2009年12月号(通巻451号):わたしのライブラリー

一周忌に当たり 「知の巨人」の著作を繙(ひもと)く

文学・思想・芸術から政治・経済・科学まで
明晰な論理性と繊細な感性に知的刺激と
精神的な充足感を得る

編集委員 牧口 明

 この12月5日は、戦後日本を代表する知識人で、「知の巨人」「歩く百科事典」と言われた加藤周一氏が亡くなられて丸1年の命日に当たる。そこで、今月のライブラリーでは、氏の厖大な著作の中から政治・社会の問題を論じた著作を中心に何点かを選び、ご紹介したい。
 氏の関心領域は、文学・思想・芸術から政治・経済・科学まで幅広く、また、洋の東西、時代の古今を問わない。
 和漢洋に及ぶ幅広く、かつ深い教養と明晰な論理性、加えて詩人としての繊細な感性によって紡ぎ出された著作は、エスプリとユーモアにも溢れ、どれを読んでも、知的刺激と精神的な充足感を与えられる。

■市民とともに学ぶ

 氏の関心領域の広さと知識の該博ぶりをよく示していて、しかも読みやすいのは『居酒屋の加藤周一1・2』であろう。
 内容は、京都の市民の集まりである「白沙会」のメンバー( 10代から60代までの男女約20人)と氏が、1は6回、2は5回にわたって京都市内の飲食店や貸し会場で持った「勉強会」の記録である。勉強会といっても決して肩肘張ったものでなく、毎回軽食とアルコールが用意され、飲みかつ食べながらの勉強会である。
 そのテーマであるが、毎回予めテーマが決まっているわけではなく、メンバーがその日の「朝日新聞」の朝刊を読み、関心や疑問を持った事柄について氏の意見を聞くといった形で進められたため、政治の問題あり、芸術の問題あり、宗教やスポーツの問題あり、と正に多種多様。驚くのは、そうしたさまざまなテーマに関して、氏が実に丁寧な解説をその場で施し、自らの意見を述べておられることである。会の性格上、氏は事前に特別の準備をすることなく、「出たとこ勝負」の語りであったことを思うと、その博覧強記ぶりに瞠目せざるを得ない。
 この書とはいささか成り立ちも性格も違うが、同じく市民グループ相手の勉強会の記録をまとめたのが『「戦争と知識人」を読む』と『テロリズムと日常性』の2著である。
 こちらのほうは、東京都内でもともとは現代史の勉強会をおこなっていた20~ 30代の青年数人のグループ(凡人会)が、97年12月と02年6月に氏を招いて開いた勉強会の記録である。前者のタイトルとなっている「戦争と知識人」は、59年6月に氏が発表した論文のタイトルであるが、その内容は、先の15年戦争期の知識人の態度、そのよって来る理由について論じたものである。勉強会ではこの論文について氏が補足的な講義(「ファシズム」と「科学」について)をおこない、その後、メンバーからの質問に氏が答える形となっている。
 また、この学習会に先立っておこなわれた事前学習会のまとめの文章も掲載されており、より一層深く学びを共有することができる。
 後者は、「9・11」テロの問題を解く鍵を68年の学生反乱の思想を再考することから見出そうとの意図で持たれた学習会の記録である。ここには、当該学習会の記録のみでなく、それより以前、99年12月に「『世なおし事はじめ』を読む」と題しておこなわれた氏を招いての学習会の記録と、その「世なおし事はじめ」の原文も収録されている。「世なおし事はじめ」は、氏が雑誌『世界』68年8月号に発表した論文で、当時、日本を含めて世界各地で高揚しつつあった学生運動の歴史的な意味について考察したものである。
 こちらの学習会は、メンバーが事前に周到な準備をし、テーマも絞り込んで、しかも少人数でおこなわれたものなので内容は極めて濃密である。

■死後にも続く新刊

 以上紹介した4冊は、もちろん生前に出版されたものであるが、死後改めて、既発表の論文その他を編纂して出版されたものが数点出ている。
 京都のかもがわ出版からは、先に紹介した『居酒屋の加藤周一1・2』合本のほか、『語りおくこといくつか』『加藤周一戦後を語る』、平凡社からは『言葉と戦車を見つめて』が出され、岩波書店からは、氏自身が選定に関わった『加藤周一自選集』全10巻の刊行が始められている。
 このうち『言葉と戦車―』には、敗戦直後の46年3月に発表された「天皇制を論ず」から05年3月24日「朝日新聞」掲載の「60年前東京の夜」までの、主として政治・社会の問題を扱った評論・随筆27編が収められている。文庫本ながら、氏の政治・社会思想の全体像と時代による変遷が概観でき、お勧めの1冊と言える。
 また『戦後を語る』は、88年から05年までに発表された主として若い人向けの講演録を集めたもので、戦争と平和、そして憲法の問題が取り上げられており、『言葉と戦車|』と合わせて読めばより一層学びが深められるだろう。

■氏の全体像を知るために

 初めにも記したような、広範囲にわたる氏の知的営為の全体像を知るには、先ず第一に、平凡社から出されている『著作集』全24巻(18巻は未刊)を繙くのが正道であろうが、出版されてすでに月日が経っており、今では古本でも手に入りにくい巻もある。幸いにして、同じく平凡社から、この著作集の選りすぐり『加藤周一セレクション』全5巻が出ているので、これがお勧めである。
 さらに、この『著作集』『セレクション』以後の氏の思索に触れようとするならば、「朝日新聞」連載の随筆を収めた『夕陽妄語』全8巻のうちのV巻以後や、かもがわ出版から出されている『対話集』全7巻(うち別巻1巻)、『講演集』全3巻などがある。
 とは言え、氏の本領はやはり、文芸および文化・思想評論、そして日本文化論である。
 最初の海外渡航(留学)からの帰国後直ぐに発表された「日本文化の雑種性」で、日本の近代文化の特徴として西洋文化の影響がその根幹にまで及んでいることを指摘。そういう意味で日本の近代文化が「雑種」であること、そして、それは必ずしも否定的に考えるべきことではないとの見方を提示して以来、日本文化論は氏のライフワークの一つであった。
 主著『日本文学史序説』では、文学を通して日本思想史の特徴を探り、土着思想の基本に「此岸性」と「集団指向性」があるとの論を唱え、07年には『日本文化における時間と空間』で、日本文化の特徴を、時間における「今」と空間における「ここ」の強調、つまり「今=ここ」主義に求めた。
 先に紹介した書籍と合わせてぜひ手に取っていただきたい著作である。
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2009年11月号(通巻450号):わたしのライブラリー

大阪町人学の伝統
  真なる自己の発見? それとも、ものずき?

