市民活動総合情報誌『ウォロ』(2013年度までブログ掲載)

ボランティア・NPOをもう一歩深く! 大阪ボランティア協会が発行する市民活動総合情報誌です。

2009年12月号(通巻451号):この人に

2009-12-01 14:57:57 | ├ この人に
マイクを向けて一瞬で、素人のみなさんから返ってくる
コトバのほうが、数100倍面白い。

立原啓裕さん(放送タレント)

●プロフィール●
1954年生まれ。大阪生まれ、奈良育ち。中学生の時、映画『メリーポピンズ』に出会い、ミュージカルの世界を目指す事を決意! 大阪芸術大学を卒業後、「劇団四季」に入団。その後、「ハイヤング京都」でラジオDJ としてデビュー、放送タレントの第一歩を歩みだす。85年、劇団「売名行為」を主宰。1公演に8千人という記録的な観客動員数を誇り、一大ムーブメントを巻き起こす。89年、『探偵!ナイトスクープ』に、探偵として出演(17年間、探偵を務め、06年からは顧問)。92年には、テレビ・ラジオのレギュラー番組数週16本という日本記録を樹立。日本医学ジャーナリスト協会会員で、04年には、自らの体験をもとに『立原啓裕の自律神経安定法(CD付)』を出版、3万部に迫るベストセラーとなる。07年、大阪芸術大学グループ・客員教授に就任し、後進の指導に力を入れている。「心の健康」や「情緒力を培うコミュニケーション」等、全国的に講演活動を精力的に行っている。


■一瞬に発するコトバ、それを生み出す感性。

 もう3年前に卒業しましたが、『探偵!ナイトスクープ』(※1)という番組に出演していました。今日、お集まりのみなさん、わたしの顔、「見たことあるなあ」という方、お手を挙げていただくと・・・おお、こんなにぎょうさん、ありがとうございます。
 ナイトスクープという番組には台本ないんですが、その手前の状態、シノプスっていいますが、放送作家が考えた質問を渡されるときもある。ぼくら、一応、受け取ります。確かに面白い質問なんかが書いてある。ところが、一生懸命、放送作家が頭を使って考えたギャグよりも、マイクを向けて一瞬で、素人のみなさんから返ってくるコトバのほうが、数100倍面白いこと、いっぱいあるんです。とくに関西ね。そういう意味では、一瞬に発するコトバ、それを生み出す感性、これが大事なんです。
 ひとつのロケ、番組を作るのには、インタビューにも、映像の編集にも、頭を使います。つまり知性ですね。でも、マインドがないとできません。感性が大事なんです。依頼者の気持ちが分かるから、共感できるから、やれるんですよね。まあ、ロケは大変でしたけど、いろんな出会いありましたし、そんな中からも、感性を磨く大切さを教えてもらいました。

■こころの感性の磨き方。

 われわれタレントの感性の磨き方ですが、アンテナをいつも張り巡らしています。これは意識して張っています。
 子どもは、意識せずに張れてますね。ウォルト・ディズニーは、こんな言葉を残しています。「大人の5分間と子どもの5分間を比べてみよう。子どもの5分間のなんと素晴らしいことか」。子どもの5分って、おっ!虫がおる、あっ! 花が咲いている、わっ!お日さんが眩しい… 発見の連続でしょう。これ感性のかたまりですね。
 大人になるとそうもいかない。だから意識して張ります。新幹線で移動なんかのときでも、われわれは寝たりなんかしません。車両の中に、面白い人はいないか、窓の外の景色に何か発見はないか、絶えずアンテナを張っています。
 今日も、こっちに来るのにJRの在来線を利用してきたんですが、同じ車両の、斜めむこうにお客さんが乗ってきはった。ビニール袋を持っている。何するのかな、と見てたら、ビニール袋からですよ、いきなりゆでた蟹を取り出して、食べ始めたんですよ。たとえば、そんなこと一つとっても、普段しゃべるネタを探している。
 次に、感じた後に、なぜそれを、私はユニークだと感じたのか。それを分析し、考えることです。そして、ここが一番大事なんですが、必ず自分なりのコトバで、それをまとめといてください。ここで大事なのは、「自分なりの」です。Aさんなりのコトバ、Bさんなりのコトバ、同じものごとを感じてても、違うコトバになるはずです。そこが面白い。
 感じることは感性です。そこから考えて、自分のコトバを持つこと、これは知性のはたらきです。両方あわせて、思考ですね。そうして自分のコトバにする、それは他ならない自分の意見なのです。そしてコトバがまとまったら、それを必ず、誰かに伝えてください。そのコトバがCさんの中に入っていくと、相手も何らかのコトバを返してくれるでしょう。これでコミュニケーションが完成するのです。

■それ面白いから、ひとつ僕らにくれや。

 関西にはお笑い文化がありますね。実は、お笑いも、この感性、知性、コトバのコミュニケーションとよく似た関係をもっています。なんばグランド花月(※2)の楽屋に行きますと、真ん中に、芸人さんが、うだ話(※3)をするロビーがある。吉本はケチや言いますが、先代の故・林会長(※4)が、「絶対このロビーだけはええもん作れ」と。そこ行くとね、いろんな芸人さん達が、みんなでうだ話をしている。ぼくなんか、ずっと個人事務所ですから、このロビーがあることが、本当にうらやましい。でね、例えば、さっきの話、「今日、J Rで蟹、食べ
とった客がおってなあ」なんて、Aという芸人さんが話をするとする。それ聞いていたBという芸人さんが、こんなこと言うかもしれんわけです。「おお、それ面白いから、ひとつ僕にくれや」ってね。「くれや」…その話を使わせてという意味ですが、で、「どうぞ、使ってください」と。
 Bという芸人さんはね、きっとその話のどこが面白かったか、一生懸命考える。それで自分のコトバにして、Bさんのネタができあがる。それをお客さんに伝えると、「笑い」という返しがある。お笑い文化もコミュニケーションのひとつなんですね。

■動けば、出会える。聞けば、深まる。話せば、深まる。

 コミュニケーションで感性が磨かれますと、わたしたちの「文化度」が高まります。さらに何より、これがポイントですが、「情緒力」も身についてくる。情緒の力…最近、ずいぶんと薄れてきましたね。いま世の中、殺伐としてきて、昔は人同士がええつきあいしてましたけどなあ…。
 Aさんの感性に、心の襞にどっか一部分でも引っかかったら、ぜひそれをコトバにして、Bさんに、それをCさんに、Dさんに伝えてください。そのつながりの中で、文化度、民度が上がっていきます。人と出会えば、視野が広まります。また、その体験を別の人に語れば深まります。動けば、出会える。聞けば、深まる。話せば、深まる。そう思います。人とのふれあいは、生きたコトバを交わすこと、心をまじえること、それで人間は成長していく。原点は、一人ひとりが、堂々と自分の意見を人に伝えていくことだと思います。

09年10月27日に開催された福島区人権講演会より(主催は、福島区人権啓発推進協議会)
まとめ 編集委員 影浦 弘司


(※1)『探偵!ナイトスクープ』
朝日放送( A B C ) 制作の視聴者参加型テレビバラエティ番組。スタジオをひとつの探偵事務所と想定し、視聴者から寄せられた依頼を、探偵局員(レギュラー芸人たち)が依頼者と共に調査し、その過程のVTRを流す。1988年より関西ローカルでスタートし、現在は全国35局で放送。最高視聴率32.2%。20年間の平均視聴率20.1%。
(※2)なんばグランド花月
大阪市中央区にあるお笑い・喜劇専門の劇場。略称NGK(エヌジーケー)。
(※3)うだ話
副詞の「うだうだ」は、とるに足りないことをいつまでも言ったりするさま、を意味する。
(※4)林会長
林正之助(しょうのすけ)。1899 年~ 1991 年。吉本興業元会長・社長。

2009年11月号(通巻450号):この人に

2009-11-01 15:05:51 | ├ この人に
映像で記録する。
それは「生きる手がかり」を
積み重ねていくことです。

民族文化映像研究所・所長
姫田忠義 さん

●プロフィール●
1928 年兵庫県神戸市生まれ。48 年旧制神戸高商(現兵庫県立大学)卒。住友金属工業勤務後、54 年に上京、新劇活動、テレビのシナリオライターのかたわら民俗学者宮本常一に師事。61 年から映像による民族文化の記録作業を始め、76 年民族文化映像研究所設立。以来、同研究所所長。代表作は『越後奥三み おもて面第一部・第二部(84・96)』、『イヨマンテ―熊おくり―(77)』、『椿山―焼畑に生きる―(77)』など。著書に『ほんとうの自分を求めて(77・筑摩書房)』、『野にありて目め みみ耳をすます 姫田忠義対談集1、2(86・はる書房)』、『忘れられた日本の文化―撮りつづけて三十年―(91・岩波ブックレット№ 193)』など多数。


大阪湾を一望する垂た るみ水塩屋のゲストハウス(注1)。
「昔はこの海を見ながら毎日学校(注2)に通っていたんだねえ…」
窓辺で、海の向こうに目をやりながら語る姫田さん。
視線の先に見えていたものは何だろう。
48 年間撮り続けた日本各地の情景、出会った人びと、
それとも旅を続ける自分の姿なのか。


■サラリーマン時代、職場演劇のサークルに入られていたんですね。でも結果的にそれが原因で、会社を辞めてしまわれたとか…。

 親父は終生の肉体労働者でしたから、工場で働く人に親近感があったんですね。だから卒業したら、そういう人たちがいるところで働きたいと常々思ってたんです。ところが垂水の神戸高商を出てますから、求人欄は、銀行か、貿易関係か、商事会社かっていう系統だけ。そん中にひとつだけあった「新扶桑金属工業株式会社(注3)」。ここだったら親父のような人がいるかもしれないと、どういう会社かもよくわからないままに入社したんです。そこで職場演劇に引っ張り込まれたんですが。でも中に居おると、知らず知らずのうちに会社に遠慮しながら生きてる自分に気づいてきたんです。
 たとえば、どうしても殺人事件が書けない。普通の作家だったらなんぼでも書くじゃないですか。それができないんですよ。住友は“お家のご法度”も多く、なかなか体制の厳しいところですから。もし書けば社内論議の的になるだろうし、何よりも演じるのは会社の同僚なわけでしょう。お前なんであんな台本書いたんだ、って攻撃されるのは目に見えてる。でもそんな中、あるストーリーをつくって兵庫県の職場演劇コンクールで優勝したなんてこともあったんですよ。ただそのときにすごく思ったのは、やっぱりおれは会社に遠慮してる、もっと自由になりたいっていう強い実感でした。それでとうとう辞めてしまったわけなんですが、親は泣きましたね。なんで、どうして住友さん辞めてしもたんや…って。

■初めから映画志望ではなかったんですか。

 東京へ出てから、ある新劇の劇団に入ったものの、いろいろあって方向転換しました。自分の生きる方向性につながる仕事を模索して、食うためにいろんなことやってた中で出会ったのが宮本常一先生であり、そして記録映画だったんです。映画館での映画じゃないんですね。54(昭和29)年頃、すでにテレビジョン放送が日本に登場していた時代でしたが、当時のテレビカメラはせいぜい首を動かすくらいで、スタジオの中でしか使えなかったんです。だからテレビに乗せる画像は全部映画フィルムで撮ってたんですね。映画は好きだからもちろんそれまでも見てるんですよ。でも、自分から映画をつくるなんて考えたこともなかったですから

