークイベントの日、会場に展示された。
 映画に寄せられる感想や、ボランティアスタッフの中にも、時々「わたしにできること」を考えて陥ってしまったりする無力感や罪悪感がある。でも肩肘張らずに、映画を観た人が各々の想いを表現し共有する場を作りたいと柴田さんは思っている。『ひめゆり』に込められた祈りは、きっと一人ひとりの毎日に贈られているものでもあるのだ。