編集委員 小笠原 慶彰

 二〇〇三年に大阪ボランティア協会が開設した専門資料室「ボランティア・市民活動ライブラリー」の開設記念講演は、ノンフィクション作家、佐野眞一さんにお願いした。その著書『旅する巨人︱ 宮本常一と渋沢敬一』によって宮本ブームが到来したことは広く知られている。本書に「このけったいな人物との最初の出会いが姫田のその後の人生を決め、現在の仕事につかせる決定的な原動力となった」とある。「このけったいな人物」とは、宮本のことであるが、「姫田」とは誰か。前述のライブラリーによる蔵書データベース整備リニューアル記念イベントで講演をお願いし、本誌今号「この人に」にも登場いただいた姫田忠義さんである。
 ところで宮本は、山口県・周防大島の出身で、渋沢と出会う以前、大正末期から昭和初期に大阪の郵便局で電信技士や小学校の教師をしていた。その頃すでに柳田國男の影響を受けて、在阪の郷土史家らと近畿民俗談話会という集まりを持っていた。この頃、なぜか宮本は「大阪は学問の土地ではない。多くの博識家好事家はいる、だがこの人々は、その対象の中に真なる自己を見出そうとはしない。いわば一個の道楽である」と書いている。けれど、「対象の中に真なる自己を見出す」とは、宮本にとっての学問ではなかろうか。

 ちょっと話が飛ぶが、大阪市は、一九〇一(明治三四)年に全国に先駆けて自治体史刊行を決議し、幸田成友の編纂によって一九一五(大正四)年に『大阪市史』全七巻が完成した。その後も『明治大正大阪市史』、『昭和大阪市史』、『昭和大阪市史続編』、『新修大阪市史』と続くが、自治体史の圧巻で例は少ない。藤本篤『大阪市史物語︱二〇世紀の軌跡』という新書は、その市史編纂の物語とそれにまつわる秘話で埋められている(※1)。その本に、当時の大阪で著名な三人の編纂顧問が「満々たる自信をもって来阪した若き歴史家・幸田成友の目には、一介のディレッタント(※2)に過ぎないと映ったのであろうか」とされている。その三人とは、父東の泊園書院を再興した大儒・藤沢南岳、財界人にして大阪町人文化の代表たる大通・平瀬露香、粟おこし大黒の店主で古文書の保存家たる名士・小林林之助である。

 在野学者の代表宮本も帝大出の江戸っ子たる幸田も大阪のいわゆる町人学者を、ものずきと感じているところが、興を引く。
 近世・幕末の大阪では、儒学・国学系たる三宅石庵の「懐徳堂」、麻田剛立に発し緒方洪庵の「適塾」に続く洋学、石田梅岩が祖の心学系の七講舎といった町人学の伝統がある。富永仲基、山片蟠桃、井上宗甫、木村蒹葭堂らの町人学者も輩出した。その伝統は近代以降も受け継がれた。大阪毎日新聞学芸部が、一九三六(昭和十一)年に連載「変り学-だいがくがいのがくもん」をまとめ、河原書店から出た『變り學讀本』は、大阪を中心に三十九人の市井の学者を紹介している。それから三十年後、毎日新聞大阪版の連載では二十九人を取り上げた。一九六七(昭和四十二)年に毎日新聞社会部編『なにわ町人学者』として所書店から出ている。そのほとんどは、大学の先生ではなく、それぞれがその道の権威たる町人学者である。そこには「どの人も学者というのが言い過ぎならば、感嘆すべきディレッタント(好事家)たち、とでもいえようか。大阪町人の心意気は、少なくともこのディレッタント精神のなかには生きていた」とある。つまり、ものずきこそが町人学者の真骨頂ということだろう。

 もっと最近の町人学者のことにも触れよう。『方言と大阪』(梅田書房、一九四八年)の著者、猪飼九兵衛は、大鉄 百貨店(現・近鉄百貨店阿倍野店)の専務取締役であった。これを基礎とする大阪弁の研究は、大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)卒の町人学者である牧村史陽の編集した『大阪ことば事典』によって完成する。史陽の結成した郷土史研究グループが「佳陽会」である。戦前に元は道修町の商人、南木芳太郎が五十歳で始めた郷土誌『上方』があった。事実を重視した実証的研究の範となり、日本雑誌史の奇跡とされる。佳陽会からは、それに匹敵するとされる『大阪春秋』も芽生え、優秀な大阪学者も育った。『大阪春秋』We bサイト(※3)トップページには、「庶民の中に埋没している無数の文化にスポットライトをあて、それを記録保存し、未来への橋渡しの役割をつとめたいと考えております」とある。

 「対象の中に真なる自己を見出す」ためであろうが、「ものずき」であろうが、宮本も史陽も散逸している事物・事象を足で歩いて集め、記録して後世に残した。だが、その史料保存は至難である。史陽が南岳の孫、藤沢桓夫の母に貸した新聞の切り抜きがその没後に見つからず返せなかったという話が藤沢の史陽追悼文になっている。スクラップ帳は数千冊だが、南岳に関する記事をちゃんと覚えていて貸したらしい。藤沢の後悔が伝わってくる。宮本にも似たような話があり、網野善彦の『古文書返却の旅︱戦後史学史の一ひとこま齣』(中公新書、一九九九年)で紹介されている。借りたままになっていた大量の古文書を返す目途が立った時、宮本は「これで地獄からはいあがれる」と喜んだらしい。このような場合、実際は返されない方が多く、史料が所在不明になる。
 時は過ぎ、史陽にしても、すでに没して三十年である。もう大阪町人学の伝統も怪しくなってきた。ならば公はというと、たとえば橋下府政下では、府公文書館ですら独立の資料館としては存立の危機に立たされている。市も予算が削減されただけでなく、民間委託も検討されており、安穏な状態ではないようだ。さて、我がボランティア・市民活動ライブラリーは、「対象の中に真なる自己を見出す」人に役立つのか、ものずきと評価されるのか。
 どっちゃにしても、記録を保存して、未来に橋渡ししまんのやというとこだけは、負けとくなはれとはいきまへんな。
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2009年10月号(通巻449号):わたしのライブラリー

ビートルズのアルバム
「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」


聴いたことのない音の厚みと斬新性に驚嘆

 去る9月9日に、ビートルズの全アルバムの最新デジタルリマスター音源CDが22年ぶりに世界同時発売された。日本におけるアルバム単位の合計出荷枚数が、初回100万枚を突破したという。ビートルズが「ラブ・ミー・ドゥ」でレコードデビューしたのが62 年、そして70 年には解散しているから、すでに40 年以上も前に活動を終えたロックバンドとしては破格の扱いだと言えよう。
 「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band(サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」は、ビートルズによる第9作目のアルバムである。67年6月1日に英国、同2日に米国で発売された。ぼくらが聴いた時期は、日本で発売された67 年7月5日以降のことである。40 年以上前のことだが、わりとよく覚えている。
 日本でも発売される前から評判は上々で、ぼくらはものすごく期待して待った。自分で買ったのか、誰かが買ったレコードを聴いたのか覚えていないが、南大阪ベ平連の事務所があったアベノ近鉄百貨店裏の安アパート「近海荘」で、確か2~3人で聴いたと思う。ソニーのウォークマンが79 年に発売されてから、音楽は一人で楽しむのが主流となった
が、それ以前は、たいてい何人かでステレオスピーカーの前に陣取って聴くことが多かった。新鮮な驚きで頭と心が満たされた。それまでに聴いたことがない重層的なサウンドだった。音が空中を左から右へ(左右反対だったかも)移動した。
 ぼくはエレキ音楽のことは何も分からないのだが、ネットで調べると、「サージャント・ペパーズ」は、4トラック(一度に録音できるチャンネルが4つある)のテープレコーダー(MTR=マルチトラックレコーダー)を2台つなぎ合わせて、計8トラックで録音されたという。現代なら音楽制作につきもののパソコンもデジタルシンセサイザーもなかった時代だったので、まずその音の厚味と斬新性に感嘆した。
 そして、時どき自分の耳がキャッチする英語のフレーズ、例えば、「Oh, I get by with a little help from my friends.」とか、「It’s getting better all the time.」などにシビれた。「友だちのちょっとした協力があれば、なんとかやっていける」とか、「チョトずつ、ず~っとよくなってきている」という歌詞は、そのころのぼくたちの気分にぴったりだった。まだ友人同士の親密な仲間意識が健在で、確実に将来はよくなっていく、という楽観主義がまかり通っていた時代だった。60 年代後半の世界はあちらこちらで激動していたが、日本は経済が上向きで明るい時代だったのだろう。
 また、「Try to realize it’s all within yourself, no-one else can make you change」(気づこうとしなさい、全ては君の中にあり、他の誰も君を変えることはできないことを)という「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」のなかの一節には、彼らの思想性を感じた。