■それから48年間、「歩き、見、聞く旅」を一筋に続けてこられた。

 民族文化映像研究所(以下民映研)は、日本列島の中での庶民の生活文化の基層を記録するんや、と、日々刻々やっているんですが、自問の連続ですよ、今もずっと。ときに「ずぼら(注4)」をしてるのに気づき、自分を叱咤するわけです。おまえはこんな大義名分を言ってるけど、どれほどのもんなんや、と。最近、ある有名な人が僕の活動のことを「渋い」とブログに書いてたらしくて(笑)。世の中の目というものですな。なんで今頃こんな古めかしいことをごそごそやってんねんとか、いろいろ言われます。で、それを聞くと、やっぱり揺さぶられますよね、人間ですから。しかしそこから立ち直ろうとするわけですよ。でないと死んでも死に切れんわ、とか思うわけ(笑)。
 こんなこともありました。今度の総選挙ではあんまり話題にならなかったですけどね。主要政党の公開討論会の席上、ある経済団体のリーダーの最近の発言を引用した「焼畑耕作(注5)のような遅れた経営じゃなくて、ちゃんとした管理ができる稲作農法のようなものをやれ」というような談話があった。相手の政党のマニフェストを揶揄するためのたとえとして焼畑が出てきたんです。僕ね、もう本当に仰天しましたよ。今まで日本経済がお手本にしてきたのはすべて工業、電子機器でしょ。その結果どんな問題、弊害をもたらしたかということは横に置いといて、まるで焼畑、すなわち農業を敵かたきにしたような言い方を経済界のトップともあろう人がやっている。現在、日本の多くの企業が第一次産業である農業に目を向け、さかんに投資をはじめていますね。日本の農業のさまざまなかたち、ひいては伝統農法についても深く考える土壌が企業内にも拡がりつつある時代なんです。かつて僕らは『椿つば山―焼畑に生きる―』の製作を通じて多くの学びを得ましたが、今や学界では、日本の焼畑のエコロジカルな特性について、多くの専門研究者たちが真剣な検討をやり始めています。つまり、大地に火を放つのは決して自然破壊の元凶などではなく、自然の循環に対応した意味の深い手法なんだということです。
 今は歴史の再評価の時代になってきていると思います。そのときどういうデータをもとに考えるべきなのか。間違った歴史認識、事実認識ではなくて、あるいは強者が弱者をばかにするような論法ではなくて、これから日本が歩む道を真剣に考えていかないと、10年20年の間にまた同じことをやりますよ。僕の生きてきたわずか80年間の中でも、よくない歴史、愚なる歴史が繰り返されてきてますから。

■人が人に会う。それを映像によって深めていくのが、民映研の映像表現の仕事と言えるでしょうか。

 つまり英雄物語はいらないということです。その時代の表舞台、つまり最先端と目される人ではなく、世の中から取り残され無視されている、さらに言えば基層にある人たちに、僕らは学んできました。農山漁村の人たちや、アイヌ民族の人たちですね。
 最近はテレビチームがどかどかと出かけて行って、カメラ向けて、やあやと聞きますよね。そんとき本当に当事者の話を聞いてるのか。自分たちの言いたいこと言ってるだけじゃないのか。いわば「ショー」。人の土俵で、人の生活の場でショーをしている。それでいいのか、と僕らは絶えず自戒するわけです。
 僕の場合、ひとつの記録作業に3年、5年、7年、14年、20年…というように、時間をかけてきたけど、それは、その「自戒」の結果です。名のあるテレビ局、新聞社、大学などではない、「一民間人」のできることです。そんな僕らが「お前、よう来たね」とか、むこうから言ってもらえるのは容易じゃない。内心うるさいなあと思いつつもとりあえずは迎えてくれますが、本当のところ、どう思われているか。極端に言えば死ぬまでわからんことです。
 で、僕らの場合は、記録した内容を映像作品として、まず現地の人に提出します。不特定多数の観衆に向けてではない。まずご本人に、僕らは何をしてきたか、というのを観ていただくんです。それでああお前、そういうことをしてたんか、と初めて解る。で、ずっとあとになって、ああ、あの人はこんな映像作品置いていったね、と思い出すとします。その時点で、その人が非常な苦しみを持っていたり、弱い立場にいたりしたとき、自分たちの映像を観ることによって、「よし、がんばろう!」と奮い立てるような手がかり。それを僕は「記録」だと思うわけですよ。「記録」することは、生きる手がかりなんです。それを積み重ねていくことなんです。そして、その感動がまわりの人間にも伝播する。たとえば農業やらない人でも、農業の話を聞いたりしてると、ああそうかね、すごいね、と思えてくるんですね。人類というのはそういうセンスというか、他者に共感できるひとつの精神作用というのを与えられ、培ってきていますから。他人が鏡になってくるんですよ。だから僕らの作品は、常にそういうような質のものにしないとだめだな、といつも思います。

■世の中の変化にさらされながら、「志」を持ち続けるということはなかなか大変です…。

 これは本当に大事なことと思ってやる活動も、時間の推移とともに変化していきます。とても非情なことでもあるんですが。やってる人が年を取る。変化していく。自分がなんとしてで
も、と思ったことが、だんだんできなくなる。決してずぼらしなくてもね。だから「物事は絶えず変化してるんだ」ということをわきまえてないと、「いつも同じ状態であってくれなければ困る」という意識から逃れられなくなってしまいます。それはどう考えても不可能なわけですから。それを心得つつ、活動を持続させていける「志」を持たなければいけないと思いますね。つまり「心」「指し」ということですな。「心が指す」というのは、「心が方向性を持つ」ことだと僕は理解しています。そしてその「心」はいつも、時代の変化変容にさらされ、絶えず動かされているものなんですね。
 「初心忘るべからず」というでしょ。「ぐらぐらしていて未熟だけれども素直だったころの心を忘れるなよ」ということですね。ボランティアの作業も「志」と言えますね。今は揺らいでいるから、最初の思いを忘れたかも知れんから、ここでひとつ洗いなおしてみようよ、という以
外にないんですね。僕の研究所も、いつもそのことを思って活動しています。

インタビュー・執筆 
編集委員 村岡 正司

2009年10月号(通巻449号):この人に

2009-10-01 14:47:53 | ├ この人に
戦争は終わっても、苦しみは終わらない。
戦争は永遠に終わることはないのです。

大石芳野さん(フォト・ジャーナリスト)

●プロフィール●
日本大学藝術学部写真学科卒業後、ドキュメンタリー写真に携わる。戦争や内乱を経験した人々のその後の姿を、記録し続けている。世界平和アピール七人委員会委員。『無告の民』(岩波書店、1981)で、日本写真協会年度賞を、『ベトナム 凛と』(講談社、2000)で、第20回土門拳賞を受賞。写真集・著書に『〈不発弾〉と生きる―祈りを織るラオス』(藤原書店、2008)、『魂との出会い―写真家と社会学者の対話』(藤原書店、2007)、『コソボ絶望の淵から明日へ』(岩波書店、2004)ほか多数。

■戦争はどうやって起こる
 私の仕事は、現場に行って、その現場をカメラで切り取り、同時に言葉を聞いて、できるだけ真実を知り、それをちゃんと伝えることです。よく、写真は一瞬だからいいと思われがちですが、逆に言えば、その一瞬に、自分の考えが全部でてしまうとも言えます。私の写真を通して、その地を知ってもらう。私はフォト・ジャーナリストとして、長年、カメラと共にあちこちをまわって人と会い、話を聞いてきました。特に、紛争の起こっていた地域に行って、写真をとって、そこで話を聞いて、日本の人に、言葉にならない心を知ってもらいたいと思いました。
 そもそもなぜ戦争というのが起こると思いますか。戦争をしたい人がする。そういう人に群がる人がいる。流れができると、止めることができないのです。途中から止めようと思うと、逮捕されたり、拷問にあうなど、命も危うくなってしまいます。声をあげられなくなり、どんどん戦争のムードになっていく。そういう流れで、戦争が起こっていったと言えると思います。
 今の日本の社会では、戦争が起こるという状況は考えられないかもしれませんが、風船が大きく膨らんでいる状態になっていても、それがわかりにくい状態になっているのです。
 戦争をしようと決めるのは、たとえ反対したとしても、女性も含めて大人です。子どもはまったく決める権利がない。それなのに、一番始めに犠牲になるのは子ども、もっと弱い赤ちゃん、もっと弱い胎児です。
 日本は今、政府が一生懸命になって、子どもを増やそうというキャンペーンをしています。でも、本当に子どもを大事にしているかと言うと、ムードを作ろうとしてはいますが、実は子どもを大事にしていない。一般の人たちもそうです。子どもたちを、殺すところまで行ってしまう。こういう社会をどうしたらいいのでしょうか?
 日本も昔、戦争をしていました。おじいさん、おばあさんがいるからこそ、自分たちがいる。日本の子どもたちや若い方たちが、縦につながる命を意識して欲しい。その頃の人たちが、どんな顔をして苦しんでいたか? 今、海の向うにいる人たちのような顔を、戦争のとき、していたのです。いろんな犠牲を背負わされた子どもたちはこういう顔をしていた。写真の中から、そうしたことを感じとっていただけたらと思っています。

■今も続く枯葉剤の影響
 ベトナム戦争(注1)は随分前に終わっています。でも、戦争は続いています。それはどういうことかと言うと、戦争で、アメリカ軍に大量のダイオキシン(注2)を撒かれました。その影響でベトナムの人々がいまでも苦しめられているからです。戦争が終わって、生まれた子どもに障害がでました。私が写真を撮ったある子どもは14歳でも、3、4歳にしか見えませんでした。それはおそらく、父親が枯葉剤を浴びた影響でしょう。その子の顔は、何か怒っているようにも見えました。
 日本にも来たベトさんとドクさんの兄弟(注3)は、分離手術をして成功しました。松葉づえをつくドクさん。一方、ベトさんには重い脳障害が残ったままでした。ドクさんは結婚をし、ベトさんは、結婚式の時は元気だったのですが、まるで見届けるようにその後亡くなりました。
 枯葉剤は75年まで使われていたと言われています。それからもう34年も経つわけです。ある一家には、家族に共通して同じような障害が出てきています。ダイオキシンは体内に蓄積して本人は気がつかないけれど、遺伝子を壊します。何世代も続くかもしれない。61年から散布が始まったといわれていますが、最初に浴びた人は四世代にもなるかもしれません。

■コソボ・内戦のあとを訪ねて
 コソボには、だいたい200万人の人が住んでいます。80%がアルバニア系の人、セルビア系が18%、その残りがロマ人などです。そのセルビア人によって結成されたセルビア武装勢力が反乱(注4)を起こしました。アルバニア人は隣のアルバニアに行けと言って、家を燃やしたり壊したりしたのです。私が見たコソボには、ぞっとする光景がひろがっていました。電信柱とか電線や木は残っているのですが、家は破壊されているのです。アルバニア人は高い塀に守られた構造の家に住んでいるのですが、家は壊れているのに塀は残っているという状態です。ある街では70%の家が破壊されていました。
 あちらこちらの小中学校を訪ねるごとに、「家族が殺された人は?」と尋ねました。30人ほどの教室で、少なくとも5、6人の手が挙がりました。地域によっては10人を超えることもありました。
 ある学校で、手を挙げた男の子に話を聞こうとしたとき、「父さんは……」と言って、大粒の涙が出ました。自分でもなんとか止めようとしましたが、止まらない様子でした。あとで彼の住まいを訪ねて話を聞くと、お父さんはなんと目の前で7発もの銃弾を受けて殺されたんだそうです。家族を守ろうと必死になっていた父親は、銃を突きつけたセルビア武装勢力を睨みつけ、顔ばかりを撃たれていました。
 ある男の子は、「とってもやさしいお父さんでした」、と言って涙が出て、お母さんにしがみつきました。
 ロマ人はセルビア系、アルバニア系、それぞれについた人に分かれました。あるロマ人の女の子の家族はセルビア系につき、逆にアルバニア人が戻ってきた時には、追い出されてしまいました。「私たちはなんにも悪いことはしていないのに」。民族戦争に子どもも巻き込まれていくのです。

■チェルノブイリの放射能汚染
 私は、チェルノブイリ(注5)も一つの戦争だと考えています。チェルノブイリ原発の4号炉が爆発し、放射能が拡散しました。退去した人の家では、人形が置きざりにされていました。放射能のために子どもたちもお気に入りの人形も置いていかざるをえなかったのです。子どもをはじめ、多くの人たちが生活の変化を余儀なくされたのです。