思い出深い曲:「シーズ・リーヴィング・ホーム」

 このアルバムには13 曲が収録されており、幻想的・抽象的な楽曲群と現実的・日常的な楽曲群が入り混じっていると思う。
 前者にはもちろん、ドラッグ体験の影響とも言われる、ジョン・レノンがリード・ヴォーカルの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ」や、ジョージ・ハリソンがインド音楽の影響を受けて作った「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、最初と最後から二番目に出てくるテーマ曲「サージャント・ペパーズ…」などがある。
 また、後者には「娘の家出」を歌った「シーズ・リーヴィング・ホーム」や、歳をとってからの自分を想像した「ウェン・アイム・シクスティフォー」、また駐車違反取締りの婦警さん(meter maid =ミーター・メイド)をデートに誘う「ラヴリー・リタ」がある。これらの3曲では、ポール・マッカートニーがリード・ヴォーカルを取っている。
 ぼくにとって「シーズ・リーヴィング・ホーム」は思い出深い一曲である。70 年代初頭、二十歳代にしばらくロンドンにいてイタリア・レストランなどでバイトをしながらカレッジに通って英語の勉強をしていた。ある日、先生がこの曲の歌詞を教材に使ったのだ。
 Wednesday morning at five o’clock as the day begins( 水曜日の早朝5時)Silently closing her bedroom door( 寝室のドアを静かに閉めて) Leaving the note that she hoped would say more(「もっと言いたいことがありました」とメモを残し) She goes downstairs to the kitchen clutching her handkerchief(ハンカチを握り締めて台所へ続く階段を下りていく)Quietly turning the backdoor key(裏口のカギを音をさせないように回して)Stepping outside she is free.(外へ一歩踏み出し、彼女は自由になる)
 先生は、これらの歌詞がいかに英国の労働者階級の家庭の現実を表現しているか、について語った。おそらく娘のためを思って、厳しく、理不尽にも家に縛り付けてきた両親。娘はもっと自由に青春を楽しみたかったに違いない。日々口論も絶えなかったのかもしれない。しかし、「あなたのためよ」と言われると、口答えできない娘。たまらず水曜日の早朝、家を出る。英国の労働者階級の小さな持ち家の間取りまで目に浮かぶようだ。
 生徒の誰かが、「clutching ってどういう意味ですか?」と訊いた。先生はハンカチを出して強く握り締めて、「こうすることだよ」と動作をして見せた。そして、「このclutching という言葉が効いているよね。彼女の緊張や決意が本当によく伝わってくる」というような解説をした。
 「サージャント・ペパーズ」は、世界初のコンセプト・アルバムと言われている。基本的なコンセプトをもとに、サウンドからアルバム・ジャケットのデザインまでトータルに創作したものだ。ビートルズが扮する架空の「胡椒軍曹の寂心倶楽部楽団」が主題曲「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で音楽ショウを始め、続いてリンゴ・スター扮する歌手、ビリー・シアーズが「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を独特の声で歌う。そして、楽曲間に間を置かず、リード・ヴォーカルを替えながらショウが続いていく。そして最終曲の前に、再びテーマ曲「サージェント・ペパーズ(リプライズ)」を演奏。最後に、アンコール曲として「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を演奏し、音楽ショウの幕を閉じる。
 このアルバムは、現在までに全世界で3千200万枚以上のセールスを記録しているという。

編集委員 吐山 継彦
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2009年9月号(通巻448号):わたしのライブラリー

『蟲師』・人は自然の一部であり得るか

■コミック
漆原 友紀『蟲師』全10巻、1999年- 2008年、講談社

■TVアニメ・DVD
全26話、2005年10月 - 2006年3月、フジテレビ系列、監督:長濱博史

■映画・DVD
131分、2007年、監督:大友克洋、主演:オダギリジョー


 「蟲(むし)」とは、虫ではなく、生き物とも精霊とも付かぬ、不可思議なものである。「生命の現生体に近い存在」とも言われ、普通の人には見えないことが多い。多様な形態、異様な生態であり、それぞれ「空吹(うそぶき)」「影魂(かげだま)」「マナコノヤミムシ」「人茸(ひとたけ)」など、幻想的な名前をもつ。自然界に棲むが、人に取り憑き、身体や心や人生に様々な影響を及ぼすこともある。
 この奇妙な存在を、作者漆原友紀はなぜ「むし」と名付けたのだろうか。今までにはない、作者の全くのオリジナルである。にもかかわらず、妙になじみ深い概念だと思えて仕方がなかった。が、ある時ふと気づいた。
 日本では昔から、昆虫類とはまた違った「虫」という存在が身体の中にいて、身体や感情に影響すると考えられていた。「疳(かん)の虫」「虫が合う」「腹の虫が納まらない」「虫の知らせ」「虫の居所が悪い」等は、今でも使われる言葉である。漆原友紀の「蟲」は、たぶんそういう、まだ日本人の心に残っている「虫」という概念から発想したのではないかと想像している。
 舞台は架空の日本、江戸から明治あたり(開国はしていない)のような時代。
「蟲師(むしし)」とは、「蟲」を見ることができ、蟲の研究、蟲封じや治療などを生業(なりわい)とする蟲の専門家である。主人公の蟲師、ギンコは旅を続けながら自らの知識や技術、薬で人々を助けていくのだが、蟲師としてはやや異端ながら、蟲も人や生き物、草木と同じく自然界の存在と考え、むやみに蟲退治を考えない。「蟲」は善でも悪でもなく、自然界の他の存在のように、ただ、そうあるものなのだととらえている。
       * * *
 原作のコミック『蟲師』では、主役のはずの人間たちは淡々と暮らしを営んでいる印象がある。主人公のギンコも、魅力的ではあるが印象の強くないキャラだ。それに比べて蟲たちはいきいきとして、不思議な存在感がある。さらには山や森には「空気」までが描かれているようだ。「空気」というより、自然界に充満する“生気”や“匂い”とでもいえようか。だからこれは「蟲と関わった人間の物語」ではなく、「蟲と人と自然界の物語」なのだと思う。
 テレビアニメの『蟲師』は、原作に忠実に作られている。監督をはじめ原作に惚れこんだスタッフが、ペンの手描きで紡ぎ出された原作の雰囲気を、鮮やかに映像化した。特に蟲や自然の描写は、驚くほど美しく透明感がある。『蟲師』の真の主役は自然界である、と、スタッフも共感していたのだろうか。
 映画の方は、ロケハンに苦労し日本各地を巡ったというだけあって、日本にいまだ残る原生林などの美しさや力強さが圧倒的である。人の住む村々も、大自然に抱かれ、山の合間に点在している。人間の世界の中に都市があり街があり山がある、のではなくて、自然界の中に、草木や動物、虫、もしかして蟲も存在し、相等しい存在として私たち人間も住まわせてもらっているのだ、と感じさせられた。
       * * *
 原作最終話「鈴の雫」は、それまでの話にも増して感動的だった。山のヌシとして選ばれ、幼い頃から山に入ってヌシを務める少女カヤ。山でカヤと出会ったギンコは、人が山のヌシであれたことを喜び、「草木も蟲も、けものもヒトも、命の理(ことわり)の中に生きている。ずっと昔からそうだった」と語る。
 兄に見つけられ再び家族の元に戻ったカヤは、少しずつ人間らしさを取り戻す。またも山に呼び戻されるカヤだが、そのせいでもはや山のヌシとしての役目を果たせなくなっていた。
 次の山のヌシに力を渡すため山に喰われることになっているカヤを救うため、ギンコは「山の理(ことわり)」と交渉しようとする。ギンコは、「自然か人か」の二項対立というスタンスに立たない。人をいとしくは思っているが、害となる蟲も、ヒトを食らう山も、あるがままに受け入れるのだ。
 最終話まで、ギンコが女性に心動かすようなシーンはなかった。蟲師の仕事以外で人と関わりを持たないように見えたギンコだが、最終話で初めて、仕事抜きで、我が身を犠牲にしても娘を救おうとしたのだ。恋愛感情などの描写は相変わらず欠片(かけら)もないが、それだけによけいに胸を打つ。
 ギンコがそこまで大事に思った相手が、「山のヌシ」であったこと、ギンコがそのことを受け入れ、にもかかわらず彼女の人としての幸せをも願ったことは、象徴的ではなかろうか。いかにも、人間界と自然界と蟲の世界との狭間(はざま)に立ち、それらを繋ぐ存在である彼らしい、と思えるのだ。
       * * *
 ギンコとの会話の中で、「山の理」は、「もはやヒトにヌシが生まれることはない。ならばヒトは山から外れ、山の声の届かぬモノになる」と言う。それに対してギンコは「外れはしない、決して。ヒトも山の一部にすぎないのだから」と断言する。
 そうであればいいのだが。映画『もののけ姫』の話のように、私たちはたぶん自然界の主をことごとく滅ぼしてしまった。そして自分を山の一部と感じることはおろか、山や森を「ただの場所」としか考えられなくなくなってしまった。だが、少し前まで私たちが持っていた、自然との一体感、自然への敬虔な気持ちを捨ててしまっていいのだろうか。あまりにも豊かな精神的財産を、無くしてしまうのはもったいなくはないだろうか。
 山を削り木を倒し川を堰き止め海を埋め立てる計画がある時、それが「必要かどうか」だけではなく、自然への畏敬の念をも持ちつつ、事に当たることはできないだろうか。
 といっても、それら「敬虔(けいけん)な気持ち」を、行政や企業などの組織に求めるのは難しい。それよりも、地元や市民団体、私たち個人こそが、伝統的、精神的なものを心に掛けていくべきではないだろうか。でなければ、私たちは、やがて自然や過去との絆を失ってしまうだろう。そしてそれは、あまりにも無味乾燥でさびしい現代人の姿ではなかろうか。

編集委員 華房 ひろ子
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2009年7・8月号(通巻447号):わたしのライブラリー

献体について考えるための本
編集委員 小笠原 慶彰

氏家幹人『大江戸死体考-人斬り浅右衛門の時代』
平凡社新書. 1999. 714 円

香西豊子
『流通する「人体」-献体・献血・臓器提供の歴史』
勁草書房. 2007. 3500円+税

アニー・チェイニー著・中谷和男訳
『死体闇取引-暗躍するボディーブローカーたち』
早川書房. 2006. 1600円+税


 吉村昭「梅の刺いれずみ青」(『島抜け』新潮文庫・所収)は、明治初期から中期にかけての人体解剖を描いている。表題は、篤志解剖第1号とされる遊女が腕に梅の刺青をしていたことを指している。明治2年のことであった。小説とはいえ、新政府によって西洋医学が認知された後でも、解剖用死体の確保が困難を極めたことがよくわかる。それは日本人の死生観が、たとえ死後であっても身体を切り刻むこととなかなか相容れないためだろうと想像できる。
 ところで、江戸時代には、死体に相当無頓着であったらしい。『大江戸死体考』によれば、水辺に土左衛門が漂っていたとか、道端には行き倒れが目に付いたとかで、死体がゴロゴロしていたというのだ。こんな状況だから死体検死の役人も忙しく、すでに何種類もあった検死マニュアルに準拠しながら処理した。だが、いくら死体がゴロゴロといっても、ただ冷ややかに眺められていただけかというとそうでもない。その死体を腑分けするとなると、つまり刃物でもって切り刻むとなると俄然話は違ってきて、強い拒否反応が起きたということのようだ。ところが、それが刑死体の場合は、また違う。まったく物扱い同然になるのだ。この辺りの機微は、とうてい現代の感覚では推し量れない。
 たとえば、刑死体で刀剣の様斬りをする据物師という専門家がいた。将軍家や大名家から依頼され、刑死体によって刀剣の切れ味を確かめた。様斬りの注文は頻繁であったが、ある時期から代々世襲の山田浅右衛門が、ほぼ独占していた。山田家は、浪人ながら裕福であった。というのは、死体から胆を取り出して製造する薬も販売していたからである。その人胆丸と称される高価な漢方薬の製造は、明治に至ってようやく禁じられたという。
 一方、幕末に刑死体による人体解剖がたびたび許されるようになると、医師と据物師との間で死体の取り合いになっていく。そして明治以後は、様斬りも廃止され、医師が独占して解剖用にのみ利用されていく。だが実際、死体の確保は大変だったらしい。
 このような事情を踏まえた上で『流通する「人体」』では、死体を「資源」と捉えて、その流通システムという視点から献体を描いている。帯には「江戸末期から現在に至る『人体』流通システムを追いながら、『善意による無償提供』『自己決定』といったヒト組織利用に関する倫理的根拠が、そもそも資源調達の経済論的帰結であることを描き出す」とある。つまりは「ほしい人がいて、タダででもあげたい人がいて、丸く収まってんだからいいじゃん」っていうことか。だとすると、妙に納得させられてしまうが、引っ掛かるものもある。その奥歯に挟まったものは、「人体標本展」に言及された部分に至って取り除かれる。つまり、「ほしい︱タダであげたい」の関係が「ほしい︱お金を払ってくれるんならあげてもいい」と変形する可能性を示唆してくれるからだ。だが現在の日本では、合法的な死体の利用となると、本人や遺族の意思尊重は当然として、「無報酬」を抜きにはとても賛同されないだろう。
 ところで、本人の意思や無報酬とはお構い無しに死体流通ビジネスが半ば公然と存在している国もあるらしい。『死体闇取引』は、アメリカにおけるその実態についてのルポルタージュである。本書冒頭の「死体部位別価格一覧表」には、度肝を抜かれる。たとえばこんな具合である。頭部550ドル~900ドル、脳500ドル~600ドル、肩(片方)375ドル~650ドル、胴体1千200ドル~3千ドル、死体一体4千ドル~5千ドル、各種臓器(一個)280ドル~500ドル等々。
 死体は、解剖実習用にだけ用いられるのではない。医療機器メーカーの新製品実演販売用として、骨ペーストや骨ねじの原料用として、地雷防護服の強度実験用として、その他多くの用途が白日の下に曝されている。このような利用は、もちろん本人の意思あるいは遺族の合意に沿っていない。さらにその上、死体の需給関係は、不法あるいは不法すれすれの死体流通によって満たされる。たとえば、火葬場から死体を不法に入手してパーツに切り分けて出荷する業者、解剖実習用に献体された遺体を闇に流して利益を得る人、どこから入手したか等には無関心で医療用の製品に加工する会社、そしてそれらの流通ネットワーク等である。拝金主義の跋扈に唖然とするが、幸い、一部が「闇取引」で、やっと成立しているレベルのようだ。だが、このビジネスが全面合法化したらどうなるのかと思うとゾッとする。
 まあ、これはアメリカの話と高を括っていて良いのか。貧困を背景にした途上国での実態も知る必要があるが、水沢渓『ドキュメント遺体は誰のものか︱朝日大学・献体疑惑の真相』(健友館・91年)には、解剖実習用献体を大学がどのように扱っているか、本書が書かれた時点の日本での一つの例がある。献体された遺体を勝手に売買したり、大学の屋上で焼却したり、別人の遺骨や遺灰を遺族に返却したりだというのである。本書の内容が間違いのない事実であるかどうかを検証する必要はなかろう。当の大学を責めるのが目的ではないことに加えて、その大学の解剖学教授であった医師(実名で登場)の証言に基づいているのだから、全くの出鱈目、作り話ではないと判断できるからである。だとすれば、「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」の趣旨に沿った扱い方ではないことだけは間違いないように思える。
 いずれにしても篤志献体は「医学・歯学の大学で行われる人体解剖学実習の教材として、自分の遺体を無条件・無報酬で提供する篤志行為」とする言説を支える倫理的基盤は、今のところ確かに存在するようだ。それによって、他の目的での利用や死体流通ビジネスの合法化は、紙一重で阻止されているのだろう。だが、手術手技の研鑽目的での利用が何故認められないのか、報酬を得て遺体を提供することがどうして人倫に反するのか。近世以降の死体への対し方を垣間見ただけでも、献体という仕組みは、実に危うい基盤の上に立っているように感じるのである。