■戦争は終わらない
 戦争中はもちろん苦しい。でも、戦争は終わっても、苦しみは終わらない。写真を通して、私の言いたかったことはこのことです。先にも言ったように、戦争は始めたい人が始めます。戦争が終わるときは、調印という形でサインで終わることが多いようです。一握りの権力者の事務的な手続きの背後に、数知れない人びとの苦しみが続くことになるのです。
 戦争が終わると、確かにゆっくり寝られるようになったと人々は言います。でも、苦しみは終わらないということです。人間の心からも体からも、苦しみは終わることはありません。戦争は始めてしまったら、永遠に終わらないということです。そういうことが言いたくて、私はこの写真を撮りました。写真には力が必要です。写真は想像力をかきたてるものです。撮る方にも見る方にも力が要求される。それが写真だと思います。

まとめ・執筆(脚注も)  編集委員 千葉 有紀子

2009 年7月7日 龍谷大学社会学部・主催「大石芳野さん講演会」より

(*1) ベトナム戦争:1960 年代初頭から1975 年4月、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突。南ベトナムについたアメリカと北ベトナムについたソ連、中国との政治的な戦争が背景にある。アメリカは巨費と大量の軍人を投入したが、北ベトナムが勝利し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。南北ベトナムでは300 万近い人が犠牲(アメリカ兵は5万8千人)になったといわれている。多くのカメラマンが命を落とした戦争でもあった。

(*2)ダイオキシン(枯葉剤):ベトナム戦争中にアメリカ軍が使用した枯葉剤には、強い毒性を持つダイオキシン類が含まれていた。枯葉剤の散布は、マラリアを媒介する蚊や蛭を退治するためと弁明しているが、実際はベトナム人のゲリラが隠れている森林の枯死、農業の破壊が目的であったという。ベトナム人、アメリカ従軍兵士など、枯葉剤の被害者は多く、深刻な後遺症で今も苦しんでいる。

(*3)ベトさんとドクさんの兄弟:1981 年2月、ふたりは下半身がつながった状態で生まれた。ベトナム戦争中に米軍が散布した枯葉剤による結合性双生児とみられる。88 年には分離手術を受けたが、ベトさんは重い脳障害で寝たきりの状態が続いていた。分離手術後、ドクさんは歩けるようにもなり、その後結婚。べトさんは肺炎と腎不全で26歳で死去。

(*4)コソボ紛争:ユーゴスラビア連邦のコソボ自治州内で人口の8割を占めるアルバニア系住民と少数ながら支配権を握っていたセルビア人との対立。98 年ごろからコソボ独立を求めてアルバニア系武装勢力(コソボ解放軍)が活動を活発化させ、それに対しセルビア系住民も武装勢力を構成した。99年3月、アルバニア系住民を支援する目的でNATO 軍が空爆に踏み切り、6月にセルビア軍と警察がコソボから撤収し紛争は収束。1万人以上の死者と、80 万人に上る難民を生んだ。現在コソボは国連の管理下におかれている。

(*5)チェルノブイリ:1986 年4月26 日未明、ウクライナ共和国(当時はソビエト連邦)にあるチェルノブイリ原子力発電所の4号炉で、大きな爆発事故が起こる。この事故により、原子炉内にあった大量の放射能が大気中へ放出され世界各地に広がった。原発労働者の町「プリピャチ」の住民のほとんどは、その日のうちにチェルノブイリ原発で事故が起きたことを知ったが、翌日になって避難勧告が流されるまで普段どおり過ごしていた。

2009年9月号(通巻448号):この人に

2009-09-01 17:25:50 | ├ この人に
人のあたたかさや
つながりを伝えていけるような
シンガーになりたい。

サインシンガーソングライター
   渡辺りえこ さん

兵庫県生まれ。両親は耳が不自由であったため、3歳の頃より手話で家族を支える。阪神淡路大震災の被災時、手話を使って両親を支える様子が「小6 少女元気な大黒柱」とマスコミで注目される。現在、手話と歌を使った“サインシンガーソングライター”という独自のジャンルを確立し、手話を広めようと精力的に活躍中。


 初めて耳にする肩書き―サインシンガーソングライター。  歌を作り、それを歌うだけではなく、声と同時に手話で歌の世界観を表現する彼女のパフォーマンスは、まさに全身を使った感情豊かなものだ。  そして、手話について語る彼女は、歌のパフォーマンス同様、生き生きとしている。「自分に素直に生きていきたい」。歌の中でそう語る渡辺さんの思いが表情にあらわれている。

■サインシンガーソングライターはどのようなきっかけで始めたのですか?

 19歳のときです。歌がもともと好きで、その頃、大阪駅前の歩道橋で路上ライブをしていました。すると、たまたますぐ近くで、耳の聞こえない男女4人が手話で会話をしていたんです。私の両親は耳が不自由なので、3歳から手話を使う環境で育ってきました。そこで、耳の聞こえない方にも自分のオリジナル曲『幸せに輝くように』を伝えたい!って思って、即興で手話を使いながら歌ったんですね。すると、男性の一人が「すごくいい歌だったよ」って、眼に涙を溜めて言ってくださって。それがきっかけで、手話を使って歌うシンガーになろうと思いました。
 歌手は手でリズムをとったり、歌詞を表現しますよね。私の場合、それが手話になった、という感じです。ダイナミックに表現するように心がけていて、きれいな指の動きなど、アレンジしてやっているんですね。手話の意味が分からなくても、「キレイだな」「おしゃれだな」と感じてもらえたら、と思っています。

■歌手活動の他に、講演活動もされているんですね。

 耳の聞こえない方とのコミュニケーションについて、興味を持っておられる方が結構いらっしゃいます。手話自体は、勉強をすればできるようになると思うんですよ。ただ、人との関わり方は、勉強じゃできない。例えば、筆談の場合、「これ、美味しくなくない?」といった二重否定のような回りくどい言い方は、理解しづらいんです。たいてい「美味しくなくないというのは、美味しいのかな、美味しくないのかな」って迷われるんですが「それが耳の聞こえない方の気持ちです」と伝えたら、みなさん「なるほど…」と理解してくださって。耳の聞こえない方とのコミュニケーションはこういう形で伝えています。
 講演会に参加された方の知り合いに耳の聞こえない方がいらっしゃるかもしれないですし、はたまた、どこかでばったりとそういう方にお会いするかもしれない。そういったときに、私の知らない耳の聞こえない方とスムーズにコミュニケーションが取れるといいな、という思いがすごくあります。
 他には、阪神・淡路大震災のときの経験をお話しすることもあります。私は、小学校6年生のときに震災を経験したのですけれど、特に東京の方はそのときの経験や思いを知りたい方が多いようです。あの震災のとき、必要な情報がすぐに得られず、誰もが不安で一杯でした。ましてや私の両親は耳が聞こえなかったので、子どもだった私や妹には、みなさん以上に情報が少なかった。ですから、どうしたらいいのかが全く分からない状態のまま、何とか避難所に避難したんです。 でもそこでは、私の両親のことを周りが理解して下さっていて、「お弁当の時間だよ」といったことを身ぶり手ぶりで両親に教えてくれたんですね。どんな手段でも、仲間に情報を伝えようという自然な気持ちがその場にありました。みんなで震災を乗り越えていこう、という思いに壁はない。その思いが今のサインシンガーソングライターとしての活動につながっています。あのとき、耳が聞こえないんだったら情報を流さない、という方ばかりだったら、今の活動もなかったんじゃないかなと思いますね。自分のことで精一杯な状況なのに、他の方にも声をかけてあげる、という人とのつながりを震災でたくさん経験した結果、人のあたたかさやつながりを伝えていけるようなシンガーになりたいと思うようになりました。

■サインシンガーソングライターという新しいジャンルを切り拓いていく、ということはとてもパワーがいることなんじゃないかな、と思いますが、そのパワーの源は何ですか?

 一人でも多くの人が「あ」でもいいから、手話を覚えてくれたら最高だなという気持ちでやっています。英語の「a 」から「z 」って誰でも知っていますよね。そんな感じで手話も
広まるといいなと考えています。自分の興味がないことでも周りで誰かが楽しそうに話をしていたり、面白そうにやっていたりすると、気になっちゃいますよね。だから、常に相手が楽しいと思ってもらえるように試行錯誤しています。
 福祉というと、特に若い人の間では、慈善事業といった堅いイメージがまだまだ強いように思うんです。なので、ハードルが高くて参加しづらい人もいると思うんですよ。だけど、決して難しいことじゃない。手話を通じて、福祉をもっと「楽しい」「おしゃれ」「やってみたい」と思ってもらえるようなイメージに変えていきたいですね。
 08年、N P O 法人“ 音の羽根”( *1)の協力のもと、手話通訳士として参加させていただいた「アースデイ東京2008」(*2)では、エコイベントや福祉通訳の他にも有名人が参加する音楽フェスティバルもあり、参加者が一体となって大変盛り上がりました。約12万人の入場者数があったそうです。若い人もたくさん集まっていましたよ。それって、「おしゃれだな」「楽しそうだな」というイメージがあるからだと思うんです。そんな風に楽しそうなイベントに気軽に参加することで、福祉をもっと身近に感じてもらいたいです。一人で参加するのが恥ずかしい、という人もいるみたいですけれど、福祉の世界は、お互いを理解して歩み寄れる人や心あたたかい人たちが多いから、自然と誰とでも仲良くなれちゃう。それが醍醐味じゃないですかね。

■サインシンガーソングライターとして、今後はどのように考えていますか?

 どの世界にも賛否両論があって、年配の耳の聞こえない方の中には、手話で歌うことについてよく思っていない方もいると伺います。私は、人生の可能性を信じてさまざまなことにチャレンジしていくことが大事だと思っているし、固執した考えではいたくない。だからそのようなイメージも変えていきたいな、と思っています。
 今の耳の聞こえない若い方ってバンドをされている方もいるんですよ。東京で「サインソニック」(*3)というイベントがあって、手話バンドがたくさん出ています。そういうこともどんどんやってもらいたい気持ちがありますね。聞こえないとどうしても音程にムラが出ます。そこのクオリティをもっと上げていって欲しいというのは、聞こえない人も聞こえる人も思っていることなんです。自分は音が聞こえるので音程のムラも少ないし、手話もできるので、そのクオリティを高めていきたいですね。それがサインシンガーソングライターの役割であるのかなと思っています。
 耳の不自由な両親をもつ子どものことをCコ ーダoda( = Children of Deaf
Adult) と言うのですが、Coda の中には、私のように人前で何かをしようという人があまりいないんです。ただ、私がメインパーソナリティを務めるインターネット番組「りえこのSignTV」(*4)に一緒に出ているCoda の“こころお
と”という10年間活動されている手話バンドは、メジャーを目指して活動をされています。同じ境遇の中で一緒に前に進めていけたらいいなと思っています。
 ドラマの「オレンジデイズ」(*5)が流れたとき、手話に興味を持つ人が増えましたよね。私も歌をやることによって、聴いている人が手話を「かっこいい」「面白い」と感じて、やろうと思ってもらえるような人が出てきたらいいなと思います。そしたら、サインシンガーソングライターをやろうと思う人が出てくるかもしれないですよね。続けていくことが何事も大事だと思っています。だから私もサインシンガーソングライターとして頑張って、メジャーを目指していきたいですね。

■今回お話をうかがって、手話は、単なるコミュニケーションツールだけでなく、いろいろな可能性を秘めているのだなと思いました。サインシンガーソングライターのパイオニアとして今後のご活躍もとても楽しみにしています。ありがとうございました。

インタビュー・執筆 
編集委員 久保 友美


(*1)「音楽」と「IT」を通じて、若者たちがソーシャルな活動に参加するキッカケを作ったり、そのネットワークを拡げたりする活動をしているNPO 法人。
(*2)1970 年、ウィスコンシン州選出のG・ネルソン上院議員が、4月22 日を" 地球の日" であると宣言したことによりアースデイが誕生。東京でも、2001 年から代々木
公園で「アースデイ東京」を開催。環境問題を考える一つの大きなアクションとして年々、盛り上がりを見せている。
(*3)2007 年7 月7 日、ライブハウス初台ドアーズ(東京・渋谷)で「サインソニック2007」が開催。耳の不自由な人たちが国内外から集まり、ロックやポップス、ラップなどの音楽の演奏を披露するイベントに、多くの感動を生んだ。
(*4)毎週火曜日19 時~ 21 時放映。手話を身近にお届けする手話バラエティ番組。http://www.stickam.jp/profile/naname41
(*5)2004 年4 月~ 6 月放映されたドラマ。妻夫木聡演じる社会福祉心理学を専攻する大学生と柴咲コウ演じる病気によって聴力を失い、心の扉を閉じてしまった大学生のラブストーリー。劇中では手話がキーとなっている。

公演情報
● 2009 年10 月18 日( 日)
シネ・ヌーヴォ(大阪)上映作品
映画『ジャップ・ザ・ロック・リボルバー』上映後にライブ出演。
● 2009 年10 月24 日( 土)
千代田区「福祉まつり」に出演予定
● 2010 年3月25 日(木)~ 29 日(月)
「渡辺りえこオーロラコンサート2010 音のない世界を歌と手話でつなぐ」
詳細はこちら→
http://shogai-kando.com/10lineup/intell16aurora_concert/index.html

2009年7・8月号(通巻447号):この人に

2009-07-01 14:16:33 | ├ この人に
お金も政治力もないけれど、
五感をゆさぶるアートの力で、
世界はきっと平和になるはず。

現代芸術家
 新聞女★西沢みゆき さん

「もうちょっとで完成するから待ってくださいね~」。取材で立呑みギャラリーに行くと、目の前で新聞ドレスの肩の部分を作り始めた。芯になる部分に、ギャザーを寄せながら器用に新聞を貼り付けていく。手際の良さに見とれているうちに完成し、その場で着替え。帽子もかぶって、陽気な“新聞女”が現れた。

■見事ですね。ドレスは、どのぐらいの時間でできるんですか?