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2009年6月号(通巻446号):わたしのライブラリー

戦争とさまざまな画像の関係について考えるための本
編集委員 小笠原 慶彰

『改訂版 写真記録 これが沖縄戦だ』 
大田昌秀編、琉球新報社発行・那覇出版社発売
1983年 1,785円

『敵の顔―憎悪と戦争の心理学』 
サム・キーン著、佐藤卓巳・八寿子訳、柏書房(パルマケイア叢書)
1994年 4,660円

『戦争がつくる女性像―第二次大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』 
若桑みどり、ちくま学芸文庫
2000年 998円

 戦時、平時を問わず、さまざまな画像が「戦争」を前提とした国威発揚のためのプロパガンダに活用されてきた。一般市民は、それによって正確な事実を説明され、冷静な判断を求められるのではなかった。作られた虚像に踊らされ、人生を翻弄されたのだ。だが今日、そのような史実を理解し、逆にさまざまな画像を有効に活用して、平和維持に役立てられないだろうか。本号特集の意図は、そこにある。
 ところで、今月は6月。それに戦争といえば、まず沖縄を思う。そんな時、本誌4月号にも登場した元沖縄県知事大田昌秀さんが編んだ『写真記録 これが沖縄戦だ』を手にしたい。本書は、表題の
ように写真を多用している。77年の初版を83年に改訂し、その後も息長く増刷されてきた。まだ大手書店には在庫もある。主として米国側撮影の写真を利用しているが、だからといって米国に都合の良い内容になっているというわけではない。とにかく沖縄戦、いや一般市民を巻き込む戦闘の結果をイメージする便よすが
として相当に有効である。
 ところで、本書の表紙については、後日談がある。おかっぱ頭の「少女」がうつろな目をして血まみれで座りこんでいる写真である。キャプションにも「少女」とある。だが事実は、当時12歳の少年であった。84年に写真を見た本人が大田に直接申し出た。彼は、息子が皇軍に利用されることを嫌った父親によって「少女」にされていた。そうした努力にもかかわらず、この子は、家族の食料を奪いにきた皇軍兵士に抗い、そのため暴行された。写真は、米軍の治療を受けていた時に撮影されたものであった。その時の傷は、身体障害として残った。それなのに、日本政府は補償を拒否した。そうした事実が本書をきっかけに明らかにされ、マス・メディアでも紹介された。そして今、その男性は「語り部」となり、1千200回を超す活動を続けている。一枚の写真から始まった物語である※。
 だが、この沖縄戦の記録を見ていて奇妙な感覚に囚われるのは、子どもや女性、さらに敵兵たる皇軍兵士にさえ親切な米兵の写真が出てくることである。もちろん今では、当時のスローガン通りの「鬼畜米英」などではなかったことは良く知っている。しかし、まだ戦闘が終結していない時期に、すでに親切な兵士の写真を撮影する必要があったのか。あるいは、そういった視覚的なイメージを流布させようとする目的が何かあったのだろうか。
 そのことを考える上でサム・キーン『敵の顔︱憎悪と戦争の心理学』(パルマケイア叢書)は、もってこいである。キーンは、人類を敵対人(ホモ・ホスティリス:敵を作り出す存在)と定義している。つまり、自分たちと同じ人間を敵だと思わせることは簡単で、そうなれば殺させることも容易なのである。そのためにさまざまな画像が、戦争あるいは支配を目的として「敵の顔」を作り上げることに利用された。本書では、実際に使われた事例を通して分析を行っている。そこでは「敵の顔」は、全く人間的でない、おぞましい顔として表現された。実像からかけ離れたイメージを作り、「恐るべき敵」に仕上げていく。敵意はイマジネーションによる集団心理の操作なのである。それによって、敵と味方という二元論が世に支配的な思考形式になる。だとすれば、反対に「敵の顔」の実像、それも恐ろしくない実像が流布されれば、敵意は喪失するのか。それが米国側提供写真の撮影意図なのか、それとも大田の編集意図なのか。
 いずれにしても、さまざまな画像が、どのようにして「敵の顔」を作り上げていくかを知ることは重要だ。それによって、戦時の敵に限らず平時の敵つまり差別や排除の対象に対して、心底にある差別心や敵意も自覚できる。その自覚は、ひょっとすれば親愛人(ホモ・アミクス:寛容な存在)に向けての自己変革を可能にさせるのではないか、と希望を感じさせてくれる。「パルマケイア」とは、毒の精から変じて薬の精、つまり毒もまた薬になる意であり、本書がそのシリーズに入れられていることは、さまざまな画像も使いようということを暗示しているようだ。
 さて、毒もまた薬になるとして、次は、薬と信じて毒を飲むという話である。第二次大戦下、女性はどういうイメージとしてさまざまな画像に登場していたか。若桑みどりさんは『戦争がつくる女性像』で、戦時下に160万部の発行部数を誇った、つまりそれだけ市民に影響を及ぼしていた『主婦の友』を中心とする婦人雑誌の表紙や口絵を分析している。著者は、どこの国でも、戦争中に女性の果たす役割は、以下の3つだという。つまり、第1に「母性」、第2に「補助的労働力」、第3に「チアリーダー」である。事実、表紙や口絵は、子どもを生み育てよ、勤労奉仕に汗を流せ、「戦争に行け」と言い続けよと鼓舞しているイメージなのだ。かくて、戦争中の婦人雑誌は、戦時下女性の役割が巧妙に視覚化し、市民、とりわけ女性に植え付けていった。これはあからさまに「敵の顔」を宣伝するポスターではない。薬と信じて飲んだのが、後になってみれば、じわじわと効いてくる毒であったとわかる完全犯罪仕掛けだったということである。これは相当恐ろしい。
 最後に戦争遺跡関連本を考えよう。冒頭述べたようにさまざまな画像を有効に活用して、平和の維持に役立てるとすれば、これらを忘れてはならない。安島太佳由『訪ねてみよう! 日本の戦争遺産』(角川SSC新書2009)や戦争遺跡保存全国ネットワーク(http://homepage3.nifty.com/kibonoie/isikinituto.htm)編『保存版ガイド日本の戦争遺跡』(平凡社新書2004)等は、全国津々浦々の戦争遺跡ガイドブックである。だがこれらは、写真が多用されており、それによって文字からとは異なったメッセージを訴える。戦争とは、莫大なエネルギーと人命の浪費であり、その事実は、ほとんど知られぬままに見事に忘却されるものなのだと。

※注 このエピソードは、大田昌秀『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21・2007)に詳しく紹介されている。
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2009年5月号(通巻445号):わたしのライブラリー

公害Gメンの遺したもの
編集委員 梶川 伸

『なにやってんだ行動しよう 田尻賞の人びと』
田尻宗昭記念基金、アットワークス、2000 円+税、2008 年11月発行

公害Gメンの志継ぐ人々

 戦後の日本の高度経済成長は、大阪万博のあった1970年ごろにピークに達した。その繁栄の裏側では、公害や薬害、食品汚染、労働災害といった負の要素も積み重なっていた。その年の12月の国会は公害国会とも呼ばれ、公害対策の14法案が成立し、公害問題に明け暮れた年だった。
 私は70年に新聞記者になり、初任地は和歌山だった。やがて、田辺海上保安部の警備救難課長に着任したのが、田尻宗昭さんだった。田尻さんは前任地の四日市海上保安部(三重県)で警備救難課長の職にあった時、石原産業などの工場排水垂れ流しを、港則法違反という奇手で摘発していた。公害を刑事事件として責任を問うた初めてのケースと位置づけられている。田尻さんは「公害Gメン」と呼ばれ、不正義に立ち向かうヒーローだった。公害を取材する者にとって、田尻さんは憧れの的の一人で、田辺海上保安部に取材に行き、会って話を聞くのが楽しみだった。

経済成長の裏の証言集

 田尻さんは73年に美濃部亮吉東京都知事(当時)に請われて、東京都公害局に転進するなど、公害防止に生涯を打ち込み、90年に亡くなった。田尻さんの志を引き継ぐため田尻宗昭記念基金が設けられ、公害反対、環境保全、労働災害や職業病追放に地道な活動を続けた個人や団体に対し、92年から田尻賞を贈ってきた。この本は受賞者やその関係者が、受賞式の時に語った話をまとめている。内容は熊本県・天草のじん肺、宮崎県・土呂久(とろく)公害、香川県・豊島(てしま)の産業廃棄物不法投棄、チッソ水俣病、チッソ水俣病関西訴訟、スモン訴訟、名古屋市の藤前干潟、カネミ油症、瀬戸内海環境保全など多岐にわたる。当事者が語る言葉は、日本の公害・環境史の生きた証言なので、大変興味深い。  
 共通しているのは、効率ばかりを求めて進んできた日本で、その蔭の部分を活動の地としていることではないだろうか。そこには、国や自治体や大組織・企業という大きな力と、個人という小さな力とのぶつかり合いが見られる。大きな力の前では人権が踏みにじられることも多く、その点で活動は困難をきわめている。しかも、小さな力の運動は地道で、なかなか目立たない。賞の基本理念は「世間からの正しい評価を受けずして埋もれている人に光を当てよう」だと、本の中で鈴木武夫代表世話人が語っている。

良心に基づく内部告発
 
 02年に受賞した大鵬薬品工業労働組合も、果たした役割の大きさに反して、当事者たちの苦難は続いた。81年、会社は発がん性が疑われる研究データを隠して、新薬を発売した。「自分たちの研究結果が無視されている。薬害は出したくない」と考えた研究者が中心になり、労働組合ができ、この新薬の発売中止を訴えた。薬の全面回収、薬事審議会の再審査と進み、87年に会社は販売を断念した。
 研究者の良心が、疑わしい薬を止めたケースである。さらに、83年には薬事法施行規則に「医薬品の品質、有効性または安全性を有することを疑わせる資料は、厚生大臣または都道府県知事に提出しなければならない」という項目が付け加わったと、本の中で元委員長が語っている。
 告発者に対する会社の攻撃は容赦なかったようだ。80人いた組合員が8人まで減ったが、脱会工作は「出身大学の教授を通じて、地域の有力者を通じて、家族を通じて」と、あらゆる手段で行われたと明かしている。しかも「降格人事、賃金差別、配置転換、仕事の干しあげ」といった攻撃も続いたという。当時、組合員の一人から「大丈夫です。私には鳥がありますから」という言葉を聞いたことがある。辛い状況に置かれても、大好きな野鳥の観察などで耐えていける、という決意だった。そんな厳しい状況下でも、組合は危険性が疑われる自社の薬をもう一つ止めた。頭が下がる。
 内部告発の先進的なケースだった。受賞は活動が始まって21年たっていた。世間的評価がやっと定まったといえる。公益通報者保護法が制定されたのはさらに3年たった04年だった。

「環境」の落とし穴

 71年に環境庁(現環境省)がスタートした。73年のオイルショックで高度経済成長は終わりを告げるが、その最終段階でのことである。「環境」は国民の言葉となった。しかし、「公害」という言葉が示していた深刻性は薄らぎ、責任の所在があいまいになっていったのではないか。
 田尻賞は07年に、田尻宗昭記念基金は08年に幕を閉じた。寄付金などをもとにした団体だったが、思うように集まらなくなったことや、運営メンバーの高齢化が理由と推察される。
 反公害の一つの象徴が消えたわけだが、「時代の流れ」で済ましたくない。そのことを、本に登場する何人もの人が訴えている。「水俣病の問題が未だ解決していない。患者さんたちは毎日苦労していらっしゃる」(93年受賞、新潟水俣病に取り組む斎藤恒さん)、「現在でも、七百人近い公害病認定患者の方々がいます。(中略)もう公害は克服した、もう公害はない、ということになりますと、公害そのものの被害者、公害患者さんというものは居ってはいかんということになりかねない」(96年、四日市公害を記録する会の澤井余志郎さん)。
 本の中の言葉は受賞式の時点ではあるが、現時点でも大きくは変わらないだろう。「行動しよう」という田尻さんの叱咤は、いまだに意味を持つような気がする。

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2009年4月号(通巻444号):わたしのライブラリー

タンガニーカ湖から琵琶湖まで
編集委員 千葉 有紀子

『ゆりかごは口の中 子育てをする魚たち』
桜井淳史著、ポプラ社 2006 年 950 円

『生物界における共生と多様性』
川那部浩哉著、人文書院 1996 年 2,000 円

『琵琶湖の魚』
今森洋輔著、偕成社 2001 年 2,200 円

 子どもの頃、川魚を飼ったり、めだかの卵を孵化させては大きくするのが好きで、部屋を水槽だらけにしていた。庭にはおたまじゃくしを放し、真冬に魚を捕まえようと鴨川にはまって、一張羅を台無しにする。そんな私も普通のOLとなった。魚たちの面倒が見きれなくなって、今はブルーベリーが手一杯だ。

『ゆりかごは口の中 子育てをする魚たち』

 生き物は今も大好きだが、魚たちと何も関係ない生活を送っている私にとって、本は有難い。最近夢中になったのが、桜井淳史さん『ゆりかごは口の中 子育てをする魚たち』。著者は写真家で、サケや川魚の図鑑など著作も多い。この本は卵を生んだ後、口の中で子育てをする魚を中心に、何種類かの魚の恋の様子から、
子育てまでを紹介している。エンゼルフィッシュなどの熱帯魚を飼って、卵を生んで子育てするところを写真に撮ろうとするのだが、なかなか思惑通りには進まない。うまく仲良くペアをつくってくれなかったりと、試行錯誤しながら写真をとる姿に共感を覚えながら読み進む。
 口の中で子育てをする魚は本当にえさを食べないのか、そんな実験もする。ちょっと可愛そうではあるが、私もやってみたい実験である。著者の疑問は膨らむ。魚はどうしてそんな子育てをするのか? それは進化なのか? 飼育だけではわからない。そして、著者はその鍵は、熱帯魚の故郷の湖、アフリカのタンガニーカ湖にあるとにらみ、湖の中で多様な子育てをする魚がうまく棲み分けているところを見る。「魚の世界には、まだまだ発見とおどろきが、たくさんかくされて」いるのである。実はこの本は『地球ふしぎはっけんシリーズ』という子ども向けの本、わかりやすいけれど、もうちょっと知りたいが膨らむ。