 スカートだと1時間ぐらいでできますね。しょっちゅう作ってるので、マッハの速さでできるんですよ(笑)。型紙も何もなくて、いつもそのときの気分で作ってます。

■もともとアーティスト志望だったんですか?

 いいえ、ファッションが好きで、デザイナーになるための勉強をしてたんですよ。関西女子美術短期大学(注1)に入学したんですが、現代アートの講義があって、面白そうだと思って受講したら、嶋本昭三(注2)先生が担当されていたんです。そしたら先生が、「他人がやらなかったことをやれ」「人と違うことはいいことだ」とおっしゃって、目からウロコが落ちるとは、まさにあのことですね。
 子どもの頃から表現することが好きで絵を描いたりしていたんですが、それがアートだなんて思わなかったし、むしろ人と違う感覚を持ってることでコンプレックスを感じることも多かったんです。でも、嶋本先生から「それが天才の証しだ」と言われ、すごくうれしかった。先生と出会ったあの日から価値観が180度転換しました。

■どんなふうに「私は人と違う」と感じていたんですか?

 それまで私が学校で受けてきた教育は、どちらかというと、みんなと同じことをできるのがいい、人のマネをした方が良い評価を受けるという感じでした。でも私はそうすることが苦痛で、ずっとしんどかったんです。たとえば幼稚園のとき、お芋掘りの絵を描いたんですが、みんなは先生の描いたお手本のような絵をマネして描くんです。先生がいてみんながいて、そしてお芋が地面の中に埋まっているというような、同じ構図でね。でも、私はお芋が大好きなので、画用紙いっぱいにお芋をひとつだけ描いたんです。すると先生にすごく怒られて、なぜかそのことが母にも伝わって、「恥ずかしい」と言われました。人と違うのは悪いことなんだと感じて、それからも小学校、中学校、高校と、絵を描いたり文章を書いたりしても誰にも見せず、自分のためだけに表現してた、という感じです。ずっと内向的で、生きることの意味を見出せなくて鬱々した日々を過ごしてた。今とは全く違いますね。

■嶋本先生との出会いによって、そのまま現代アートの世界へ?

 いいえ、大学生のときは就職のためにファッションの勉強を続け、一方、嶋本昭三研究所には毎日通って現代アートのお手伝いをしてました。卒業後は企業に就職し、32歳まではファッションデザイナーとして働いてたんですよ。ファッションが大好きで、最初は楽しかったんですが、仕事で求められることと自分のやりたいこととの差が大きくなって、ストレスを感じるようになりました。デザイナーは、なるべく多くのお客さんに受け入れられるものを作らないといけなくて、奇をてらったものは許されないからです。私の作りたかった服は、たとえば袖が3本ある服とか(笑)。今日は、こことここに腕を通して、明日は別の袖にしようとかね。そういうのを自分では面白いと思うんですが、仕事では絶対に許されませんよね。
 卒業後9年ぐらいは先生のところへ行かなかったんですが、だんだん現代アートの世界に戻りたくなって、再び先生の研究所へ通うようになりました。ファッションデザインという世界にひたっているうちに、改めて現代アートの素晴らしさや、自分にとって必要なものだということを痛感し、アーティストとしてやっていこうと決心したんです。

■さぞ周囲から反対されたのでは?

 もちろん、みんな大反対です。「馬鹿じゃないか」とも言われました。現代アートや嶋本先生の素晴らしさを理解してくれる人は社内にはほとんどいなかったけど、私にはまったく迷いはありませんでした。嶋本先生に出会って初めて自分が肯定できたし、私がアートをやることで自分自身が喜び、そして周りの人も喜んでくれるのを見ると、本当にうれしくて、「もっともっと楽しんでほしい」と思うんです。だから作品もどんどん大きくなるし、相乗効果で喜びも大きくなっていく感じですね。アートでみんながハッピーになるのを見ると、「これほど大事なものはない!」って思うんです。お金を使って人に何かを配るわけでもなく、政治力を使って何かを解決するわけでもないけど、お金も権力も知識も何ももっていない私だけど、アートによってすごく力が湧いてくるんですよ。

■新聞を使うようになったのは、なぜですか?

 新聞は子どものときから好きな素材で、その頃は作品というよりおもちゃを作ってました。たとえばお弁当を作るのは、紙面の黄色いところを探して卵焼きに見立てて切り抜いたり、赤いところは鮭にしたり。
 それに新聞は、ただの紙じゃない。たとえば環境サミットのときには、21か国の子どもたちに自分の国の新聞をもってきてもらって、それをみんなでつないでピース・ドレスを作ったんです。ミャンマーやバングラデシュからも来ていたんですが、幸せな国の子どもばかりじゃないし、記事も幸せな内容ばかりではありませんね。でも新聞女の作品にすることで、仲のよくない国同士でもひとつに、新聞をつなぎ合わせることでみんな手をつないでハッピーになろうというメッセージを込めているんです。
 言葉は通じないけど、新聞をつなぎ合わせる作業を一緒にやって、最後に必ず笑って、ひとつになって終われる。私は外国語を話せないし、お金もない、具体的な問題解決はできないけど、アートの力で一人ひとりの心に訴えかけていく方が、国同士の問題も人同士の問題も簡単に解決できるような気がします。

■海外へ行かれることも多いようですね。

 そうですね。最近、イタリアへは毎年行ってます。嶋本先生がヴェネチア・ビエンナーレ(注3)に招待されてるので、私たちもお手伝いとして一緒に行っているうちに呼んでくださるようになって。
 06年には、元中国国家主席・李先念氏の長女、李小林さんが招待してくださいました。開かれた中国をアピールするために現代アート展を企画され、そのオープニングでパフォーマンスをしたんです。全長約30m のドレスを来て
クレーンに吊されて、ちょっと派手でしたけど(笑)。
■街中で表現しにくいから、この立呑みギャラリーを開設されたんですか?

 うーん、理由はちょっと違いますね。私が嶋本先生にしてもらったようなことを、後輩のアーティストたちに何かできないかなと思って、3年前にオープンしました。
 先生は何も教えないんですが、それぞれの人が自分にしかないものを見つけて、どんどんやっていけるように見守って下さる。それだけで大きな支えになるし、私は先生に引き上げてもらったとすごく思います。だから、これからは私が後輩たちに、アートを楽しみながらやっていってもらうためのお手伝いをしたいんですね。ここはみんなのたまり場というか、新しい人と出会い、作品を発表する場になってます。初めての個展をここでやったり、ここで出会った小説家とアーティストがコラボレーションで新しい作品を作ったりしてます。
 それと、お客さんの中に実業家がいて、自分が欲しいと思った作品はすぐに買ってくださるんです。美術が好きでセンスもすごくいい方なんですが、その方が買うと必ず売れっ子になるというジンクスもできていて、これまで5人ぐらいがそのジンクスによって売れっ子になりました。
 自分が今までしてもらったことを、いろんな形で後輩に返していって、作品を通してだけでなく、ハッピーを伝染させていきたいですね。

インタビュー・執筆 
編集委員 川井田 祥子

■プロフィール
世界中の古新聞を使い、地球にやさしく、平和を願うドレスを即興で作る。クレーンにつられて全長約30mのドレスを着たり、大勢の人を巻き込んでパフォーマンスも行う。国内では、今年5月4日に大阪市北区で全長24m×幅6mの「新聞こいのぼり」を使って子どもたちと遊び、07年の神戸元町200年祭では戦争記事をすべて塗り消した1200mの「peace ★road」を新聞紙で制作した。イタリア、フランス、韓国、台湾、ウクライナなど海外での活動も多い。01年、福井県今立現代芸術紙展最高賞、02年、宮城県知事賞など受賞歴も多数。http://shinbun-onna.com/

(注1)関西女子美術短期大学:現在は統合されて、宝塚造形芸術大学に。
(注2)嶋本昭三:現代美術家。戦後日本の現代美術を代表する「具体美術協会」の創立メンバーで、「具体」という名の提案者でもある。瓶詰めした絵の具を画面上で炸裂させる大砲絵画パフォーマンスや、ヘリコプターからペイントを落とす絵画制作パフォーマンスなどが有名。98年、アメリカMOCA( The Museum of Contemporary Art)で開催された「戦後の世界展」で世界の四大アーティストの一人に選ばれる。
(注3)ヴェネチア・ビエンナーレ:イタリアのヴェネチアで1895年から隔年で開催されている現代アートの展覧会。美術部門だけでなく、映画、建築、音楽、演劇、舞踊の部門もある。

■「立呑みギャラリー 新聞女」
新聞女本人がプロデュースした新感覚バー(ギャラリーと立ち呑みのコラボ)。
ただし、本人は各イベントのために不在の場合もあり。
営業時間:月~木曜 19:00 ~ 23:30
     金・土曜 18:00 ~ 23:30
定休日:日曜日
大阪市浪速区元町1丁目2-2 
浪芳ビル1F
(地下鉄四ツ橋線なんば駅下車30番出口すぐ)

2009年6月号(通巻446号):この人に

2009-06-01 12:51:44 | ├ この人に
「怒りは神様が返してくれる」。
平和へのキーワードは、
この感性にあるんじゃないのかな。

記録映画作家
 柴田昌平さん

13年間にわたって記録した証言は22人、約100時間。やさしい目線で回されるカメラ。荒崎の海岸(注1)で、そしてアブチラガマ(注2)で、まるで幼子が親の話を聞くように、ひたすら受け手となり、“言葉のシャワー”を浴びながら、じっと、じっと、聴き入った日々。そうして世に問うた映像は、60余年の歳月を飛び越え、今を生きる人びとに、いのちの輝きをやさしく語りかけた。『ひめゆり』……決して平坦ではなかった道程の先に射した、温かな光だ。

■沖縄の土を初めて踏んだのは、NHKへ入られてからだとお聞きしました。なぜ沖縄に?

 人が暮らしていく実質、みたいなのを知りたかったんです。学生時代から、人間の営みの原点になってる土地を訪ねるチャンスを探してて、NHKに入るとき、東北、九州、沖縄など、都市生活から離れられるような地域に配属してほしいと希望を出したんです。それと、文化人類学やってた影響で、大学3年のころから民映研(民族文化映像研究所)(注3)のアチック・フォーラム(注4)にもずっと参加してました。すごい好きで毎週通って。姫田忠義さん(注5)に憧れて、作品もほとんど観尽くしました。でも、アチック・フォーラムでは、上映が終わったあと製作者と観客とがディスカッションをするのですが、意見を求められるのがイヤで、いつも隅っこのほうにいて姫田さんと視線が合わないようにしてたんです(笑)。自分に自信がなかったんですね。

■入社当時から、沖縄戦をテーマにした番組をつくられたんですか?