『生物界における共生と多様性』

 次に、手にとるのは川那部浩哉さんの『生物界における共生と多様性』。現在、琵琶湖博物館の館長である著者が、就任直前に出版した「日本の川や湖、アフリカ・タンガニイカ湖の魚たちの生態を調べ、食い分けや棲み分けを通して“多様な生物の共存する仕組み”を明るみに出」した本だ。タンガニイカ湖は、世界で2番目に深く、7番目に大きな湖である。300種類もの魚がいて、それらの共生をひもといていくのだ。いろんな魚がいるものだ、と楽しくなる。もちろん専門的な内容もあるが、すでに他のところに書かれていた短いめの文章をまとめたものでとてもわかりやすい。そのときどきでの、生のエピソードも楽しい。たとえば、タンガニイカ湖の帰りにミュンヘンに寄って、二晩続けて音楽会に赴いた著者は、帰りの飛行機のなか、生物群集のもつ複雑性を音楽にたとえて分析する。「個々のところですでに複雑な音楽が、さらにオーケストラの作品のように積み重なって出来たものだということになるのではないか」。いろいろな読み方のできる本だと思う。

『琵琶湖の魚』

 本というのは著者を好きになるためにあるのではないかとも思う。そう、大好きな著者と言えば、今森洋輔さんの『琵琶湖の魚』も紹介したい。
 私はなかなかタンガニイカ湖まで行くことはできないが、琵琶湖なら毎週でも可能である。琵琶湖にも多くの魚がいる。その中には、独自の進化をとげた固有種もいる。しかし、いかんせん、そんなに簡単に見られるという訳でもない。そんなフラストレーションの解消がこの本である。琵琶湖の魚55種を、精密画で描いている。今森洋輔さんとは、本を見るよりもご本人にお会いしたのが先で、その人柄が絵から文章からにじみだすようだ。琵琶湖の大切さや、守っていくことの大切さも訴えているし、本当にそうだと思う。本書の帯にコメントを寄せている川那部さんも書くように、あまりの絵の上手さに「この魚、美味しかったなぁ」と琵琶湖の魚の味も思い浮かべてしまう。わが家の冷蔵庫には、琵琶湖の川エビと豆の炊いたのが入っている。琵琶湖を思い出しながら、ちょこっとつまみ食いでもしたくなる気分だ。

注)桜井さんの本ではタンガニーカ湖、川那部さんの本ではタンガニイカ湖となっているので、そのまま表記しています。
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2009年3月号(通巻443号):わたしのライブラリー

小学生のための減災マニュアル
編集委員 杉浦 健

■地震イツモプロジェクト:編、渥美公秀:監修、寄藤文平:絵
『地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167 人にきいたキモチの防災マニュアル』、木楽舎(2007/04)、1,500 円(税込)

■メモリアルコンファレンスイン神戸:編、土岐憲三、林春男、河田恵昭:監修
『12 歳からの被災者学―阪神・淡路大震災に学ぶ78 の知恵』
日本放送出版協会(2005/01)、1,260 円(税込)

■古屋兎丸 著、『彼女を守る51 の方法』(全5 巻)
新潮社(2006/09-2007/09)、各530 円(税込)


 「皆さん、今日は何の日か知ってますか?」
 今年の1月16日に兵庫県内のとある小学校において全児童を集めた一斉防災訓練が行われ、筆者は「震災体験講話」の講師を務めた。その際、冒頭で参加者にこう投げかけた。
 翌日は阪神・淡路大震災から14年目の日。だから防災訓練。それくらいは誰でも分かる。
 で、答えは、「今日は、僕の誕生日です!」一同、大爆笑。だが、別にここで笑いを取ろうとしたわけではない。
 95年1月16日、この日は筆者にとって輝かしき30代のスタートの日だった。そしてその翌日に震災が起きた。当時、筆者は大阪に住んでいたが、昔から親しんだ神戸の惨状は、今でも目に焼き付いている。だから特にこの年の誕生日のことは忘れない。この日がそういう特別な日であることを、震災後に生まれた「震災を知らない子どもたち」にも知ってほしかった。同時に、過去形から未来形に話を展開する中で、このような体験に根ざした減災への取り組みが大切であることを伝えたかった。

■「自分たち」という意識

 今回講演用に用意したテキストのうちの一冊は昨年夏に『ウォロ』でも紹介された『地震イツモノート』。これは徹底的にビジュアライズされた(挿し絵というよりも絵本に近いような)内容の、“減災マニュアル”だ。大人向けだが、絵を見れば中身は大方理解できるので、小学生でもパラパラめくって必要な部分は頭に入れてくれるだろう。あとは実際に防災訓練の機会などを利用し、大人から口頭で補足説明をしてあげればいい。監修は大阪大学准教授の渥美公秀氏。「自分の身は自分で守る」という意識ではなく、「自分たちの身は自分たちで守る」という意識の大切さと、「一人ひとりのかけがえのない命を、みんなで支えあうことができるような社会」の実現を提唱している。
 当書は、「イザ!カエルキャバン!」で、防災訓練プログラムに新しい風を吹き込んだNPO法人プラス・アーツの永田宏和氏の好企画だ。

■子どもという目線

 もう一冊。子どもたちに話をするには、子どもたちの目線も必要だ。『12歳からの被災者学』は、まさに子どもたちの素朴な疑問に、ダイレクトに答えてくれる。例えば「揺れているときはどうしたらいいの?」「電気はどうなったの?」というような基本情報から、「学校はどのくらい休みになったの?」(子どもたちには重要な話だ)だとか、いざ直面した場合に自分たちで乗り越えなければいけない「お父さん・お母さんが死んでしまったら、どうなるの?」といったことまで網羅されている。更に、地域コミュニティやボランティアに関する記述もあり、子どもたち、特に小学校高学年から中学生の減災意識を高める工夫もされている。個人がやるべきこと、家族、学校、町内、自治体のそれぞれの役割、そしてボランティア活動を実際に行うために、何が必要で何が不要なのか。「被災地に送ってほしい物は?困る物は?」「新しいまちづくりのために子どもたちが考えておきたいことは?」といった、実際に地震が起きたときの子どもたちの可能性を示唆している。それを、大人よりも低い位置の目線で解説し、これだったらみんなでできるよね、といった様々なアイデアを提示する。いかにも画一的なマニュアル本が多い中、シンプルな話題からスタートしているのがよかった。それが防災グッズをそろえるだけそろえても、結局活用もできずにいる大人たちに、一石を投じることになる。しかも、投じるのは、著者の目を通した、震災未体験の子どもたちなのだ。