 いや、避けてたんです、最初は。沖縄に配属されたのは希望通りだったけど、右も左もわからない土地でしょ。ここですごいことがあった、という知識はもちろんありました。でも手強ごわくて、果たして僕なんかが受けとめられるテーマなのか。やはりちょっと大きすぎる、こわい、ずっとそういう思いがしてて。もうひとつは、今までいろんな方々が戦争関係のドキュメンタリーを作られてましたが、僕の心に響く作品にはなかなか出会えていなかった。でも、じゃあ自分が作るとしたらどうやるんだ、ということも皆目見当がつかない。ちゃんと向き合う自信がない。そんな何とも情けない自分だったんですね。

■では、とうとう機会はなかったんですか?

 作ったんですよ、結局。ディレクター3年生のときです。それで大失敗。 当時、沖縄戦をテーマにした番組を制作するのが、3年目の新人の“通過儀礼”でした。NHK沖縄局では90年代初め、市民のみなさんにスタジオを開いていこうと、毎週木曜日の夜8時に「ゆんたく(注6)テレビ」という生放送のトーク番組をやってたんですね。その枠でたしか6月23日に、沖縄戦を特集した90分の特番を組んで、僕が担当したんです。ちょうどベルリンの壁が崩れ、冷戦構造がなくなる一方で、嘉手納基地(注7)が世界の地域紛争への出撃拠点となるなど、沖縄の基地の役割はより大きくなろうとしていました。そこで僕は、今起こってる戦争が沖縄とどう関係してるのか、自由に語ってもらう場を企画したんです。沖縄戦だけで終わらせず、次世代に続く広がりを求めようと。
 番組では、沖縄出身の写真家や歴史学者をゲストに、戦跡めぐりに参加した高校生、沖縄戦の研究をしている大学生など、若い世代にも集まってもらいました。ところが、沖縄戦だけ研究する、考える、ってのはどうなんだろう、戦争は沖縄戦だけじゃないんだから……みたいな状態で議論が尻切れトンボになり、時間切れでそのまま番組が終わってしまったんです。沖縄戦のことを大事に勉強してきた人たちにとっては侮辱的な印象を残してしまいました。 ディレクターとして、事前に番組の議論の流れをシミュレーションをする力が足りなかったと思います。収録したものを後で編集できたら良かったのですが、このときは生放送でした。視聴者からのクレームもものすごかったし、出演した皆さんからも非常に強く批判されました。おそらくこれまでNHKがつくった沖縄戦の番組では、とりわけひどいものになったと思います。
 入社3年目、まだまだナイーブなころです。ひとつひとつの取材がこわくてこわくて、人と向き合うってこわいじゃないですか。いきなり重要な番組を任され、そのあげくの大失敗。もうすごいショックでした。その後NHKをやめることになるんですが、このトラウマから立ち直れなかったというのが理由のひとつです。

■それで民映研へ?

 中途半端な取材は絶対やっちゃいけない、ひとたび世に出してしまえばもう取り返しがつかない。失敗を通して学んだことです。自分の能力に限界を感じながら、「やめる」という選択もこわく、その後ずるずる1年。実はこの頃に一度辞表書いたんだけれど慰留され、東京の報道局というところへ異動しました。でも全然ついていけなくって。もうこれは挽回するチャンスも来ない、と、自分から見切りをつけてしまったんです。
 で、この先どうしょうどうしょう、と考えあぐねた末、やはり人と出会って人と学ぶ、ってことはやりたかったんで、一から映像の勉強をし直そう、と姫田さんに頼み込みました。「民映研に入れてください。給料タダでいいので」「NHKだろう、やめないほうがいい」「もう辞表出してきたんです」「じゃあしょうがない」(笑)。
 3年いましたが、本当に勉強になりました。「映像で記録していく」という、ごく当たり前のことをごく普通にやる。「犬も歩けば棒に当たる、当たった出会いを大事にしろ。見下しもしないかわりに“ヨイショ”もしない。同じ目線に立て」。姫田さんによく言われましたね。カメラワークひとつにしても、こういう付き合い方って意外と難しいんですよ。姫田さんがずっとそれをやってるのを、横で見て覚える毎日でした。

■『ひめゆり』を撮るきっかけ、出会いにもなったんですね。

 94年頃、自分たちの記録がないので、短編のビデオ作品を作れないか、あるひめゆりの方からNHK沖縄局に相談があったんですね。それでフリーになっていた僕が紹介されたんです。
 独り善がりでNHKを離れてしまった僕を見放すことなく気に掛けてくれてた、かつての同僚や先輩。彼らからの心遣いのおかげでした。話をいただいたとき、かつての大失敗の記憶が頭をよぎり、ややためらいましたが、民映研で学んできた、伝えたいけれど受けてくれる場のない庶民たちの語りをしっかりと受けとめ、映像で記録していく仕事。僕にもできるかも、と思い始めてた時期でもあり、ぜひやってみたいとお請けしました。そして全力投球し、ひめゆりの方々10人が戦争体験を語る25分のドキュメンタリー、『平和への祈り―ひめゆり学徒の証言』を、その年のうちに完成させたんです。みなさんとても喜んでくださいました。その後も撮影を続けたのは、僕自身の思いとして、この人たちはどういう生い立ちで、どうして戦争に巻き込まれて、そしてどんな戦後を歩んだんだ、ということをもっと聞きたい。そんな気持ちがだんだん強くなってきたからです。ひめゆりのみなさん一人ひとりが実に個性的で、また人間的魅力にあふれた人たちだったことに突き動かされたんですね。

■ひめゆりのみなさんに対する柴田さんの温かな思いが、2時間10分の証言映像に投影されていますね。

 みなさんの心のなかには、今でも戦場で亡くなった16、7歳のお友達がいて、彼女たちといつも話をしながら、長い戦後を過ごしてこられたんだろう。だからみなさんの証言は、実際戦場になった場所、昔のお友達に会える場所で聞こう。カメラを担当してくれることになった澤幡さん(注8)と、そう話をしました。また、澤幡さんからの「テープは何本ですか」との問いに、50本だと答えると、彼は「ひめゆりのみなさんが、もうこれ以上語ることはないと思うまで、とことんカメラを回し続けたい。そのために、テープは100本(注9)用意してほしい」と言ってきたんですね。姫田さんとともに数々の作品を生み出してきた、この民映研のベテランカメラマンは、僕に「記録することの性根」を据えつけてくれたように思います。
 100本のテープを用意し、撮影が始まりました。「生き残ってすまなかった……」。数十年の間、封じ込めてきた記憶の箱を開ける瞬間。私たちが語り、伝えるしかない、と重く閉ざしていた心を開いてくれたみなさんから発せられた、ほとばしるような語り。「まるで“言葉のシャワー”を浴びてるようだった……」。傍らでヘッドホンをつけ、マイクを向ける音声の吉野さん(注10)からの印象深い一言です。その後も少しずつ撮り足し、足かけ13年。映画のもとになった証言映像は100時間に及びます。プロデューサーには、民映研を事務局長として支えてきた小泉修吉さんも加わってくださいました。
 「ひめゆりの方たちに元気をもらった」「一人ひとり立つ姿に勇気づけられた」「いのちの輝きを感じる」。映画を観ていただいた方からの感想にこんな言葉があるのも、語られた証言が「怨み節」になってないからです。「怒りは神様が返してくれる」。沖縄古来の信仰にもとづいた思いの深さ、大切さ。ひめゆりのみなさんは僕たちにそれを教えてくれます。そして、平和へのキーワードも、この感性にあるんじゃないのかな。今、ふりかえってみて、そう思うんです。

インタビュー・執筆 編集委員 村岡 正司

●プロフィール●
1963年生まれ。東京大学で文化人類学を専攻。卒業後、NHK(沖縄放送局ディレクター、報道局特報部)、民族文化映像研究所を経てプロダクション・エイシアを設立。 沖縄やアジアに目を向けた映像作品 を制作し続ける。主な監督作品に『1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦』(教育映画祭優秀賞)、NHK『風の橋~中国雲南・大峡谷に生きる』(ギャラクシー賞)、NHK『杉の海に甦る巨大楼閣』(ギャラクシー賞・ATP賞)、NHKスペシャル『新シルクロード・第五集・天山南路・ラピスラズリの輝き』(伊・国際宗教映画祭参加、2007年ニューヨーク・フェスティバル金賞受賞) 、NHKスペシャル『世界里山紀行・フィンランド・森・妖精との対話』(独・World Media Festival 銀賞受賞) 、長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』(キネマ旬報ベスト・テン<文化映画>第1位、文化庁映画賞<文化記録映画部門>大賞ほか)。http://www.asia-documentary.com/

(注1)荒崎の海岸:沖縄県糸満市束里。沖縄戦末期の45年6月、「ひめゆり学徒隊」の生徒を含め多くの人びとが「集団自決」(強制集団死)した場所。
(注2)アブチラガマ:沖縄県南城市玉城字糸数。沖縄戦時の45年4月末、陸軍病院の分院となり、「ひめゆり学徒隊」が看護活動に使役された。「ガマ」は自然洞窟。
(注3) 民映研(民族文化映像研究所):神奈川県川崎市麻生区。76年創立された民間の研究所。日本の基層文化を映像で記録・研究し、119本の映画作品と150本余りのビデオ作品を生み出している。
(注4)アチック・フォーラム:09年で28年目を迎える民映研の作品自主上映会。現在までに製作された作品を上映し、後半には製作に参加したスタッフと観客との対話の会が持たれる。
(注5)姫田忠義さん:28年神戸生まれ。旧制神戸高商(現神戸商大)卒。54年上京、民俗学者宮本常一に師事。61年から映像による民族文化の記録作業を開始する。民族文化映像研究所設立後、同研究所所長。
(注6)ゆんたく:沖縄方言で「おしゃべり」の意味。
(注7)嘉手納基地(嘉手納飛行場):沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがる、極東最大の米空軍基地。
(注8)澤幡さん:澤幡正範。民映研の映像カメラマン。代表作に『シシリムカのほとりで』ほか。
(注9)テープは100本:当時、テープ1本あたりの記録時間は20分だった。
(注10)吉野さん:吉野奈保子。元民映研所員。現在、NPO法人共存の森ネットワークにて「森の“聞き書き甲子園”」プロジェクトを担当。

2009年5月号(通巻445号):この人に

2009-05-01 14:53:54 | ├ この人に
「誰かのために、ではなく
自分のために」が基本ですね。

邦楽演奏家
 折本慶太さん

 日本の古典芸能、和楽器の伝統の音色を活かしつつ、現代人にも親しみやすいパフォーマンスで定評のある若手邦楽家の折本さん。なかなか普段は扉を開けにくいイメージの邦楽の世界にあって、その屈託ないキャラクターによって、新しいファン層の広がりを作り出している。そして、そこでのさまざまな思いは、ボランティア活動にも通じるようなきらりと光るものがある。
 そんな折本さんに、普段着のままお越しいただき、お話を伺った。

■まず最初に、和楽器の演奏を始められた動機についてお聞かせください

 私の場合、幼いころに誰かの演奏を聴いて影響されたからだとか、演奏家の家系の出身だからとかではないんですよ。昔から外国の方と交流したいという思いがあって、そのために日本的なものを何か伝えられるようになりたいと、大学では国文学を専攻していました。和楽器の演奏はそれ以前からやっていましたが、動機は、たとえば海外旅行で、「あなたの国のものを何か紹介してください」といわれたとき、持ち運びの便利な和楽器が一本あって、それを出してるのか、リード(注2)はあるのかとか。箏は桐の木、尺八は竹でできています。尺八にリードはなく、単なる筒状のものに5つ穴が開いているだけの、とても単純な構造です。それを見せて説明したら、確かに驚かれますよね。

■演奏旅行に行く目的はどこにあるんでしょうか?

 そうですねえ。(しばらく考えて)自分のため、っていうんでしょうか、こういういい方が適切かどうか分かりませんが、「お客様のため」だとか「日本の音楽を広げるため」だとかいうようなおこがましいことは考えていません。とりあえず自分が一生懸命丁寧に演奏していければ、それがベストだと思っています。そのために練習もするし、そして最高の演奏をしたい、という思いはあります。演奏したあとに、お客様から「ありがとう」という声をいただくと、うれしいですね。特に、とにかく丁寧に演奏することを心がけていますから、「すごく丁寧に演奏されていましたね」という声は、非常にうれしいです。

■やり方は全然違いますが、市民活動やボランティア活動に通じるものがありますね

 誰もいないところで演奏するわけではなく、必ずお客様がいるわけですから、「自分のため」に演奏するというと、少し矛盾があるようですが、ちょっとでも「やってあげてる」という感覚があると続かないと思います。それじゃあ対等な立場でなくなってしまう。だから、まず自分のことをしっかりやって、そこから何かが付随してくるのがいいし、むしろそうでなければならないと思っています。これってボランティア活動にも通じませんか?
 当初の和楽器を演奏しようと思った動機……海外の方と交流がしたいという目的を実現する手段として、自分のために始めたことが、今では演奏することが仕事となって演奏旅行に行く。昔は漠然と思っていたことが、きちんと形になり実現しているということでそれが証明されているような気がします。

■変化が求められる時代ですが、「おとぎ」(注3)のような古典的な世界に新しい風を吹き込む活動への思いは?

 和楽器でジャズバンドとセッションを組まれる方も最近では多いのですが、おとぎの活動でいえば、「和楽器で」というのが根底にあります。三曲合奏(注4)などの定番の組み合わせではなく、それに琵琶や朗読を加え、取り上げるテーマも民謡だとか、唱歌だとか、親しみのあるものをベースにしながら、違った視点から音楽をとらえることができたらいいな、と考えています。伝承されてきた昔話や、『平家物語』をはじめとする文学作品に、琵琶の語りも入れながら音楽劇のスタイルで演奏することもありますし、取り上げたテーマを単に器楽曲として合奏する場合もあります。また、おとぎのような新しいスタイルの活動だけではなく、もちろん三曲合奏の世界でも活動をしていますし、和太鼓といっしょにやったりなど、幸いにもいろんなフィールドで演奏する機会をもらっています。

■若い年齢層の方に対してはどうお考えですか?

 若い年齢層の方に対して、演奏を聴いていただくためにこれといってやっていることはありません。でも一度、和楽器の演奏を聴くという実体験をされた方は次からも足を運んでくださってます。つまり、きっかけなんですよね。堅いイメージがあっても、ひとつ壁を越えれば案外大丈夫なことも多い。こちらとしても、もう離さないぞ、という気合いもありますし(笑)。ただ、離さないために斬新なことばかりやっても続かないと思います。要は、そこからどうやって続けていくのかが大切になります。
 当たり前かも知れませんが、どんな曲にでも自分なりの解釈を加えていき、自分らしさが出せればいいと思っています。邦楽の世界では、習ったようにやる、ということが多いような気がします。手順が違っただけでも指摘されたりします。でも、そんな中でさりげなく自分の個性が出せるような演奏を心がけていますし、もちろんそれを押しつける気持ちもないです。基本は誰かのためにではなく、自分のために……。ふと気が付けば、それが若い方を始め、多くの方に受け入れられていたというようになっているとうれしいです。無理はしないで、でも続けていきたい。そのための努力、なのかも知れません。
 自分のスタイルも、あるとき振り返ってみたら、そういう積み重ねが、さまざまな形で広がりを持っているっていうことですね。ボランティア活動を長く続けていくヒントを伺ったような気持ちです。

インタビュー・執筆 
編集委員 杉浦 健

●プロフィール●
1993 年より尺八を橋本岳人山に師事。1994 年より箏・三絃を生田流新絃社二代目家元、狩谷春樹に師事。1997 年、都山流尺八大阪府コンクール1 位受賞。同年、都山流師範首席合格。2001 年、NHK 邦楽技能者育成会第46 期卒業。同年、生田流新絃社師範取得。2003年より十七絃箏・二十絃箏を宮越圭子に師事。現在、神戸薬科大学箏曲部顧問。愛媛県出身、大阪市在住。

【注1】舞太鼓あすか組:1990 年結成。世界各地で年間100 を超える公演を行う。フランス五大陸国際音楽祭、イスタンブール国際音楽祭などに出演。また07 年世界最大の芸術祭であるイギリス「エジンバラ・フリンジ」での1 か月公演は、英国の各メディアより五つ星の評価を得る。さらに08 年公開の黒沢映画のリメイク版『隠し砦の三悪人』(樋口真嗣監督)に出演、劇中「火祭りのシーン」では、振り付けと演奏も担当した。

【注2】リード:管楽器の管の端に取り付けるパーツの一種。息を吹き付けると振動し、その振動が管に伝わる。すると管の中の空気そのものが振動し、その管楽器は音をつくり出す。たいていは木製だが、唇をリードに見立てて振動させ、音をつくる楽器もあり、それを金管楽器として分類する。それ以外の管楽器を木管楽器として分類する。尺八は厳密にいうとエアーリード(目に見えない、息を空気の束にして振動させて音をつくる木管楽器)に分類されるが、実際にリードは使わない。同じ原理の楽器にフルートやリコーダーがある。

【注3】おとぎ:2007 年結成。川村旭芳(代表、筑前琵琶・歌・語り)、木場大輔(胡弓・作曲・編曲)、安田知博(尺八・笛・朗読)、そして折本慶太(箏・十七絃・三絃・尺八)によって結成された関西で数少ないプロの若手邦楽ユニット。和楽器の伝統の音色を活かしつつ、現代人にも親しみやすいステージづくりを重視し、アジアなど世界の音楽も取り入れた独自のサウンドは、若者からシニア層まで幅広い世代からの支持をうけている。

【注4】三曲合奏:もとは地歌三味線(三絃)、箏、胡弓の三種の楽器による合奏編成だった。江戸中期頃から胡弓が尺八に変わっていく。

2009年4月号(通巻444号):この人に

2009-04-01 18:38:43 | ├ この人に
国益だ、国の安全だ、と言いながら、
本土からは見えない沖縄に
米軍基地を押し付けて、平気でいる。
なぜ他人の痛みが感じられないのですか。

大田昌秀さん(元沖縄県知事)

 第二次大戦中、日本で最大の地上戦として、一般住民を巻き込んだ熾烈な戦闘が行われた沖縄戦。
 全住民の4人に1人が犠牲になったとも言われるこの悲惨な歴史の事実を、自衛隊の海外派遣や有事法制の動きが顕著になっている現在、私たちは忘れてはいないだろうか。
 そして、今もなお日本国内の米軍基地の75%を、国土全体のわずか0・6%の小さな沖縄の島に負担させ続けている現実に、目を背けてはいないだろうか。
 身をもって沖縄戦の惨禍を体験したことを礎いしずえに、沖縄県知事として平和行政や基地問題に取り組んで来られた、大田昌秀さんにお話を伺った。
※08年11月2日、龍谷大学社会学部開設20周年 記念講演より

■住民を巻き込んだ沖縄戦の教訓

 私が参議院議員をしていた当時、所属していた外交防衛委員会で、外務大臣と防衛大臣に「あなたは沖縄戦について何か書物を読んだことがありますか? 防衛省スタッフから沖縄戦についてレクチャーを受けましたか?」と聞きましたら、何も読んでいない、レクチャーも受けていないというんです。私はがっかりするというより、あきれてしまいました。
 現在も沖縄には多くの米軍基地が残り、危険と隣り合わせの被害に悩まされている。その安全保障問題の責任者である大臣が、沖縄戦について何も知らないし、何の教訓も学んでいないのは、あまりにも非常識すぎると思います。
 沖縄戦は、日本本土の防衛のための“捨て石”になるということが、最初からわかっていた戦いでした。沖縄を攻めた米軍は延べ54万人。当時の沖縄の全人口が約43万人程度でしたから、それをも上回る大部隊です。対する日本の沖縄守備軍は8万人。結果は明らかです。約2万5千人の地元住民を徴用したが、それでも足りずに、沖縄の12の男子中等学校からは、徴兵年齢以下の学生により結成された学徒隊である「鉄血勤皇隊」に、10女学校からも従軍看護婦などにと、年若い学生までが動員されました。当時学生だった私もその一人として、38式の銃と120発の銃弾と2個の手榴弾を腰に、半そで半ズボン姿で戦場へ駆り出されたのです。またこれらの動員は法律の根拠もなく行われました。そのための法ができたのは、後になって沖縄守備軍が自決した日のことでした。
 日本軍の大本営は、本土決戦の準備態勢が整うまで、勝ち目のない沖縄戦で時間稼ぎをする計画でした。沖縄が玉砕することは前提として、軍の玉砕後も住民を巻き込んでのゲリラ戦を続けさせるために、スパイ養成で有名な陸軍中野学校の工作員までが沖縄に送り込まれていたのです。

■軍隊は住民を守らない

 沖縄戦の教訓は、「軍隊は住民を守らない」ことが実証されていることです。
 自衛隊に関する論議では、よく「私たち国民の生命・財産を守るために必要だ」とみんな口を揃えて言います。しかし、みなさんは自衛隊法を読んだことがありますか? 第3条「自衛隊の任務」を見ても、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つ」としか書いていない。果たして、ここに言う“国”は、“国民”と同じでしょうか?
 沖縄戦では、敵国である米軍によるものではなく、味方であるはずの日本軍に殺された一般住民の数が非常に多いのです。沖縄に対する日本軍の見方は、沖縄は昔、琉球国という別の国だったから、天皇陛下を敬う意識が薄い。だから沖縄住民は信用できないし、監視の手を緩めたら敵側に行ってしまうかも、というショッキングなものでした。“残置諜報員”として、身分を偽って離島の村などに潜入した軍の工作員が、住民を監視していました。また沖縄方言も、本土の人には話している内容がわからないことから、方言を話しただけでスパイと見なされて処刑されるという、信じられない理不尽な犠牲となった方がたくさんおられます。私の出身地、久米島では、40人が戦争の犠牲となりましたが、そのうち実に20人までが日本軍によって殺されたのです。それも、米軍の捕虜となっていたからなどの理由だけで、何の罪もない女性や、生後数か月の幼い子どもたちまでも含めて、一家全員が処刑されたのです。
 現在、沖縄の離島での住民の集団自決に、軍の強制があったかどうかで裁判が争われています。当時の沖縄での状況は「軍・官・民が一体となった“共生共死”であった」と言われています。しかし現実は、軍が住民から食料を強奪したり、住民が避難している壕に対し、自分たちの安全のために住民を追い出して軍が居座るなど、共生共死と言いながら、実は共に生きるという発想はなく、住民に死ぬことを強制するばかりだったのが実態なのです。

■安保は必要、でも基地は要らない

 安保条約は日本の安全を守るために必要だ、とみんな言います。でも、安保のためにある米軍基地を引き受けようとは、どの都道府県も言いません。また、沖縄に駐留している米軍の海兵隊部隊8千人を、グアムに移すための費用だけで、実に7千億円が日本から支出されようとしています。一部の人たちは「なぜ沖縄のために、俺たちの税金を7千億もかけなくてはならのか」という言い方をします。じゃあ私達は「お金は一銭もいらんから、あんたのトコに基地を持っていきなさい」と言うんですね。でも、いくらたくさんのお金をもらっても、基地を引き受けてもいいという人は一人もいない。
 アメリカでも同じような格言があります。「軍を持つのは賛成だ。でも自分の家の裏庭に兵舎を作るのはダメだ」。国益だ、国の安全だ、と言いながら、本土からは目に見えない沖縄に圧倒的多数の米軍基地を押し付けておいて、平気でいる。その感性が理解できません。なぜ他人の痛みが感じられないのですか。これが私たちが一番苦労しているところです。そういう人々の意識が、平和を作り出せない原因のひとつとなっているのではないでしょうか。