■いったい何を守るのか

 昨年の12月、千代田区社会福祉協議会主催の「ちよだボランティアウィーク」において「災害ボランティア学習会・災害から大切な人を守るには」に参加した。講師は防災・危機管理ジャーナリストの渡辺実氏。一貫して「災害時に生き残る方法」を提唱する。そして、阪神・淡路大震災の関係者は、早く震災の後遺症から卒業し、新しい防災都市の構築と危機管理に、考えの方向性を切り替えるべきだ、とも。実際の被災者にとってはどうにも割り切れない話ではあるのだが。
 その渡辺氏が、実験的な“減災マニュアル”を製作した。タイトルは『彼女を守る51の方法都会で︱地震が起こった日』。当初「防災本史上初のグラビア型災害マニュアル」として製作され、それを原案として古屋兎丸氏によって漫画化(『彼女を守る51の方法』)された。
 ある2月23日午後7時35分、突然首都を襲ったM8の直下型大地震に対し、絶望や悲しみを体験しながらも、生き残ろうと必死になる主人公たち。彼らの長かった8日間を描いている。
場面は足取りに合わせてお台場から新宿へと移り、その中で、実際こんな場面に遭遇したら、このように対処しよう、といったようなエピソードが51例紹介されていく。
 惜しむらくは、主人公のみに焦点を当てているため、他人の動きが見えてこないこと。筆者は震災の翌日、音信不通になった友人を助け出すために神戸に入ったし、発生後1週間もたてば、周辺エリアからの援助や
様々な自発的なコミュニティも現れた。そういう動きが全く描かれていない。ストーリー構成上の脆弱さのために、本来あるべき“減災マニュアル”としての奥行きや広がりを欠いてしまっているのは残念だ。これでは自分や“彼女”は守れても家族は守れないし、まちも守れない。
 阪神・淡路大震災から14年、あの未曾有の地震を体験した人も、これから別の地震を体験するかも知れない人も、もう一度減災について直視するべきだ。特別な日のためではない。本当に大切なものを守るために。
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2009年1・2月号(通巻442号):わたしのライブラリー

あなたは、死刑賛成派? 反対派?

編集委員 青木 千帆子

『モリのアサガオ―新人刑務官と或る死刑囚の物語』(全7 巻)
郷田マモラ、双葉社、2004-2007
07 年度文化庁メディア芸術祭 マンガ部門大賞

『ぼくんち』(全3 巻、普及版の1 巻本もあり)
西原 理恵子、小学館、1996-1998
第43 回文藝春秋漫画賞。

 この数年来、死刑確定囚が増え、死刑執行数も増えている。このことから、死刑に関する議論が盛んになっているという実感は、誰もが持っていることだろう。
 そんな昨今、死刑囚、そして囚人を監視し死刑を執行する側である刑務官のマンガが登場した。『モリのアサガオ』というタイトルの郷田マモラ氏による作品で、04年4月から07年4月まで漫画アクションに連載されていた。現在映画化も進んでいる。
 物語は、刑務官の主人公が無二の友となった死刑囚に対し、死刑を執行する場面から始まる。そして時間を巻き戻し、主人公が刑務官になった当初から冒頭の死刑執行までの経験が、主人公のモノローグによってつづられていく。
 主人公を取り巻く死刑囚や同僚の刑務官だけでなく、家族、恋人、被害者との関わりから、いくつもの死刑制度への観点、つながりが描かれる。その一つ一つの立場や見方を直接経験することによって、主人公は死刑制度に関する考察を深めていき、最終的に死刑制度を肯定する。死刑という現実があるからこそ、どれほどのっぴきならない状況に人が追い込まれた上での犯罪であっても、他者を殺(あや)めることは罪なのだ、と伝えることができるからだ。しかし、最終巻のあとがきには、作者はまだ死刑制度に対する意見をまとめきれずにいると記されている。
 死刑制度は、遠い存在だ。刑務官にでもならない限り、死刑囚に直接かかわる機会はほとんど無い。それだけに、死刑判決が下される犯罪、そしてその犯罪の被害者や犯罪者は遠い存在になってしまう。テレビや新聞で伝え聞く話に沈痛な気持ちにはなっても、経験を共有するほど深く考えることはない。『モリのアサガオ』という作品は、死刑制度という重いテーマをマンガで取り扱うことによって、死刑制度に関してより深く考える機会を私たちに与えてくれた。

■構造的暴力という視点
 しかし、だ。本書を評価し、紹介しておきながら、私にはこの作品に対する違和感が残っている。
 まず気になるのは、死刑囚、中でも脇役の死刑囚が犯行(『モリのアサガオ』では殺人)に及んだ際の背景や心理描写の不十分さである。描写が不十分なのか、それほど容易に人が犯行に臨むものであると作者が理解しているのかは判別がつかない。そしてもう一点、何かが描き切れていないと感じる。それは、被害者・犯罪者双方が経験し、私たちも日常的に経験している生活における「何か」だと思うのだが。
 ガルトゥングという平和学の専門家が考えた言葉に「構造的暴力」という言葉がある。これは、犯罪行為に代表される、人を傷つけたり、ものを破壊したりするような直接的な暴力のことではない。暴力の主体が誰であるのかが明らかでなく、いつどこでふるわれたのかも明らかではない。にもかかわらず、人を困窮した状態から逃れられなくするような、そんな漠然とした暴力のことである。たとえば、本誌12月号の特集で取り上げた貧困も、構造的暴力によって作り出される面があると指摘されている。
 『モリのアサガオ』という作品で描き切れていないと感じられるものの一つは、この構造的暴力なのではないかと思う。それがいかに凶暴で耐え難いものであるか、そしてそれがいかに回避不可能なものであるか。
 たとえどんなに構造的暴力によって打ちのめされていようとも、犯罪は犯罪である。しかし、犯罪という分かりやすい暴力に対する罰則は明確に規定されているのに、構造的暴力というわかりにくい暴力に対する罰則は一つもない。そもそも構造的暴力の主体が特定できないのであるから、罰則を誰にも科すことができない。けれども構造的暴力が、私たちが差異に意味をつける行為?他者の行為や所有物を、ある時は羨み、ある時は蔑む、そういった日々の行為から生まれていることは、いろんな書物(例えば、市野川容考氏の『社会』など)で指摘されている。

■意味をつけるということ
 底抜けに暗い『モリのアサガオ』の後、私は思わず、底抜けに明るい『ぼくんち』を手にする( 西原理恵子氏03年ビッグコミックス)。『ぼくんち』というマンガは、この構造的暴力とやらを可視化する作品だ。
 まちの一番貧しい地区に暮らす主人公の1人である一太が、空き地に住んでいる子どもたちに自らを重ねて思う。
 「ああ、あのガキたちの半分はたぶん悪さをする人間になって、もう半分は悪さをする前に死ぬか殺されるんだろうなあ。ここで生まれて育っただけの理由で」
 つぶやく一太も、一太の家族である二太、神子も、「ここで生まれて育った」現実を変えることはできない。一太からの音信が途絶え、二太が遠い親戚にもらわれていく一家離散の場面で、物語は終わる。それでも、同じ地区に暮らす鉄じいは言う。寝泊りしている小屋が、増水した川に流される様を見ながら。
 「なくすもんがありすぎると人もやっておれん。両手でもてるもんだけで、よしとしとかんとな。」
 そうなんだ。『モリのアサガオ』を読んで救われた気持ちにならないもう一つの理由は、人を犯罪へと駆り立てる仕組みに対して、なすすべがない無力感が放置されているからではないだろうか。
 「犯罪は、人がそれを犯罪であると呼ぶから犯罪になる」とある人が言った。貧困も、それを暴力であると呼べば暴力になるし、つらいものと呼べばつらい現実になる。しかし、私たちは、自らと人との差異に対し、あまりに不注意に意味づけをし過ぎているのではないだろうか。
 すべての人々が鉄じいのように「両手でもてるもんだけで、よし」と考えられるわけでもないが、私たちはどうすればよいのかを知らないわけではない。ただ、意味づけるという行為そのものはあまり目にとまらなかったり、誤解されたり、簡単に忘れられてしまったりするのである。
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