■「沖縄は基地収入でもっている」の誤解

 沖縄の基地問題で必ず言われることに、「沖縄は、実は基地収入でもっているのだから、本当は基地がなくなると沖縄自身が困るんだ」という見方があります。でも、現実は全く違うんです。確かに1960年代では、外部からの収入の55%は基地収入でした。でも、今はわずか4・6%しかない。沖縄県の全41の市町村のうち、半分の25くらいが基地を抱えていますが、所得の多い順に並べると、一番は基地が全くない、さとうきび畑の収入が占めるのどかな南北大東村です。基地のある町が発展しているかというと、決してそうではないんですね。
 沖縄は全国一の貧乏県で、所得は最下位で全国平均の75%しかないが、失業率は2倍以上でトップです。もし基地が返還されれば、広大な跡地利用での沖縄らしさを生かした産業振興とまちづくりにより、雇用は今より10倍くらい確保できることははっきりしています。今や基地収入よりも、基地があることによる経済的損失の方がはるかに大きいのです。
 費用の面で言うなら、在日米軍に対する日本側の法的根拠のない経費負担、いわゆる“思いやり予算”は、途方もない額に膨らんでいて、こんなに負担している国はほかにありません。世界で米軍が駐留している22か国の全部の駐留経費を合計しても、日本の思いやり予算の方がはるかに大きいくらいです。なおかつ、まだこの上に1兆5千億円もの税金を投じて、沖縄県北部・辺野古地区に、絶滅危惧種のジュゴンが棲む貴重なサンゴの海を埋め立てて、ヘリポート基地を作ろうとしているんです。

■沖縄の平和思想を現実の力として

 みなさんに、沖縄の平和思想について、お伝えしたい事例があります。
 石垣島で、戦時中に不時着した米軍機の米兵捕虜を不当に処刑したとして、関わったとされる日本軍関係者が、戦後になって裁判にかけられるという事件がありました。その中に7人の沖縄出身者がいたのですが、1人を除くと正規の軍人ではなく、農民や17歳の少年らで、事件の2週間前に入隊させられたばかりの人たちだったのです。しかし、第1審の判決では死刑とされてしまいました。
 そこで本土在住の県民組織、沖縄連盟による減刑の嘆願活動が取り組まれました。沖縄連盟の仲原善忠会長は、著名な沖縄郷土史家で、“沖縄の万葉集”と称される『おもろさうし』の研究者として知られていました。『おもろさうし』は、12~17世紀にかけての、人々の暮らしに関わる古歌謡1千530首を集めたものです。仲原氏は、沖縄の伝説や説話142篇を収録した説話集『遺老説伝』も合わせて、計1千672首をつぶさに分析したのですが、これらの記述には「殺す」という言葉が一切出てこなかったんですね。それを根拠として、沖縄の思想では、そのようなむごいことをする意識文化がないことを証明しようとしたのです。
 また、ハワイ大学の研究者ウィリアム・リブラー氏の著書『沖縄の宗教』でも、沖縄と日本本土の文化との違いが示されています。日本では武力を讃え、死ぬことを惜しまない「侍の文化= Warrior's culture」が中心であったが、それに対して沖縄の文化は「非武の文化= absence of militarism(軍国主義が欠落した文化)」であることが説かれています。15世紀の琉球王朝が武器の所持を禁止して以来、沖縄は武力を用いない平和外交の守礼の民の国として、海外にも広く知られていました。これらの主張が裁判でも認められて、最終的には、沖縄出身者全員が死刑を免れる結果となりました。
 「平和思想なんて役に立たない。机上の空論でしかない」という声もよく耳にしますが、沖縄の伝統的な平和思想とその実践は、単なる理念ではなく人々の心を動かし共感させ、実際に7人の人命を救うことになる、現実的な力を持っているのです。

インタビュー・執筆 
編集委員 大門 秀幸


■プロフィール
1925 年、沖縄県久米島生まれ。1945 年、沖縄師範学校在学中に「鉄血勤皇隊」に動員され、沖縄戦で九死に一生を得るが、多くの学友を失う。琉球大学教授として、ジャーナリズムと社会学や沖縄戦の研究を続ける。1990年、沖縄県知事に就任。多くの平和施策の実現や基地問題の解決に取り組む。2001年、参議院議員に社民党から当選。沖縄の声を国政に反映させるべく活躍。2007年、参議院議員引退。現在、大田平和総合研究所を主宰し、講演・執筆活動等に取り組みを続ける。『有事法制は、怖い。沖縄戦が語るその実態』『沖縄差別と平和憲法~日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ』ほか、著書多数。

2009年3月号(通巻443号):この人に

2009-03-01 17:55:34 | ├ この人に
たくさんの派遣会社が入って、
気が付いたらイラクやアフガニスタンに
連れて行かれていたというようなことが
起こるでしょう。

作家・プレカリアート活動家
 雨宮処凛さん

 本誌08年12月号で採り上げたように、バブル崩壊後の就職氷河期を経て、近年、パートタイマー、アルバイト、派遣労働者、契約社員、フリーター、等々、不安定雇用に身を委ねざるを得ない若者が増えている。今や全労働者の3人に1人は不安定雇用労働者であり、特に、15~24歳の若年層では2人に1人がそうした労働者だ。
 そして彼らの労働条件は、労働基準法など有ってなきがごとくに切り下げられ、賃金は、幾つもの仕事を掛け持ちして長
時間働いても生活保護基準に満たないほどに買いたたかれている。彼らは「ワーキングプア」(注1)とか「プレカリアート」(注2)と呼ばれ、一部は、住む家もなく難民化している。
 そうした不条理な現状に対して、いま全国各地で、当事者やそれを支援する市民の権利獲得(回復)運動が広がり始め
ている。自身、かつてはフリーターであり、不安定雇用労働者として不安な生活を強いられた経験を持つ作家の雨宮処凛さんは、そんな運動を象徴する人であり、「プレカリアート運動のマドンナ」と呼ばれている。

取材日2008年11月17日

■雨宮さんは北海道のご出身で、高校を卒業して東京に出られて、受験浪人をされたあとしばらくフリーターをされていた、ということなんですが、まずはそのあたりのお話からお伺いできますでしょうか。

 1993年に高校を卒業して、2浪したあと19歳でフリーターになり、24歳まで5年間フリーターでした。
 その頃はバブル崩壊後の不況期で、時給900円くらいだとフルで働いても月に15万円までいかないような状態で、自分
の収入だけでは生活費がぜんぜん賄えなくて親に頼るとかしていたので、そのままフリーターを続けていればなかなかそこから脱出できないし、ゆくゆくはホームレスになっちゃうんじゃないかというようなことをフリーター仲間で話していました。

■その後、ある時期に右翼団体に入られたということなんですが、それはどういうきっかけだったんですか?

 96年に初めて右翼団体の集会に行って、97年に右翼団体に入ったんですけれど、それ以前に、95年に阪神・淡路大震災とオウム事件が起こって、それがちょうど戦後50年の年だったわけです。
 私自身はオウム事件にすごいショックを受けたんですが、あの事件を受けて心の時代だとか心の教育だとかということ
が言われて、「戦後日本の価値観や教育が間違っていたからああいう事件が起こった」というような議論が起こったときに、
自分自身がフリーターとして生きづらい思いをしていて、手首を切るようなことをしていることと戦後日本のあり方とがなんか関係しているんではないかと思い始めていたんです。
 そういう形で戦後日本とはなんだったのか、ということが問われる中で、「じゃあ、戦争とはいったい何だったのか」ということを考えたときに、戦争について何も知らない自分にすごい罪悪感を感じたんです。
 それで、戦争について知るためには右翼か左翼に聞きに行けばいいんじゃないかと思って、最初左翼に行ったんですが
まったく言葉の意味が分からなくて、右翼に行ったら、「モノとカネだけの価値観しかない今の日本で若者が生きづらいの
は当たり前だ。戦後の物質主義、拝金主義、魂なき繁栄が悪かったんじゃないか」というような話でものすごく分かりやすく
て、右翼に入ったんです。

■でも2年ほどで右翼をやめられて、そのあと最初の本(注3)を出されたわけですね?

 そうです。2000年に。

■その頃はでも、フリーターの労働問題とか雇用問題についてはまだ明確な視点はお持ちじゃなかった?

 そうですね。その頃はまだ、いじめとかリストカットとか自殺の問題について考えようと思って、どちらかというと心の問題寄りでしたね。
 でも、自殺の問題なんかを心の問題として考えていてもぜんぜん出口が見えなくて、取材を通してとか、自分が当事者
として関わっていた10年くらいの間にも十数人の人が自殺で亡くなって、「これはもう、個人の問題ではないんではないか」
と思うようになったんです。
 ちょうどそういう時期に「プレカリアート」という言葉を知って、06年の4月にフリーターのメーデー(注4)に参加して、そこで新自由主義だとかグローバリゼーションだとかという話を聞いて、自分が考えていた自殺の問題とかがすごく整理されて、眼を開かれましたね。

■その辺で、よく本などにお書きになっている日経連の「新時代の日本的経営」(注5)というレポートの話になるわけですね?

 そうですね。あのレポートの存在を知ったのは非常に大きかったですね。 
 あのレポートが出た95年には私自身フリーターでしたので、その時に露骨に、自分たちは「死ぬまで不安定雇用で、使
い捨てにされる労働力」というふうに分類され、見捨てられたんだというふうに思いましたね。
 私自身、フリーターであることを親とか周りの人からすごく責められていましたし、友人の中にも、フリーターであることやなかなか正社員になれないことを周りからも責められ、自分自身でも自分を責めて、「自分が悪いんだ」と思っている人が多かったので、こういうふうに外的な要因で、財界がそういうふうに望んだことであるということはすごく衝撃でしたね。

■ご本にもお書きになっていることですが、若い人たちの間でもやはりその自己責任論というのは根強くあるようですね?

 はい。ある意味、自由競争というか、何をするのも自由であるみたいな世界で、努力の次第によっては何にでもなれるという幻想があって、そこから滑り落ちてしまった人はとことん駄目な人間であるという見方が当事者にも刷り込まれてしまっているんですよね。だから、自己責任ということを本人が進んで言ってしまうというようなことがありますね。

■私が「若者の貧困化」という問題に気づかされて、非常にショックを受けたのは、堤未果さんの『貧困大国アメリカ』(岩波新書)という本なんです。あれを読んで、若者を徹底的に貧困に追い込んでおいて、そこからの脱出口として兵隊に志願させるというような手口に慄然とさせられたんです。日本の自衛隊もやっているようですが。

 そうですね。本当にアメリカと同じだと思います。実際、自衛隊の勧誘を聞くと、こんなに良い職場はないですよね。直接雇用ですし、いろいろな資格も取れるし、お金もそこそこ貯められるし。フリーターの若者たちにとって自衛隊が非常に魅力的な職場になってしまっているという現状は確実にありますね。
 この問題を突き詰めていくと戦争に行き当たるし、戦争こそが究極の貧困ビジネスであるというような構造になってきていますね。

■いま、医療崩壊、教育崩壊、介護崩壊と合わせて雇用崩壊が進んでいて、10年、20年前には考えられなかったような雇用条件がまかり通っています。  その直接的な要因としては、労働者派遣法の改悪を始めとする雇用面での規制緩和があるわけですが、その背景には経済のグローバル化ということがあって、企業の側でも人件費削減のためにやむを得ないという面がなくもない。  でも、同じような条件にある国ぐにはみなそうかと言うと、必ずしもそうとは言えないのではないかと思うんですが。

 そうですね。短時間雇用の労働者が増えているというのはヨーロッパなんかでも同じですよね。でも、フランスやドイツなんかだと非正規雇用の人と正社員を差別的に取り扱ってはいけないということが法律化されていて、同一労働同一賃金ということが徹底していますよね。でも日本の場合は、そうした法律が作られないままこういう状態になってしまったので、ワーキングプアが増えるのは当然ですよね。

■ここ2年ほど、フリーター労組(注6)とか反貧困ネットワークだとか、当事者の組織やそれを支援する市民組織が生まれてきているようなんですが、その辺の事情についてお聞かせいただけますか。

 そうですね、いま労働/生存組合みたいな、労働だけではなくて生存に関わる組織があちこちにできてきていて、反貧
困ネットワークという組織が07年10月に誕生しました。これは、労働とか福祉とか多重債務問題とかをバラバラにしない
というのが一つの大きなテーマで、労働組合とか、多重債務問題に詳しい弁護士さんだとか、福祉問題に詳しい人だとか、
障害者団体だとか、貧困問題に関わるありとあらゆる団体や個人が大同団結しているので、分けられていないというのが
一つの特徴ですね。

■それは心強い動きですね。最後に、この『ウォロ』の読者の人たちにぜひ伝えたいメッセージとかがおありでしたらお聞かせください。

 いまプレカリアートの運動に取り組んでいる人たちはまさにボランティアで取り組んでいるんですね。フリーター労組という組合なんかは貧しい人同士の助け合いなんですけれど、労働相談なんか全部無償でやって、自分の睡眠時間も削りながら団体交渉なんかに走り回っている状態です。
 でもそれにはやはり限界があると思いますので、そういう中で頑張っている若い人たちがいるということを、まず知ってほしいです。
 それから、いま反貧困たすけあいネットワークという互助組織があって、どうしても困ったときに1万円とか2万円とかを貸し付けるといったことをしているんですが、そういうボランティア組織の運営のノウハウを交換していくとか、あとやっぱり、各地に、そういうフリーターの人たちの居場所とか、労働や生活相談の窓口をつくっていく手助けをしていただけたらと思います。

■今日はお忙しいなか貴重なお話をありがとうございました。

インタビュー・執筆 編集委員 牧口 明

(注1)ワーキングプア 
まともに働いていても生活保護基準すれすれかそれ以下の収入しか得られない労働者のこと。
(注2)プレカリアート 
不安定雇用労働者・失業者の総称。「不安定な」という意味のイタリア語「プレカリオ(precario)」と賃金労働者を意味する「プロレタリアート(proletariato)」を組み合わせた造語。
(注3)最初の本 
雨宮さんの作家デビュー作『生き地獄天国』2000年、太田出版刊
(注4)フリーターのメーデー 
2004年から始まったフリーターのメーデー。「自由と生存のメーデー」と命名されている。雨宮さんが初参加された06年のメーデーは「自由と生存のメーデー06―プレカリアートの企みのために」と銘打っておこなわれた。
(注5)「新時代の日本的経営」 
日本経営者団体連盟( 日経連・2002年に経団連と統合して日本経団連に名称変更) が1995年に出したレポート。労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の3つに分け、一部の幹部候補生と特別な技術・能力を持ったスペシャリスト以外は何時でも使い捨てにできる雇用柔軟型として位置づけ、その積極的な「活用」を提言した。
(注6)フリーター労組 
フリーター全般労働組合のこと。2004年8月に結成。

プロフィール
1975年北海道生まれ。高校卒業後上京。大学受験浪人後フリーター生活に入る。一時精神的に追いつめられてリストカットや自殺未遂を繰り返した時期を持つ。1999 年にドキュメンタリー映画『新しい神様』(土屋豊監督)に主演。2000年に『生き地獄天国』(太田出版刊)で作家デビュー。以後『自殺のコスト』(太田出版) 、『暴力恋愛』(講談社)、『バンギャル ア ゴーゴー(上下)』(講談社)、『生きさせろ!難民化する若者たち』(太田出版・日本ジャーナリスト会議賞受賞)など話題作を次々と発表。現在は取材・執筆・運動を通してプレカリアートの問題に精力的に取り組んでいる。心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、「週刊金曜日」編集委員、反貧困ネットワーク副代表など。

2009年1・2月号(通巻442号):この人に

2009-01-01 17:01:44 | ├ この人に
防災にとって一番重要なのは、
2つの“ソウゾウリョク”。
細かい技よりも一番重要なんです。

iop 都市文化創造研究所、プラス・アーツ
  永田 宏和さん

永田宏和さんには、2つの顔がある。株式会社iop 都市文化創造研究所代表取締役、NPO法人プラス・アーツ理事長。株式会社ではまちづくりや店舗建築のプロデュース、NPOでは防災、教育、子育て…など、社会的課題と密接に関係あるテーマに携わっている。幅広い活動をされている永田さんだが、今回はその中でも永田さんを語る上で特に欠かせない“防災”を中心にお話を伺った。


■防災に関するイベントをたくさんされていますが、防災に関心を持たれるようになったのはなぜですか。

 めぐり合わせです。もし就職が1年遅かったら、僕は阪神・淡路大震災のとき、激震地区のど真ん中の寮に入っていました。1年後輩はみんなその寮にいて、死体を瓦礫から引っ張りだしたり、救援活動を3日3晩したり、大変な思いをしたのですね。恩師の鳴海邦碩先生は、当時、大阪大学の教授で被災地調査や復興をやっていたわけですから、すごく手伝いたかったのです。当時、勤務していた竹中工務店でも志願したのですが、結局叶いませんでした。僕には僕の他の業務があるので「誰が代わりをするの」という話になるんですよね。
 また、自分の母親が昔住んでいた西宮の家が全壊したので、その建替えもしなくてはいけないということでそちらも忙しくなり、自分が職能としてやってきたことを社会に対して活かすことができませんでした。やりたかったのにできなかった。後ろめたさがずっと残っていましたね。

■そのときの思いが現在の防災イベントにつながっているのですね。

 震災から5年目の00年に、神戸市の子どもを対象にした事業、“六甲摩耶復興祭”の一環で神戸市立自然の家を会場に“ネイチャーアートキャンプ”という事業を企画、実施しました。プログラムとしては面白くて話題になったのですが、防災には直接関係なかったのです。
 その後独立して、iop 都市文化創造研究所を設立し、05年、子どもを対象にしたプログラムの依頼が再び神戸市から来ました。震災10年、神戸にとっては一つの節目でしたが、実は、防災向けのイベントを頼まれたんじゃないんです。知り合いの美術家・藤浩志さんが考案した“かえっこバザール”というおもちゃをリサイクルするお店屋さんごっこのようなイベントを神戸市内何か所かで実施して、元気な子どもの姿を発信して欲しいという依頼でした。ただ、僕らは10年前のことをもう一度振り返らないといけないと思ったのです。「振り返らなくてもいいですよ」と市との会議では言われましたが、僕らとしては振り返って未来について言えることはあるだろうと考えました。ただ、「かえっこバザールをやって欲しい」と言われていたので、かえっこに防災を組み合わせたプログラムを僕らは思いついたのです。それが “神戸カエルキャラバン2005”です。今は名称を変更して“イザ!カエルキャラバン”と呼んでいます。
 かえっこは、子どもがいらなくなったおもちゃを会場に持ってきてカエルポイントに換え、そのポイントで他のおもちゃと交換(かえっこ)できるシステムです。どの子も欲しがるような人気の高いおもちゃを持ってくる子どももいるので、それはオークション形式になっています。ただ、持ってきたおもちゃの数だけで持ち点が決まっても面白くないから、ポイントが足りなくなったら体験コーナーで肩たたきや似顔絵を描くとポイントがもらえます。僕らはその体験コーナーに注目し、防災訓練をしたらポイントがもらえることにしたのです。
 一般的な防災訓練って、地域で防災活動をやっているおじいちゃん、おばあちゃんが来るくらいなのです。けれど、カエルキャラバンは楽しいから告知をセーブしないといけないくらい親子連れが大勢来ますよ。子どもはおもちゃを換えにいこう、大人にしたらおもちゃを処理できるぞ、とこの仕組みが全てです。
 神戸市のOKをもらってから半年間、被災者の声をヒアリングしたり、ミュージアムや手記を読み漁ったり、僕らができ得る阪神・淡路大震災に関する勉強をしました。被災者の声からこういうことが重要だ、こういう技で助かった、というのを基に防災プログラムを作ったのです。他にも伝えたい体験手記がいっぱいあったので、アニメーションや絵本、ゲームなど、子どもに防災を知らせるためのメディアを開発しました。楽しいプログラムだけに、表層だけだと遊びになってしまいます。消防局に行ったときにも「命の大切さを本当に伝えているのか。遊びではないぞ」と怒られました。最初は、理解してくれなかったのですが、2、3回と説明に行くもんだからとりあえず手伝おうか、という話になったようです。しかし、今、消防局では僕らのプログラムを使っています。なぜかというと、子どもが興味を持って積極的に取り組んでくれるのを目の当たりにしたのと、被災者の声をベースにプログラムを組み立てているからです。その後もリサーチしていますけれど、それが僕らにとっての財産です。
 今や神戸では、年3回は必ずカエルキャラバンが実施されています。僕らは、神戸の話は予算の条件などが合わなくても絶対に断りません。必ず行きますね。
 カエルキャラバンは現在、横浜、新潟をはじめとして全国各地で広がっていて、昨年の10月にはインドネシアのジョグジャカルタでも実施しました。2、3回と継続しているところもあり、地域で定着していくのは嬉しいことです。

■防災のイベントでは多くの子どもたちの姿が見られますよね。

 防災にとって一番重要なのは、二つの“ソウゾウリョク”。イメージする想像力、創り出す創造力。周りの状況を見て、想像力を働かせながら臨機応変な対応を創り出す力です。これが防災の細かい技よりも一番重要なんですよ。防災イベントの目的はそこにあって、子どもたちのそういう能力を育てるためにやっているのが本当のところです。
 カエルキャラバンのプログラムは9種類あって、水消火器的当てゲームや防災ジャンボカルタなど、消火・救出・救護をゲーム感覚で楽しめるものばかり。体験している子どもたちの目は輝いています。楽しいから何度もするんですよ。防災も教育も繰り返しが大事。3、4回やったら消火器の使い方もキマってきます。だから“楽しさ”って重要です。
 なぜ僕がこんなにモチベーションを持ってやっているかというと、きれいごとかもしれないですけれど、こういう活動を広げることで何人か救える命があるかもしれないし、子どもたちが大きくなってから身につけた技を使える日が来るだろう、と思うからです。もう一つは、ソウゾウリョク。今はイベントだけじゃなくて教育現場でのプログラムの普及やゲーム開発とその流通なども意識しながら、より多くの人に伝えていきたいと考えています。

■防災イベントをされているのは、NPO法人プラス・アーツですが、株式会社との関係性はどのようなものなのですか。

 個人事務所のときは、アートとまちづくりと建築のプロデュースを一緒にやっていましたが、カエルキャラバンを全国展開しようという話になったときに、これは社会的なミッションを背負っているし、地域の人たち、社会のためにという意識があったのでNPO法人を立ち上げました。その際、他の事業も社会性という視点で見ると、全てプラスアーツだったんですよ。教育プラスアーツ、防災プラスアーツ、子育て支援プラスアーツ。全部、それをNPOに移管してしまおうということで、防災だけでなく教育なども含めた形で一本化させたのがNPO法人プラス・アーツです。残りのまちづくりと店舗建築のプロデュースを株式会社がやっています。

■“プラスアーツ”とは、具体的にどういうことなのですか。

 アートを防災や教育にプラスすることで、何か新しい風が吹き込めないかと考えています。アートって言うと、芸術、美術をイメージしますけれど、“アーツ”はデザインも含めたもの、もっと言うと二つのソウゾウリョクが僕らの言っているところのアーツなのですね。
 僕らが付き合うアーティストは、どちらかというとコミュニケーションアートの方が多いです。自分が場をつくることで、人と人がつながり、コミュニケーションを促進させるツールとして自分の表現を位置づけている。コミュニケーションアートが今、面白くなっているのは、社会がそれだけ危機的状況にあるからでしょう。僕の持論として、アートは一側面ですけれど、時代の鏡である気がしますね。

■「防災」というと、“非日常”“災害を防ぐためだけ”のものというイメージがありましたが、教育やまちづくり、アートなど私たちの“日常”とも深い繋がりがあるものなのですね。防災への認識が変わったように思います。ありがとうございました。

インタビュー・執筆 
編集委員 久保 友美

●プロフィール●
1968 年兵庫県西宮市生まれ。93 年、株式会社竹中工務店入社。同社では、都市開発、土地利用計画の企画を中心に、建築設計、まちづくりに関する調査・研究業務、テナント誘致など幅広い業務を経験。2001 年、まちづくり、アート、イベント、商業開発の企画・プロデュース等を業務とする個人事務所「iop都市文化創造研究所」を設立。2005 年、阪神・淡路大震災10 年事業で、楽しみながら学ぶ新しい形の防災訓練「イザ!カエルキャラバン!」を美術家・藤 浩志さんと開発。2006 年7 月、NPO 法人プラス・アーツを設立。理事長に就任。同年11 月、個人事務
所を株式会社化。